詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

映画「メルキアデス・デストラーダの3度の埋葬」

2006-06-30 23:58:44 | 詩集
監督 トミー・リー・ジョーンズ 出演 トミー・リー・ジョーンズ

 後半がすばらしい。映画が、がぜんおもしろくなる。目がスクリーンから離れなくなる。アメリカとメキシコの間に横たわる砂漠。そこには「国境」があるのだが、「国境」っていったい何だ、と言いたいくらいに広い。人為的な「線」など意味がない。どこへでも行けるようだが、どこへも行けない。そのとき、肉体が見えてくる。人間が肉体であるということが見えてくる。どこかへ行くということは、結局、人間の(自分の)肉体をどこかへ運ぶということである。これが実にむずかしいことだと知らされる。道は決定されていないから、どこを通っても自由なのに、けっして自由ではないのだ。肉体が行ける場所は決まっているのだ。
 おもしろいエピソードがある。
 盲目の老人がひとりで住んでいる。彼をしばるものは何もない。それなのにどこへも行かない。どこへも行きたくはない。肉体を運んでいく場所がない。残された場所があるなら「天国」だけである。ただ死にたい。しかし自殺もできない。神を信じるこころが、そうしたことを拒む。
 どこかへ行くということは、結局、精神をどこかへ運ぶことなのだ。肉体を運ぶふりをして精神(こころ)をどこかへ運ぶことなのだ。
 ここに、この映画のテーマが隠されている。
 トミー・リー・ジョーンズは「メルキアデス・デストラーダ」という友人の死体をふるさとへ運んでいる。埋葬するためである。死んでしまった肉体を運びながら、実は、精神をふるさとへ運んでいるのである。肉体を運ばないことには、精神を運べない。肉体と精神は、西洋の思想では二元論的に言われるけれど、けっして分離できないものである。
 これに、もうひとつの肉体が絡んでくる。精神が絡んでくる。トミー・リー・ジョーンズから逃げる男がいる。「メルキアデス・デストラーダ」を誤って殺してしまった男。彼は、トミー・リー・ジョーンズから逃げることで、誤って殺人を犯してしまたという事実からも逃げようとする。しかし、どこまで逃げても砂漠なので、結局逃げきれない。
 その男が、最後の最後で解放される。「メルキアデス・デストラーダ」をふるさとに埋葬する。そして、彼に謝罪する。「悪かった。殺すつもりはなかった。許してくれ」。こころは「国境」を越えるように、罪からのがれることはできない。こころを包んでいる肉体は彼がさまよった砂漠のように広大であり、どこまで行ってものがれるということはできない。自分が何をしたか、それを明確に自覚し、謝罪することでしか、こころは自由に離れない。(こんなことは、もちろん、映画の人物は自覚はしないのであるが……。)
 涙ながらに謝罪する男に対して、トミー・リー・ジョーンズは「馬をやる、若造」(I give you a house, son 」と言う。この「若造」(son )が実に美しい。自分が何をしているか知らない人間が「若造」なのであり、それに気がついた人間が「若造」である。そこには否定と評価が一緒に存在している。それが「寛容」と言うものだ。
 「若造」(son )ということばとともに、この「寛容」が、アメリカとメキシコの「国境」と重なって見えてくる。政策上の「国境」ではなく、トミー・リー・ジョーンズが生きてきた国境、トミー・リー・ジョーンズが映画のなかで具体化しようとした国境が見えてくる。何を受け入れ、何を受け入れないか、そのための「試練」とはどういうものか、というものが見えてくる。
 その視点から、前半を振り返ると、前半もまた不思議な輝きにあふれてくる。男がいて女がいる。愛に疲れ、セックスに疲れ、同時にセックスに飢えている。浮気がある。憎しみがあり、侮蔑がある。つまり、生きている悲しみがある。そうした荒れた生活は、それはそのまま「国境」なのである。アメリカとメキシコの間に横たわる広大な砂漠のようなものなのである。人間はそれを横切らなければならない。横切って、ふるさとへ帰らなければならない。自分自身で「ふるさと」を決めて、そこへ帰らなければならない。「行け、若造よ」と、この映画は、言うのである。
 私は映画ではせりふに感動するということはめったにない。しかし、この映画では、トミー・リー・ジョーンズが最後に言う「若造」(son )に感動した。若い国境警備官は「メルキアデス・デストラーダ」を埋葬することで、未熟な「若造」を埋葬するのである。寛容を知った若者に生まれ変わるのである。


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水根たみ『透明な影』

2006-06-30 19:08:10 | 詩集
 水根たみ『透明な影』(あざみ書房)。タイトルを含めて作品が構成されている。無季俳句を行分けしたような印象がある。

限りなく

   遠い
   砂のざわめき

   孤立より遠い むこう

 「限りなく」がタイトルである。3文字ほどタイトルより下がった位置に本文が書かれている。この作品がまず印象に残った。「孤立」にはさまざまな意味合いがある。「孤立」した島なら海の中にぽつんと浮かんでいる。物理的な描写である。一方、「孤立」した人というときは、まわりに人がいながら関係が築かれていなことを指す。心理的な描写である。
 いずれにしろ、「孤立」は「遠い」ことと関係がある。物理的に遠いか、心理的に遠いかの違いはあっても「遠い」ということに違いはない。
 そうした前提の上で「孤立よりも遠い」ということばがぽつりと存在する。この「遠い」は何か不安を誘う。
 このとき、「むこう」はこちらとつながっていないだろう。「むこう」が「孤立」を超えた不安を強調する。

中空に

   とまる鳥
   冷えた指で故郷を指す

 これは詩集中、いちばんの傑作である。さまざまなイメージを喚起する。
 「中空に/とまる鳥」とはどういう状態だろうか。風に逆らって飛んでいるのだろうか。向かい風と鳥の速度が拮抗してとまった状態に見えるのだろうか。
 ところで、鳥が飛ぶとき、飛ぶ方向と足の向く方向は逆である。飛びながら逆の方向を指さす足--ここに複雑な望郷がある。「石もて追わる」と言った石川啄木のような「望郷」、切ない「望郷」が浮かび上がる。
 飛ぶ鳥が足を体内にしまいこんで飛ぶのであれば、実際にはその足が、その指が「冷えた」という状態はありえないかもしれない。しかし、水根にはそれが「冷えた」ものとして感じられる。事実とは違ったことを感じてしまう水根がここにいて、その事実とは違っているということが、逆に水根の思いを深さ、強さを浮き彫りにする。
 鳥は本当に故郷を捨てて飛んで行きたいのか。捨てて飛んで行きたいのに、向かい風が強くて空中にとどまっているのか。故郷を捨てたくないという思いがあって風にあおられるふりをして空中にとまった状態でいるのか。故郷を捨てるだけなら、東西南北どちらでもいいだろう。なぜ、鳥は向かい風の中にいるのか……。
 「望郷」の不思議さが浮かび上がる、おもしろい作品だ。


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