「エクリプス」(『行き方知れず抄』)は武満徹を悼む詩だ。最後がとても美しい。
しんしんと鳴っているものは何も語らず
ますます深い静寂へと引き込んでゆくばかりだ
思えば空白に刻印された未発の声に触れ
希薄な空気のなかで鍛えられてきたわれら
風を愛していた人も砂漠の人も
どことも知れず行方をくらまし
等質の音の出会いの世界で
いよいよ本物の鬼になってしまったらしい
古い竹藪の竹のひと節ひと節を
いまもしずかに吹き過ぎる風があり
あらためて無何有の郷(さと)へと帰ってゆくのだろう
さくら れんぎょう ぼけ こぶし
さくら れんぎょう ぼけ こぶし
死んだ人はほんとうに「どことも知れず行方をくらまし」としか言いようがない。特に死んだ人が自分と違ったことをしていたなら、なおさらである。彼の残したものを引き継ぐということもできない。武満の音楽を渋沢が引き継ぎ、新しい展開をくわえるというようなことはできない。できないから「どことも知れず行方をくらまし」としか言えない。そうしたことを自覚し、はっきりことばにする。そこに渋沢の清潔さがある。
渋沢は武満の音楽を聴いて、
さくら れんぎょう ぼけ こぶし
昼ま見たそれらが幻のように浮かんでくる
とも書いている。最後の「さくら……」の2行は、そのことの繰り返しである。
私は武満の音楽を聴いても、「さくら れんぎょう ぼけ こぶし」を思い浮かべることはない。だからこそ、(というと変かもしれないが)、渋沢がそれを思い出すと書くとき、渋沢を信じる気持ちが強くなる。たしかに渋沢は武満を渋沢の肉体で聴いている、と信じることができる。渋沢の肉体は、ある日、「さくら れんぎょう ぼけ こぶし」を見た。その目の記憶と、今、武満の音楽が一緒に存在する。別々の存在が、ただ寄り添ってそこにある。
これは、とても気持ちがいい。
*
幽玄かつ熱烈な驚くべき二重性から始まる
幻想のそぞろ歩き 心蕩(とろ)かす旋回
煙霧を越え 江河を貫いて
彼方へと言い知れぬ命の航跡が続いている
これは「幽玄かつ熱烈な」の冒頭である。武満の死を悼んだ「エクリプス」とは関係がない作品だ。しかし、私はふたつの作品を重ね合わせてみたい。特に、この冒頭を。
「二重性」とは何か。この4行からだけではわからない。そのわからない「二重性」を武満の音楽と渋沢の「さくら れんぎょう ぼけ こぶし」と読みたい気持ちがつのるのである。
ふたつのもの、武満の音楽、渋沢の見た花の記憶が、からまりあい、「彼方」としか言えない場所へ動いていく。その瞬間に、「命の航跡」が見える。「さくら れんぎょう ぼけ こぶし」と書くとき、渋沢は、渋沢と武満が一緒になって「命の航跡」を描いているのが見えるのだ。
ただし、その「行方」はわからない。だからこそ、ただ「命の航跡」をのみ見つづける。何も予測しない。何も願わない。そんな清潔なこころが、ここにある。