詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(24)

2006-06-07 15:04:04 | 詩集

 『綺想曲 Capriccio 』(1992)。
 私は渋沢孝輔の熱心な読者ではない。だから、私の感想にはずいぶんと誤読が多いだろう。そうしたことを承知で、誤読のさらに誤読の森へ踏み込むようにして書くのだが、『綺想曲』を読むとき、私は一瞬渋沢孝輔を見失う。そこに渋沢がいないというのではない。あれ、こんな渋沢がいままでいただろうか、と思ってしまう。たとえば「虚仮論(こけろん)」。

夜も眠れず 昼間はおきられぬものは
頑(かたくな)におのれを閉じて苔の夢をみている
石の音を聴いている
わずかに 耳鳴りのようなこおろぎの声が
いちめんの沈黙のさなかにきこえぬではないが
それよりも終わりを思っている 初めを思い出している

 「それよりも終わりを思っている 初めを思い出している」に私ははっと驚く。「思う」ということばはだれもがつかうことばである。しかし、渋沢は、これまで「思う」をつかっていただろうか。
 詩にかぎらず、あらゆる文章は「思う」ことを書いたものである。(この文章は断定形で書かれているが、「詩にかぎらず、あらゆる文章は『思う』ことを書いたものであると思う。」の末尾の「思う」が省略されたものである。)だからわざわざ「思う」とは普通は書かない。渋沢も、これまでつかってこなかったと思う。(詳しく読み返してみなければわからないが……。)少なくとも「思っている」「思い出している」というふうに連続的に繰り返したことはないだろうと思う。
 「思う」を簡単に(?)つかってしまう渋沢に、ふいに出会って、不思議なことに、ゆったりした気分になる。「直列の詩学」が緊張感に満ちているのは当然として、「放電の詩学」でも何かしら充実したもの、枠からあふれていく力のようなものを感じたが、ここではそれが迫って来ない。ただ、ゆったりとことばを読む、という気持ちになる。
 「雪の日の深夜に」も「思う」は出てくる。「思う」を含むことばが出てくる。

〈暫く存命(ぞんみょう)の間(あいだ)〉という言葉に打たれながら
雪の日の深夜ひとり 部屋にいて
身のまわりを見まわし思い返して慄然とする

 「見まわし」の補語は「身のまわり」だろう。「思い返し」の補語はなんだろうか。「身のまわり」と言えなくもないが、普通のことばでは「身のまわりを思い返す」とは言わないだろう。言うとしても、そのとき「身のまわり」はほんとうに自分の「周囲」ではなく、そこにいる「私」(自己)を指してのことだろう。
 ふいに「私」(自己)が詩のなかに登場してきたような印象を受ける。意識して来なかった「私」(じこ)が『綺想曲』に登場しているという印象がある。
 詩はつづく。

いまにも雪崩れ落ちそうな雑事の山
いまごろチューリップの花が
いやに艶かしく水盤からこちらを覗き
こんな時刻に〆切に迫られて字を書いている
外では自然のままに梅のつぼみが 刻
刻に寒気のなかで呼吸(いき)づいていることを
わたしは知っているし
いまでは珍しくもない放送衛星が間もなく
打上げられようとしていることも知っている
それらこれやを思い返してさらに
慄然とするのだ 暫く存命の間よ

 「知っている」と「思う」はどう違うか。「知っている」は「頭」の世界である。「思う」は「こころ」の世界である。「知っている」は明確であり「思う」は明確ではない。後者には揺らぎがある。
 渋沢は、この詩では、不確かな「わたし」、「思う」とともにある「わたし」に出会っている。
 
 「身のまわりを見まわし思い返して慄然とする」という行を、再び読み返す。すると、ひとつのことに気がつく。「思い返して」が書かれていなかったら、この詩はどうなるだろうか。詩そのものとしては、ほとんど変化がない。なくてもかまわない。しかし、渋沢は書かずにはいられなかった。
 だからこそ、 私は、この「思い返して」(思う)ということばに渋沢の「思想」が隠されていると思う。渋沢にとって非常に大切な何かが隠されていると思う。

 この詩には「思う」と同時に、もうひとつ不思議なことばがある。「自然」である。いま引用した部分の「自然」はなにげなく読んでしまう。植物の自然の変化をただ書いているだけのように思える。そして、この「自然」(自然のままに)は、先の「思い返して」と同様、省略されても意味的にはまったく変わらない。それでも、渋沢は「自然のままに」と書く。そこには実は渋沢の書こうとして書けない思い(思想)が隠されている。
 詩は、さらにつづく。

姿を消して死んでしまったと思った牡猫は
はからずも五日目の今日帰ってきたが
(奴め恋でもしていたのか) 今年ももう
身近にひとりの人を葬った 不慮の
死だ かつての乱世にはそれをこそしかも
〈自然の事〉と言ったという 自然の事と

 ここで繰り返される「自然」は梅について書いたときの「自然」とどう違うのか。
 たぶん渋沢の「思い」のなかでは同じものであろう。「自然の事」というときの「自然」は「不慮」に対してつかわれているのだが、それ以上のものを感じてしまう。
 季節のなかで梅は開き、散り、実を結び、枯れ、ふたたび花開く。繰り返しがある。繰り返すのが梅である。同じように、人は生まれ、死んでいく。それが人間の「自然」である。たとえ、それが「不慮」の死であっても、死は人間にとっての自然、自分の力ではどうすることもできない何かである。自然とは人間の力のおよばない世界の総称である。
 そういう自然に対する向き合い方はいろいろある。「知っている」(知識)として向き合う方法。「思う」という方法。渋沢は、「思う」という方法に、ふいに気がついたのかもしれない。

