詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大木潤子『私の知らない歌』

2018-07-11 11:02:52 | 詩集
大木潤子『私の知らない歌』(思潮社、2018年06月01日発行)

 詩というもののほかに、詩集というものがあるのかもしれないが、私は「本」よりも「ことば」を読みたい。そしてそのときの「読む」とは目で見るではなく、音を聞くことである。私は音読はしない。(朗読にはまったく関心がない。)でも、ことばは音だと信じている。
 大木潤子『私の知らない歌』は「477」までページ番号が振ってある。奇数ページにのみ作品が印刷されている。右側のページは空白だ。だからこの半分のページでも詩集(本)にできるのだが、大木はあえてこういうスタイルをとっている。これは言い換えると、詩集そのものが詩だという主張だ。
 しかし、私はこういう主張に与しない。
 私はいつでも詩集を離れてことばを読む。ことばを動かす。私の肉体の中で動くものとしか向き合うことができない。
 409ページから425ページにかけては1ページに1行ずつ書かれている。詩集のスタイルを無視して引用すると、次のようになる。


のようなもの

散乱
鱗粉、
( 燐光、-- )
放射される

( 閃光 )

 引用しなかった部分との関連で言うと「粉」は「鳥の羽毛」の比喩である。それは光り輝く傷という比喩に変わる。「のようなもの」というまだるっこしいことばを踏み台にして、比喩が跳躍していく。
 それはそれで、ことばの「論理」としてわかるが(誤読かもしれないが)、疑問の方が大きい。
 なぜ1ページに1行なのか。
 比喩が動くときのリズムを明確にしたいのかもしれないが、もしリズムを重視するなら1ページ1行という振り分け方自体がおかしくないか。大木にとって、ことばは、そんなふうに正確なリズム(単調なリズム?)で動くものなのか。
 光を含む二つのことば、「燐光」「閃光」のあいだに「放射される」という動詞があり、それが「傷」という異質なものを呼び込み、一種の化学反応のようなものが起きる。こういうとき、私の感覚では、それは「無時間(非常に短い瞬間)」である。ことばが、突然詩に変わる瞬間は、短い。それを1ページずつに割り振ってしまうリズム感覚(時間感覚)が私にはわからない。
 私はわからないものは、信じない。



*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(2)

2018-07-11 10:21:46 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
2 前三九九年四月二七日

 「前三九九年四月二七日」はソクラテスが死んだ日。「クリトン」(プラトン)に最後の一日が書かれている。ソクラテスは遺言する。

「約束した鶏一羽 神前に献げといてくれないか」と
その声がいまもこの耳に あざやかに反響する
(もちろん 年若い弟子による聞き書きの谺だが)
つい昨日 でなければ一箇月前のことのように

 ここには複雑な「一つ」と「二つ」がある。
 ソクラテスの遺言は一つ。その一つの声は高橋の耳に聞こえる。しかし、それは実際に高橋が聞いた声ではない。プラトンが聞き書きしたことばだ。プラトンは、その日、そこにはいなかった。プラトンもまた自分では聞かなかった声を忘れられないものとして聞いたのだ。高橋とプラトンという二人は、そんなふうにして、一つ(ひとり)になる。
 一つになるというのは、プラトン(あるいはソクラテス)が近づいてくるのか、高橋が近づいていくのか、わからない。区別ができない。それは、ソクラテスのことばを聞いたのが、昨日か一箇月前か区別できないのと同じだ。想起するとき、すべては「いま」になる。
 そして、この融合した一つは、いつも二つへと別れても行く。

この窟の中で 知恵の人はいつもと同じ笑み
お気に入りの若者の頭髪を 指先で弄びながら
(その若者は 残念なことに若い僕ではない)

 プラトンもまた(その若者は 残念なことに若い僕ではない)と思ったかどうか、わからない。しかし、高橋は、こんなふうに引き裂かれる。引き裂かれることが、同時に、一つ(一人)、つまり高橋自身を意識させる。高橋の「あこがれ」というか、意識を浮かび上がらせる。
 ことばによって「交渉」が始まる。二つと一つ、一つと二つが干渉し合う。区別できるのに、区別できないものが動き始める。

 この詩では「つい昨日」が、「いつもと同じ」とも言い換えられている。「いつもと同じ」にも二つと一つ、一つと二つがある。いまと過去という二つの時間が「同じ」ということばで一つになる。



つい昨日のこと 私のギリシア
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