詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松尾真由美「きわやかな供物の火、血の湿度がなだれるとき」

2006-06-26 23:01:32 | 詩集
 松尾真由美「きわやかな供物の火、血の湿度がなだれるとき」(「ぷあぞん」21)は長い詩である。広瀬大志の作品を引用しながら、松尾のことばが動いていく。読んでいる最中に、引用し、語りたいことばがいくつも登場する。何度も傍線を引く。しかし実際に何か書いてみようと思い返すとき、傍線を引いたことばからは書きたいことが消えてしまっていた。記憶に残っていたのは傍線を引いたことばではなかった。何も印をつけなかったことばが記憶に残っていた。「ここ」「そこ」「どこ」。それはたとえば「この世界」「彼岸」というようなことばに書き換えられているときもあるが、「ここ」「そこ」「どこ」が、絶えず問われているという印象が強く残っている。
 そうしたことばのひとつ引用する。

ここでは言葉に属していて、私はいる。私はいない。

 私の印象では、たぶん、この2つの文が、この詩のすべてである。
 松尾は広瀬の詩を読む。そうした現場が「ここ」である。広瀬の詩は「そこ」である。「どこ」は、その瞬間には存在しない場である。ことばは、「ここ」と「そこ」を交渉させながら、「どこ」かへ動いていく。その運動が「詩」として想定されている。
 「ここ」「そこ」「どこ」と「言葉」が、この詩のキーワード群である。
 広瀬の詩を読むとき、松尾は「言葉」である。「ここ」で「そこ」に書かれていることばを読み、「そこ」にはない「言葉」として存在する。「そこ」に存在する「言葉」によって刺激を受け、引き出された「言葉」として、私(松尾)は存在する。そうしたとき、松尾は「ここ」に「いる」と言えば言えるが、「ここ」に「いない」と言えば「いない」と言える。「そこ」に「言葉」が存在しないなら、「ここ」に「言葉」は引き出されて来ないからである。
 「私はいる」「私はいない」はもちろん矛盾である。矛盾であるからこそ、もう一つの場「どこ」が必要になる。「どこ」とは、「ここ」と「そこ」から生まれてくる「可能性としての場」、今は存在しない場である。今存在しないからこそ、そこへ行くことができる。なぜなら、「言葉」は「ここ」と「そこ」から脱するために動くからである。「ここ」と「そこ」の「言葉」が交渉するのは、「ここ」「そこ」では不可能な言語運動を目指すからである。

 肉体はどうなるのだろうか。私には「肉体」は、松尾にとっては肉体ではなく、「言葉」としてのみ存在しているように見える。松尾は「肉体」ではなく「身体」という表現をつかい、次のように書いている。

極限的な抵抗は、まず、身体を壊すことにある。喉元から性器にかけて、いっきに引き裂く所作はまた、世界を引き裂く所作に似るのだ。

 この文章を私は「言葉」としてしか理解できない。本当に肉体を想定して、ここに書かれていることを想像できない。まずだれの「身体」かを想定できない。松尾は松尾自身の身体を考えているのだろうか。広瀬の身体を考えているのだろう。「喉元」は松尾と広瀬では似ているだろうが、「性器」について言えばまったく異なっているだろう。同じように引き裂くことはできない。いったいだれの身体を想定して松尾はこのことばを書いたのか。引き裂く道具は何を想定したのか。「所作」と単純に書いているが、そのとき引き裂く人間の筋肉はどう動くと考えたのだろう。引き裂かれる方の身体が生きているなら、激しい抵抗があるだろう。その抵抗をどう想定し、どう対処しようと考えたのだろうか。
 たぶん考えていないと思う。考えれば、簡単には書けないことがらである。「殺人」にあたるからである。「言葉」だけが勝手に動いているのだ。「言葉」が「言葉」自身の力によって動いているのだ。
 そして、それがたぶん松尾の「詩」の理想なのだろう。
 「言葉」が出会い、その出会いのなかから今まで存在しなかった運動のありようを引き出し、「言葉」自身の力で「ここ」「そこ」を脱出し、(松尾の表現に従えば「世界を引き裂」き)、「どこ」かへ行ってしまう。今まで存在しなかった世界へ行ってしまう。つまり、新しい世界を描写してしまう。
 「言葉」は、そこに存在がなくても描写が可能である。ないものを描くことができる。存在しないものへ向けて精神を動かすことができる。松尾は他者のことばとの出会いを活用し、精神の新しい領域を開こうと試みているのだと思う。


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映画「フーリガン」

2006-06-26 01:21:18 | 映画
監督 レクシー・アレキサンダー 出演 イライジャ・ウッド、チャーリー・ハナム、クレア・フォーラニ

 アメリカの青年が見たフーリガンの実態……といえば、そうなのだろうけれど、いやあな感じが残る映画である。
 アメリカとイギリスの距離がフーリガンを客観的に描いているようでいて、客観的ではない。距離があれば客観的なのではない、とつくづく思う。距離があるために主観的にならざるを得ない部分がある、肉体として実感できないものを想像力で埋めてしまう。その想像力のなかに「主観」が濃密に漂う。それがいやあな感じの原因だと思う。
 殴った、殴られたという肉体の痛みだけで、他者と一体になれたと思うのは錯覚だろう。主人公は、友人の仕組んだ罠のために大学を退学になる。そういう恨みと罠を仕掛けた相手に対してきちんと対処しなかったという悔恨が、フーリガンの集団の恨み、悔恨とどこかで重なる、というのはさらに錯覚であり、気持ち悪さの原因である。
 距離が有効なのは、自己と他者とをつなぐものはない、重なり合うと思うのはすべて錯覚であるという自覚だろう。自覚した上で、それでは私が他者に対してどう向き合えるかと考え、実行する--そこからしか何も生まれない。それを完全に省略してしまっている。
 フーリガンなんてわからない。わからないけれど、その肉体の暴力に引きつけられてしまう、という単純なスタイルをとれなかったところに、この映画の最大の欠点がある。見果てぬ夢を、夢の純粋さ(けっして実現しない)を守るために、あえて見果てぬ夢のままにして抱き続ける。その矛盾を引き受けるための肉体、というものをもっと正面から描いてほしかった。フーリガンの、ただわめきちらすように歌う力任せの歌だけがフーリガンの真実を描いている。試合ごとに暴力を振るい、傷つき、そのあと大声で歌を歌う--その繰り返しの映画だったらどんなにおもしろかっただろう、と思った。
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