 「暫く存命の間」とは人間が生きている間、ということだろう。それは「死」と対比しての「思い」である。それは「知」ではなく「思い」である。思想である。
 「知識」は時代によって変わる。しかし「思い」(思想)はかわならい。そうした「思い」を渋沢は書き始めたのかもしれない。
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清岡卓行さんが亡くなった

2006-06-06 11:04:59 | 詩集
 清岡卓行さんが亡くなった。『一瞬』(思潮社)を読み返した。「ある眩暈(くるめき)」。

それが美
であると意識するまえの
かすかな驚きが好きだ。

 書き出しの3行が、そのまま清岡の思想である。特に「意識するまえ」に清岡の思想が凝縮している。さらにいえば「まえ」に濃密に蠢いている。
 「美」という認識、意識。その「まえ」にあるのは何か。「まえ」としか名付けられぬものである。
 「美」という意識の対極にあるのは「美ではない」という意識である。その隔たりは大きいときもあれば小さいときもある。「美」と「非・美」のあいだに「普通」という概念を入れるとわかる。
 では、「美/であると意識するまえ」は「普通」なのか。あるいは「普通」と「美」のあいだなのか、それよりももっと「非・美」に近いのか。これは、実は区別がない。「美」「非・美」のあいだの隔たりは大きかろうが小さかろうが、おなじ「まえ」なのである。
 だが、それがおなじ「前」だからといって、「まえ」と「美」のあいだに必要なことばは一種類ではない。無数にある。そのときどきによってまったく違う。その無数、そのときどきの違いへ、清岡は静かに、丁寧に分け入っていく。
 そのとき「まえ」は「美」よりもさらに輝き始める。「まえ」が充実することによって「美」がはじめて生まれてくるかのようだ。「まえ」は「美」を生み出す生成の瞬間である。「まえ」によって「美」が決定づけられる、と言い換えてもいい。

それが美
であると意識するまえの
かすかな驚きが好きだ。
風景だろうと
音楽だろうと
はたまた人間の素顔だろうと
初めて接した敵が美
であると意識するまえの
ひそかな戦(おのの)きが好きだ。
やがては自分が無残に
敗れる兆しか。
それともそこから必死に
逃れる兆しか。
それほど神秘でほのかな
眩暈(くるめき)が好きだ。

 「美」の「まえ」、「美」の生成の瞬間、とは、実は清岡自身の生成の時間でもある。清岡は「美」より「まえ」に存在しているけれど、「美」の「まえ」でもう一度自己自信を生成しなおす。生まれ変わる。生まれ変わることによって「美」が「美」として誕生する。そして、そのとき「美」と清岡自身はひとつのものになる。一体になる。
 自分自身が生まれ変わる。それまでの自分が自分ではなくなってしまう。だからこそ「戦く」。自分自身が生まれ変わる。それは、それまでの自分がもっていた関係がなくなる、孤立するということでもある。「孤独」とは、たったひとりで存在することである。
 しかし、清岡は知っている。その「孤独」こそが「美」と一体になる瞬間のことだと。それは恍惚の瞬間でもある。自己という枠が消え去り、自己を超えたエクスタシーの瞬間、「神秘」の瞬間。だからこそ「戦く」。「戦き」が「美」である、ということもできる。

 「美/であると意識するまえ」の瞬間。それはいつも清岡の作品で繰り返される主題である。「春の夜の暗い坂を」は郊外の終着駅を描いている。電車が入ってきて、客を降ろす。無人の電車。そしてその電車の先頭と後尾が入れ代わる。始発駅になる。いままであったものが、おなじ姿のまま、違ったものとして見えてくる。その瞬間、その一瞬、

そうだ
なにかの夢に誘われている。

 「なにかの夢」としかいいようのないもの。名付け得ぬもの。

 名付け得ぬもの、とは、「美/であると意識するまえ」のことでもあった。
 清岡は、いつもその「名付け得ぬもの」の「一瞬」を描く。短い詩のときもあれば、『マロニエの花が言った』という長編の小説の場合もある。いずれにしろ、清岡は、まだ人が名付けていないもの、清岡自身も名付けていないもののなかへ、深く、静かに入って行って、その時間を豊かに耕す。耕しながら、清岡自身も静かに強く生まれ変わる。

 清岡の死は、清岡の新しい姿だと祈りたい。清岡は、私たちが知らないことばで、知らない世界へと生まれ変わって行ったのだ思いたい。そして、そこで新しい詩を書き続けていると祈りたい。合掌。
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映画「ククーシュカ」

2006-06-05 23:42:41 | 映画
監督 アレクサンダー・ロゴシュキン 出演 アンニ=クリスティーナ・ユーソ、ヴィクトル・ヴィチコフ、ヴィル・ハーパサロ

