詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石松佳「詩篇」

2018-07-16 11:35:28 | 詩(雑誌・同人誌)
石松佳「詩篇」(「Sister On a Water 」1、2018年06月01日)

 石松佳「詩篇」は「小詩集」という感じか。「pet cemetery」は飼っていたうさぎが死んだことから書き始められている。
 その途中に、こんな行がある。

                    テーブル・テニスの音は
単調だけれど、そこにはひとつの階段のような告白がある。

 「階段のような告白」とは何か。わからないが、「階段のような」という比喩が印象に残る。石松は、いま、そこにはない、どんな階段を思い浮かべたのか。ひとは、いつ階段を思い浮かべるか。わからないが、この階段を思い浮かべる、比喩として引き寄せる瞬間に、なにか「たしかなもの」を感じる。階段といわなければならなかったのだろう。

 つぎにこんな行にも出会う。

                      どんな手話であっ
てもすぐに消えていって、家事を終えると、指先がたしかにあるこ
とをふしぎに思う。

 ここにも驚いた。「手話」が消えていくように、ことばも消えていく。でも、手話につかった指先(手)は、いつまでも「肉体」として存在する。ことばは頭が覚えているのだろうか。手話は手(指先)が覚えているだろうか。
 手話のことはよくわからないが、手と言わず「指先」と限定しているのは、指先の動きに「感情」があらわれるのかもしれない。それは声と同じように微妙だろう。わかるひとにはわかる。なによりも問題なのは、言った人(手話をつかった人)の「肉体(指先)」にそれが「残る」ことだ。「肉体」に何かが蓄積し続ける。
 ここに「たしか」ということばがつかわれている。
 石松は、その「たしか」に苦悩している。「たしか」のなかに石松がいる。

 「リヴ」という作品では、つぎの二か所が印象的だ。

私小説のような、わたしのnephew,
北方の先にあるものはまた北だった、

まるで野を拓くかのように、
冷たい花束を置く
原野って、いつでも心理的だった

 これはともに「短歌的」な音のうねりだと思った。
 「Sister On a Water 」には歌人がつどっている。石松もまた歌人なのだろうか。




*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(7)

2018-07-16 08:35:56 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
                         2018年07月16日(月曜日)

7 姉と弟 エレクトラ オレステス イピゲネイア

母殺しの罪過に弟が狂うとき なぜか唆した姉の姿はない
さすらいの狂人を浄めるのは別の姉 父の船出の風待ちのとき
犠牲に葬られたはずの姉が 機械仕掛けの女神よろしく
突如出現して弟を救う--姉がいなければ 弟は存在しない

 「姉がいなければ 弟は存在しない」は姉がいなければ弟は死んでしまう、ということだが、それだけではない。姉が弟を唆して母を殺させた。姉がいなければ、殺人者としての弟は存在しない。まず、その事実がある。
 弟でなくてもいい。結果よりも、それに先立つ仮定(条件)の方が重要である。もし姉がいなければ。

 ここからギリシャ哲学へ進んでみよう。
 仮定する。その仮定の後に「事実」がやってくる。「ことば」がある。その後に事実がやってくる。

 ひとはまず事実から出発して思考するが、思考が積み重なると、思考が事実を求めるようになる。思考の正しさが、事実を発見させる。
 現代は理論物理を実証物理が追いかける。思考で考えたものにあわせて事実を探し出す。証明する。
 これはギリシャ悲劇の時代から、人間の行動としてあったのだ。

 これは何を意味するだろうか。
 ことばが動き、ことばがある世界をつくりだす。その世界へ向けで、事実が追いかけてくる。
 詩は事実に先行して動いていくことばである。
 高橋は、ギリシャ(悲劇)から、それをくみ取っている。そうしたことばの運動を生きている。


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