詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

志田道子「閏九月十三夜」

2018-07-22 14:55:24 | 詩(雑誌・同人誌)
志田道子「閏九月十三夜」(「something 」27、2018年06月30日発行)

 志田道子「閏九月十三夜」は鶏の描写から始まる。

鶏は太古の巨獣の
甲羅の匂いのする
脚を高らかに振り上げて
鋭い悲鳴をあげて
疾走する
百七十一年ぶりの自由
卵を腹に孕んだまま
ではあるが

 鶏の脚は「太古の巨獣の甲羅の匂い」がするかどうかは知らないが、言われてみるとそうかもしれないと思う。あれは不気味なものだ。ことばが「事実」をつくりだしていく、この瞬間に詩が動く。
 その鶏が疾走する。理由は書いていないが、私は卵を産まなくなった鶏が首を切られて、それでも走っていく姿を思い浮かべた。「卵を腹に孕んだまま」が、そう思わせる。私の家では、卵を産まなくなると鶏は首を切られて、食べられてしまう。鶏の腹のなかには、まだ卵になる前の卵(黄身)がたくさんある。
 この疾走が「百七十一年ぶりの自由」というのは、よくわからないが、わからないから「事実」なのだと思うしかない。志田が「百七十一年ぶりの自由」と感じたのだ。(私の「誤読」では、その鶏は死んでしまうのに。死は不幸だが、この鶏にとっては自由なのだ。きっと太古の獣にかわるのだ。)
 この一連目が、二連目でがらりと転換する。

人の胃袋も子宮も外皮だと
最近気づいた
見知らぬ幼子が女の体に入り込むことはない
女の体の外側の一部を
いっとき貸してやっているだけだった
という 理由をやっと見つけて救われた
女は見知らぬ強欲に粉微塵に食い尽くされることはない
なので・・・
蹴る子 殴る子 怒鳴る子 泣く子
たった一度の命を貸してやった恩義も知らず
消えて無くなれ 此畜生

 卵から、妊娠、出産を思い出し、そこから子育てのことも思い出したのだろうか。そこに「太古」が重なる。鶏の脚が太古の巨獣の甲羅に通じるなら、人間の「子宮」は太古はどんなものだったのか。「外皮」だったと志田はいう。「気づいた」という。始めは「外皮」で「子供」を守ってやった。それがだんだん「肉体の内部」に包み込まれるような形になった。包み込まれた「子供」はやがて足で蹴って、外へ出せとせがむ。出してやったら、怒って殴る。怒鳴り散らす。泣いてわがままをいう。なんだ、こいつは、という気持ちだろうか。
 「たった一度の命を貸してやった恩義も知らず/消えて無くなれ 此畜生」は、とっさに出た怒りの声である。抑えることができない。つまり、そこには「ほんとう」がある。
 このことばの運動は、どこへ落ち着くのか。
 三連目。

後にも先にも
夢だけが現身を救うのだから
岩群青の真空に漂う
巨大な月明かりのもと
鶏よ 駆けて行け
もういちど

 「夢」とは「ことば」である。鶏の脚には「太古の巨獣の甲羅の匂い」がすると定義する。「人の胃袋も子宮も外皮だ」と定義する。そうすると、それがいままで存在しなかった「事実」を現実のなかに生み出す。その「ことばが生み出した事実」が志田の「肉体(身)」を救う。
 志田の肉体は、鶏になって、月夜を駆け抜ける。
 「岩群青」という強いことばが、ことばを「神話」に昇華させる。






*

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高橋睦郎『つい昨日のこと』(13)

2018-07-22 09:30:19 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
13 ヘクトルこそ

ホメロス語るいちばんの英雄は どんな英雄か
いちばん強い者でも いちばん賢い者でもない
人生がつまるところ敗けいくさだ と知りながら
運命を背負うことから 逃げることのない勇者

 この四行目は、こう言いなおされている。

祖国の終わりを身に引き受けるヘクトルこそ その者

 「背負う」は「身に引き受ける」。
 書き出しで繰り返された「いちばん」は、どこかへ消えている。
 「いちばん」は何と向き合っているか。どう、言いなおされているか。
 「終わり」ということばと向き合っている。
 「いちばん」は「始まり」、「始まり」の対極は「終わり」だ。
 すべてのことは始まったときにはまだわからない。終わったときに、それがなんだったかがわかる。
 「いちばんの英雄」「いちばん強い者」「いちばん賢い者」は、ことが終わったときにわかる。
 「始まり」は特定できるが「終わり」は特定できるか。「終わり」はあるのか。
 この詩の最終行は、こうである。

きみの高潔な魂への 終わることのない讃仰の燔祭

 「終わり」は「終わることのない」ということばで引き継がれている。「終わり」はない。「始まり」はあるが「終わり」はない。
 「終わることのない讃仰」、それこそが「いちばんの讃仰」という「意味」だが、「意味」で固定してはいけない。
 「いちばん」と「終わり」、さらにそれを「終わることのない」ということばへ動かしていく運動、緊密なことばの変化こそが詩なのだ。


つい昨日のこと 私のギリシア
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