詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ラウル・ペック監督「私はあなたのニグロではない」(★★★)

2018-07-29 15:24:07 | 映画
ラウル・ペック監督「私はあなたのニグロではない」(★★★)

監督 ラウル・ペック 出演 ジェームズ・ボールドウィン、メドガー・エバース、マルコムX 、マーティン・ルーサー・キング・Jr.

 ジェームズ・ボールドウィンの未完の小説をもとにしたドキュメンタリー。
 そこに描かれている黒人差別の問題を日本の「非正規雇用」と重ね合わせてみると、それはそのまま日本の問題に見えてくる。
 正規雇用(正社員)は非正規雇用の実体をよく知っている。「知らない」と言い張る人もいるだろうが、それは「考えない」ことにしているだけだ。実際に同じ職場で、同じように仕事をしているのだから。
 いま、かつての「非正規雇用」あるいは「派遣」は「子会社での正規雇用」という形で隠蔽されつつある。子会社をつくり、そこで正社員として雇う。ただし給料は本社の水準とはあきらかに違う。低賃金である。そうすることで浮かした金を「親会社の正規社員」の賃金に回す。もし、この問題に気づき、「親会社の正規社員」が「格差はおかしい」と言えば、その人はすぐに「子会社」に出向ということになるだろう。出向の場合、賃金は「親会社」での賃金がベースになる。ただし、ずーっと同じ基準が適用されるわけではなく、賃金改定のたびに「子会社」の基準が適用される。つまり、切り捨てられるのである。そういう仕組みを知っているから、「親会社の正規社員」は何もいわない。自己保身に懸命で、いま起きていることに目を向けない。そればかりではなく「派遣」が「子会社での正規雇用」という形で身分保証ができたのだから、それはいいことだ、と経営者の代弁さえする。
 また海外研修生という形での「雇用」も重ねて見ることができる。低賃金で労働力を確保するために、海外から「研修生」を受け入れる。「研修生」は日本で学んだ技術を母国に持ち帰り、母国の発展につなげるという「名目」でつけられた「名称」に過ぎない。労働力として恒久的に受け入れる(移民として受け入れる)と賃金を上げつづけなければいけない。賃金が高くならないうちに母国に返してしまう。つぎつぎに低賃金の労働者を確保しつづけるための「方便」である。
 こういうことも実際に同じ仕事をしている人間にはわかることである。それがわからないなら、一緒に仕事をしていることにはならない。現実に起きていることは、だれにでもわかる。わかっているが、何も行動を起こさない。それがいまの日本である。
 アメリカでは黒人が自己主張したが、日本では非正規雇用の人も、子会社の正規社員も、海外研修生も声を上げない。もちろん親会社の正規社員は声を上げるはずがない。なぜか。そういうことをすれば、即座に失職するからである。
 安倍の独裁(アベノミクス)は、そこまで日本人を萎縮させている。そういうことを思いながら、見た。だれもが知っている。だれもが実感している。それなのに、その「実感」は声になって広がっていかない。それだけではなく、安倍批判をすると「反日」ということばで集団攻撃が始まる。「アメリカ」をあくまで白人を中心にした国家と見るように、政権批判をしない人だけを「日本人」と定義し、批判する人を「非日本人」として排除する。「反日」を口にする人は、「反日」と他人を排除すれば「愛国者」になったつもりでいる。だが、彼らは「国家」を考えたりはしない。自分の「いま」を守るために、個人的な理由で「反日」ということばをつかって他人を排除する。
 日本には、いま「排除」の構造がどんどん広がっている。
 (2018年07月28日、KBCシネマ1)



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estoy loco por espana (番外2)

2018-07-29 15:05:38 | estoy loco por espana


la obras de Joaquin
me parece que el nino esta jugando.
la forma de los tres cuerpos con cabeza, la forma de las nalgas es linda.
si reconoce una barra delgada como agua (fuente), parece que el nino esta animando con agua.
como es verano ahora, puede parecer asi.

dependiendo de cuando y donde mira la obra, la obras se ven diferentes.
por eso es importante ir a museo y verlo en realmente.

