詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小松弘愛「ほたえる」、林嗣夫「風花」

2006-06-10 22:54:42 | 詩集
 小松弘愛「ほたえる」(「兆」130 )。連作「続・土佐方言の語彙をめぐって」の36にあたる。「ほたえる」は「さわぐな」という意味らしい。

一八六七年十一月十五日
京都 近江屋の二階
坂本龍馬と中岡慎太郎は
夜更けまで語り合っている
と 部屋の外で
「ガタガダ ガタガタ」
下僕の藤吉が刺客に斬られて倒れる音を
竜馬は それと気づかず
「ほたえなッ! 」

(略)

血だらけになった座敷
竜馬「脳をやられた」
慎太郎「わしァ もう だめじゃ」

東山をのぞむ京の街並み
月光のもと
屋根瓦が白く光っている
「ワオオン」
犬の
遠吠えである。

 最後の余韻が美しい。最後の6行が大好きで、何度も何度も読み返してしまった。
 切られた竜馬と慎太郎には申し訳ないが、犬の遠吠えの「ワオオン」が聞こえたとき、竜馬はやっぱり「ほたえなッ! 」と言ったであろうか。犬に対して「ほたえなッ! 」と叫んだであろうか。それとも黙ったままだったろうか。考えても考えても、答えは出て来ない。かわりに「ワオオン」という遠吠えだけが聞こえる。
 「さわぐな」だったら、たぶん、この余韻は生まれない。
 肉体、不透明なもののなかに生きてきた不透明なことば、おなじ土地と時間を共有する人間といっしょに生きてきたことばだからこそ、余韻を感じるのだ。肉体が、そこにあると感じる。絶対的な存在として、手に触れ得る肉体があると感じる。そしてその肉体のなかに、固有の時間、固有のことばがあると感じる。あたたかいものを感じる。そのあたたかさが、そのまま余韻である。



 「方言」とは意味である前に、まず「音」なのだと思う。肉体なのだと思う。「ほたえな」を「さわぐな」と置き換えるとき、たぶん、そこから肉体が抜け落ちる。

 うまく説明できないが(説明する必要のないことかもしれないが)、小松の耳は大変いい耳なのだと思う。ことばの音が肉体と深く結びついて世界をつくっていることを感じ取ることができる耳なのだと思う。
 「ほたえな」ということば自体は、いろいろな状況で発せられることばだろう。それにもかかわらず、小松は瀕死の竜馬、慎太郎を描くのに、それを選んだ。そのことが「ほたえな」にさらに深い味わいを与えている。深い味わいがあるからこそ、余韻もまた深々としたものになる。



 耳といえば、林嗣夫の耳もいい。同じ「兆」に発表されている「小詩集 花ものがたり」の「27 風花」の5連目。

山里のホテルにつづく疎林の雪道を
ぐるる ぐるるるっ 一人の女性と歩いた日のことを

 「ぐるる ぐるるるっ」がすばらしい。新雪を踏みしめて歩くときの足音だが、単なる音ではなく、やわらかい雪に足をとられながら、必死で肉体をささえるときの力のようなものが、その音のなかにある。雪道を歩く肉体そのものを喚起させる音である。
 耳だけでなく、肉体全体で音を聞いていることがわかる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする