テイラー・シェリダン監督「ウインド・リバー」(★★★★)
監督 テイラー・シェリダン 出演 ジェレミー・レナー、エリザベス・オルセン
知っている人にはわかりきったことでも、知らない人にはまったくわからないことがある。たとえば冬の雪山、単に雪が積もっているだけではなく気温が氷点下30度にもなる雪山を、装備もなく走ったらどうなるか。肺がやられてしまう。血液が凍り、それがつまって窒息する。知らない人は、雪山で血を吐いて倒れている少女をみつければ殺されたと思う。けれど、それは殺人ではなく、「事故」だ。問題は、その「事故」の背景に何があるか、なぜ少女は雪の山を走らなければならなかったか。少女は、雪山を走ればそうなることを知っていたはずだ。でも走らずにはいられなかった。なぜなのか。
ここから始まる「謎解き」は、とてもおもしろい。おもしろいといってはいけないものを含んでいるのだが。つまり「知っている/知らない」の奥に、たいへんな問題が隠されているのだが。
だが、おもしろい、と私は書き始める。
どこにでも、そこに暮らしている人にしか見えないものがある。暮らしている人には、それが見えすぎる。でも、それを見えない人に伝えるのは非常にむずかしい。見えない人が「見えない」ということに気づくまで、「問題」は存在しないことになる。
この過程を、急がずにゆっくり見せていくところに、脚本(あるいは監督)のすごさがある。エリザベス・オルセンが「見えない」ものが「見える」ようになるのといっしょに、観客も「見える」ようになっていく。
これにジェレミー・レナーが絡んでくるのだが、この配役が絶妙だと思った。
エリザベス・オルセンはジョディー・フォスターのように「神話」になっていない。強いか弱いか、わからない。ジェレミー・レナーは体格が小さくて、絶対的な強さというものを感じさせない。生きていくには「マッチョ」でなくてもいい。土地(暮らし)に根ざすための「知恵」を身につけていけば、生きて行くことができる。むしろ、「弱さ」を自覚している方が「生き抜ける」。
最初の方で、ジェレミー・レナーはスノーバイクを降りて山の中へ入っていくとき、白い防寒服を重ね着する。それは野生の動物の眼から逃れるという意味もあるのだろうけれど、このあたりの丁寧さが説得力の伏線となっている。「生きる」ために何をするべきか、熟知している。それが、彼の強さなのだ。
知っていることを「肉体」に深く叩き込む。「肉体」そのもので知っていることと向き合う。そう言いなおすとき、そこに「悲しみ」の問題もそのまま重なってくる。ジェレミー・レナーは悲しみを抱えている。それを「肉体」に押し込めて、それを「強さ」に転換して生きている。
それが「物語」のもうひとつの主題だ。
それは映画が終わった後のクレジットの「字幕」で、もう一度明るみに出る。ネイティブアメリカンならだれもが知っていること、けれどそれ以外のアメリカ人はだれもしらないことがある。したがって、日本人もそういうことは気にかけたことがない、つまり知らないことがある。その落差の大きさを知らされる。
知っている人はみんな知っている。しかし、それを「知らない(なかったこと)」にしようとする力が「社会」を覆っている。いつの時代も、どこででも、そういうことが起きている。「私はあなたのニグロではない」と同様に、この映画は、そういうことを静かに告発している。
ということとは別に。
私は、ジェレミー・レナーは妙な役者だなあ、と思った。最初に見たのは「ハート・ロッカー」だが、そのときは爆発処理のために、なにやら「ころころ」という感じの服を着ている。白い服だ。今回も防寒のために「ころころ」に着膨れている。最終的には白い服だ。この「白い、ころころ服」がとても似合っている。そういう恰好をすると「肉体」は消えてしまうし、顔もよく見えない。「ハート・ロッカー」の場合は、顔を覆うガードがあるので、ぜんぜん見えない。それなのに、あ、「人間がいる」と感じさせる。他人からはわからないが、その人にはよくわかっていることがある。そういう「役」を、白い、無色の、何にもそまっていない色をまとって演じる。そういうことができる役者なのだ。これはなかなか珍しい、と思う。
(2018年07月29日、KBCシネマ1)
*
