詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

28 石蹴り遊び(嵯峨信之を読む)

2018-07-10 16:46:43 | 嵯峨信之/動詞
28 石蹴り遊び

母も父もいない子供たちが
滑車を蹴つて国取り遊びをする

ここが母の国
隣りが父の国

 「隣り」ということば。名詞。動詞では、どういうのだろうか。「隣る、となる」か。接触して存在すると言いなおした方がなじみやすい。接触していないかぎり、「隣り」ということばは出てこないだろう。
 「ここが父の国」と言っても意味は通じるはずだ。一緒に遊んでいる子供には、「隣り」ということばをつかわなくても「境界線」を挟んで接触していることがわかるからだ。でも「隣り」と言いたい。
 ここに、詩がある。
 母の国と父の国の接触は、そのまま子供と両親の接触につながる。「隣り」を形作る「境界線」として存在したいという子供の気持ちが、ここにある。

*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(1)

2018-07-10 07:50:51 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
 高橋睦郎『つい昨日のこと』(思潮社、2018年06月25日発行)には「私のギリシャ」という副題がついている。ギリシャをテーマにした詩集だ。
 巻頭の作品「1 一九六九年初夏」はギリシャを訪問したときのことを書いている。そこに「つい昨日のこと」ということばが出てくる。「一九六五年」なのに「つい昨日のこと」。

アクロポリスの石段を上りきり そのままパルテノンの中へ
列柱の一つに二つの肩甲骨を預け サンダルの両脚を投げ出した
読むのはキトー著わす『ギリシャ人』 行を辿りながら
笑止にも自分自身 なにぶんかギリシャ人になったつもり
はるかピレウスからの海風に 思わずうつらうつら
うたたねのめぐりで 世界は柔らかそのものだった
柔らかい世界に包まれていると 何でも出来る気がした
若かった とにかく若かった つい昨日か一昨日のことだ

 「時間」は不思議だ。思い返すと、それはいつでも「すぐそば」にある。半世紀前(一九六九年)と「つい昨日」「一昨日」の区別もできない。この距離感、あるいは遠近感の消失は時間だけに起きることではない。あらゆる「想起」に起きる。何かを「想起」するとき、それは「身近」にやってくる。どんなに「はるか」なものでもすぐそばにやってくる。身近というよりも、そのものののなかに包まれてしまう。「ギリシャ人」を思えば「ギリシャ人」の肉体の中に包まれてしまう。それは「柔らか」に高橋を包む。柔らかさに包まれて、高橋自身も柔らかくなる。「若く」なる。新しい高橋が生まれてくる。
 それが「つい昨日」のことのように思えると言うのだが、むしろ「きょう」あるいは「いま」のことかもしれない。高橋は「若かった」と過去形で書くが、「いま」「若くなっている」。

 「列柱の一つに二つの肩甲骨を預け」ということば、その「一つ」と「二つ」の対比もおもしろい。「背中を預け」では「一つ」「二つ」ということばは出てこない。高橋は包まれることで、現在と過去が融合し、さらに高橋とギリシャ人(あるいはギリシャそのもの)に融合し、一つになるということを書こうとしているのではない
 「二つ」を発見している。融合してしまうのではなく、「交渉」しようとしている。
 「交渉」のなかで、ことばが変わる。生まれ変わる。その瞬間が「詩」だ。

          (一日一篇ずつ、半年をかけて、この詩集を読み進んでみる。)

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