「現代詩手帖」6月号が「2000年代の詩人たち」という特集を組んでいる。全部を読んだわけではないが、奇妙な類似性を感じた。
水無田気流「Z境/削除、そして更新(デリート・アンド・リライト)」。タイトルにもルビがある。詩の本文にもルビが多い。そして、そのルビがかなりかわっている。括弧内で表記した部分がルビである。(引用はひとつづきの行ではなく、部分部分である。)
「らうんど・わん」「つう」「すりー」……につけられたルビは何だろうか。「読み方」ではない。というよりも、声に出して読むことを拒んでいるルビである。声に出してルビを読んでしまえば「らうんど・わん」「つう」「すりー」……は表現できない。ここに書かれていることは肉体をとおして表現はできないことがらである。
では、肉体を拒否しているのか。
そうではなく、逆に肉体に依存している。目に依存している。「らうんど・わん」を「ホンキデイクワヨ」と同時に読むことができる目に依存している。喉・口蓋(声)には同時にできないことが目には同時にできる。その力に依存している。
そして、この依存は最終的には、肉体のなかに脳があるということに依存している。脳のなかで考えたことは重ね合わせることができる。もちろん思考自体はそれぞれに構築されるが、ある構築した思考をそのまま肉体の内部(つまり、脳)に閉じ込めたまま、別の思考を構築し、それを重ね合わせる。(これは、「ずらす」といっても同じことだが。)こうしたことが可能なのは、ことばは脳のなかにはいつでもとどまっている、という信頼があるからだ。肉体の内部に脳があり、脳の内部にことばはとどまり、とどまっていることばはいかようにも重ね、ずらし、操作することで、世界を自在にみつめることができる。そう信じているのかもしれない。
そうかなあ、と私は疑問に思う。こんな簡単に肉体に依存していいのかな。肉体がことばを閉じ込めてくれると信じていいのかな、と疑問に思う。
私は水無田のように信じることはできない。ことばはいつでも肉体からはみ出し、あふれていく。それを押さえ込むことは難しい。目の一瞬の動き。声のほんの少しのうわずり。手をそっと後ろへまわす……そうしたことからもことばは外部へもれていく。ことばにすらなっていないことばが、肉体からあふれて他人に見られてしまう。読まれてしまう。それが世間の現実ではないだろうか。
私の思いとしては、詩とは、まだことばになりきれていないことば、肉体のなかにひそんでいることばを、なんとかことばにする仕事だが、そういうことは実は肉体の方がはるかに上手で、とてもかなわないと思う。それでも詩を書くとすれば、そうした肉体に何とか拮抗したいと思うからだ。ことばに「肉体」を与えたいと思うからだ。
どうも、水無田のことばを読むと、ことばに肉体を与えるというよりも、ことばは肉体のなかに存在する、だから、それを「読みにきて」と言っているように思える。肉体のなか、脳のなかでは、ことばはこんなふうに動き、その動きにそって世界を見つめれば作者の考えはわかるはず、だから「読みにきて」と言っているように思える。もちろん、それはそれでいいと思うのだが、そんなふうに肉体を信じきっているところに私は疑問を感じる。
たとえば、(たとえば、と言っていいのかどうかわからないが)、水無田が肉体で隠したと思っているもの、あるいは肉体の内部、脳の世界で明確にしたいと思っていることがらは、「本文」と「ルビ」という二重性として「見られてしまう」。他者の(読者の、たとえば私の)肉体によって簡単に見破られてしまう。「らうんど・わん」に「ホンキデイクワヨ」とルビをふらなければいけない。手で書くにしろ、キーボードを打つにしろ、そのとき肉体は二重に動く。その動きはだれが見ても明らかなのである。たとえ左手で「らうんど・わん」と書き、同時に右手で「ホンキデイクワヨ」と書いたにしろ、その手が左手と右手で違っているということが他人には明瞭にわかる。水無田が意識している以上に明白な事実としてわかってしまう。
「らうんど・つぅ」のルビに「ツヅキハベツリョウキンデス」ということばがある。そのなかにあることばを借用して言えば、同じ連続としてみせかけようとしても「べつ」なものとして仕組まれたものがあるということがだれにでも一目瞭然なのである。
