監督 トミー・リー・ジョーンズ 出演 トミー・リー・ジョーンズ
後半がすばらしい。映画が、がぜんおもしろくなる。目がスクリーンから離れなくなる。アメリカとメキシコの間に横たわる砂漠。そこには「国境」があるのだが、「国境」っていったい何だ、と言いたいくらいに広い。人為的な「線」など意味がない。どこへでも行けるようだが、どこへも行けない。そのとき、肉体が見えてくる。人間が肉体であるということが見えてくる。どこかへ行くということは、結局、人間の(自分の)肉体をどこかへ運ぶということである。これが実にむずかしいことだと知らされる。道は決定されていないから、どこを通っても自由なのに、けっして自由ではないのだ。肉体が行ける場所は決まっているのだ。
おもしろいエピソードがある。
盲目の老人がひとりで住んでいる。彼をしばるものは何もない。それなのにどこへも行かない。どこへも行きたくはない。肉体を運んでいく場所がない。残された場所があるなら「天国」だけである。ただ死にたい。しかし自殺もできない。神を信じるこころが、そうしたことを拒む。
どこかへ行くということは、結局、精神をどこかへ運ぶことなのだ。肉体を運ぶふりをして精神(こころ)をどこかへ運ぶことなのだ。
ここに、この映画のテーマが隠されている。
トミー・リー・ジョーンズは「メルキアデス・デストラーダ」という友人の死体をふるさとへ運んでいる。埋葬するためである。死んでしまった肉体を運びながら、実は、精神をふるさとへ運んでいるのである。肉体を運ばないことには、精神を運べない。肉体と精神は、西洋の思想では二元論的に言われるけれど、けっして分離できないものである。
これに、もうひとつの肉体が絡んでくる。精神が絡んでくる。トミー・リー・ジョーンズから逃げる男がいる。「メルキアデス・デストラーダ」を誤って殺してしまった男。彼は、トミー・リー・ジョーンズから逃げることで、誤って殺人を犯してしまたという事実からも逃げようとする。しかし、どこまで逃げても砂漠なので、結局逃げきれない。
その男が、最後の最後で解放される。「メルキアデス・デストラーダ」をふるさとに埋葬する。そして、彼に謝罪する。「悪かった。殺すつもりはなかった。許してくれ」。こころは「国境」を越えるように、罪からのがれることはできない。こころを包んでいる肉体は彼がさまよった砂漠のように広大であり、どこまで行ってものがれるということはできない。自分が何をしたか、それを明確に自覚し、謝罪することでしか、こころは自由に離れない。(こんなことは、もちろん、映画の人物は自覚はしないのであるが……。)
涙ながらに謝罪する男に対して、トミー・リー・ジョーンズは「馬をやる、若造」(I give you a house, son 」と言う。この「若造」(son )が実に美しい。自分が何をしているか知らない人間が「若造」なのであり、それに気がついた人間が「若造」である。そこには否定と評価が一緒に存在している。それが「寛容」と言うものだ。
「若造」(son )ということばとともに、この「寛容」が、アメリカとメキシコの「国境」と重なって見えてくる。政策上の「国境」ではなく、トミー・リー・ジョーンズが生きてきた国境、トミー・リー・ジョーンズが映画のなかで具体化しようとした国境が見えてくる。何を受け入れ、何を受け入れないか、そのための「試練」とはどういうものか、というものが見えてくる。
その視点から、前半を振り返ると、前半もまた不思議な輝きにあふれてくる。男がいて女がいる。愛に疲れ、セックスに疲れ、同時にセックスに飢えている。浮気がある。憎しみがあり、侮蔑がある。つまり、生きている悲しみがある。そうした荒れた生活は、それはそのまま「国境」なのである。アメリカとメキシコの間に横たわる広大な砂漠のようなものなのである。人間はそれを横切らなければならない。横切って、ふるさとへ帰らなければならない。自分自身で「ふるさと」を決めて、そこへ帰らなければならない。「行け、若造よ」と、この映画は、言うのである。
私は映画ではせりふに感動するということはめったにない。しかし、この映画では、トミー・リー・ジョーンズが最後に言う「若造」(son )に感動した。若い国境警備官は「メルキアデス・デストラーダ」を埋葬することで、未熟な「若造」を埋葬するのである。寛容を知った若者に生まれ変わるのである。