 フィンランド兵士がロシア兵士に捕らえられる。足かせをつけて山に取り残される。そこから脱出するシーンがおもしろい。『抵抗』のように、ただひたすら、ことばもなく兵士の手作業を延々と映し出す。眼鏡のレンズを外して組み合わせ、そのなかに水を入れて凸レンズをつくる。火を燃やす。岩に打ち込まれた金杭(足かせが括られている)の上で小枝を燃やす。水をかける。岩がパチンと割れる。繰り返す。延々と繰り返す。それがなんとも濃密な時間である。まあ、最後には成功するんだろうと思いながらも、なんだかどきどきはらはらする。興奮する。
 濃密な時間は暮らしであり、思想である。フィンランド兵士は、手持ちのもの(たとえば眼鏡)をつかって状況を切り開くことを考える。そのために根気を発揮する。時間がどれだけかかるか、ということは気にしない。これをやれば、こうなる、と現実のなかで状況を切り開く行動をとることができる。
 彼は、逃れていった先で一人の女と出会う。けがをしたロシア兵士とも出会う。そこで出会った女の暮らしも、なんともいえず、深い深い時間を持っている。トナカイを飼育し、潮の満ち引きを利用して魚をとる。そこに、その土地で暮らす人の知恵、思想が濃密にでている。
 人の思想が濃密に存在する場というのは、どこでも美しい。どこでも豊かである。そこに生活することはとても困難をともなうものなのに、あ、ここでくらしてみたいという夢を誘い出す。女の暮らしは、そういうものだ。
 ロシア兵士があやまってフィンランド兵士を銃撃する。死の境をさまよう男を、女は昔ながらの土俗的な祈りで呼び戻す。魂を肉体に呼び戻す。このシーンも、その前に女の時間の豊かさ、強さを見ているので、とても納得がゆく。私たちの知らない思想、私たちの知らない肉体と時間、そういうものがたしかにどこかにあるのだ。
 人にはかならず、自分自身の時間を濃密にすることができる場がある。思想を持つことができる場がある。
 そういうことを信じさせてくれる映画である。
 おだやかで、ユーモアにも満ちた、ゆるぎのない映画である。
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貞久秀紀「数のよろこび」

2006-06-05 22:49:35 | 詩集
 貞久秀紀「数のよろこび」(「現代詩手帖」6月号)はことばのいいかげんさを軽やかに笑う。連作のうちの「松」

 松が二、三本、道のわきに生えている。
 あとから思いかえしてみると、二本でも三本でもなく、二、三本として思いかえされる。
 べつの日におなじ道をあるいて近づいてゆけば、二本か三本かのいずれかがある。

 「二、三本」というのはしばしばつかう数ではあるが、貞久がつかっているようには私はつかわない。松の数を数えるのに「二、三本、」とは私は絶対に(というと言い過ぎだろうか)言わない。「鉛筆を二、三本持ってきて」とは言う。誰かに何かを頼むとき、たぶん相手に「ゆるやかな」印象を与えるためにそういうのだと思う。どちらでもかまわないというニュアンスが、強制力をやわらげるからだろう。(もちろん、こういうことはいちいち意識していうわけではなく、なんとなく、そういうふうにいうのが習慣だからだろう。)そして、そんなふうに実際に「二、三本」ということばをつかう習慣があるからこそ、「松が二、三本、道のわきに生えている。」という文にであっても、最初は違和感はない。すっと読み過ごしてしまう。
 ここに「わな」がある。「詩」の入り口がある。深い意識のないまま、すっと貞久のことばに誘い込まれる。

 あとから思いかえしてみると、二本でも三本でもなく、二、三本として思いかえされる。

 そんな馬鹿な、と言いたいが、最初の一行で「二、三本」を受け入れてしまったので、なんとなくそんな馬鹿な、と言いそびれてしまう。二本と三本は数えなくても一目でわかる。二本と三本を見間違えることなど有り得ない。見間違えたとしても、それを二本か三本かわからないはずがない。二本を三本と勘違いして思い返すか、逆に三本を二本として思い返すかのどちらかである。
 貞久は、ありそうで、絶対にありえないことを書いている。

 べつの日におなじ道をあるいて近づいてゆけば、二本か三本かのいずれかがある。

 これはもちろん、そうである。現実には「二、三本」という数はありえないからである。そんな数は目では確認できない。数えられない。
 だから、この行にであって、ふっと安心し、それが体の奥から笑いとなって立ち上がってくる。
 しかし、なぜ、こんなに簡単に貞久のことばにだまされたのだろうか。誘い込まれたのだろうか。
 たぶん長さが関係している。ことばの単純さが関係している。
 「松」という作品は「一目」で読むことができる。ことばの意味を、これはどういうことだろうか、と確認しながら読み進むのではなく、確認できないままに読み進んでしまう「短さ」が、ここにある。
 「現代詩」は難解である、とは言い古されたことばであるが、ここには難解さはなく、平易さがある。平易すぎて、すっと読み落としてしまうものがある。
 貞久は、これを巧みに利用している。
 私たちは文字を読むとき目で読むのはもちろんだが、たぶん目で読んでいるという意識がないまま、目で読んでいる。目がどれくらいの分量のことばなら一気に把握できるかを意識しないで読んでいる。貞久はこれを逆手にとっている。一目で読めることばを差し出して、私たちの目の読解力を笑うのである。
 その題材に、また目の読解力をあざ笑うように、道のわきの松の「二、三本」を提出するところが巧みである。とても技巧的であり、その技巧がわざとらしくない。さりげない。だから素直にだまされたような気持ちで笑ってしまう。

