詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

シドニー・シビリア監督「いつだってやめられる 10人の怒れる教授たち」(★★)

2018-07-18 20:04:54 | 映画
シドニー・シビリア監督「いつだってやめられる 10人の怒れる教授たち」(★★)

監督 シドニー・シビリア 出演 エドアルド・レオ、グレタ・スカラーノ、バレリア・ソラリーノ

 私は「いつだってやめられる7人の危ない教授たち」を見ていないのだが。
 うーん、これはたしかにイタリアならではの人間劇である。合法ドラッグをめぐる大学教授たち。専門がそれぞれ違う。言い換えると、個性派ぞろい。そんな人間がどうやって団結する? 一つの目的に向かって結集する?
 私は、ここで和辻哲郎を思い出してしまう。和辻はシスティーナ礼拝堂の有名なフレスコ画について、こんなことを言っている。「あれだけごちゃごちゃ描いていて、それがうるさくないのはイタリアが独立統治の国だからだ」と。つまり、それぞれの都市が独立した感じで統治されているのがイタリア。ローマとフィレンツェでは、同じ国とは思えないほど空気に違いがある。そういう「生き方(思想)」を反映して、それぞれの区画が独立している。他の領域を侵害しない。
 システィーナ礼拝堂で、私はなるほどなあ、と思ったが、その「なるほど」をこの映画でも感じた。教授たちは、それぞれ専門がある。その専門のことは、まあ、他の人も知ってはいるが、他人の分野には口出ししない。その人にまかせてしまう。そうすると、それぞれは協力するしかなくなる。一人でできることは限られているからね。
 そして、この独立統治が警察でも行われている。組織なのに、組織ではない。自分はこれをやるんだ、と決めて、その分野を統治している。ドラッグを取り締まる(摘発する)組織なのに、それがぜんぜん大がかりではない。「個人の趣味」という感じがする。躍起になる女刑事とその上司。警察は、ほとんど二人しかでてこないのは、この映画の世界が女性刑事が「独立統治(独立操作)」する領域だからである。こんな嘘みたいな組織構成は、たぶんイタリア以外では考えられない。イタリア人は、こういう「独立統治」をあたりまえと思っているようである。
 だから(と言っていいのか)、活躍するジャーナリストも「独立統治」の女性。ひとりでブログを書いているだけ。「どこの新聞?」と聞かれて「フリーランス」と平然と答えている。ひとりで、彼女自身のブログを統治している。
 この映画がおもしろいのは、でも、実はその後のことかもしれない。主人公の「独立統治(国家)」はいったん亡びる。そうすると、彼らが知らないうちに、それとそっくりの「独立統治(組織)」が暗躍していて、しかも、主人公たちの「失敗」をしっかり学んでいるので、どじは踏まない。失敗はすべて主人公たちの「独立統治(組織)」に押しつけてしまう。
 ローマ帝国は遠い歴史のかなたで滅んでしまったようだが、あいかわらずイタリア(ローマ)は悠然と存在している。ローマ帝国というのは、いわば泥棒の国だが、いまはそれを「国家」としてはやっていないが、「個人」にまかせて知らん顔をしている部分がある。「独立統治」というのは、「統治しない部分」を常に残しておいて、その「統治しない部分」は他人にまかせてしまうということでもある。
 イタリア人を個人的に知っているわけではないが、このばらばらでありながら統一感を保つというのは、イタリアならではなんだろうなあと思う。フランス人なら、もっと個人と個人が密接になるし(他人の悩みを共有したりするし)、アメリカ人なら合理的組織をボスを頂点とした強固なものにするだろうなあ。アメリカならヒエラルキーを「民主主義」と言いなおして、組織を作るだろうなあ、などと思いながら見た。

 (2018年07月18日、KBCシネマ1)



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高橋睦郎『つい昨日のこと』(9)

2018-07-18 14:58:17 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
9 アガウエがペンテウスに言う バッカイ

逃げ出すお前をつかまえて 手も 脚も 首根っ子も
引き抜いて捨ててやる 手は手 脚は脚 頭は頭
ばらばらになって ばらばらに泣くがいい 叫ぶがいいさ

 この三行に、私は高橋の、女への強いあこがれを感じる。女の肉体は一つ。一つが完全につながっている。ところが、男は、手は手、脚は脚、頭は頭とばらばらに存在する。ばらばらになったら、もういのちはないのだが、それでも男の手、脚、頭はきっとばらばらに自己主張する。母親(アガウエ)が息子に向かって怒っているのだが、そのことばをきちんと聞きとれるのは、男(ペンテウス)が手は手、脚は脚、頭は頭と思っているからだろう。人は、自分の知らないことは聞きとることかできない。

あたしの息子だって? 誰のことだ? 知らないね
そんなもの 産んだ覚えも 育てた覚えもありゃしない

 冒頭の二行には男にはつらい。男は母とのつながりをことばで確かめるしかない。ところが女は、ことばにしなくても肉体は一つと知っている。息子は自分の肉体と一つになっている。生まれ出て、別個の存在として生きている、というのは「客観的」な事実のように見えるが、母にとって「客観的事実」など、どうでもいい。「主観的事実」があるだけだ。いつでも肉体は一つなのだ。
 だからこそ、平然として「ばらばらになって ばらばらに泣くがいい 叫ぶがいいさ」と言える。ばらばらにしても、それはばらばらではない。つながっている。
 嘘と思うのか。嘘ではない。だから、ほら、こうすればすぐ一つになる。

あたしの十本の指を染めたお前の血は 両の乳房と
下腹に塗りつけて 残りは口に入れて舐めとってやる

 こんな「一つ」になる、そのなり方は、男にはできない。
 高橋は、女になって、この詩を書いている。

つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
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