詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集を読む。(27)

2006-06-14 23:52:57 | 詩集

 「エクリプス」(『行き方知れず抄』)は武満徹を悼む詩だ。最後がとても美しい。

しんしんと鳴っているものは何も語らず
ますます深い静寂へと引き込んでゆくばかりだ
思えば空白に刻印された未発の声に触れ
希薄な空気のなかで鍛えられてきたわれら
風を愛していた人も砂漠の人も
どことも知れず行方をくらまし
等質の音の出会いの世界で
いよいよ本物の鬼になってしまったらしい
古い竹藪の竹のひと節ひと節を
いまもしずかに吹き過ぎる風があり
あらためて無何有の郷(さと)へと帰ってゆくのだろう
さくら れんぎょう ぼけ こぶし
さくら れんぎょう ぼけ こぶし

 死んだ人はほんとうに「どことも知れず行方をくらまし」としか言いようがない。特に死んだ人が自分と違ったことをしていたなら、なおさらである。彼の残したものを引き継ぐということもできない。武満の音楽を渋沢が引き継ぎ、新しい展開をくわえるというようなことはできない。できないから「どことも知れず行方をくらまし」としか言えない。そうしたことを自覚し、はっきりことばにする。そこに渋沢の清潔さがある。
 渋沢は武満の音楽を聴いて、

さくら れんぎょう ぼけ こぶし
昼ま見たそれらが幻のように浮かんでくる

とも書いている。最後の「さくら……」の2行は、そのことの繰り返しである。
 私は武満の音楽を聴いても、「さくら れんぎょう ぼけ こぶし」を思い浮かべることはない。だからこそ、(というと変かもしれないが)、渋沢がそれを思い出すと書くとき、渋沢を信じる気持ちが強くなる。たしかに渋沢は武満を渋沢の肉体で聴いている、と信じることができる。渋沢の肉体は、ある日、「さくら れんぎょう ぼけ こぶし」を見た。その目の記憶と、今、武満の音楽が一緒に存在する。別々の存在が、ただ寄り添ってそこにある。
 これは、とても気持ちがいい。



幽玄かつ熱烈な驚くべき二重性から始まる
幻想のそぞろ歩き 心蕩(とろ)かす旋回
煙霧を越え 江河を貫いて
彼方へと言い知れぬ命の航跡が続いている

 これは「幽玄かつ熱烈な」の冒頭である。武満の死を悼んだ「エクリプス」とは関係がない作品だ。しかし、私はふたつの作品を重ね合わせてみたい。特に、この冒頭を。
 「二重性」とは何か。この4行からだけではわからない。そのわからない「二重性」を武満の音楽と渋沢の「さくら れんぎょう ぼけ こぶし」と読みたい気持ちがつのるのである。
 ふたつのもの、武満の音楽、渋沢の見た花の記憶が、からまりあい、「彼方」としか言えない場所へ動いていく。その瞬間に、「命の航跡」が見える。「さくら れんぎょう ぼけ こぶし」と書くとき、渋沢は、渋沢と武満が一緒になって「命の航跡」を描いているのが見えるのだ。
 ただし、その「行方」はわからない。だからこそ、ただ「命の航跡」をのみ見つづける。何も予測しない。何も願わない。そんな清潔なこころが、ここにある。


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映画「ポセイドン」

2006-06-14 22:00:19 | 映画
監督 ウォルフガング・ペーターゼン 出演 水

 カート・ラッセル、ジョシュ・ルーカス、リチャード・ドレイファスといった人間を押し退けて、水、水、水。水が主演です。脇役はもちろん火。その両方が「敵」というのがいいなあ。水と火は対極にあるのに、そのふたつが戦うのではなく、一緒になって人間に襲いかかる。水のなかで火と戦うなんて、「ポセイドン」でしかありえない。さらに最後の方には風も出てくる。いや、おもしろいですねえ。密室の船の中に展開される大自然。それにほんろうされる人間。巨大な船がひっくりかえり、もう一度ひっくりかえり、沈んで行く。そこで試されるのは人間の肉体だけ。人間のつくった構造物(船)は彼らの命を危険に陥れることはあっても助けることはない。気持ちいいですねえ。このさっぱりとした映画の構造は。
 「ポセイドン・アドベンチャー」も悪くはないけれど、今回の作品と比べると水の迫力がやっぱり違う。前作はプールでつくっている感じ、水の量が決まっているという不思議な安心感がある。それに対し、今回のものは本当に海の中という感じがする。水は無限に押し寄せてくる。圧力がじわじわ恐怖のように押し寄せ、下から吹き上がり、上から瀧のように落下し、遠くから激流となって流れてくる。重さと速度が、船内という密室をさらにさらに狭くする。人間ののがれる道はひとつなのに、水は自在に形を変えて四方から押し寄せる。その攻撃力のすさまじさ。
 変形自在な水の形態。空間があればどこへでも押し寄せる自在さ。水の中を動く水のスピード。これをリアルに映像化した。これが、この映画の一番のすばらしさ。
 あとは、単なる味付け。映像を見せるためのストーリー。構造ですね。
 たとえば、水が人間に襲いかからないのは、水の中だけという矛盾。(といっても、水のなかで生きていられる時間はかぎられているが。)水の外へ出るために、いかに水の中をくぐりぬけるか。いかに水の中に生存の手がかりを見つけ、行動するか。このあたりに人間の肉体と知恵をかけたサバイバルのおもしろさがある。そこにお決まりの、愛のために、愛する人間のために自分を犠牲にするという物語りも絡んでくる。愛するひとの心の中に永遠に生きるために死を選ぶという矛盾。……矛盾といえば、最初の船の転覆そのものも矛盾だね。天地がひっくりかえる。なにもかもが逆さまのなかで、逆さまでないもの、絶対に逆さまにならないものは何かを描く。--こう書いてみると、わかるでしょ? 映画がつまらなくなるでしょ?
 この映画は、あくまで水の力を生々しく描いて見せる映画です。水の生々しさに感動しなければ映画を見たことにはならない。この映画は、「今、私は水を見ている」ということを忘れさせる迫力で水を押しつけてくる。水を意識しないで見てしまう。水のとりこになってしまう。
 すごいですねえ、すごいですねえ。水を撮らせるなら、ウォルフガング・ペーターゼンしかいない、ということでしょうか。急に「Uボート」が見たくなりました。

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