詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

映画「花よりもなお」

2006-06-18 22:07:24 | 映画
監督 是枝裕和 出演 岡田准一、宮沢りえ、香川照之

 30年ほど前の映画に「人殺し」というのがある。丹波哲郎が剣の達人。松田優作が、丹波の首を狙う役どころ。ただし松田優作は剣がだめ。で、遠くから「人殺し、人殺し」と叫ぶ。聞きつけた人が、ひそひそと「人殺しだってさ」とささやき、それが風のようにひろがっていく。木々の緑、稲の葉のそよぐ。自然の光の美しさのなかで、丹波を見つめる人々の視線のみが冷たい。丹波をいらいらさせる。丹波を追い詰める。あまり話題にならなかったけれど、私は、大好き。
 「花よりもなお」には、ちょっとそういう雰囲気を期待したんだけれど……。
 「誰も知らない」の監督だけあって、タッチがドキュメンタリー的で、時代劇を感じさせないところがいいのだけれど、軽みがない。なぜ軽みがないのかなあ、と考えると、結果的に「仇討ち」がないからだね。
 「人殺し」は最終的に丹波哲郎がちょんまげを切ってしまう。侍をやめる。松田優作は目的を果たす。ところが「花よりもなお」では、そういう単純な結末がない。「仇討ち」はおこなわれずに終わってしまう。
 まあ、「仇討ち」がなくてもいいのかもしれないけれど、どうも演じている役者が最初から「仇討ち」がないことを知っている。(もちろん脚本を読むから知っていて当然なのだけれど。)だれも岡田准一が「仇討ち」しないことを知っていて、ただ長屋の人情噺を演じている。あの香川照之でさえ、結末を知っているという顔をして演技している。これは映画としては大失敗。役者が悪いのか、監督が悪いのかわからないけれど、たぶん監督だろうなあ。「仇討ち」はあるのだ、と信じ込ませて演技させないことには、人情噺の軽みが浮き立って来ない。貧乏長屋の汚ればかりが目立ってしまう。
 (結末を知らない演技、というのは、たとえば「SAYURI」の役所広司の演技。さゆりに振られるということは脚本を読んだ役所にはわかっているはず。見ている観客にも結末が出る前からわかっている。それなのに役所は、さゆりが自分に気がある思い込んだ演技をしている。非常に感心した。)
 長屋の人情噺を描きたいのなら、仇討ちなど持ち込まずに、単純に長屋の人々だけを描けばいい。仇討ちを持ち込まなくても、侍の思想はおかしい、仇討ちなどというのはばかげたことだという「思想」は描けるだろう。
 是枝監督は、映画はどうせ映画という感覚が欠けているのかもしれない。時代劇という舞台を借りて現代劇をやるのなら、もっと強くこれは映画に過ぎないという視点を打ち出さないと、窮屈なばかりである。映画というよりは、舞台で演じた方がきっと楽しくなる作品だと思った。舞台では映画のようなリアルなセットはできない。それだけでも、これは現実ではない、つくりもの、という印象が前面に出る。どうせ、これは虚構、虚構のなかで思いっきり笑ってください、というサービス精神に欠けた映画だった。

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新川和江「水の中の城」(その2)

