詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫「ある「地獄巡り」の思ひ出」

2006-06-29 08:55:35 | 詩集
 入沢康夫「ある「地獄巡り」の思ひ出」(「現代詩手帖」7月号)。最後の3行が生々しい。

西にひらけた空に 大きな鯖の形の雲がよこたわつてゐて 
背は黒く そして腹側(はらがわ)はうすら紅く どうやら太陽は その
魚の鰓あたりに 隠されてゐるらしかつた

 「鰓」の一語が強烈である。生々しさは、ここからやってくる。このことばに先立ち、「背は黒く そして腹側はうすら紅く」と書かれているが、その「黒」も「うすら紅」い色も、鰓の紅黒い色から派生したものである。ことばの順序は逆だから、派生したものとはいいながらも、実は「背は黒く そして腹側はうすら紅く」と書くことで、鰓の紅黒い色、見えない内部の色が引き出されたともいえる。
 鰓、その紅黒い色は、普通は見えない。
 鯖を見るとき、背中は見える。腹も見える。それは外部だからである。鰓は、外部からも見ることはできるが、内部の紅黒い色は、鰓を引き剥がすようにしないと見えない。「背」「腹」と具体的にことばが動いたために、「鰓」にことばは行き着いてしまった。そして、「鰓」に行き着いてしまったことによって、その紅黒い色が突然、内側に隠されているにもかかわらず、外へ出てきてしまった。
 さうしたことばの動きの中に「詩」がある。
 「詩」のことばには、どちらが先で、どちらが後という関係はない。ことばは便宜上どちらかが先になるだけで、本当はそこにあることばは「一瞬」の内に噴出したものである。一瞬が「詩」である。
 「一瞬」の内に、内部と外部が融合し、見ているものが内部か外部かがわからなくなる。それをたとえば「地獄」と呼べば呼べるだろう。
 冒頭に書かれている温泉の「地獄」。それは地中(内部)が湯気と泥が融合して噴出してきたものである。途中で登場する娘が、伝承の物語りを語りながら涙を流す。それは、やはり娘の内部の激情が外部へ噴出してきたものである。そして、たぶんその激情は娘自身の感情ではない。(十六、七歳だつたらうか)と入沢は書いているが、そうした娘の体験が生み出した激情というよりは、伝承の物語りを語ること、そのことばを生きることで生まれたものだろう。
 自分のものではないものが、自分のものとなってあらわれる。--これは、そのまま

娘は私を いきなり抱え上げると きつくきつく抱き締め
頬を擦り付けて来た 私の頬も娘の涙で濡れた

ということと重なる。わけのわからないもの(娘の涙)が突然外部からやってくる。それは娘にとっての伝承の物語りと同じである。入沢のものではない涙が入沢の頬をぬらす。そのことが入沢の内部に働きかける。そうして、その働きかけが、夕焼けの「鯖雲」を変形させるのである。そのとき「鯖雲」が、空の「地獄」となる。

 地中と地表。現実の時間と伝承の時間。娘と5歳の少年。地上と空。(さらには、空と海=鯖)いわば対極にあるものが境目をなくして融合する。外部と内部が融合する。そこに「地獄」が立ち上がる。
 鰓は魚が呼吸するものである。鰓ということばを通して、入沢は(読者も)、「地獄」を呼吸する。つまり、自己の外にあるものを自己の内部に取り入れる。

 この詩はとても怖い詩である。怖いのに引きつけられてしまうところが、いっそう怖いのである。
 最後の「どうやら太陽は その/魚の鰓あたりに 隠されてゐるらしかつた」の「隠されて」が、怖さの原因かもしれない。私たちは何かを見ているつもりになる。見えたつもりになる。私が、ここでこうして書いていることも、私が「見えた」と感じたものにすぎない。本当は、何かが「隠されて」いるかもしれない。実際に、隠されているのだと思う。
 何かが隠されていると「感じる」。その「感じ」が本当は怖いのである。5歳の入沢は娘の涙に触れる。娘の涙で頬をぬらす。そのとき、5歳の入沢には、娘が何をこころに隠しているか(こころのなかで何が起きているか)を知らない。知らないけれど、感じる。そして、その「感じ」が、夕暮れの空を変形させる。雲を「鯖」に変形させる。そして、そこに紅黒い血(血であると同時に太陽でもある)を含んだ「鰓」を出現させる。
 生々しい恐怖だけが残る。
 鯖雲は鰓で呼吸しながら、死につつあるのだろうか。死に抵抗しつつ、生きているのだろうか。激しいあえぎが聞こえてくる、怖い怖い詩である。

コメント
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