詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

映画「インサイドマン」

2006-06-13 23:18:19 | 映画
監督 スパイク・リー 出演 デンゼル・ワシントン、クライブ・オーウェン、ジョディ・フォスター

 映画、というよりは珠玉の短編小説というべきか、あるいは読む脚本(?)というべきか……。映像で勝負するのではなく、ひたすら、ことばでしかたどりつけない部分へと誘い込む作品。したがって演技派をそろえながらも、もっぱら「真実」を隠して語らない、ひたすら「真実」からいかに遠くに、しかし「真実」と強く結びついているかを、目で演技するというスタイルを全員がつらぬく。まあ、緊迫感があると言えば言えるかもしれないけれど、それはことば、あるいは精神の問題であって、醒めた見方をすれば、「なんだこれは」ということになる。映画は、そのあたりには存在しないスターの顔と肉体を見るもの。美男・美女がこの世のものとは思われない苦難に向き合い苦悩し、歓喜する表情と肉体の動きをみるもの。ことばのやりとりを聞くものではない。(途中に出てくる「アルメニア語」のエピソードなど、肉体とは何の関係もない。I ポッドの録音というのがその典型である。)目の演技も必要だけれど、それは本当に一瞬のもの、顔のアップの一瞬だけでいい。
 「頭脳犯」「交渉人」「弁護士」と、3人が3人とも冷静・沈着を売り物にしている「職業」という設定が、ドラマを小さくさせてしまっている。肉体が入り込む余地を小さくしてしまっている。これじぁねえ……。
 結末も、犯罪ものにしては不完全燃焼という感じがして困る。「すっごく頭がいい」というのはよくわかる。しかし、人が頭がいいかどうかなんて、どうでもいいことだろう。明るみに出た「本当の悪」は本当に明るみに出たのか。それを追求し、裁かないかぎり、明るみに出たとはいえない。「頭脳犯」は頭がよくてあたりまえ。普通の人間は、だれが頭がいいかではなく、そこで問題になったことがどうなったかを知りたい。たとえば、ライブドアの堀江容疑者がどんなに頭がいいかとか、村上ファンドがどんなふうに頭がよくてどんなことを企んだかではなく、単純に、そんなことは悪いことなんだ、逮捕されて当然なんだという肉体にかかわることがらを知りたい。(逮捕というのは肉体的自由を拘束する「事実」である。)この映画の残したものは「余韻」ではなく、なんというか、私はここまで頭がいいんだ、こんなにクールなんだという「自慢話」にすぎない。いやだなあ、これは。
 映画で見たいのは「頭」のなかの「明晰さ(クールさ、天才さ)」ではなく、あくまで肉体はこんなふうに動くという生な感じだ。
 
 単純に読む脚本としてなら 100点、ただし映画にしてしまっては 0点という奇妙な作品だった。

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新藤涼子、高橋順子「連詩 地球一周航海ものがたり1」

2006-06-13 22:35:09 | 詩集
 新藤涼子(「りょう」は正確には「にすい」、文字が表記できないので「さんずい」で代用)、高橋順子「連詩 地球一周航海ものがたり1」(「現代詩手帖」6月号)。
 どうやら二人は「トパーズ号」という船で世界一周の旅をしたらしい。その体験を詩にしている。高橋順子の「1」。

大船とはいえど 鋼鉄の物質が水に浮いているわけである
横浜から乗ったおばあさんが 扇子をつかいながら
「あそこなら しんでもいい」
と言っている
あそこって あの珊瑚礁の島かしら
椰子の木陰にきれいな目をした黒い人たちがいた
「あそこなら しんでみてもいい」
うーん しとすが逆になる東北生まれの人が 「すんでみ
 てもいい」と
この世の住処の話をしていたんだ
       (谷内注 原文の「しとすが逆になる」の「し」「す」には傍点あり)

 旅とは新しいものに出会って、自分の誤解を少しずつほどいてゆくことだろう。高橋のこの書き出しは実際の「異国」に触れる前から、そうしたことが始まっている。これからどうなるんだろうと期待を誘う。
 そして、旅で何か新しいものを知ったと思っても、実はそれは自分が知っているものであったということも発見する。それが旅だ。人は知っていること以外は知ることができない。
 同じ高橋の「5」。

或る土地には或る土地固有の速さがあって
旅人は自分の中の速度を知らされる
ベトナムのひなびた土地を歩いたとき
この速さは身に覚えがあると思った
たとえば自転車で走るタクシー、シクロに乗ったときに
とどいた風の速さは
わたしの子どものころのそれだった
いやそれよりももっとむかしの風だったかな
ベトナムの畦道はまがりくねって そこから
忘れていたそよ風が吹いてきて
吹きだまりをつくって
また吹いて

 究極の旅は「自分の中」への旅である。高橋はそれを実践していることになる。

 これに比べると新藤はちょっと違う。いや、かなり違う。自分自身への旅もあるにはあるが(たとえば「4」)、高橋よりは「内面性」が少ない印象がある。関心は、自分の外にある、といっていい。
 「6」が生き生きとしている。

「ヨン様 そっくり! 」
その声に船上の人びとはどよめいた
「望遠鏡で見てごらん」
ほんとうにはにかみながら
上を見上げて笑っている顔は
「ああ!  南のソナタ! 」
ベトナムが
一人の青年の立ちつくしている姿で
急にいとしくなる
船が動き出すと
波止場の突端まで追いすがって来た青年!
けわしい顔で物を売りつけていた人びとの印象がうすれて
涙が出そうになつかしくなったダナンの土地よ

 私は新藤の年齢も高橋の年齢も知らないが、たぶん新藤の方が年上のはずである。しかし、この連詩を読むと、新藤の方が好奇心が強く、視線が内から外へ外へと向かうのに対し、高橋の視線は外から内へ帰ってくる。そんな印象がある。
 高橋の内面への旅、新藤の外への旅、それが交互におりなされ、動きだす。つづきが楽しみな連載である。

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