大谷良太「午後」(「現代詩手帖」6月号)がとてもおもしろい。
社員が出て行くと
食堂は静かになった
私も食事を食べ終えて
席を立った
食器返却口でおばさんが
ちゃわんを洗っている
ごちそうさま、と挨拶をして
階段を屋上に昇った
はためく黄色いエプロン
私は鉄柵にもたれかかり
陽を浴びる
西に丹沢、富士山が見えて
(富士は薄く雪を被っている)
こうして若いとしつきを
浪費してゆくことがきれいだ、ゆっくりと
背伸びをし、
やがて確実にくるもののために
心を武装するように
私もケースから白い一本を抜く
ライターの炎が
風に揺れて
それは私のくちびるににがい、
にがくない
昼食後の時間が淡々と語られる。散文の静かな積み重ねがあって、すこしリズムが乱れる。そこに「詩」が突然立ち現れる。
こうして若いとしつきを
浪費してゆくことがきれいだ、ゆっくりと
背伸びをし、
「きれいだ」の使い方が微妙である。屋上から見える丹沢、富士山が「きれいだ」なら普通の使い方である。しかし、「若いとしつきを/浪費してゆくこと」を普通は「きれいだ」とは言わないだろう。それなのに、なにか、こころに迫ってくるものがある。だからこそ、こころに迫ってくるものがある、といえばいいのだろうか。この「きれいだ」を無性に理解したい、抱き締めたい、自分のものにしたいという気持ちになる。ここには普通のことば(それまでの行で大谷が書いてきた散文のことば)とは違ったものがある。「意味」ではなく、感触としかいいようのないものがある。
「きれいだ」は私の感じでは「としつきを/浪費してゆくこと」ではなく、それを跳び越えて、その前の「西に丹沢、富士山が見え」という屋上の広がりにつながる。その風景のように、広く、ゆったたりしているものが、この瞬間にある。昼食を終えて、屋上で風景を見ている。無為の時間。それが遠くの風景と重なるようにして「きれいだ」と感じる。そうした無為の時間が「若いとしつき」にも大切なものである、と大谷は、鉄柵にもたれかかり、ぼんやりと感じている。
浪費してゆくことがきれいだ、ゆっくりと
背伸びをし、
このリズムが、またたいへんすばらしい。散文的な意味を中心に考えれば「浪費してゆくことがきれいだ、/ゆっくりと背伸びをし、」となるだろう。しかし、そういうふうに大谷は書いていない。「浪費してゆくことがきれいだ、ゆっくりと」と読点を挟んでひとつながりにことばは動き、そのあと、それこそ「ゆっくりと」した呼吸があって「背伸びをし」とつづく。
このことばのリズム、呼吸が、「きれいだ」をもう一度立ち上がらせる。独立させる。ある勢い、ことばの運動というか、感情の動きに突き動かされて、意識しないままに「きれいだ」ということばを発し、その勢いで「ゆっくりと」まで進んでしまう。そこで一呼吸置き、「きれいだ」ってどういうことだろうと、振り返る感じがする。そのとき「きれいだ」が丹沢や富士山のように、なにか独立した巨大なものになる。「きれいだ」は大谷の体をはみ出し、風景と一体になり、そこに存在する。
だが、こうした不思議な感覚にそのまま居つづけることはできない。働かなければならない。そういう思いが「ゆっくりと/背伸びをし、」にあらわれている。「詩」をふりきって現実にもどる時間である。
大谷の文体は、このあと再び散文に戻る。
しかし、いったん「詩」を体験した者は完全には散文には戻れない。「詩」の痕跡が残る。
それは私のくちびるににがい、
にがくない
「にがい、/にがくない」。矛盾でしか書き表せないものが立ち上がってくる。散文の構造を突き破って、ことばが独立して存在する。散文の意味を拒絶して存在する。そこに「詩」がある。
大谷のことばはとても動きが素直である。そして素直さを武器にして、散文的構造を少しだけ揺るがせる。その「少しだけ」はほんとうはとても大きいかもしれない。あるいはとても深い深い揺さぶりなのかもしれない。あ、「詩」が、ことばにならないことばが、今ここに誕生しているという、不思議な鮮烈さがある。どこまでもどこまでも届いてしまうような光の純粋さがある。
*
郡司音「手」は、郡司が見たさまざまな手について書いている。
雨上がりの
緩やかな坂を下れば、夜の繁華街で
アジア系の売春婦なんかが
声をかけてくるのだ。
なかに手話の売春婦がいて
きっと売春婦だったんだろうが
何を言っているのか皆目分からなかった。
「分からなかった」に「詩」がある。わからないけれど存在するもの、その存在が自分に迫ってくるものが「詩」である。わからなさを抱え込んだ肉体が「詩」である。
汚れた手は
くねるように動き、隠された。
いや俺が通り過ぎてしまったのだ。
「通り過ぎてしまっ」ても、肉体のなかに残る。たとえば「くねるように動き」という運動として。その動きが、そのまま郡司の肉体になる。実際に郡司がその動きを反芻するかどうかではない。反芻しなくても、肉体のなかに残る。残っているから、それがことばを求めて蠢く。ことばとなって立ち上がってくる。「詩」となる。
大谷が「静的」だとすれば、郡司は「動的」である。だがふたりには、ことばを肉体でつかみとるという共通の性質があるように感じた。