『行き方知れず抄』(1997)。この詩集にはさまざまな人物が登場する。その、登場人物への、重ね合わせ方が、ゆったりしている。ある人物を思い出し、その人に自分をゆったりと重ね合わせてみる。
それは他者と渋沢の「直列の詩学」ではない。二人のエネルギーを直列することで、新しい巨大なエネルギーになるのではない。また「放電の詩学」でもない。渋沢から他者へ向けてエネルギーを放出することで、静かに落ち着くという詩学ではない。
他者を思い出し、その思い出にそって渋沢を動かしてみる。そうすることで見えるものを見る。感じるものを感じる。他者を生きてみる。他者のなかにある願いを自分自身の内に抱き締めてみる。そして、そこから何が育っていくか、じっと見つめる。
「ぜんまい」は西脇順三郎を思い出す詩である。植物庭園を歩く。植物を愛した西脇が見たものを見つめる。
この植物の名前のなかに西脇がいるとも言えるし、いないとも言える。
私は西脇の書く植物の名前にはいつも音楽を感じる。植物なのに、植物ではなく、音楽を感じる。一本の草、茎、あるいは花ではなく、それがたとえば乾いた道の色、板塀、藪と溶け合い、溶け合うことで、静かに音楽を響かせていると言うとおおげさかもしれないが、どこからともなく、周囲の空気、そのはるか向こうから「音楽」を引き寄せ、小さなメロディーを響かせているようなものを感じる。
渋沢の植物は、(特にこの詩の場合は、植物庭園なので、特にそうした色合いが強いと思うが)、音楽ではなく、違和感として立ち上がってくる。こんなところに、こんな植物がなくていいのに、というか、とても人工的な感じがする。自然にある植物ではなく、人工の場所、都会にある植物という感じがする。
そこでは「音楽」のかわりに、なんというか、存在の構造、脳の構造が立ち上がってくる。
表題になった「ぜんまい」に触れた部分に、特に感じる。
西脇が「耳」の詩人だとすれば、渋沢は「目」の詩人、視覚の、視力の詩人である。目で世界の構造を捕らえ、「絵」あるいは「図」にする。そしてそれは、脳の世界である。西脇が「灰色」と呼んだ世界である。
渋沢の世界は、私から見れば西脇には重ならない。まったく別種のものである。しかし、それは私の感じ方であり、渋沢の感じ方ではないだろう。たぶん、渋沢は「わたしはこのハケの池の畔のゼンマイである/縦ざまに目まいとともに/渦を巻く芽の先の力であり消滅である」と書くとき、西脇の見ている夢を思い描いている。
私の知っている(私の感じている)西脇は渋沢の詩には登場しない。だからこそ私は逆に渋沢はほんとうに西脇のことを夢見たと信じることができる。西脇が見たものを見たい、同じものを見たと言いたくて詩を書いていると信じることができる。同じものを見て、西脇の感じたことをそのまま感じるというのではなく、何かを感じたというそのこと自体に対して、何かを感じるということがどういうことなのかわかると告げたいのだと思う。同じことを感じることはできない。けれど、そのときこころが動くということ、それを信じるということを告げたいのだと思う。
感じたもの。感じ。それは、何かわからない。わからないけれど、感じが動いている、こころが動いていることが手にとるようにわかる。そして、その動きに対して、どうなってしまうかわからないけれど、ことばが動いて行ってしまう。ここには、「愛」の始まりのようなものがある。
「愛」のはじまりのような、初なこころの動きがある。それがとても魅力的だ。
「非詩一篇」の最後の5行。
「愛」は「すすんで信用」することだといえばいいだろうか。
渋沢は西脇の詩を、そこに書かれている植物を、その思いを「すすんで信用し」、さらにその信じる力で西脇の見逃していたものを見る。そして、新たに渋沢が見たもの、それこそが西脇の見たかったもの、西脇の「希い」ではないかと書き進める。
「思い」は過剰に進む。そして、進みすぎて「狂う」。しかし、「ホモ・デメンス 狂えるもの・ヒト」(「ホモ・メデンス」)という自覚があれば、それは単なる狂気ではない。「愛」というものだろう。
