藤原安紀子「( 原語修復 )」(「みらいらん」2、2018年07月15日)
藤原安紀子「( 原語修復 )」は死んだ兄を思い出す詩である。故人を思い出すことを「記憶を修復する」と言いなおすことができる。記憶の純粋な状態、最初の状態を「原状」と呼べば、そこに「原語」の「原」の文字があらわれる。「記憶」とはことばによって語るもの。そういう「意味」が込められている、と私は「誤読」する。
「生まれつき」は「折りたたまれる」「曲がる」ということばで言いなおされる。それは「握りしめる」とさらに言いなおされる。
これは「記憶」をほどくと同時に、記憶をとじこめもしている。
「兄」は何か「生まれつき」、真っ直ぐでないものを兄の個性としてもっていた。その「個性」で「呼ばれ」つづけた。「呼ぶ」とは、「あらわす」ことである。「呼ぶ」とは「名前」をつけることである。その「名前」は、兄の「比喩」である。「比喩」は「原状」を別なことばであらわしたものだ。そういう関係を暗示させながら藤原のことばは動いている。
「原状」を語ることばがどこかに存在したはずだが、それは語られない。
直接的なことばは避けられ、何度も言いなおす。言い直し、言い直しをさらに言い直しに繰り返す。その運動のなかに原状を隠してしまう。
でも、そうなのか。
違うかもしれない。この原状を隠すという運動そのもののなかに「原状」がある、隠すという運動が「原語」の本質である。
明らかにするのではなく、ただ隠す。隠すために語る。隠されたものが何か、それに「名前(比喩)」はいらない。何とでも呼ぶことはできる。何度でも言いなおすことはできる。繰り返しながら「原語」そのものになる。この作業を「修復」と藤原は読んでいるようだ。
「増殖」と「反復」をつづければ、それは「原状(原語)」から遠ざかってしまう。「増殖」と「反復」によって生まれてきたものをとりのぞくことが「原状(原語)」へちかづくということだ。だが、それは「原語/原状」を「名詞」としてとらえたときの定義である。「修復する」という動詞に重点を置いて見つめなおせば、「増殖と反復」こそが「原語/原状」がもっている力そのものを定義していることがわかる。
だから、
というような「謎解き(自己解説)」はない方がいいと思う。読者の「誤読」を拒んでいる。「誤読」されることで詩は読者の「孤独」に届く。ことばはそのとき「御毒(ごどく、と読んでほしい)」になる。貴重な「毒」になる。「解毒」してしまっては、味もそっけもない。
*
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藤原安紀子「( 原語修復 )」は死んだ兄を思い出す詩である。故人を思い出すことを「記憶を修復する」と言いなおすことができる。記憶の純粋な状態、最初の状態を「原状」と呼べば、そこに「原語」の「原」の文字があらわれる。「記憶」とはことばによって語るもの。そういう「意味」が込められている、と私は「誤読」する。
生まれつき、とはなんですか
流動するさきの背景がうつむくかげんで折りたたまれていた、ただそれだけのことです
わたしの半生が軌道のみどりを作業する、曲がりびと
( 呼ばれびと )である兄が
握りしめた指の
「生まれつき」は「折りたたまれる」「曲がる」ということばで言いなおされる。それは「握りしめる」とさらに言いなおされる。
これは「記憶」をほどくと同時に、記憶をとじこめもしている。
「兄」は何か「生まれつき」、真っ直ぐでないものを兄の個性としてもっていた。その「個性」で「呼ばれ」つづけた。「呼ぶ」とは、「あらわす」ことである。「呼ぶ」とは「名前」をつけることである。その「名前」は、兄の「比喩」である。「比喩」は「原状」を別なことばであらわしたものだ。そういう関係を暗示させながら藤原のことばは動いている。
「原状」を語ることばがどこかに存在したはずだが、それは語られない。
直接的なことばは避けられ、何度も言いなおす。言い直し、言い直しをさらに言い直しに繰り返す。その運動のなかに原状を隠してしまう。
でも、そうなのか。
違うかもしれない。この原状を隠すという運動そのもののなかに「原状」がある、隠すという運動が「原語」の本質である。
明らかにするのではなく、ただ隠す。隠すために語る。隠されたものが何か、それに「名前(比喩)」はいらない。何とでも呼ぶことはできる。何度でも言いなおすことはできる。繰り返しながら「原語」そのものになる。この作業を「修復」と藤原は読んでいるようだ。
砕けた関節にはじまり、六角形を入れ子状にしながら増殖と反復をつづける
さいごの箱庭の片隅に結ばれていたとしても
「増殖」と「反復」をつづければ、それは「原状(原語)」から遠ざかってしまう。「増殖」と「反復」によって生まれてきたものをとりのぞくことが「原状(原語)」へちかづくということだ。だが、それは「原語/原状」を「名詞」としてとらえたときの定義である。「修復する」という動詞に重点を置いて見つめなおせば、「増殖と反復」こそが「原語/原状」がもっている力そのものを定義していることがわかる。
だから、
「解体する前提でつくられた骨組みですから、記録などたやすいことでした
仮に時間を( 星 )とすれば思いのほかひとに似た文字をかくこともできたのです。箱庭をしめす喪木のあることが、途切れない手のうごきとなり、情動は湧くそばから気化します
さしずめプロテクターとして」
というような「謎解き(自己解説)」はない方がいいと思う。読者の「誤読」を拒んでいる。「誤読」されることで詩は読者の「孤独」に届く。ことばはそのとき「御毒(ごどく、と読んでほしい)」になる。貴重な「毒」になる。「解毒」してしまっては、味もそっけもない。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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