2006-06-18 21:07:17 | 詩集
 6月5日の「日記」に貞久秀紀「数のよろこび」の感想を書いた。読んだ貞久からはがきが届いた。

「二本と三本を見間違えることなど有り得ない」という一行は、私には思わぬところから飛んできた球のようで、もっとも手応えがありました。

 「思わぬところから」。
 私は実は作者の「思わぬところ」に思想があると思っている。きのう17日の日記のつづきを書いておく。

 新川和江は「水の中の城」を新川自身で解説して、

この詩のポイントは結びの四行にあって、すべてはそこへ読者を案内するための絵地図に過ぎないのだから。

と書いていた。最後の4行が新川自身が書きたかったもの、意識的に書いた「思想」である。それはそれ自体としてとても美しく書かれている。なるほどと納得する。感動もする。
 それはたしかに「思想」ではあるのだけれど、私が考えている「思想」はもっと別にある。
 新川は彼女自身で「詩のポイントは結びの四行」と明確に意識している。つまり、その4行は意識的に書かれたことばなのである。書かれたことばが新川の考えていることと寸分違わぬよう、何度も何度も書き直したかもしれない。そして新川自身が書いているように、その4行がくっきりと立ち上がるように、それ以前のことばを4行のための「絵地図」にさえしている。それ以前のことばを、結びの4行に「奉仕」させてもいる。最後の4行が意識的であると同時に、それ以前のことばもまた非常に意識されたことばなのである。意識の支配のもとで動いていることばなのである。
 「思想」(あるいは「哲学」と言い換えた方がいいかもしれない)は、たしかにことばを選択しながら緻密に書かれるものである。結論へ向けて、整然と書かれるものである。結論ヘ向けての論理展開が重要である。途中に、結論を邪魔するような論理などまじってきては困るだろう。そんなふうに書かれたことばはたしかに思想そのものには違いない。新川がいいたいことのすべてであるだろう。
 そうしたことを認めた上で、私は別のことを考えるのである。
 意識を集中し、とぎすまし、ことばを積み重ねて書く「思想」のほかに、人間には意識できない思想がある。本人は気づかずにいる思想がある。あまりに自分に密着しているので、それが自分に密着しているとも気がつかないものがある。肉体そのものになってしまっている「ことば」がある。それを私は「意識的・精神的な思想」とは別に、いわば「肉体的思想」と考えている。それは絶対に書き換え不能なことばである。(別のことばで書き換えようと作者が思わなかったことばである。)
 「水の中の城」では、それは「小指ほどの」という比喩である。取り立てて特別なことを言おうとは「思わず」に書いたことばである。自分の「思想」を込めようとは意識せずに、ふと口をついて出てしまった比喩である。こうした意識しなかったことば、そういうときに何を比喩とするかにこそ、その人の日々の生活そのものが出てくる。そして、私は日々の生活が顔を出していることばこそ思想だと思っている。毎日の生活を幸せに生きるための考え以上の思想はないと考えるからである。
 結びの4行は「小指ほどの」とはまったく違う。
 「城館を濯(あら)い 歳月を濯い 生を濯い 死をも濯い」というときの、「歳月」「生」「死」ということば、さらに「濯(あらい)」という比喩は、限りなく意識的なことばである。比喩である。普通、人は、水が「歳月を濯い 生を濯い 死をも濯い」とは言わない。新川自身も普通はそんなことばづかいをしないだろう。家族に向かってそんなことばを発しないだろう。「詩」だからこそ、そういうことばをつかっている。
 こういう特別なことばは感動的である。そういうことばを信じないというのではないけれど、そういう意識的なことばよりも、私は作者が無意識的にもらしたことば、何かを意図しないでふともらしたことばの方に信頼を置く。読者に見せようと意識していないことばが信じられるとき、はじめて意識的に発せられたことばも信じられると思う。「小指ほどの」が信頼できる表現であるからこそ、最後の4行も信頼できる。新川は「絵地図に過ぎない」と書いているが、その「絵地図」に偽のしるしが書かれていたら、それは地図にはならないと言い換えれば、私のいいたいことが伝わりやすいだろうか。

 「小指ほどの」ということばと同様、新川のこの作品にはとても重要なことばがある。これも新川が無意識的につかっていると思うのだが、それは「水の中の城」の「中の」という表現である。
 この「中の」はタイトルと、次の1行に登場するだけである。

水の中の城の主(あるじ)もやはり死んだのでしょうか

 この「中の」は簡単なことばだけれど、ここで「中の」がつかわれているのは、それに先立って「小指ほどの雑魚」という比喩があり、それが「閉ざされたままの城館の窓を/いとも自由に いともたやすく 出入りしていたのです」があるから成り立つ。
 川辺に立つ城館の主でもなく、水に映った城の主でもなく、「水の中の城の主」というとき、読者は(私は)、「水の中の」と同時に「城の中の」主を思い浮かべる。魚が出会っているかもしれない城の中、それが水の中と重なる。
 「中の」ということばは、そして新川が最後に書いている「歳月」「生」「死」の「中」をこそ洗いながら、流れる。

 「水の中の城」では、私は「小指ほどの雑魚」という比喩と「水の中の城」の「中」ということばにこそ、信頼を置く。そのことばが信頼できるから、ほかの行を信じることができる。たぶん「小指ほどの」と「中の」ということばに感動した、と書けば、新川は「おもわぬところ」を信頼されたと驚くだろうと思う。

 作者が「思わぬところ」--意識しなかったことば、無意識につかわざるを得ないことば、そこにこそ私は「思想」があると信じている。意識的に書いた部分は、その作者の意識であって、まだ肉体にはなっていない。
 ただし、作者のために弁護すれば、作者はそうした意識を肉体にするために次々に作品を書く。一回だけではなく何回も何回も意識的に思想を書くのは、それが自分自身の肉体となることを願っているからだ。
 そういう意味では、そうしたことばに作者の「言いたいこと」があるというのは、絶対的な事実である。
 「思想」には作者が言いたい「思想」と、知らずに語ってしまう「思想」がある。私は作者が知らずに語ってしまう「思想」をまず先に好きになってしまいたいのである。
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