Joaquinの作品。
子どもが遊んでいる姿に見える。
三頭身、お尻のかたちがかわいい。
細い棒を水(噴水)ととらえれば、水遊びで歓声をあげている姿にも見える。
いまが夏だから、そう見えるのかもしれない。

ホアキンのほか、計5人のアーティストを訪問した旅行記を発売しています。
estoy loco por espana
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高橋睦郎『つい昨日のこと』(21)

2018-07-29 09:30:55 | 高橋睦郎「つい昨日のこと」
21 投票者いわく

 「凡人の権利」の続編のような詩。

陶片投票はやめられない なぜかって?
だって 観客席の取るに足りない身をもって
舞台の主役の筋書きが変えられるてんだから

 「てんだから」の口調で「庶民」の声をあらわしているのだが、私はこの詩に対しても納得できない。「庶民の声」には聞こえない。
 どこが庶民的ではないか。
 一行目の「なぜかって?」である。これは「論理」のことば。「なぜか」に対して、「なぜなら」ということばがつづく。「なぜなら」と言わずに「だって」と高橋は書いているが、ちゃんと「……だから」と締めはおさえている。構文が完成している。構文とは、基本的に「文語」のものである。つまり、知識人のもの。
 「口調」ではなく、「構文」そのものを破っていくスピードがないと、庶民の「肉体」が前面に出てこない。庶民の「わがまま」のたくましさが見えてこない。

死んだら合財 忘れられちまう俺たちのこと
痛くもなけりゃ 痒くもないさ

 これではあまりに「論理的」である。「結論」になりすぎている。「論理」ではなく「肉体」そのもので世の中の瞬間を突き破って生きるのが庶民だと思う。「そんな結論は間違っている」と思わず否定したくなるような力の暴走こそが庶民の歴史だと思う。
 庶民なんか知らない、というところでことばを動かした方が、高橋のことばは輝かしくなると思う。



つい昨日のこと 私のギリシア
クリエーター情報なし
思潮社
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オウム死刑囚の死刑執行と杉田議員の発言

2018-07-29 01:22:05 | 自民党憲法改正草案を読む
オウム死刑囚の死刑執行と杉田議員の発言
             自民党憲法改正草案を読む/番外218(情報の読み方)

 オウム事件の死刑囚13人の死刑執行が二回に分けておこなわれた。自民党の杉田水脈はLGBTについて「生産性がない」という論を展開した。ふたつのことは、私には深い関係があるように思える。
 キーワードは「生産性」である。
 杉田は「子どもを作らない、つまり生産性がない」と言っているのだが、「生産性」は子供を産むかどうかだけではないだろう。(こどもを作る作らないということに限って言えば、麻原にはこどもがいたから「生産性」があるということになる。そういう人間を殺すのは論理矛盾になる。)
 杉田の「生産性」は自民党の改憲案(2012年のもの)と結びつけて読んでみる必要がある。
 改憲案の前文にこう書いてある。

我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。

 「活力ある経済活動」が「生産性」である。それはまた「国を成長させる」と言いなおされているのだが、「国の成長」を「経済の成長」と限定しているのが、自民党の改憲案のいちばんの特徴である。
 経済発展が国の発展である、というのが自民党の国家に対する定義である。
 「主語」は「我々は」になっているが、まやかしである。自民党の改憲案には国家を成長させるために、国民をつかう(支配する)ということしか書かれていない。
 現行憲法と比較すればわかる。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

