監督 是枝裕和 出演 岡田准一、宮沢りえ、香川照之
30年ほど前の映画に「人殺し」というのがある。丹波哲郎が剣の達人。松田優作が、丹波の首を狙う役どころ。ただし松田優作は剣がだめ。で、遠くから「人殺し、人殺し」と叫ぶ。聞きつけた人が、ひそひそと「人殺しだってさ」とささやき、それが風のようにひろがっていく。木々の緑、稲の葉のそよぐ。自然の光の美しさのなかで、丹波を見つめる人々の視線のみが冷たい。丹波をいらいらさせる。丹波を追い詰める。あまり話題にならなかったけれど、私は、大好き。
「花よりもなお」には、ちょっとそういう雰囲気を期待したんだけれど……。
「誰も知らない」の監督だけあって、タッチがドキュメンタリー的で、時代劇を感じさせないところがいいのだけれど、軽みがない。なぜ軽みがないのかなあ、と考えると、結果的に「仇討ち」がないからだね。
「人殺し」は最終的に丹波哲郎がちょんまげを切ってしまう。侍をやめる。松田優作は目的を果たす。ところが「花よりもなお」では、そういう単純な結末がない。「仇討ち」はおこなわれずに終わってしまう。
まあ、「仇討ち」がなくてもいいのかもしれないけれど、どうも演じている役者が最初から「仇討ち」がないことを知っている。(もちろん脚本を読むから知っていて当然なのだけれど。)だれも岡田准一が「仇討ち」しないことを知っていて、ただ長屋の人情噺を演じている。あの香川照之でさえ、結末を知っているという顔をして演技している。これは映画としては大失敗。役者が悪いのか、監督が悪いのかわからないけれど、たぶん監督だろうなあ。「仇討ち」はあるのだ、と信じ込ませて演技させないことには、人情噺の軽みが浮き立って来ない。貧乏長屋の汚ればかりが目立ってしまう。
(結末を知らない演技、というのは、たとえば「SAYURI」の役所広司の演技。さゆりに振られるということは脚本を読んだ役所にはわかっているはず。見ている観客にも結末が出る前からわかっている。それなのに役所は、さゆりが自分に気がある思い込んだ演技をしている。非常に感心した。)
長屋の人情噺を描きたいのなら、仇討ちなど持ち込まずに、単純に長屋の人々だけを描けばいい。仇討ちを持ち込まなくても、侍の思想はおかしい、仇討ちなどというのはばかげたことだという「思想」は描けるだろう。
是枝監督は、映画はどうせ映画という感覚が欠けているのかもしれない。時代劇という舞台を借りて現代劇をやるのなら、もっと強くこれは映画に過ぎないという視点を打ち出さないと、窮屈なばかりである。映画というよりは、舞台で演じた方がきっと楽しくなる作品だと思った。舞台では映画のようなリアルなセットはできない。それだけでも、これは現実ではない、つくりもの、という印象が前面に出る。どうせ、これは虚構、虚構のなかで思いっきり笑ってください、というサービス精神に欠けた映画だった。
30年ほど前の映画に「人殺し」というのがある。丹波哲郎が剣の達人。松田優作が、丹波の首を狙う役どころ。ただし松田優作は剣がだめ。で、遠くから「人殺し、人殺し」と叫ぶ。聞きつけた人が、ひそひそと「人殺しだってさ」とささやき、それが風のようにひろがっていく。木々の緑、稲の葉のそよぐ。自然の光の美しさのなかで、丹波を見つめる人々の視線のみが冷たい。丹波をいらいらさせる。丹波を追い詰める。あまり話題にならなかったけれど、私は、大好き。
「花よりもなお」には、ちょっとそういう雰囲気を期待したんだけれど……。
「誰も知らない」の監督だけあって、タッチがドキュメンタリー的で、時代劇を感じさせないところがいいのだけれど、軽みがない。なぜ軽みがないのかなあ、と考えると、結果的に「仇討ち」がないからだね。
「人殺し」は最終的に丹波哲郎がちょんまげを切ってしまう。侍をやめる。松田優作は目的を果たす。ところが「花よりもなお」では、そういう単純な結末がない。「仇討ち」はおこなわれずに終わってしまう。
まあ、「仇討ち」がなくてもいいのかもしれないけれど、どうも演じている役者が最初から「仇討ち」がないことを知っている。(もちろん脚本を読むから知っていて当然なのだけれど。)だれも岡田准一が「仇討ち」しないことを知っていて、ただ長屋の人情噺を演じている。あの香川照之でさえ、結末を知っているという顔をして演技している。これは映画としては大失敗。役者が悪いのか、監督が悪いのかわからないけれど、たぶん監督だろうなあ。「仇討ち」はあるのだ、と信じ込ませて演技させないことには、人情噺の軽みが浮き立って来ない。貧乏長屋の汚ればかりが目立ってしまう。
(結末を知らない演技、というのは、たとえば「SAYURI」の役所広司の演技。さゆりに振られるということは脚本を読んだ役所にはわかっているはず。見ている観客にも結末が出る前からわかっている。それなのに役所は、さゆりが自分に気がある思い込んだ演技をしている。非常に感心した。)
長屋の人情噺を描きたいのなら、仇討ちなど持ち込まずに、単純に長屋の人々だけを描けばいい。仇討ちを持ち込まなくても、侍の思想はおかしい、仇討ちなどというのはばかげたことだという「思想」は描けるだろう。
是枝監督は、映画はどうせ映画という感覚が欠けているのかもしれない。時代劇という舞台を借りて現代劇をやるのなら、もっと強くこれは映画に過ぎないという視点を打ち出さないと、窮屈なばかりである。映画というよりは、舞台で演じた方がきっと楽しくなる作品だと思った。舞台では映画のようなリアルなセットはできない。それだけでも、これは現実ではない、つくりもの、という印象が前面に出る。どうせ、これは虚構、虚構のなかで思いっきり笑ってください、というサービス精神に欠けた映画だった。