世界は普通に人が信じている世界とは「べつに」、たとえば水無田にしか見えない世界がある。これは真実である。しかし、それを脳のなかまで「読みにきて」と言われても、ちょっと困る、というのが世間ではないだろうか、と私は瞬間的に考えてしまった。
*
世界は、いまここにある世界とは別の世界もある、という感覚は他の詩人にも共通する感覚なのかもしれない。斉藤倫の「伏線」には次の4行がある。
斉藤は、しかし、それを「脳」のなかには閉じ込めない。明確に肉体の外へ出す。「ルビ」ではなく本文にしてしまう。詩の書き出しが、とても魅力的である。
この「ほつれてる」の主語は「世界」である。斉藤の世界ではなく、世間が信じている世界である。自己の問題ではなく、自己の外の世界である。それがほつれている。ちょっとそのほつれをひっぱったら、さらに世界の構図までが見えてしまう。その見えてしまったものを「伏線」と呼び、「やだなあ」とつづけるとき、「伏線」は斉藤の肉体になる。「ひっぱる」「見えちゃった」という肉体の動きが「伏線」を具体化し、「やだなあ」のなかに反映する。
「伏線」にはいろいろな意味があるかもしれない。斉藤の言う「伏線」と私が感じる「伏線」、あるいは他の読者が感じる「伏線」は違っているかもしれない。しかし、そういうこといっきに吹き払って「やだなあ」が立ち上がってくる。服のほつれやなんかをひっぱって、すそがほどけて「いやだなあ」と感じたような感じがよみがえる。
「やだなあ」という感覚は、だれもが知っている感覚だろう。「やだなあ」と感じるときの肉体の感じ、「やだなあ」としかことばにならないもの--それが直接、私の肉体に触れてくる。実際に触れているのは「やだなあ」という感覚なのに、それが肉体感覚であるために、まるで「伏線」そのものに触れた感じがする。「伏線」はこのとき斉藤の肉体になっていると感じる。そしてこのときから私が見るのは、斉藤の脳のなかの動きではなく、逆に肉体そのものである。
たとえば「バレたいの?」の引用のつづき。
このとき「兵士」や「ブッシュ」を見るというよりも、それを見破る斉藤の視線、視力を私は肉体として感じる。だからこそ、その肉体の動きを静かに隠す仕草もおもしろく感じる。
「ことばだけにしがみついて」とは「伏線」ということばだけにしがみついてという意味である。それは斉藤の肉体なのに、肉体なんかじゃありませんよ、ことばなんですよ、ことばをよく見てね、伏線には「線」がある、線はハサミで切れますよ、だから切ってしまうんです……。
しかし、どんなにことばにしがみつこうと、そこにはやはり斉藤の肉体が立ち上がってくる。ハサミをつかう手の動きがある。ほつれを隠す肉体の動きがある。それを肉体で感じる。ほつれを隠したときの安心と不安(それは単に隠しただけで、ハサミで切るだけではほんとうの修繕ではないから)を、ことばとしてではなく、肉体として感じる。
肉体となったとこばは、それについてどこまで書いてみても、何かしら言い足りないことが残る。もっと何か言わなければ斉藤のことばに追いつけない。斉藤が言いたいことに触れたことにはならない。そういう思いがつのる。もっと書きたいという気持ちが残る。しかし、考えてみれば「詩」とはそういうものだ。肉体とはそういうものだ。ほんとうのところはわからない。「ルビ」のように簡単にこれが正しい「読み方」とは提示できない。間違ったら間違ったままでいい。でも、間違ったままでもいいから、それに触りたい。舌でころがしたい。そうやって、いやらしく自分の肉体を接触させたい、と思うのが「詩」であり、魅力的な「肉体」というものだろう。
水無田気流「Z境/削除、そして更新(デリート・アンド・リライト)」。タイトルにもルビがある。詩の本文にもルビが多い。そして、そのルビがかなりかわっている。括弧内で表記した部分がルビである。(引用はひとつづきの行ではなく、部分部分である。)
らうんど・わん(ホンキデイクワヨ)
らうんど・つぅ(ツヅキハベツリョウキンデス)
らうんど・すりー(レディ・ステディ・ゴウ)
らうんど・ふぉう(パスワードガマチガッテイマス)
ふぁいなる(デリート)