 現行憲法は、「われら(国民)」について定義しているが、国家が経済的に成長するかどうかは問題にしていない。

 杉田の「生産性」が「子どもをつくる」かどうかに限定されているのは、子どもは将来の労働力だからである。子どもが生まれなければ労働力がなくなる。それでは何も生産できない、ということを出発点にしている。
 しかし、子どもの有無だけについて限定してしまえば、安倍首相夫婦には子どもがいない。「生産性」のない人間が首相をやっている。国をリードしているというのは、論理的におかしなことになってしまうだろう。麻原を死刑にしたのと同様、論理矛盾を引き起こす。
 さらに、LGBTのふたりにしても、子どもをつくることは可能だ。実際に、女優のジョディー・フォスターは子どもを産んでいる。これも現実に合致しない。

 杉田発言は人権意識がないということとは別に、もう一つの大問題を抱えている。
 「生産性」のない人間を国家が支援するのはおかしい、という論理は、子どもを作るかどうかだけに適用されるのではない。
 たとえば、安倍には子どもはいないが、政策を立案し、国家を成長させるという「生産性」をもった人間である、だから国家が給料を払う価値があるという「論理」が成り立つ。(私は、その論理には賛成しないが、論理であることには間違いない。)
 一方、オウム事件の死刑囚は、どうか。死刑囚であっても、なぜ、そういう事件が起きたのか、再びそういう事件が起きて、経済活動が混乱しないようにするためにはどうすればいいのかを究明する--という論理を展開していけば、そこに「生産性」につながる思考が生まれてくるが、杉田や自民党はそうは考えないだろう。
 死刑囚なのに死刑にせずに税金で生かし続けておくのは無駄遣いである、「生産性」がないということなのだろう。

 ここからは、おそろしい「論理」が動き始める。
 「生産性」(生産力)のない人間は死刑にしてしまえという論理が絶対に動き始める。老人は生産力がない。老人が生きていれば、年金をはらわなければならない。原資は逼迫している。年金の支給期間を減らしてしまえ、餓死に追い込めばいい、ということになりかねない。病人も同じである。病院で治療するから医療費の支出が増える。生産性に貢献できない人間は治療をやめてしまえということになる。そのときは「安楽死」ということばが利用されるに違いない。
 この老人や病人に対する「消極的死刑」は、さすがにむずかしいだろうが、こういう場合はどうだろう。
 安倍批判をしている人間がいる。金持ちだけがさらに裕福になる政策を批判している人間がいる。放置しておくと、安倍の政策が実現されなくなる。安倍批判は犯罪であるという法律をつくって、逮捕し、考えを改めないなら死刑にしてしまえ、ということになりかねない。
 そんなことは起こり得ないと思っている人が多いが、私は、とても心配している。
 今回の杉田発言をめぐって抗議している人に向かって、「そういうことをしていると就職できないぞ」と威嚇する発言をネットで見かけた。実際に、安倍批判をすると職を失うのではないか、就職できないのではないかと不安を抱えている人がいる。
 すでに、安倍の望む「生産性」に適した人間を選別するということが始まっている。
 「死刑」という形はとっていないが、思想の自由を抹殺している。

 いまいくつかの自治体でLGBTへの支援が始まっているが、支援されている人の情報が、国家規模での政策の遂行に逆に利用されるということが起きないか。それも私は心配している。杉田の論に与する形で、LGBT支援は違法という法律をつくり、自治体をとりしまる。そのとき、だれを支援したのか、その情報を国に寄越せ、と言ってきたとき、言われた方の自治体はどこまで抵抗できるか。人権をまもる行動をとれるか、私は心底心配している。

 「生産性」をキーワードにして現実を見ていくと、ほかのことも見えてくる。
 「カジノ法」が成立したが、「カジノ」の「生産性」とは何か。カジノは何も生み出さない。金がただ動くだけである。金を分配するとみせかけて、胴元がもうかるのがギャンブルである。その胴元のもうけを安倍がかすめとっていく。
 「生産性」とは、安倍にどれだけ金をもたらすか、ということなのだ。
 安倍には子どもがいないが、それは問われない。安倍の「生産性」は棚に上げておいて、安倍にどれだけ金を貢ぐことができるか、が「生産性」の意味するものなのだ。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
yachisyuso@gmail.com
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