詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『つい昨日のこと』(15)

2018-07-24 08:58:11 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
15 敗者の言い分 オデュセイア遺聞

なぜあいつだけが正義で 俺たちが悪党にされなきゃならないのか

 と始まる詩は、こうしめくくられる。

強弓くらべの殿りに出しゃばり 俺たちを残らず騙し討ちに射殺した
こんな正義があるというなら 冥王にもお妃にも公平に裁いてもらいたい
--こうぶつぶつ呟きながら 血まみれの霊魂たちは一まとまり
冥界の吐気のする霧の中を降りていったものだ ふらふらと

 「俺たち」は「霊魂たち」。それを「一まとまり」と言いなおしている。「一まとまりになって」の「なって」が省略されている。この「一まとまり」は「遭難者たち」の「無名者/名もなく顔もない者」と重なる。「名もない者」と「一まとまり」にされる。
 だが、その「一まとまり」の人間の声は「一つ」ではない。
 この詩では、「俺たち」と書かれていて、「俺たち」の誰かが語っている形式をとっているが、ひとりが代表して語っていると読んではならない。複数の人間がそれぞれに声を上げている。一行一行は、複数の人間に引き継がれながら動いている。引き継ぐことで「俺たち」になる。
 最後に高橋が、それを引き継いだ。「まとまり」は「まとめる」という動詞によって具体的になる。「まとめる」は「ヘクトルこそ」のことばを借りていえば「終わりを身に引き受ける」ことであり、それは同時に「終わらない」につながる。引き継がれ続け、まとめなおしがある。
 「歴史」は、そうやって生まれる。
 高橋は単にギリシア悲劇を語りなおしているではなく、歴史を生み出している。

つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
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