西出新三郎『家族の風景』(思潮社)には二種類のことばがある。
一種類目。たとえば「電話をかける」。
「八時間先の」というのは「時差」のことである。実際には「今」でしかないのだが、ヨーロッパの時間(時計の表示)と日本の時間(時計の表示)の差を「八時間」と認識するときにのみ立ち上がってくる「時間」が「時差」である。「八時間」は頭のなかにある「時間」を立ち上がらせるもの、「頭のなかのことば」と言えるかもしれない。
「時間」をめぐることばは「記憶」にも出てくる。
「頭のなかのことば」は「論理のことば」である。「精神のことば」である。そして「倫理」のことばでもある。「記憶」には次の行もある。
「論理のことば」「精神のことば」は清潔であるがゆえに「抒情のことば」に転化する。そして「清潔なことば」は簡単に他人を批判することばになる。もちろんその「他人」のなかには自分も含まれていて(何しろ、頭のなかのことばなのだから)、それは「自己批判」「反省」のことばでもあるのだが……。このとき、ことばは、たぶん「頭のなか」を守るのである。世界ではなく、自分の「頭のなか」を守るために動くのである。そのために、ちょっと窮屈になる。自己保身的というか、自分のことばをわかってくれる人間に対してのみ開かれたものとなる。自分のことをわかってくれる人に対しては開かれたことばだけれど、そうでない人を拒むことばになってしまう。
「頭のなかのことば」はそういう要素をもってしまう。
「頭のなかのことば」が会話をはじめると、会話している人は楽しいかもしれないが、傍から見るとちょっと不気味である。「フォントネー修道院にて」。
「ぼくはすこし格好をつけて言った」という行があるから幾分不気味さはやわらぐが、それでも私は思わず笑いだしてしまった。「おかしい」というよりも不気味さを忘れるには笑うしかないからだ。
もう一種類のことばは「頭のなか」にあるのではなく、「頭」以外の肉体のなかにある。血と肉になっていて、触ると変形する。「頭のなか」が頭蓋骨で守られていて、外からの力とは無関係にことばが運動するのとは違っていて、押すと引っ込むし、同時に押した力をはねのけてもくる。そこには「論理」はない。「精神」はない。あるのは肉の感触、手触り、実在の感覚である。「忘れる」に、そうしたことばが出てくる。老いた母と息子(西出)の会話で成り立っている。西出は母の頭を洗いながら対話している。
「よくおぼえてるもんだな/いわしの押し鮨のことまで」は西出のことば。「頭」から世界を見たことばである。「頭」で母親の奇妙な記憶を批判(?)している。もっと大切なことを覚えていてもよさそうなのに……という気持ちだろう。
これに対して、母親は「頭」では何も答えていない。体、肉体がおぼえていることだけをことばにしている。
「おいしかったねあれは」とは、押し鮨を食べた「前の晩」の記憶ではない。西田を産んだ体験があってはじめて実感できる「おいしさ」である。「すこし寝てたらあなたが生まれた」は安産だったということだろう。元気に西田が生まれたということだろう。そのよろこびが「おいしかった」に含まれている。いわしの押し鮨を食べることと、安産、西田が健康に生まれることとの間には「頭」で考えてわかる「因果関係」はない。「頭」で考えれば「馬鹿な話」にすぎない。しかし、肉体では違う。いわしの押し鮨を食べること、安産、西田が元気に生まれることは、その全体を含めてひとつのことであり、切り離すことができないものであり、その切り離せない感覚が「おいしさ」なのである。
母親は、ここでは単に押し鮨のおいしさを語っているではない。西出が元気に生まれてうれしかったよ。おまえが生まれたときのことは何一つ忘れていないよ、と肉体のことばで語っている。最後の二人の会話がそれを雄弁に語っている。
母親にとって「おいしかった」のはいわしの押し鮨だけではない。西出が生まれる前の少しの睡眠も、秋晴れもおなじように「おいしかった」のだ。そして、そう語りながら頭を洗ってもらっている時間も「おいしい」に違いないのである。
この母親のことば、よろこびにあふれたことばには、思わず涙が流れる。「おまえが生まれてうれしかった」とは言わず、ただただ自分のよろこびを語る。あのときの「いわしの押し鮨のおいしさは、おまえなんかにはわからないさ」と突っぱねている風でもある。自慢している風でもある。きっと、そのおいしさを知っているという自慢は、おまえを産んでよかったという自慢でもあるのだ。
私は西出ではないけれど、「おかあさん、産んでくれてありがとう」と呟かずにはいられない。感謝せずにはいられない。とてもとてもとても、いい詩だ。
人が両親から受け取るのは血・肉・骨といった肉体だけではない。遺伝子だけではない。
「忘れる」で西出は母親から「頭」ではつくりだせないことば、肉体で体験することによってしか生まれないことばを引き継いでいる。肉体のことばを引き継いでいる。このことばを、もっと大切に育ててもらいたい、と思った。
一種類目。たとえば「電話をかける」。
ぼくは電話をかける
朝のラッシュアワーが始まった
クレルモン・フェランの駅の公衆電話から
ある夜は
アルルのホテルのロビーから
(略)
八時間先の
ぼくのいない部屋に電話をかける
呼び出し音は鳴りつづける
壁に掛けた
モディリアニの複製が聞いている
長い首をかしげた女
「八時間先の」というのは「時差」のことである。実際には「今」でしかないのだが、ヨーロッパの時間(時計の表示)と日本の時間(時計の表示)の差を「八時間」と認識するときにのみ立ち上がってくる「時間」が「時差」である。「八時間」は頭のなかにある「時間」を立ち上がらせるもの、「頭のなかのことば」と言えるかもしれない。
