詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫「(青い芯--訴え)」

2006-06-28 23:00:44 | 詩集
 野村喜和夫の新しい連載詩が始まった。「(青い芯--訴え)」(「現代詩手帖」7月号)。冒頭「0 (木が雷を飲む恍惚)」に非常に惹かれた。私は、野村の熱心な読者ではない。どちらかといえば不熱心な読者である。だからこれから書くことは見当違いかもしれない。それを承知で書く。

夏の終わりの
朝の稲妻
のような始まりを狩りながら
もしも木が雷を
飲む恍惚
それをことばにできたらと思う

 原文は「木が雷を/飲む恍惚」という文字が他の文字よりも少し大きめになっている。それぞれの断章のタイトルが本文中で大きな文字になっている。何らかの意図があるのだろうけれど、私にはその意図がわからないので、そのことに対する考えは書かない。(以下の引用においても、文字のサイズは無視して引用する。)
 この断章に惹かれたのは「木が雷を/飲む恍惚」が、私には初めて見る野村だったからである。
 私が知っている野村は、たとえば「5 (あわい)」のような野村である。

夏が果てようとしている
路地裏に救急車が来て停まっている
このふたつの事柄のあわいに
私は胸
苦しくなるほどに
捉えられ
人を呼ぶ

 何らかの事象(あるいは存在)があって、それに対して野村の思いがある。事象(存在)と思いの関係が野村にとって「詩」であると思って私は読んできた。
 「0」も「木が雷を/飲む恍惚」と「言葉」にしたいという思いを述べたものとして読むことができる。多分、野村はそう思って書いたのだと思う。しかし、そこに、野村の意図とは別の不思議なものを見てしまう。初めて見る野村がそこにいる。

 「木が雷を/飲む恍惚」。
 野村は落雷を見たことがあるだろうか。それはたしかに雷が木を切り裂くのではない。雷が木を破壊するのではない。むしろ、木が変身するのである。そのとき、木は、一瞬大きくなる。今までの木ではなく、木を超えて、大きくなる。大きくなったために、内部から破裂する。それは「恍惚」である。他者を完全に受け入れ、受け入れることで、自己が自己の「枠」を突き破っていく、自己を否定して、新しい存在になる。
 残された木は、もはや自己ではない。死んだ自己である。落雷の後、私たちは死んだ木を見る。それしか見ることができない。しかし、そこに「死」があるということは、それを残して行った巨大な「生」がどこかにあるということだ。「恍惚」としかいえない無軌道な「生」があるということだ。
 「木が雷を/飲む」その瞬間、実は、木は雷を吐き出している。木は見えない雷となって、宇宙へ還っていく。その交歓の恍惚。
 野村がそうしたものに向き合っているとは、私は、今まで気がつかなかった。

 他の断章を読むと、「0」で書かれた野村がいつも存在するわけではない。「われわれというありかたが/雨なのだ」(「2 (雨)」)というような行を読むと、むしろ「0」に書かれた野村の姿がかわっているだけなのかもしれない。「0」も「それを言葉にできたらと思う」を中心にして読んだ方がいいのかもしれない。その方が野村の思考の動き、精神の動き、感性の動き、そしてことばの持続性を見るのに都合がいいかもしれない。今までどおりの野村を確認できるかもしれない。しかし、私は、「木が雷を/飲む恍惚」ということばを書いてしまった野村を見つづけたいと思うのだ。そこに新しい野村が一瞬見えたということを忘れずに、この連作を読んでみたいという気持ちになった。


コメント
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