詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

キキダダマママキキ『死期盲』

2006-06-24 22:04:28 | 詩集
 キキダダマママキキ『死期盲』(思潮社)。冒頭の「( 、( 、」が非常におもしろい。

午後五ー、午後五ー、
川 彼方
滲滲(散々)、色々 に(笑口)、
崩れる橋 ハ
連レ回(マワー)
、遠方ノ森林を(ウォー)
目、め、メ(垣間見、)
眼鏡、目ガネ笑っているように思えました。

 ことばが意味を拒絶し、音と肉体の出会いのような場へ私を連れて行く。
 「午後五ー、午後五ー、」は視覚的には「午後五時」という意味へ私を誘う。しかし、いったんことばを音にすると(実際に声に出すというのではないけれど、耳の中で声帯を震わせると)、「午後五時」へは絶対にたどりつかない。私は鼻濁音派の人間なので、「午後五時」の場合は、二番目の「ご」だけは鼻濁音になる。たぶん、キキダダマママキキは二番目の「ご」を鼻濁音では発音しないだろう。「ごごごー」と同じ音が続くだろう。その場合、「意味」は「午後」ということばがあるにもかかわらず、時間ではなく、風の音になる。私は古い人間なので「ゴゴゴー」とくれば「風が泣いている」とスパイダースの歌などを思い出してしまう。
 「風」の風景、「かぜ」という音は、「川」「彼方」の風景、音とも通い合う。
 キキダダマママキキがどのような思いでことばを書いたかは、こういう詩では、あまり重要ではない、と私は思っている。読者が、キキダダマママキキのことばを利用して、自由に想像を、肉体の記憶を引きずり出すかが重要だと思っている。(我田引水的な感想だと思うけれど。)
 風の吹きわたる川、その彼方、という広がり。「滲滲」と「散々」は「意味」的にはまったく違っていると私には感じられる。「滲む」は何かが固まったまま拡張していくことであるのに対し「散る」は塊がほどけて拡張していくことである。しかし、「散る」が、やはりここには書かれていない「風」と通い合って、不思議な思いを掻き立てられる。
 意識は「午後五」(時)を思い出し、夕暮れを思い出し、夕暮れの色を思い出す。空に「滲む」夕暮れの色。空の端から滲み出てくる色は空の端から千切れて散らばる色か。念押しをするかのように「色々」ということば。
 「に」は助詞の「に」か。しかし、それは「にっ」と笑う顔の描写のようにも思える。誘われるように「笑口」。その「笑」という文字。
 私の意識のなかで生じた「空の端」の「端」と通い合う「橋」が続いてあらわれる。音とことば、意味が、まるですべてのつながりをあざ笑うことで(互いに拒絶することで)、その奥にある「無意識」の肉体を引きずり出してくるように感じられる。
 「に」「ハ」「を」という助詞が、独立して、別のものにかわる不思議さは、「を(ウォー)」に強烈にあらわれる。「を」を私は「ウォ」とは発音しない。「お」と「を」の発音を区別しない。しかし、濁音の「ご」と鼻濁音の「ご」を区別する私のような人間がいる一方、「お」と「を」を区別して発音する人もいるだろう。
 こんなことを書けば、それこそ「目ガネ笑っているように見えました」としか言いようのないユーモアかもしれない。

 その他の詩については、私はキキダダマママキキの「音」がそんなに美しいとは感じなかったが、それは私の耳がキキダダマママキキの耳と違っているだけのことかもしれない。冒頭の作品を読むかぎりは、キキダダマママキキは独特の耳と、その耳という肉体が抱え込む独特の風景を持っているのかもしれない、と思った。

 
コメント
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