 では、それにつづく「或るまとまり」はどうか。「公民の庭」はどうか。
 これは一目で読める分量ではない。しかし、「松」で、貞久マジックに誘い込まれているので、そのまま引き込まれてしまう。そして連作の最後の「子規の小松」で「二三本の小松」という数え方に出会い、読み進む内に、また「あっ」と叫ばされる。「三本松」はみもと松であり、それは「本から三つに分かれた一本松である」。
 え、一体何本が正しい?
 正しいものなどないのである。正しいことがあるとすれば、目は錯覚する。一目で何かを把握し、それはしばしば間違いであるということだけが「正しい」のかもしれない。ことばは「目」で読むと、しばしば間違うものである。

 貞久はことばを目で遊ぶのが大好きな詩人である。

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廿楽順治「たかくおよぐや」、小木曽淑子「終幕」

2006-06-04 23:24:18 | 詩集
 廿楽順治「たかくおよぐや」(「現代詩手帖」6月号)の、ことばの動きについて、ちょっと書きたくなる。省略の仕方がとても気になる。

目のさきにはもう高さなんていらない
上と下が切れてしまっているのに
くらしはまだうごいている
ちょっときもちわるいが
こうしてのぼっていく方法にまちがいはない
なんて
わらいながら
高さをはかってくれるひともいなくなった
(もう平成だもんな)

 「主語」は何? 「上と下」というけれど、何の「上と下」? 何もわからないのに、「高さをはかってくれるひともいなくなった/(もう平成だもんな)」まで読むと、5月5日の「背比べ」を思い浮かべてしまう。「たかくおよぐや」はもちろん「こいのぼり」である。
 だからといって何かがわかるわけではない。何もわからない。

おとうさん
おかあさん
いってまいります
ぼくはもうこのおんなでいいのです
(どうして毎晩しめ鯖ばっかりだすのかねえ)
三日目です

 三日も同じ料理がでればだれだって(どうして毎晩しめ鯖ばっかりだすのかねえ)と言うだろう。それに対して「三日目です」といわれれば、たしかに三日目だろうけれど、と一瞬ことばを失うだろう。これは「背比べ」ならぬ「ことば比べ」である。人は「背比べ」の時をへて、奇妙な「ことば比べ」の時代を生きていく。柱の傷の上をみえないままのぼるように、こころの傷を隠して、ここではなく、別の場へのぼってしまう「ことば比べ」としての「くらし」がある。
 そういうことを、「もの」として、「もの」としかいいようのないことばの動きとして、廿楽は書いてみたいのだろう。暮らしのなかに潜んでいる「もの」としてのことばを書いてみたいのだろう。

 その視点で考えてみれば(というか、ふりかえってみれば)、たとえば背比べの線の位置。それはあるところに集中している。おとなになったあとの背の高さは「目のさき」にはない。あのときはかった高さの「上と下が切れてしまっている」(存在していない)。その後、子供が成長しなくなったということではなく、成長するけれどその成長を「背比べ」として残さなくなったということだ。背比べの線の位置をのりこえて(廿楽のことばをつかえば「のぼってい」って)、そしてその見えない線のなかに、ほんとうは「くらし」がある。人は「くらし」のなかへ成長していくということだろう。
 「くらし」といえば、やはり男と女と飯である。「しめ鯖」の話が出てくるのもうなずけるのである。
 脈絡はぜんぜんない。あるいは、廿楽のなかの脈絡がはっきりしすぎていて、それを省略してしまうので、それが私にみえないだけということかもしれない。

 「現代詩手帖」5月号は「2000年代の詩人たち」という特集を組んでいて、廿楽もそのひとりとして紹介されているのだが、この「くらし」の脈絡の隠し方というか、見せ方というか、そのことばの動きがとても大人っぽい。若々しくない。「くらし」知ってるでしょ? 子供時代あったでしょ? 肉体の奥を揺さぶるように、見えるものと見えないもの、見えないと思っていたものがあとからちらりちらりとああ、あのこと?という感じでよみがえる時間のあり方を、水分を含んだ和紙のようなものですくいとるような、いやあな感じがする。大人でしかうごかせないことばの動き。おとなの肉体としてのことばの動き。10代の若者にはありえないような、つまり神経を脂肪で隠したような、奇妙な動きである。「くらし」を省略しながら、省略した「くらし」しか見せないというような高等技法の詩なのだろうなあ……。



 小木曽淑子「終幕」は「視力」を信じきった詩である。その信じきり方が気持ちがいい。廿楽は「見えない」ものは「見ていないだけ」、ほらここにこんなふうに気持ちの悪いもの(?)があるよ、と差し出すのに対し、小木曽は「私にはこれこれが見えます」ときれいな発音で言い切る。こういう歯切れのいいことばは、たしかに若者ならではという感じがして気持ちがいい。

彼らは絶え間なく注がれている
光によってなお孤立しながら
やがてあらゆるものが--そのようでしかありえぬ姿の
取り返しのつかぬ重さとなって
ひらく瞳孔の底から顕れ出ようとするとき

 「光」「瞳孔」「顕れ」。視力が満ちあふれている。(第3連には「眼差し」ということばもある。)ただし、その視力はいささか「現代詩」に汚染されているかもしれない。「取り返しのつかぬ重さとなって」という行のなかにある「重さ」への無意識の依存が気になる。「重さ」ではなく「軽さ」こそ視力でとらえるべきではないだろうか。スピードを視力でとらえるべきではないだろうか。(と、私は願ってしまう。)

