詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和田まさ子「ブエノスアイレス」

2018-07-23 09:49:03 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「ブエノスアイレス」(「something 」27、2018年06月30日発行)

 和田まさ子「ブエノスアイレス」は『かつて孤独だったかは知らない』収録作品。

ここから見えるのは向かいのホステル
入れ替わり人が入っては消えてゆく
みんな一泊か二泊かすると
どこか知らない街に
行ってしまう
知らないというのはわたしの方で
わたしもやがて
あなたたちの知らない街に行くのだが

 たんたんと「論理」が動いていく。「入っては消えてゆく」はホテルのなかに消えていくではなく、そのご知らない街に行ってしまうということ。「知らない街」だから「消える」。この「論理」の確かさを、どうとらえるべきか。
 さらに、その「知らない」と「消える/行く」を、「わたし」の方に方向転換し「わたしもやがて/あなたたちの知らない街に行く」と言い直し、「わたしも消える」を暗示させる。「消える」ということばをつかわずに「消える」と言いなおす。

 うまいね。

 最終連は、こうである。

キッチンの壁には
ブエノスアイレスの夜の街角で
少年が横向きに立つ大きな写真
ここで迷路に入ったと
もっともらしくいうのはたやすいが
おそらくちがう
懐かしい夢をまだ見ているのだ

 手慣れている。
 私は、この「手慣れた感じ」が好きではない。安定感があるけれど、タイトルは忘れたが「壺」だとか「金魚」を書いていたときのような、どこへいくのかわからないおもしろさがないからだ。

ここで迷路に入ったと
もっともらしくいうのはたやすい

 と和田は逃げているが、否定するから「たやすい」のである。肯定すると、とたんにむずかしくなる。「迷路」を迷路ということばをつかわずに書かないと迷路にならないからだ。
 私が和田の詩を最初に読んだころは、そういう詩を書いていた。
 いまは「うまい」けれど、見慣れた感じがしてしまう。「手慣れ」は「見慣れ」につながる。








*

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かつて孤独だったかは知らない
和田まさ子
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(14)

2018-07-23 09:11:54 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
14 遭難者たち エーゲ海上

波濤の果て イタカへ ざわめく森のザキュントスへ
船はどれほど多くの無名者を零し 波間に溺死させたか

 「主語」は「船」であり、「零す」という「述語」をとっている。目的語が「無名者」ということになる。
 けれど文法の構造とはうらはらに「無名者」こそがこの詩の「主役」である。「主役」と「主語」は一致しない。
 この食い違いは「ヘクトルこそ」の「いちばんの英雄」と「終わりを身に引き受けるヘクトル」の関係に似ている。主役は「いちばんの英雄」ではなく、ヘクトルだった。「いちばんの英雄」であるはずのアキレウス、あるいはオデュセウスはわきにおしやられ、ヘクトルが最後に主役としてあらわれる。
 この詩でも、主役はいつのまにか「無名者」に変わっている。ただし、相変わらず目的語のままである。

弔えよ 弔えよ 名もなく顔のない者をこそ 心こめて弔えよ

 「目的語」のままであるというのは、ヘクトルにも当てはまる。
 最終行は、こうだった。

きみの高潔な魂への 終わることのない讃仰の燔祭

 人はヘクトルを讃仰する。
 人は無名の者を弔う。
 こういうとき、「目的語」とは「対象」なのか。形式的には対象だが、それは「讃仰する」人、「弔う」人としっかり結びついている。「讃仰する」とき、「弔う」とき、人はむしろ、その人になる。一体になる。
 言い換えると、「讃仰する」人、「弔う」人の「生き方」を生きる。「讃仰する」「弔う」とは、自己を死者に昇華させる。死者の行為(動詞)へと肉体を投げ渡す。
 無名の人は、無名の人を「零す」ことはしない。
 「弔えよ」と高橋は命令形で書いているが、「弔う人」になって、そう言うのである。高橋は無名の死者に肉体を引き渡している。

つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
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