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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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監督 テイラー・シェリダン 出演 ジェレミー・レナー、エリザベス・オルセン
知っている人にはわかりきったことでも、知らない人にはまったくわからないことがある。たとえば冬の雪山、単に雪が積もっているだけではなく気温が氷点下30度にもなる雪山を、装備もなく走ったらどうなるか。肺がやられてしまう。血液が凍り、それがつまって窒息する。知らない人は、雪山で血を吐いて倒れている少女をみつければ殺されたと思う。けれど、それは殺人ではなく、「事故」だ。問題は、その「事故」の背景に何があるか、なぜ少女は雪の山を走らなければならなかったか。少女は、雪山を走ればそうなることを知っていたはずだ。でも走らずにはいられなかった。なぜなのか。
ここから始まる「謎解き」は、とてもおもしろい。おもしろいといってはいけないものを含んでいるのだが。つまり「知っている/知らない」の奥に、たいへんな問題が隠されているのだが。
だが、おもしろい、と私は書き始める。
どこにでも、そこに暮らしている人にしか見えないものがある。暮らしている人には、それが見えすぎる。でも、それを見えない人に伝えるのは非常にむずかしい。見えない人が「見えない」ということに気づくまで、「問題」は存在しないことになる。
この過程を、急がずにゆっくり見せていくところに、脚本(あるいは監督)のすごさがある。エリザベス・オルセンが「見えない」ものが「見える」ようになるのといっしょに、観客も「見える」ようになっていく。
これにジェレミー・レナーが絡んでくるのだが、この配役が絶妙だと思った。
エリザベス・オルセンはジョディー・フォスターのように「神話」になっていない。強いか弱いか、わからない。ジェレミー・レナーは体格が小さくて、絶対的な強さというものを感じさせない。生きていくには「マッチョ」でなくてもいい。土地(暮らし)に根ざすための「知恵」を身につけていけば、生きて行くことができる。むしろ、「弱さ」を自覚している方が「生き抜ける」。
最初の方で、ジェレミー・レナーはスノーバイクを降りて山の中へ入っていくとき、白い防寒服を重ね着する。それは野生の動物の眼から逃れるという意味もあるのだろうけれど、このあたりの丁寧さが説得力の伏線となっている。「生きる」ために何をするべきか、熟知している。それが、彼の強さなのだ。
知っていることを「肉体」に深く叩き込む。「肉体」そのもので知っていることと向き合う。そう言いなおすとき、そこに「悲しみ」の問題もそのまま重なってくる。ジェレミー・レナーは悲しみを抱えている。それを「肉体」に押し込めて、それを「強さ」に転換して生きている。
それが「物語」のもうひとつの主題だ。
それは映画が終わった後のクレジットの「字幕」で、もう一度明るみに出る。ネイティブアメリカンならだれもが知っていること、けれどそれ以外のアメリカ人はだれもしらないことがある。したがって、日本人もそういうことは気にかけたことがない、つまり知らないことがある。その落差の大きさを知らされる。
知っている人はみんな知っている。しかし、それを「知らない(なかったこと)」にしようとする力が「社会」を覆っている。いつの時代も、どこででも、そういうことが起きている。「私はあなたのニグロではない」と同様に、この映画は、そういうことを静かに告発している。
ということとは別に。
私は、ジェレミー・レナーは妙な役者だなあ、と思った。最初に見たのは「ハート・ロッカー」だが、そのときは爆発処理のために、なにやら「ころころ」という感じの服を着ている。白い服だ。今回も防寒のために「ころころ」に着膨れている。最終的には白い服だ。この「白い、ころころ服」がとても似合っている。そういう恰好をすると「肉体」は消えてしまうし、顔もよく見えない。「ハート・ロッカー」の場合は、顔を覆うガードがあるので、ぜんぜん見えない。それなのに、あ、「人間がいる」と感じさせる。他人からはわからないが、その人にはよくわかっていることがある。そういう「役」を、白い、無色の、何にもそまっていない色をまとって演じる。そういうことができる役者なのだ。これはなかなか珍しい、と思う。
(2018年07月29日、KBCシネマ1)
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