詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

有田忠郎「峠を行けば」

2006-06-11 14:22:27 | 詩集
 有田忠郎「峠を行けば」(「ALMEE」380 )は不思議な詩である。《たましいの暗がり峠雪ならん》(橋間石--谷内注、「かん」は正確には門構えに「月」、文字が表記できないので「間」を代用する)という句の引用からはじまり、いくつかの句の引用、短歌の引用と動いていく。それにともなって「暗がり峠」が「黒峠」にかわる。《黒峠とふ峠ありにし あるひは日本の地図にはあらぬ》(葛原妙子)この破調の短歌に触れて、有田は中井英夫の「欠落以外では語れない内容」という鑑賞を引用した上で、書く。

 この歌は、何もかも真っ暗に見える閉ざされた魂から出たものではあるまい。ただ葛原妙子の歌を詠んでいると、日常生活の至る所に、「黒峠」のような裂け目が見えてくる。

 この部分で私は二度どきりとする。「読んで」ではなく「詠んで」。このことばに、まず驚く。それまでは、たとえば「短歌を五・七・五/七・七の音数律に切って読む習慣が、わたしには刷り込まれている」と「読む」ということばをつかっている。
 「読んで」というとき、私は他人のことばを「読む」。「詠む」はそうではなく、自分の思いを託す。有田にもどこかでそういう意識があると思う。葛原の歌を読みながら、しらずしらずに、それを自分自身の声として感じる。有田の肉体のなかから出てきた声として有田は感じる。
 そのうえで「裂け目が見えてくる」。
 このとき、有田は葛原が見たであろう「裂け目」を想像力で見ているのではない。肉眼で、有田自身の目で見ている。
 これは強烈である。
 こんなふうに、批評を、自分の肉体をかけて書かれたのでは、それを丸飲みにして信じるしかない。(だからこそ、有田の文章は「批評」を通り越えて「詩」になっている。丸飲みにして、しだいに体のなかでなじんでくるのをただ待つしかないものになっている。)
 有田は自分の肉体で葛原の世界を引き受けながら、さらに先へ進む。《ふみいづるつめたき足のあらはれて足うごくところ木の葉寄りたり》という歌について書く。

これは積み重なった落葉の上を歩く人が、真上から自分の両足の動きと落葉の動きを見て詠んだのではないかと考えた。

 この感想は、私には目新しくもなんともない。それ以外に読みようがないことを有田は書いていると思う。なぜ、こんな平凡なことを有田はわざわざ書いたのだろうか。たぶん、有田はこの歌を通して初めて、そして突然、葛原の肉体に出会ってしまったのだ。この歌に出会うまで、たぶん有田は葛原の肉体と出会っていない。葛原の肉眼がそのまま有田の肉眼だった。親和力のなかで、有田は葛原の肉体そのものとなって、肉眼で有田の世界を見ていた。有田のことばを声に出して詠んでいた。肉体の内からあふれてくるものを声に出していた。
 それが突然、有田の肉体を超えたものに出会った。そして、そこに葛原の肉体を感じたのだ。
 有田の感想はつづく。

実にリアルな描写なのだが、かつてこんな角度から歌った人がいただろうか。

 葛原の肉体の発見は、有田にとって完全なる「個人」の発見でもあった。



 有田のさの作品には、不思議な部分がほかにもたくさんある。たとえば、《たましいの暗がり峠雪ならん》を有田がどう「詠んだ」かが書かれていない。「たましいの/暗がり峠/雪ならん」と「5・7・5」のリズムで詠んだのか「たましいの暗がり/峠/雪ならん」と「9・3・5」と破調で詠んだのかも書かれていない。飯田蛇笏、永田耕衣の句や仁平勝の批評を通り抜けて、「峠」ということばを中心にして葛原の歌へ動いて行ってしまう。
 だが、それは橋の句に「峠」が出てくるからなのか、「暗がり」が出てくるからなのか、ほんとうのところはわからない。葛原の歌には「暗がり」のかわりに「黒」という文字が出てくる。そして、その「黒峠」は実在のものなのか、魂が感じた色が呼び寄せたことばなのかわからない。「破調」について有田は書いてもいる。「破調」を問題にするなら、どこかで「たましいの暗がり/峠/雪ならん」と破調の響きが残っているかもしれない。
 有田は、葛原の「破調」から「欠落」のリアルさを肉体で感じている。その上で、「欠落」を「裂け目」と呼び変えている、と私は思うが、このとき、私はまたとても奇妙な気持ちになる。

ただ葛原妙子の歌を詠んでいると、日常生活の至る所に、「黒峠」のような裂け目が見えてくる。

 「峠」とは山になった部分である。「裂け目」は逆に谷になった部分ではないのか。ところが有田は「黒峠」に「裂け目」を見ている。
 実際の風景ではなく、精神の風景を見ている。
 有田にとって、風景、実在の世界は、精神によって純化された世界なのかもしれない。精神と書いたものを「たましい」と書き換えれば、橋の句そのものの世界へつながるかもしれない。
 現実世界を精神や魂で純化したもの、それが「文学」であると仮定すれば、たしかに「ふみいづる……」の歌は一風変わったものとして見えるかもしれない。有田にとって、その歌がまったく新しいものに見えるかもしれない。
 しかし、「ふみいづる」の歌は、むしろ非常にオーソドックスなものとして私には感じられる。そこには精神が精神として、魂が魂として純化されるまえのものが肉体として描かれている。風景も純化される前のものが描かれている。あるいは精神も魂も肉体の外へ出ていくのではなく、肉体にとどまり、肉体とひとつになっている。肉体と精神、肉体と魂という二元論ではなく、肉体であることが精神であり、肉体であることが魂であるという一元論の世界がそこにある。そしてそれは古くからの日本の「ことば」のありようではないだろうかと私は思う。

 有田の詩は、精神、魂によって純化された世界である。世界によって純化された精神、魂といってもいいかもしれない。西洋風の二元論的世界といってもいいかもしれない。
 ふいに、葛原の一元論的世界にであって、有田は、どう変わるだろうか。そのことに急に関心がわいてきた。

これは詩の題材としては小さすぎる。俳句では写生できない。短歌にのみ可能な表現とわたしは見る。

 最後に有田は「ふみいづる」の歌に対して、そう書いているが、簡単に結論を出さず、それを「詩」のなかにどうやって取り込むか、を考えるとおもしろくなると思う。「声」を頭脳で明晰にするのではなく、逆に、声を肉体で濁らせる。五感で濁らせる。そこにも有田の「詩」は新しく開けるのではないだろうか。
 これは、私の夢想である。


コメント
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