吐き出されるながい息が
空間をひとつひとつ吹き消していく
やがてあらゆる重さが闇のなかへ落下すると
そこから完成された唯ひとつのものが立ち上がってくる

 うーん、第一連の視力はどこへ行ってしまったのだろうか。「完成された完成された唯ひとつのものが立ち上がってくる」のはいいのだけれど、何によってその存在を確認するのだろうか。「視力」ではそれはどんなふうに見えるのだろうか。「視力」は肉眼から観念としての視力(脳のなかの視力=頭脳の明晰さ)に知らないあいだに変化してしまっているように思える。
 その直前の「吐き出されるながい息が/空間をひとつひとつ吹き消していく」が呼吸と視力をいっしょにとらえていて美しいだけに、最後の2行が、読んでいてとても悔しい。もっと頑張って肉眼で、強靱な視力で、その存在をとらえてほしかったと思う。

 (補足?)
 「重さ」--これをとらえるのは触覚である。「彼らが記憶するのではない 記憶が/彼らを見つめ その両手にしっかり捕らえるのだ」(5連目の終わりの2行)。「両手」ということばがあらわしているように、「重さ」は手で測る。手から筋肉のなかをとおってくる何かが重さである。起点は触覚である。この行に「見つめ」ということばがあるが、小木曽は視力と触覚を融合することをこころみているのかもしれない。肉眼では闇は見えない。闇のなかで視力の働きをするのは触覚である。
 それはそうではあるけれど、こうした考え方そのものが「現代詩」的である。もっと強靱な肉眼が見た世界を読ませてもらいたいと思わずにはいられなかった。


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大谷良太「午後」、郡司音「手」

2006-06-03 23:38:47 | 詩集

 大谷良太「午後」(「現代詩手帖」6月号)がとてもおもしろい。

社員が出て行くと
食堂は静かになった
私も食事を食べ終えて
席を立った
食器返却口でおばさんが
ちゃわんを洗っている
ごちそうさま、と挨拶をして
階段を屋上に昇った
はためく黄色いエプロン
私は鉄柵にもたれかかり
陽を浴びる
西に丹沢、富士山が見えて
(富士は薄く雪を被っている)
こうして若いとしつきを
浪費してゆくことがきれいだ、ゆっくりと
背伸びをし、
やがて確実にくるもののために
心を武装するように
私もケースから白い一本を抜く
ライターの炎が
風に揺れて
それは私のくちびるににがい、
にがくない

 昼食後の時間が淡々と語られる。散文の静かな積み重ねがあって、すこしリズムが乱れる。そこに「詩」が突然立ち現れる。

こうして若いとしつきを
浪費してゆくことがきれいだ、ゆっくりと
背伸びをし、

 「きれいだ」の使い方が微妙である。屋上から見える丹沢、富士山が「きれいだ」なら普通の使い方である。しかし、「若いとしつきを/浪費してゆくこと」を普通は「きれいだ」とは言わないだろう。それなのに、なにか、こころに迫ってくるものがある。だからこそ、こころに迫ってくるものがある、といえばいいのだろうか。この「きれいだ」を無性に理解したい、抱き締めたい、自分のものにしたいという気持ちになる。ここには普通のことば(それまでの行で大谷が書いてきた散文のことば)とは違ったものがある。「意味」ではなく、感触としかいいようのないものがある。
 「きれいだ」は私の感じでは「としつきを/浪費してゆくこと」ではなく、それを跳び越えて、その前の「西に丹沢、富士山が見え」という屋上の広がりにつながる。その風景のように、広く、ゆったたりしているものが、この瞬間にある。昼食を終えて、屋上で風景を見ている。無為の時間。それが遠くの風景と重なるようにして「きれいだ」と感じる。そうした無為の時間が「若いとしつき」にも大切なものである、と大谷は、鉄柵にもたれかかり、ぼんやりと感じている。

浪費してゆくことがきれいだ、ゆっくりと
背伸びをし、

 このリズムが、またたいへんすばらしい。散文的な意味を中心に考えれば「浪費してゆくことがきれいだ、/ゆっくりと背伸びをし、」となるだろう。しかし、そういうふうに大谷は書いていない。「浪費してゆくことがきれいだ、ゆっくりと」と読点を挟んでひとつながりにことばは動き、そのあと、それこそ「ゆっくりと」した呼吸があって「背伸びをし」とつづく。
 このことばのリズム、呼吸が、「きれいだ」をもう一度立ち上がらせる。独立させる。ある勢い、ことばの運動というか、感情の動きに突き動かされて、意識しないままに「きれいだ」ということばを発し、その勢いで「ゆっくりと」まで進んでしまう。そこで一呼吸置き、「きれいだ」ってどういうことだろうと、振り返る感じがする。そのとき「きれいだ」が丹沢や富士山のように、なにか独立した巨大なものになる。「きれいだ」は大谷の体をはみ出し、風景と一体になり、そこに存在する。
 だが、こうした不思議な感覚にそのまま居つづけることはできない。働かなければならない。そういう思いが「ゆっくりと/背伸びをし、」にあらわれている。「詩」をふりきって現実にもどる時間である。
 大谷の文体は、このあと再び散文に戻る。
 しかし、いったん「詩」を体験した者は完全には散文には戻れない。「詩」の痕跡が残る。

それは私のくちびるににがい、
にがくない

 「にがい、/にがくない」。矛盾でしか書き表せないものが立ち上がってくる。散文の構造を突き破って、ことばが独立して存在する。散文の意味を拒絶して存在する。そこに「詩」がある。