「時間」をめぐることばは「記憶」にも出てくる。
思い出せるところまでもどることは
その分だけ時間を取りもどすことだ
それだけ若返るということだ
「頭のなかのことば」は「論理のことば」である。「精神のことば」である。そして「倫理」のことばでもある。「記憶」には次の行もある。
忘れたら元の場所へもどろう
一年前の場所へもどることは
去年の金木犀をもう一度嗅ぐこと
一年若くなること
十年でも五十年でも若返ろう
三月十日に東京で何があったか
六月二十三日に沖縄で何があったか
八月六日に広島で何があったか
八月九日に長崎で何があったか
おおかたの人は忘れているではないか
「論理のことば」「精神のことば」は清潔であるがゆえに「抒情のことば」に転化する。そして「清潔なことば」は簡単に他人を批判することばになる。もちろんその「他人」のなかには自分も含まれていて(何しろ、頭のなかのことばなのだから)、それは「自己批判」「反省」のことばでもあるのだが……。このとき、ことばは、たぶん「頭のなか」を守るのである。世界ではなく、自分の「頭のなか」を守るために動くのである。そのために、ちょっと窮屈になる。自己保身的というか、自分のことばをわかってくれる人間に対してのみ開かれたものとなる。自分のことをわかってくれる人に対しては開かれたことばだけれど、そうでない人を拒むことばになってしまう。
「頭のなかのことば」はそういう要素をもってしまう。
「頭のなかのことば」が会話をはじめると、会話している人は楽しいかもしれないが、傍から見るとちょっと不気味である。「フォントネー修道院にて」。
若者はリュックからひとかけらのパンを
ぼくは一個の青い林檎を取り出した
〈一人で食べるにはちょっと足りないけど
二人で分けると十分な量だよね〉
ぼくはすこし格好をつけて言った
〈いつも一人で食べていたから
味なんかわかんなかったけど
今日はおいしいですよ格別に〉
と若者は言った
「ぼくはすこし格好をつけて言った」という行があるから幾分不気味さはやわらぐが、それでも私は思わず笑いだしてしまった。「おかしい」というよりも不気味さを忘れるには笑うしかないからだ。
もう一種類のことばは「頭のなか」にあるのではなく、「頭」以外の肉体のなかにある。血と肉になっていて、触ると変形する。「頭のなか」が頭蓋骨で守られていて、外からの力とは無関係にことばが運動するのとは違っていて、押すと引っ込むし、同時に押した力をはねのけてもくる。そこには「論理」はない。「精神」はない。あるのは肉の感触、手触り、実在の感覚である。「忘れる」に、そうしたことばが出てくる。老いた母と息子(西出)の会話で成り立っている。西出は母の頭を洗いながら対話している。
お産の後では酢のものはいかんからと
前の晩にいわしの押し鮨をどっさり作って
おなかいっぱい食べてね
何度産んでもお産はやはり死ぬ覚悟さ
すこし寝てたらあなたが生まれた
よくおぼえてるもんだな
いわしの押し鮨のことまで
おいしかったねあれは
あの味を忘れてしまって
ほかにどんな大事なことを
おぼえていないといかんのかね
「よくおぼえてるもんだな/いわしの押し鮨のことまで」は西出のことば。「頭」から世界を見たことばである。「頭」で母親の奇妙な記憶を批判(?)している。もっと大切なことを覚えていてもよさそうなのに……という気持ちだろう。
これに対して、母親は「頭」では何も答えていない。体、肉体がおぼえていることだけをことばにしている。
「おいしかったねあれは」とは、押し鮨を食べた「前の晩」の記憶ではない。西田を産んだ体験があってはじめて実感できる「おいしさ」である。「すこし寝てたらあなたが生まれた」は安産だったということだろう。元気に西田が生まれたということだろう。そのよろこびが「おいしかった」に含まれている。いわしの押し鮨を食べることと、安産、西田が健康に生まれることとの間には「頭」で考えてわかる「因果関係」はない。「頭」で考えれば「馬鹿な話」にすぎない。しかし、肉体では違う。いわしの押し鮨を食べること、安産、西田が元気に生まれることは、その全体を含めてひとつのことであり、切り離すことができないものであり、その切り離せない感覚が「おいしさ」なのである。
母親は、ここでは単に押し鮨のおいしさを語っているではない。西出が元気に生まれてうれしかったよ。おまえが生まれたときのことは何一つ忘れていないよ、と肉体のことばで語っている。最後の二人の会話がそれを雄弁に語っている。
その日はどんな天気だったのかな
十月一日かい
ぬけるような秋晴れのいちにちだったさ
母親にとって「おいしかった」のはいわしの押し鮨だけではない。西出が生まれる前の少しの睡眠も、秋晴れもおなじように「おいしかった」のだ。そして、そう語りながら頭を洗ってもらっている時間も「おいしい」に違いないのである。
この母親のことば、よろこびにあふれたことばには、思わず涙が流れる。「おまえが生まれてうれしかった」とは言わず、ただただ自分のよろこびを語る。あのときの「いわしの押し鮨のおいしさは、おまえなんかにはわからないさ」と突っぱねている風でもある。自慢している風でもある。きっと、そのおいしさを知っているという自慢は、おまえを産んでよかったという自慢でもあるのだ。
私は西出ではないけれど、「おかあさん、産んでくれてありがとう」と呟かずにはいられない。感謝せずにはいられない。とてもとてもとても、いい詩だ。
人が両親から受け取るのは血・肉・骨といった肉体だけではない。遺伝子だけではない。
「忘れる」で西出は母親から「頭」ではつくりだせないことば、肉体で体験することによってしか生まれないことばを引き継いでいる。肉体のことばを引き継いでいる。このことばを、もっと大切に育ててもらいたい、と思った。