詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ミシェル・アザナビシウス監督「グッバイ・ゴダール!」(★★★+★)

2018-07-15 20:28:20 | 映画
ミシェル・アザナビシウス監督「グッバイ・ゴダール!」(★★★+★)

監督 ミシェル・アザナビシウス 出演 ルイ・ガレル、ステイシー・マーティン

 ゴダールの映画は地方都市では上映されることが少ない。やっとやってきたと思ったら、フィルムは雨降り状態、というものが多い。いまはデジタル上映なので、雨降りフィルムとか、途中で頻繁にフィルムが切れて上映が中断するということはないが、昔は、それはそれはたいへんだった。そういう「不完全」な状態でしかゴダールを見たことがなかったので、もう30年も前だろうか、東京で「ヌーヴェルバーグ」(アラン・ドロン主演)を見たときは、驚きで椅子から転げ落ちてしまった。あ、こんなにきれいな映像なのか。いまでも、あの衝撃は忘れられない。
 この映画は、まるでそのゴダールの映画そっくり。色がともかくきれいだ。赤、黄色、青の三原色に白と黒。みんなくっきりと、堅牢な色をしている。マティスの色だ。冒頭の、ステイシー・マーティンが本を読むシーンの黄色いセーター、背後の赤い本。強烈だ。
 ステイシー・マーティンの前半のヌードも、きれいなヌードだ。ただただきれいに撮っている。開いた口だけで表現するセックスもいいなあ。ゴダールは基本的に美しいものが好きだ。映像を美しく撮るのが好きだ。
 学生運動が激しかった時代のパリの、学生と機動隊の衝突も、こういう表現はよくないのかもしれないが、美しい。舗道の敷石を剥がして機動隊にぶつけるシーンは、「パリの舗道の石の下は砂だった」だったっけ、あの有名な(忘れていて有名もないけれど)ことばを思い出させる。
 私がいちばん気に入っているのは、映像がポジからネガに転換し、それにレコードの音飛びが重なるシーン。CDではありえないノイズなのだが、そのノイズの中でポジとネガが交錯し、レコードをなおしに行こうとする女をゴダールがそのままでいい、とひきとめるところ。ノイズのなかにある美しさをそのまま映像と音にしている。それに、二人の気持ちが交錯する。
 わああああ、映画だなあ。叫びたくなるくらい美しい。
 後半の、二人がわかれる原因(?)になる映画、ヌードが問題になる映画を、現実の中で先取りするシーンは、とてもおかしい。男女ともヌードのはずの映画が、ゴダールの抗議(?)で女はヌードではなくなる。男だけがヌードになる。そういう話をしながら、ゴダールの裸があらわれる。いまは、こういう時は無修整なのだ。このあたりの、不思議なユーモアもいいなあ。
 ゴダールはいろんな映画を撮っているが、この映画で描かれているのは初期のころ。そして、その初期のころの映像を感じさせる雰囲気が、とても楽しい。私の見たのは雨降り映画なので、初期の雰囲気といっていいかどうか、まあ、わからないのだけれど。別れた女の本が原作なので、ゴダールに批判的だが、映画づくりそのものはゴダールに浸っている感じが楽しくて、★一個を追加した。
 (2018年07月15日、KBCシネマ1)

 *

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(6)

2018-07-15 01:40:49 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
6 トロイゼンの桑の樹 ヒュッポリトス

摘み採る房実は 熟れているのに緑がかった輝く乳白
そこに祀られる夭折の魂の無染を証しする潔白の 白
彼の果たされず記されることのなかった功業の空白の 白

 「白」が繰り返される。「熟れているのに緑がかった輝く乳白」は具象である。乳白色。しかし「潔白の 白」「空白の 白」は具象ではない。抽象だ。ほんとうは「白」ではない。「空白」「潔白」という抽象(ことば)から「白」だけを抜き出し、強調している。強調によって「白」という具象を想像してしまうが、それは「白」ではない。それは存在しない。「白」と呼ぶときの「観念」だけが存在する。

 これは、どういうことなのだろうか。なぜ、人間はこんな不思議なことばのつかい方をするのだろうか。

 人にとって「具象」(事実)とは、自分が体験したことだけである。他人の体験は、それがどんなに具体的に語られようと、聞いている人にとっては「事実」ではない。ことばに過ぎない。
 しかし、ことばを動かして、そこに矛盾がなければ、それは「事実」になってしまう。ことばにとって「事実」とは、矛盾しないことなのだ。
 これは逆に言えば、他人が語ったことが「嘘(単なることば)」であったとしても、聞き手は「事実」と思い込んでしまうことがある、ということにならないか。「観念」が人間を支配し、動かしてしまう。
 自分が体験したこと以外は事実ではないという姿勢を堅持するならば別だが、そうでなければ「ことば(観念)」は事実になってしまう。
 そういう危険がある。
 だれが、こんな不思議なことばのつかい方をはじめたのか。
 ギリシャ人だ。「考える」(思念)を、ことばにする。さらに進んで、思念がことばになる。

 「魂の無染」を読み返すべきか。「白」は「無染」ではなく、「白」に染まっている。染めない、染まらない。
 「ない」があることを発見したのも、ギリシャ人だ。「ない」へ帰ること、観念のない世界へ帰ることは、しかし、むずかしいことだ。素朴な「事実」へ人間は帰ることができない。



つい昨日のこと 私のギリシア
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