後半がすばらしい。映画が、がぜんおもしろくなる。目がスクリーンから離れなくなる。アメリカとメキシコの間に横たわる砂漠。そこには「国境」があるのだが、「国境」っていったい何だ、と言いたいくらいに広い。人為的な「線」など意味がない。どこへでも行けるようだが、どこへも行けない。そのとき、肉体が見えてくる。人間が肉体であるということが見えてくる。どこかへ行くということは、結局、人間の(自分の)肉体をどこかへ運ぶということである。これが実にむずかしいことだと知らされる。道は決定されていないから、どこを通っても自由なのに、けっして自由ではないのだ。肉体が行ける場所は決まっているのだ。
おもしろいエピソードがある。
盲目の老人がひとりで住んでいる。彼をしばるものは何もない。それなのにどこへも行かない。どこへも行きたくはない。肉体を運んでいく場所がない。残された場所があるなら「天国」だけである。ただ死にたい。しかし自殺もできない。神を信じるこころが、そうしたことを拒む。
どこかへ行くということは、結局、精神をどこかへ運ぶことなのだ。肉体を運ぶふりをして精神(こころ)をどこかへ運ぶことなのだ。
ここに、この映画のテーマが隠されている。
トミー・リー・ジョーンズは「メルキアデス・デストラーダ」という友人の死体をふるさとへ運んでいる。埋葬するためである。死んでしまった肉体を運びながら、実は、精神をふるさとへ運んでいるのである。肉体を運ばないことには、精神を運べない。肉体と精神は、西洋の思想では二元論的に言われるけれど、けっして分離できないものである。
これに、もうひとつの肉体が絡んでくる。精神が絡んでくる。トミー・リー・ジョーンズから逃げる男がいる。「メルキアデス・デストラーダ」を誤って殺してしまった男。彼は、トミー・リー・ジョーンズから逃げることで、誤って殺人を犯してしまたという事実からも逃げようとする。しかし、どこまで逃げても砂漠なので、結局逃げきれない。
その男が、最後の最後で解放される。「メルキアデス・デストラーダ」をふるさとに埋葬する。そして、彼に謝罪する。「悪かった。殺すつもりはなかった。許してくれ」。こころは「国境」を越えるように、罪からのがれることはできない。こころを包んでいる肉体は彼がさまよった砂漠のように広大であり、どこまで行ってものがれるということはできない。自分が何をしたか、それを明確に自覚し、謝罪することでしか、こころは自由に離れない。(こんなことは、もちろん、映画の人物は自覚はしないのであるが……。)
涙ながらに謝罪する男に対して、トミー・リー・ジョーンズは「馬をやる、若造」(I give you a house, son 」と言う。この「若造」(son )が実に美しい。自分が何をしているか知らない人間が「若造」なのであり、それに気がついた人間が「若造」である。そこには否定と評価が一緒に存在している。それが「寛容」と言うものだ。
「若造」(son )ということばとともに、この「寛容」が、アメリカとメキシコの「国境」と重なって見えてくる。政策上の「国境」ではなく、トミー・リー・ジョーンズが生きてきた国境、トミー・リー・ジョーンズが映画のなかで具体化しようとした国境が見えてくる。何を受け入れ、何を受け入れないか、そのための「試練」とはどういうものか、というものが見えてくる。
その視点から、前半を振り返ると、前半もまた不思議な輝きにあふれてくる。男がいて女がいる。愛に疲れ、セックスに疲れ、同時にセックスに飢えている。浮気がある。憎しみがあり、侮蔑がある。つまり、生きている悲しみがある。そうした荒れた生活は、それはそのまま「国境」なのである。アメリカとメキシコの間に横たわる広大な砂漠のようなものなのである。人間はそれを横切らなければならない。横切って、ふるさとへ帰らなければならない。自分自身で「ふるさと」を決めて、そこへ帰らなければならない。「行け、若造よ」と、この映画は、言うのである。
私は映画ではせりふに感動するということはめったにない。しかし、この映画では、トミー・リー・ジョーンズが最後に言う「若造」(son )に感動した。若い国境警備官は「メルキアデス・デストラーダ」を埋葬することで、未熟な「若造」を埋葬するのである。寛容を知った若者に生まれ変わるのである。