 大谷のことばはとても動きが素直である。そして素直さを武器にして、散文的構造を少しだけ揺るがせる。その「少しだけ」はほんとうはとても大きいかもしれない。あるいはとても深い深い揺さぶりなのかもしれない。あ、「詩」が、ことばにならないことばが、今ここに誕生しているという、不思議な鮮烈さがある。どこまでもどこまでも届いてしまうような光の純粋さがある。



 郡司音「手」は、郡司が見たさまざまな手について書いている。

雨上がりの
緩やかな坂を下れば、夜の繁華街で
アジア系の売春婦なんかが
声をかけてくるのだ。
なかに手話の売春婦がいて
きっと売春婦だったんだろうが
何を言っているのか皆目分からなかった。

 「分からなかった」に「詩」がある。わからないけれど存在するもの、その存在が自分に迫ってくるものが「詩」である。わからなさを抱え込んだ肉体が「詩」である。

汚れた手は
くねるように動き、隠された。
いや俺が通り過ぎてしまったのだ。

 「通り過ぎてしまっ」ても、肉体のなかに残る。たとえば「くねるように動き」という運動として。その動きが、そのまま郡司の肉体になる。実際に郡司がその動きを反芻するかどうかではない。反芻しなくても、肉体のなかに残る。残っているから、それがことばを求めて蠢く。ことばとなって立ち上がってくる。「詩」となる。

 大谷が「静的」だとすれば、郡司は「動的」である。だがふたりには、ことばを肉体でつかみとるという共通の性質があるように感じた。


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コマガネトモオ「波からなる都市」、キキダダマママキキ「神馬、土地を鎮めよ

2006-06-02 13:32:07 | 詩集
 コマガネトモオ「波からなる都市 Metropolitan imperfecta 」(「現代詩手帖」 6月号)。連作なのだろう。「9.[イオタ] 」というサブタイトルがある。書き出しだとてもおもしろい。

暗澹たる灰緑色のチューブを抜けると
抜ければ、文学上
一面の銀世界である。
それから描かれるのは
明けたあとの空白である。
明けてしまえば出会ってしまい、それは語るに足らない。
仕舞い、足らないことをうめようと必死で書きつなぐ。
転がるように筆を滑られ、ただ結末を急ぐことになる。

 「……を抜けれると/抜ければ」の一種の尻取りのようなリズム。「明けたあとの……」からの3行にも似たリズム、繰り返しがある。「あけたあと」「あけてしまえば」、「しまえば」「しまい」「仕舞い」、「語るに足らない」「たらないことを」。これが絵を描く画家の筆のリズムに見えてしまう。描いた色を確認し、確認した上で新しい色と形を繰り広げる。繰り広げながら徐々に世界を展開していくリズムに見えてくる。
 このリズムは、タイトルにある「波」そのもののように、繰り返すことに疲れを知らない。若々しい。

平行を避けて二点を手放せば
帰結まで雲を引き、遥かな飛行を見せてくれるだろう。
それが物語であろう。出会いはヨモツヒラサカを転がることを言うのである。
遠く隔壁を通した向こう岸に
無理にでも光を見ようとした。

 これは先の引用のつづきだが、尻取りのリズムは、たんに同じことばだけにあるのではない。「ただ結末を急ぐことになる」の「結末」と「帰結」。そのわずかな「ずれ」のようなもののなかに、さまざまなイメージが飛び込む。あるいは「ずれ」がさまざまなイメージを呼び出す。それはたしかに「物語」をつくりだす。人間は、どんなときにでも「物語」をつくってしまう。私のこの感想も「物語」である。つまりある構造によって始まりと終わりをつくりだし、その広がりに意味をもたせることを狙っている。
 そうしたことをすべて知った上でコマガネはことばをつなぐ。

詩はしかし明け行く空を永遠に引き延ばすことができる、

 「物語」は結末(帰結)をもっている。しかし「詩」にはそれがない。帰結、結末がないもの、永遠が「詩」であるという。ランボーのように潔く、軽やかではないか。かっこいいではないか。

詩はしかし明け行く空を永遠に引き延ばすことができる、
と、強がってみせようか。
暗澹たる灰緑色のチューブを
ある日抜ける日が来る、
来るのだろうが
いまはまだ
ここは暗澹たる灰緑色の蛇腹、その中腹である。

 かっこいいと同時に、そのかっこよさが「強がり」であることも自覚する。この自制が、たぶん、コマガネのリズムの基本なのだろう。前へ前へと突き進みながら、その進む先を瞬間瞬間立ち止まり、見据え、もう一度前へと進む。
 リズムが、ことばの運動を規定し、同時にその内容を決定している。とてもいい詩だと思う。

 ところで、この詩の「主語」は何だろうか。書きそびれてしまったが(今になって書くことになってしまったが)、私は「チューブ」のなかの「色」そのものと思って読んだ。便宜上、画家の絵筆の動きと書いたけれど、ほんとうは色の気持ちだ。チューブから押し出され、真っ白なキャンバスを目にする。その布の上で一筆ごとにほんとうの色になるのだ、という感じがする。
 同じように、コマガネのことばは、「ことばのチューブ」のなかにあったものがしぼりだされ、紙の上を走る。突き進む。そのときほんとうの色になる。つまり「詩」になる。そういう気持ちのいいリズム、軽さ、速度がみなぎっている。
 そして、そのチューブはコマガネの肉体そのものであり、それは常に復元する。どれだけ色をしぼりだしても、チューブが空になることはない。人間の体が空になることがないのと同じである。しぼりだすことによって、しぼりだされたものの入っていた部分にあらたな色が充満してくる感じだ。疲れを知らない--という批評をコマガネがどう感じるかわからないが、そこには疲れを知らない若さ、しなやかさという強靱を身につけた若さの特権のようなものが輝いている。
 こういう作品が、私は、とても好きだ。