それは他者と渋沢の「直列の詩学」ではない。二人のエネルギーを直列することで、新しい巨大なエネルギーになるのではない。また「放電の詩学」でもない。渋沢から他者へ向けてエネルギーを放出することで、静かに落ち着くという詩学ではない。
他者を思い出し、その思い出にそって渋沢を動かしてみる。そうすることで見えるものを見る。感じるものを感じる。他者を生きてみる。他者のなかにある願いを自分自身の内に抱き締めてみる。そして、そこから何が育っていくか、じっと見つめる。
「ぜんまい」は西脇順三郎を思い出す詩である。植物庭園を歩く。植物を愛した西脇が見たものを見つめる。
カタクリ ショウジョウバカマ フッキソウ
この植物の名前のなかに西脇がいるとも言えるし、いないとも言える。
私は西脇の書く植物の名前にはいつも音楽を感じる。植物なのに、植物ではなく、音楽を感じる。一本の草、茎、あるいは花ではなく、それがたとえば乾いた道の色、板塀、藪と溶け合い、溶け合うことで、静かに音楽を響かせていると言うとおおげさかもしれないが、どこからともなく、周囲の空気、そのはるか向こうから「音楽」を引き寄せ、小さなメロディーを響かせているようなものを感じる。
渋沢の植物は、(特にこの詩の場合は、植物庭園なので、特にそうした色合いが強いと思うが)、音楽ではなく、違和感として立ち上がってくる。こんなところに、こんな植物がなくていいのに、というか、とても人工的な感じがする。自然にある植物ではなく、人工の場所、都会にある植物という感じがする。
そこでは「音楽」のかわりに、なんというか、存在の構造、脳の構造が立ち上がってくる。
表題になった「ぜんまい」に触れた部分に、特に感じる。
わたしはこのハケの池の畔のゼンマイである
縦ざまに目まいとともに
渦を巻く芽の先の力であり消滅である
西脇が「耳」の詩人だとすれば、渋沢は「目」の詩人、視覚の、視力の詩人である。目で世界の構造を捕らえ、「絵」あるいは「図」にする。そしてそれは、脳の世界である。西脇が「灰色」と呼んだ世界である。
渋沢の世界は、私から見れば西脇には重ならない。まったく別種のものである。しかし、それは私の感じ方であり、渋沢の感じ方ではないだろう。たぶん、渋沢は「わたしはこのハケの池の畔のゼンマイである/縦ざまに目まいとともに/渦を巻く芽の先の力であり消滅である」と書くとき、西脇の見ている夢を思い描いている。
私の知っている(私の感じている)西脇は渋沢の詩には登場しない。だからこそ私は逆に渋沢はほんとうに西脇のことを夢見たと信じることができる。西脇が見たものを見たい、同じものを見たと言いたくて詩を書いていると信じることができる。同じものを見て、西脇の感じたことをそのまま感じるというのではなく、何かを感じたというそのこと自体に対して、何かを感じるということがどういうことなのかわかると告げたいのだと思う。同じことを感じることはできない。けれど、そのときこころが動くということ、それを信じるということを告げたいのだと思う。
感じたもの。感じ。それは、何かわからない。わからないけれど、感じが動いている、こころが動いていることが手にとるようにわかる。そして、その動きに対して、どうなってしまうかわからないけれど、ことばが動いて行ってしまう。ここには、「愛」の始まりのようなものがある。
「愛」のはじまりのような、初なこころの動きがある。それがとても魅力的だ。
「非詩一篇」の最後の5行。
自然界では常温のまま
絶えず原始転換が行われているという
フランスのルイ・ケルブランという科学者の説で
いまのところあまり信用されている気配はないが
わたしはすすんで信用しようと思う
「愛」は「すすんで信用」することだといえばいいだろうか。
渋沢は西脇の詩を、そこに書かれている植物を、その思いを「すすんで信用し」、さらにその信じる力で西脇の見逃していたものを見る。そして、新たに渋沢が見たもの、それこそが西脇の見たかったもの、西脇の「希い」ではないかと書き進める。
「思い」は過剰に進む。そして、進みすぎて「狂う」。しかし、「ホモ・デメンス 狂えるもの・ヒト」(「ホモ・メデンス」)という自覚があれば、それは単なる狂気ではない。「愛」というものだろう。