「らうんど・わん」「つう」「すりー」……につけられたルビは何だろうか。「読み方」ではない。というよりも、声に出して読むことを拒んでいるルビである。声に出してルビを読んでしまえば「らうんど・わん」「つう」「すりー」……は表現できない。ここに書かれていることは肉体をとおして表現はできないことがらである。
では、肉体を拒否しているのか。
そうではなく、逆に肉体に依存している。目に依存している。「らうんど・わん」を「ホンキデイクワヨ」と同時に読むことができる目に依存している。喉・口蓋(声)には同時にできないことが目には同時にできる。その力に依存している。
そして、この依存は最終的には、肉体のなかに脳があるということに依存している。脳のなかで考えたことは重ね合わせることができる。もちろん思考自体はそれぞれに構築されるが、ある構築した思考をそのまま肉体の内部(つまり、脳)に閉じ込めたまま、別の思考を構築し、それを重ね合わせる。(これは、「ずらす」といっても同じことだが。)こうしたことが可能なのは、ことばは脳のなかにはいつでもとどまっている、という信頼があるからだ。肉体の内部に脳があり、脳の内部にことばはとどまり、とどまっていることばはいかようにも重ね、ずらし、操作することで、世界を自在にみつめることができる。そう信じているのかもしれない。
そうかなあ、と私は疑問に思う。こんな簡単に肉体に依存していいのかな。肉体がことばを閉じ込めてくれると信じていいのかな、と疑問に思う。
私は水無田のように信じることはできない。ことばはいつでも肉体からはみ出し、あふれていく。それを押さえ込むことは難しい。目の一瞬の動き。声のほんの少しのうわずり。手をそっと後ろへまわす……そうしたことからもことばは外部へもれていく。ことばにすらなっていないことばが、肉体からあふれて他人に見られてしまう。読まれてしまう。それが世間の現実ではないだろうか。
私の思いとしては、詩とは、まだことばになりきれていないことば、肉体のなかにひそんでいることばを、なんとかことばにする仕事だが、そういうことは実は肉体の方がはるかに上手で、とてもかなわないと思う。それでも詩を書くとすれば、そうした肉体に何とか拮抗したいと思うからだ。ことばに「肉体」を与えたいと思うからだ。
どうも、水無田のことばを読むと、ことばに肉体を与えるというよりも、ことばは肉体のなかに存在する、だから、それを「読みにきて」と言っているように思える。肉体のなか、脳のなかでは、ことばはこんなふうに動き、その動きにそって世界を見つめれば作者の考えはわかるはず、だから「読みにきて」と言っているように思える。もちろん、それはそれでいいと思うのだが、そんなふうに肉体を信じきっているところに私は疑問を感じる。
たとえば、(たとえば、と言っていいのかどうかわからないが)、水無田が肉体で隠したと思っているもの、あるいは肉体の内部、脳の世界で明確にしたいと思っていることがらは、「本文」と「ルビ」という二重性として「見られてしまう」。他者の(読者の、たとえば私の)肉体によって簡単に見破られてしまう。「らうんど・わん」に「ホンキデイクワヨ」とルビをふらなければいけない。手で書くにしろ、キーボードを打つにしろ、そのとき肉体は二重に動く。その動きはだれが見ても明らかなのである。たとえ左手で「らうんど・わん」と書き、同時に右手で「ホンキデイクワヨ」と書いたにしろ、その手が左手と右手で違っているということが他人には明瞭にわかる。水無田が意識している以上に明白な事実としてわかってしまう。
「らうんど・つぅ」のルビに「ツヅキハベツリョウキンデス」ということばがある。そのなかにあることばを借用して言えば、同じ連続としてみせかけようとしても「べつ」なものとして仕組まれたものがあるということがだれにでも一目瞭然なのである。
世界は普通に人が信じている世界とは「べつに」、たとえば水無田にしか見えない世界がある。これは真実である。しかし、それを脳のなかまで「読みにきて」と言われても、ちょっと困る、というのが世間ではないだろうか、と私は瞬間的に考えてしまった。
*
世界は、いまここにある世界とは別の世界もある、という感覚は他の詩人にも共通する感覚なのかもしれない。斉藤倫の「伏線」には次の4行がある。
この世界以外に
他の世界があるなんて
知りたいの?