 キキダダママママキキ「神馬、土地を鎮めよ」。この人は言いたいことばが体のなかにあふれているのだろう。その速度が速すぎて意識がついていかない、意識でコントロールしようとすると吃音になってしまう、という感じなのだろうか。
 肉体のなかからあふれてくることばとの格闘ということを納得した上で、しかし、私には少し疑問が残る。たとえば、

田螺を塩で煮、残った者は今日の灯りを手で掬う
籾殻を敷き詰めた芋壺に守る家の神、婦人以外は入ってはならぬ穴

 キキダダは「田螺を塩で煮」るということを実際に体験したのだろうか。「籾殻を敷き詰めた芋壺」をほんとうに見たことがあるのだろうか。私は田螺を塩で煮るという体験はないが、籾殻を敷き詰めた芋壺ならよく知っている。さつまいもを保存してある。必要な分だけ取り出してくる。そうした生活の知恵には「時間」が潜んでいる。それはキキダダが描くように「神話」の世界なのかどうか、私にはわからない。私には、動かそうにも動かせない「時間」に思える。その「動かない時間」が、どうもキキダダの書いている速度のある世界とは違うように思える。だから思わず、キキダダはほんとうに籾殻を敷き詰めた芋壺を知っているのだろうか、と書いてしまう。
 速度のある神話もあるだろうが、速度のない神話、停滞し、沈殿する神話もあると思う。「月蝕とともにのどを突いた武士の舞う影」ということばが速度のある神話なら、「籾殻を敷き詰めた芋壺」というのは沈殿する神話である。もちろん、速度をより速いものとして印象づけるために停滞した神話、沈殿する神話を同時に描くということもわかるけれど、私にはとても違和感が残った。
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水無田気流「Z境/削除、そして更新」、斉藤倫「伏線」

2006-06-01 14:45:08 | 詩集
 「現代詩手帖」6月号が「2000年代の詩人たち」という特集を組んでいる。全部を読んだわけではないが、奇妙な類似性を感じた。
 水無田気流「Z境/削除、そして更新(デリート・アンド・リライト)」。タイトルにもルビがある。詩の本文にもルビが多い。そして、そのルビがかなりかわっている。括弧内で表記した部分がルビである。(引用はひとつづきの行ではなく、部分部分である。)

らうんど・わん(ホンキデイクワヨ)

らうんど・つぅ(ツヅキハベツリョウキンデス)

らうんど・すりー(レディ・ステディ・ゴウ)

らうんど・ふぉう(パスワードガマチガッテイマス)

ふぁいなる(デリート)

 「らうんど・わん」「つう」「すりー」……につけられたルビは何だろうか。「読み方」ではない。というよりも、声に出して読むことを拒んでいるルビである。声に出してルビを読んでしまえば「らうんど・わん」「つう」「すりー」……は表現できない。ここに書かれていることは肉体をとおして表現はできないことがらである。
 では、肉体を拒否しているのか。
 そうではなく、逆に肉体に依存している。目に依存している。「らうんど・わん」を「ホンキデイクワヨ」と同時に読むことができる目に依存している。喉・口蓋(声)には同時にできないことが目には同時にできる。その力に依存している。
 そして、この依存は最終的には、肉体のなかに脳があるということに依存している。脳のなかで考えたことは重ね合わせることができる。もちろん思考自体はそれぞれに構築されるが、ある構築した思考をそのまま肉体の内部(つまり、脳)に閉じ込めたまま、別の思考を構築し、それを重ね合わせる。(これは、「ずらす」といっても同じことだが。)こうしたことが可能なのは、ことばは脳のなかにはいつでもとどまっている、という信頼があるからだ。肉体の内部に脳があり、脳の内部にことばはとどまり、とどまっていることばはいかようにも重ね、ずらし、操作することで、世界を自在にみつめることができる。そう信じているのかもしれない。
 そうかなあ、と私は疑問に思う。こんな簡単に肉体に依存していいのかな。肉体がことばを閉じ込めてくれると信じていいのかな、と疑問に思う。
 私は水無田のように信じることはできない。ことばはいつでも肉体からはみ出し、あふれていく。それを押さえ込むことは難しい。目の一瞬の動き。声のほんの少しのうわずり。手をそっと後ろへまわす……そうしたことからもことばは外部へもれていく。ことばにすらなっていないことばが、肉体からあふれて他人に見られてしまう。読まれてしまう。それが世間の現実ではないだろうか。
 私の思いとしては、詩とは、まだことばになりきれていないことば、肉体のなかにひそんでいることばを、なんとかことばにする仕事だが、そういうことは実は肉体の方がはるかに上手で、とてもかなわないと思う。それでも詩を書くとすれば、そうした肉体に何とか拮抗したいと思うからだ。ことばに「肉体」を与えたいと思うからだ。
 どうも、水無田のことばを読むと、ことばに肉体を与えるというよりも、ことばは肉体のなかに存在する、だから、それを「読みにきて」と言っているように思える。肉体のなか、脳のなかでは、ことばはこんなふうに動き、その動きにそって世界を見つめれば作者の考えはわかるはず、だから「読みにきて」と言っているように思える。もちろん、それはそれでいいと思うのだが、そんなふうに肉体を信じきっているところに私は疑問を感じる。
 たとえば、(たとえば、と言っていいのかどうかわからないが)、水無田が肉体で隠したと思っているもの、あるいは肉体の内部、脳の世界で明確にしたいと思っていることがらは、「本文」と「ルビ」という二重性として「見られてしまう」。他者の(読者の、たとえば私の)肉体によって簡単に見破られてしまう。「らうんど・わん」に「ホンキデイクワヨ」とルビをふらなければいけない。手で書くにしろ、キーボードを打つにしろ、そのとき肉体は二重に動く。その動きはだれが見ても明らかなのである。たとえ左手で「らうんど・わん」と書き、同時に右手で「ホンキデイクワヨ」と書いたにしろ、その手が左手と右手で違っているということが他人には明瞭にわかる。水無田が意識している以上に明白な事実としてわかってしまう。
 「らうんど・つぅ」のルビに「ツヅキハベツリョウキンデス」ということばがある。そのなかにあることばを借用して言えば、同じ連続としてみせかけようとしても「べつ」なものとして仕組まれたものがあるということがだれにでも一目瞭然なのである。

