詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(8)

2018-07-17 10:25:06 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年07月18日(火曜日)

8 クリュタイムネストラ主張する アガメムノン

 タイトルに強さがある。「クリュタイムネストラは主張する」だと弱くなる。助詞が省略されることでクリュタイムネストラが「主語」ではなく「肉体」として現前してくる。言い換えると、「主張」の内容よりも前に、「主張する」という動詞が、肉体そのものとして動く。「主張したい」という欲望が前面に出てくる。
 なんと言ったか。

夫は夜ごと 幾人もの下腹に淫欲を吐き出しつづけた
その間 妾はひたすら一人の密男と睦みあっただけ

 アガメムノンは複数の女を相手にしている。クリュタイムネストラは一人の男と交わっただけだ。なぜ私だけが非難されなければならないのか。なぜ、男と女が対比され、複数と一人は対比されないのか。論理が先に語られる。しかし論理は怒りではない。怒りは別の形で暴走する。
 「夫の開いた傷口からどくどく溢れ 流れていくどす黒い血潮」を引き継いだ最終行で、こう言いなおされる。

妾ひとりのではない 耐えてきた女たちすべての勝利の徴だ

 クリュタイムネストラは複数の女を代表し、一人の男、アガメムノンを糾弾する。このとき「複数」は「すべて」と言い換えられているのだが、その「すべて」は「複数(具体的な人数)」ではない。具体的な人数を超える。具体的な人数に含まれない人をのみ込み暴走することで「怒りのすべて」になる。そして「怒りのすべて」になったとき、それは同時に「一人」にもどる。
 それはクリュタイムネストラという一人ではない。「主張する」という動詞としての一人である。誰かが主張するのではなく、怒りそのものが主張する。すると、そこに人間が出現する。
 クリュタイムネストラは主語ではなく、主語(主役、と言いなおした方がいいかもしれない)は「主張する」という動詞である。動詞が主役になることで、クリュタイムネストラは「神話」になる。「悲劇」は「事実」になる。つまり、それは他人のできごとではなく、自分自身の事実になる。


つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
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