詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(29)

2006-06-23 13:14:26 | 詩集
 「春日のどけき」(『星曼陀羅』)には同じことば(類似のことば)が何度か繰り返される。そのひとつが、

それはわたしであっても構わぬのだが、

である。次のように書かれている。

 鬱々と心楽しまぬ一人の男が、それはわたしであっても構わぬのだが、人けもない春の日差しのなかの草むらに坐って、分厚く雑木に囲まれた池の面に見入っている。

 一向に心慰まぬ一人の男が、それはわたしであっても構わぬのだが、向う岸の暗がりに咲く赤い椿の花に魅入られたまま、一方で思い出している。

 「一人の男」をまず描き、「それは」と受けてことばをつなぐ。これは「直列の詩学」に見られた手法である。ただし、「弾道学」の一行目は「叫ぶことは易しい(けれどもその)叫びに」であったが、ここでは逆のスタイルになる「それは……あっても構わぬのだが」と。まず「それは」と受けて、それを明確に引き継ぎつつ、実は引き継ぎをゆるやかに放棄する。このとき「主語」は宙ぶらりんになる。不安定になる。
 その不安定な主語を利用して、渋沢は「物語り」を引き込む。
 散文では一般的に「主語」が明確であり、主語が動いていくにしたがって「物語り」が展開する。ストーリーができる。それに対し、渋沢の散文詩では主語は不安定であり、その不安定な主語をささえるようにして、「物語り」が展開する。その「物語り」の特徴は渋沢が独自に考え出したものというよりも、すでに「今昔物語」などで語られたものである。つまり、どこかで聞いた物語りである。
 渋沢がここで試みているのは、自分の感性・思想の展開というよりも、日本語が積み重ねてきたことば、その感性・思想とのゆるやかな交渉である。「ゆるやかな」というのは、それを積極的に引き受けるわけでもないし、絶対的に拒絶しようとしているわけでもないからだ。それこそ、そうしたことばのすべてが

それはわたし(のもの)であっても構わぬのだが、

という気分のようだ。
 とはいもののの、問題の一文の「構わぬのだが」の「が」に視点を置いて眺めまわすと、また違った風景が立ち上がる。そこに一定の保留があることがわかる。(保留があるからこそ「ゆるやかな交渉」でもあるのだが。)
 渋沢は日本語の何を引き受け、何を拒もうとしているのか、何を強靱なものに育てようとしているのか。
コメント
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