 世界は普通に人が信じている世界とは「べつに」、たとえば水無田にしか見えない世界がある。これは真実である。しかし、それを脳のなかまで「読みにきて」と言われても、ちょっと困る、というのが世間ではないだろうか、と私は瞬間的に考えてしまった。



 世界は、いまここにある世界とは別の世界もある、という感覚は他の詩人にも共通する感覚なのかもしれない。斉藤倫の「伏線」には次の4行がある。

この世界以外に
他の世界があるなんて
知りたいの?
バレたいの?

 斉藤は、しかし、それを「脳」のなかには閉じ込めない。明確に肉体の外へ出す。「ルビ」ではなく本文にしてしまう。詩の書き出しが、とても魅力的である。

なんかほつれてるな
と思って
ひっぱってみたら
伏線だった
ダメダメ!
なんて神の声がして
なんで見えちゃったんだろう
やだなあ

 この「ほつれてる」の主語は「世界」である。斉藤の世界ではなく、世間が信じている世界である。自己の問題ではなく、自己の外の世界である。それがほつれている。ちょっとそのほつれをひっぱったら、さらに世界の構図までが見えてしまう。その見えてしまったものを「伏線」と呼び、「やだなあ」とつづけるとき、「伏線」は斉藤の肉体になる。「ひっぱる」「見えちゃった」という肉体の動きが「伏線」を具体化し、「やだなあ」のなかに反映する。
 「伏線」にはいろいろな意味があるかもしれない。斉藤の言う「伏線」と私が感じる「伏線」、あるいは他の読者が感じる「伏線」は違っているかもしれない。しかし、そういうこといっきに吹き払って「やだなあ」が立ち上がってくる。服のほつれやなんかをひっぱって、すそがほどけて「いやだなあ」と感じたような感じがよみがえる。
 「やだなあ」という感覚は、だれもが知っている感覚だろう。「やだなあ」と感じるときの肉体の感じ、「やだなあ」としかことばにならないもの--それが直接、私の肉体に触れてくる。実際に触れているのは「やだなあ」という感覚なのに、それが肉体感覚であるために、まるで「伏線」そのものに触れた感じがする。「伏線」はこのとき斉藤の肉体になっていると感じる。そしてこのときから私が見るのは、斉藤の脳のなかの動きではなく、逆に肉体そのものである。
 たとえば「バレたいの?」の引用のつづき。

平和そうにニュースを読んでる
フレームの端に
兵士がバレてるし
書き割りのブッシュが
本物なのもバレてるよ!

 このとき「兵士」や「ブッシュ」を見るというよりも、それを見破る斉藤の視線、視力を私は肉体として感じる。だからこそ、その肉体の動きを静かに隠す仕草もおもしろく感じる。

舞台下手に
いやな生き物が
見えてるのに
やっぱり知らん顔して
ことばだけにしがみついて
ちょっとハサミもってない?
なんて とりあえずは
伏線を隠して
現実が
ほつれないようにして

 「ことばだけにしがみついて」とは「伏線」ということばだけにしがみついてという意味である。それは斉藤の肉体なのに、肉体なんかじゃありませんよ、ことばなんですよ、ことばをよく見てね、伏線には「線」がある、線はハサミで切れますよ、だから切ってしまうんです……。
 しかし、どんなにことばにしがみつこうと、そこにはやはり斉藤の肉体が立ち上がってくる。ハサミをつかう手の動きがある。ほつれを隠す肉体の動きがある。それを肉体で感じる。ほつれを隠したときの安心と不安(それは単に隠しただけで、ハサミで切るだけではほんとうの修繕ではないから)を、ことばとしてではなく、肉体として感じる。

 肉体となったとこばは、それについてどこまで書いてみても、何かしら言い足りないことが残る。もっと何か言わなければ斉藤のことばに追いつけない。斉藤が言いたいことに触れたことにはならない。そういう思いがつのる。もっと書きたいという気持ちが残る。しかし、考えてみれば「詩」とはそういうものだ。肉体とはそういうものだ。ほんとうのところはわからない。「ルビ」のように簡単にこれが正しい「読み方」とは提示できない。間違ったら間違ったままでいい。でも、間違ったままでもいいから、それに触りたい。舌でころがしたい。そうやって、いやらしく自分の肉体を接触させたい、と思うのが「詩」であり、魅力的な「肉体」というものだろう。
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