清岡卓行さんが亡くなった。『一瞬』(思潮社)を読み返した。「ある眩暈(くるめき)」。
書き出しの3行が、そのまま清岡の思想である。特に「意識するまえ」に清岡の思想が凝縮している。さらにいえば「まえ」に濃密に蠢いている。
「美」という認識、意識。その「まえ」にあるのは何か。「まえ」としか名付けられぬものである。
「美」という意識の対極にあるのは「美ではない」という意識である。その隔たりは大きいときもあれば小さいときもある。「美」と「非・美」のあいだに「普通」という概念を入れるとわかる。
では、「美/であると意識するまえ」は「普通」なのか。あるいは「普通」と「美」のあいだなのか、それよりももっと「非・美」に近いのか。これは、実は区別がない。「美」「非・美」のあいだの隔たりは大きかろうが小さかろうが、おなじ「まえ」なのである。
だが、それがおなじ「前」だからといって、「まえ」と「美」のあいだに必要なことばは一種類ではない。無数にある。そのときどきによってまったく違う。その無数、そのときどきの違いへ、清岡は静かに、丁寧に分け入っていく。
そのとき「まえ」は「美」よりもさらに輝き始める。「まえ」が充実することによって「美」がはじめて生まれてくるかのようだ。「まえ」は「美」を生み出す生成の瞬間である。「まえ」によって「美」が決定づけられる、と言い換えてもいい。
「美」の「まえ」、「美」の生成の瞬間、とは、実は清岡自身の生成の時間でもある。清岡は「美」より「まえ」に存在しているけれど、「美」の「まえ」でもう一度自己自信を生成しなおす。生まれ変わる。生まれ変わることによって「美」が「美」として誕生する。そして、そのとき「美」と清岡自身はひとつのものになる。一体になる。
自分自身が生まれ変わる。それまでの自分が自分ではなくなってしまう。だからこそ「戦く」。自分自身が生まれ変わる。それは、それまでの自分がもっていた関係がなくなる、孤立するということでもある。「孤独」とは、たったひとりで存在することである。
しかし、清岡は知っている。その「孤独」こそが「美」と一体になる瞬間のことだと。それは恍惚の瞬間でもある。自己という枠が消え去り、自己を超えたエクスタシーの瞬間、「神秘」の瞬間。だからこそ「戦く」。「戦き」が「美」である、ということもできる。
「美/であると意識するまえ」の瞬間。それはいつも清岡の作品で繰り返される主題である。「春の夜の暗い坂を」は郊外の終着駅を描いている。電車が入ってきて、客を降ろす。無人の電車。そしてその電車の先頭と後尾が入れ代わる。始発駅になる。いままであったものが、おなじ姿のまま、違ったものとして見えてくる。その瞬間、その一瞬、
「なにかの夢」としかいいようのないもの。名付け得ぬもの。
名付け得ぬもの、とは、「美/であると意識するまえ」のことでもあった。
清岡は、いつもその「名付け得ぬもの」の「一瞬」を描く。短い詩のときもあれば、『マロニエの花が言った』という長編の小説の場合もある。いずれにしろ、清岡は、まだ人が名付けていないもの、清岡自身も名付けていないもののなかへ、深く、静かに入って行って、その時間を豊かに耕す。耕しながら、清岡自身も静かに強く生まれ変わる。
清岡の死は、清岡の新しい姿だと祈りたい。清岡は、私たちが知らないことばで、知らない世界へと生まれ変わって行ったのだ思いたい。そして、そこで新しい詩を書き続けていると祈りたい。合掌。
それが美
であると意識するまえの
かすかな驚きが好きだ。
書き出しの3行が、そのまま清岡の思想である。特に「意識するまえ」に清岡の思想が凝縮している。さらにいえば「まえ」に濃密に蠢いている。
「美」という認識、意識。その「まえ」にあるのは何か。「まえ」としか名付けられぬものである。
「美」という意識の対極にあるのは「美ではない」という意識である。その隔たりは大きいときもあれば小さいときもある。「美」と「非・美」のあいだに「普通」という概念を入れるとわかる。
では、「美/であると意識するまえ」は「普通」なのか。あるいは「普通」と「美」のあいだなのか、それよりももっと「非・美」に近いのか。これは、実は区別がない。「美」「非・美」のあいだの隔たりは大きかろうが小さかろうが、おなじ「まえ」なのである。
だが、それがおなじ「前」だからといって、「まえ」と「美」のあいだに必要なことばは一種類ではない。無数にある。そのときどきによってまったく違う。その無数、そのときどきの違いへ、清岡は静かに、丁寧に分け入っていく。
そのとき「まえ」は「美」よりもさらに輝き始める。「まえ」が充実することによって「美」がはじめて生まれてくるかのようだ。「まえ」は「美」を生み出す生成の瞬間である。「まえ」によって「美」が決定づけられる、と言い換えてもいい。
それが美
であると意識するまえの
かすかな驚きが好きだ。
風景だろうと
音楽だろうと
はたまた人間の素顔だろうと
初めて接した敵が美
であると意識するまえの
ひそかな戦(おのの)きが好きだ。
やがては自分が無残に
敗れる兆しか。
それともそこから必死に
逃れる兆しか。
それほど神秘でほのかな
眩暈(くるめき)が好きだ。
「美」の「まえ」、「美」の生成の瞬間、とは、実は清岡自身の生成の時間でもある。清岡は「美」より「まえ」に存在しているけれど、「美」の「まえ」でもう一度自己自信を生成しなおす。生まれ変わる。生まれ変わることによって「美」が「美」として誕生する。そして、そのとき「美」と清岡自身はひとつのものになる。一体になる。
自分自身が生まれ変わる。それまでの自分が自分ではなくなってしまう。だからこそ「戦く」。自分自身が生まれ変わる。それは、それまでの自分がもっていた関係がなくなる、孤立するということでもある。「孤独」とは、たったひとりで存在することである。
しかし、清岡は知っている。その「孤独」こそが「美」と一体になる瞬間のことだと。それは恍惚の瞬間でもある。自己という枠が消え去り、自己を超えたエクスタシーの瞬間、「神秘」の瞬間。だからこそ「戦く」。「戦き」が「美」である、ということもできる。
「美/であると意識するまえ」の瞬間。それはいつも清岡の作品で繰り返される主題である。「春の夜の暗い坂を」は郊外の終着駅を描いている。電車が入ってきて、客を降ろす。無人の電車。そしてその電車の先頭と後尾が入れ代わる。始発駅になる。いままであったものが、おなじ姿のまま、違ったものとして見えてくる。その瞬間、その一瞬、
そうだ
なにかの夢に誘われている。
「なにかの夢」としかいいようのないもの。名付け得ぬもの。
名付け得ぬもの、とは、「美/であると意識するまえ」のことでもあった。
清岡は、いつもその「名付け得ぬもの」の「一瞬」を描く。短い詩のときもあれば、『マロニエの花が言った』という長編の小説の場合もある。いずれにしろ、清岡は、まだ人が名付けていないもの、清岡自身も名付けていないもののなかへ、深く、静かに入って行って、その時間を豊かに耕す。耕しながら、清岡自身も静かに強く生まれ変わる。
清岡の死は、清岡の新しい姿だと祈りたい。清岡は、私たちが知らないことばで、知らない世界へと生まれ変わって行ったのだ思いたい。そして、そこで新しい詩を書き続けていると祈りたい。合掌。