バレたいの?
斉藤は、しかし、それを「脳」のなかには閉じ込めない。明確に肉体の外へ出す。「ルビ」ではなく本文にしてしまう。詩の書き出しが、とても魅力的である。
なんかほつれてるな
と思って
ひっぱってみたら
伏線だった
ダメダメ!
なんて神の声がして
なんで見えちゃったんだろう
やだなあ
この「ほつれてる」の主語は「世界」である。斉藤の世界ではなく、世間が信じている世界である。自己の問題ではなく、自己の外の世界である。それがほつれている。ちょっとそのほつれをひっぱったら、さらに世界の構図までが見えてしまう。その見えてしまったものを「伏線」と呼び、「やだなあ」とつづけるとき、「伏線」は斉藤の肉体になる。「ひっぱる」「見えちゃった」という肉体の動きが「伏線」を具体化し、「やだなあ」のなかに反映する。
「伏線」にはいろいろな意味があるかもしれない。斉藤の言う「伏線」と私が感じる「伏線」、あるいは他の読者が感じる「伏線」は違っているかもしれない。しかし、そういうこといっきに吹き払って「やだなあ」が立ち上がってくる。服のほつれやなんかをひっぱって、すそがほどけて「いやだなあ」と感じたような感じがよみがえる。
「やだなあ」という感覚は、だれもが知っている感覚だろう。「やだなあ」と感じるときの肉体の感じ、「やだなあ」としかことばにならないもの--それが直接、私の肉体に触れてくる。実際に触れているのは「やだなあ」という感覚なのに、それが肉体感覚であるために、まるで「伏線」そのものに触れた感じがする。「伏線」はこのとき斉藤の肉体になっていると感じる。そしてこのときから私が見るのは、斉藤の脳のなかの動きではなく、逆に肉体そのものである。
たとえば「バレたいの?」の引用のつづき。
平和そうにニュースを読んでる
フレームの端に
兵士がバレてるし
書き割りのブッシュが
本物なのもバレてるよ!
このとき「兵士」や「ブッシュ」を見るというよりも、それを見破る斉藤の視線、視力を私は肉体として感じる。だからこそ、その肉体の動きを静かに隠す仕草もおもしろく感じる。
舞台下手に
いやな生き物が
見えてるのに
やっぱり知らん顔して
ことばだけにしがみついて
ちょっとハサミもってない?
なんて とりあえずは
伏線を隠して
現実が
ほつれないようにして
「ことばだけにしがみついて」とは「伏線」ということばだけにしがみついてという意味である。それは斉藤の肉体なのに、肉体なんかじゃありませんよ、ことばなんですよ、ことばをよく見てね、伏線には「線」がある、線はハサミで切れますよ、だから切ってしまうんです……。
しかし、どんなにことばにしがみつこうと、そこにはやはり斉藤の肉体が立ち上がってくる。ハサミをつかう手の動きがある。ほつれを隠す肉体の動きがある。それを肉体で感じる。ほつれを隠したときの安心と不安(それは単に隠しただけで、ハサミで切るだけではほんとうの修繕ではないから)を、ことばとしてではなく、肉体として感じる。
肉体となったとこばは、それについてどこまで書いてみても、何かしら言い足りないことが残る。もっと何か言わなければ斉藤のことばに追いつけない。斉藤が言いたいことに触れたことにはならない。そういう思いがつのる。もっと書きたいという気持ちが残る。しかし、考えてみれば「詩」とはそういうものだ。肉体とはそういうものだ。ほんとうのところはわからない。「ルビ」のように簡単にこれが正しい「読み方」とは提示できない。間違ったら間違ったままでいい。でも、間違ったままでもいいから、それに触りたい。舌でころがしたい。そうやって、いやらしく自分の肉体を接触させたい、と思うのが「詩」であり、魅力的な「肉体」というものだろう。