詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

映画「初恋」

2006-06-22 23:05:06 | 映画
監督 塙幸成 出演 宮崎あおい

 少女のハードボイルド映画(?)かな、とかなり期待して見に行った。
 どこで撮影したのか知らないが60年代のアパートの感じ(畳の黄色く汚れた色、アルミサッシではない窓、ふすまの模様)やジャズ喫茶の根暗な雰囲気が丁寧に描かれていて、お、これは60年代ドキュメンタリーと期待もかわったのだけれど……。
 うーん、中途半端だねえ。
 60年代の風景をそのまま現代の時間にまでひっぱってくる(60年代を感じさせない、いい意味で現代を感じさせる)宮崎あおいの演技はおもしろく、宮崎あおいに引きつけられてしまうのだが、引きつけられた後が、食い足りない。物足りない。3億円強奪計画まではおもしろいのだが、肝心の事件の描写になると、宮崎あおいから突然、現代のにおいが消えてしまう。60年代の風景に、ではなく、60年代の普通の少女の肉体に戻ってしまう。宮崎あおいという固有名詞がなくなる。
 バイクがぬかるみにタイヤを取られて困るシーン、トラックから落ちてきたシートがバイクにからまり困るシーンで、宮崎あおいの演技は突然変化する。肉体的に「弱い」部分がわがままとして噴出させてしまう。原作が悪いのか、監督が悪いのか、はたまたは宮崎あおいがそういう演技を拒否できないところが悪いのか、それともその三つが重なり合って悪いのかわからないが、こんな馬鹿みたいな肉体の使い方をするから、偶然、現金輸送車に出会った瞬間の描写がおろそかになる。肉体の躍動、鼓動の高鳴りが描かれず、「うそっ」だったか「まじっ」だったか忘れてしまったが、ふいに現代の貧弱なことばが噴出する。そんなことばに頼らず、視線の動き、ハンドルを握る手の動き、脚の動きなどで、具体的に、肉体を動かして見せなければ、この映画のハイライトはない。
 3億円強奪事件のハイライトの部分で、宮崎あおいの肉体は動いていない。その結果、観客に、犯人にしかわからない躍動が伝わって来ない。
 最後の、登場人物の「その後」の紹介など、虚構のあくどさが出てしまって、どうしようもない。そんなところで「現実」を装っても、映画にどんな深みも加わらない。

 たぶんこの映画の最大の失敗は「こころの傷に時効はない」というようなテーマをことばで語ることからはじめたことだろう。ランボー詩集だとかサルトルの「嘔吐」(だと思う)を持ち出し、60年代の言語のありよう、安保闘争後のこころの空虚な感じ、実感のなさをどう肉体で受け止めるかといった問題を持ち出すのも、なんだか安手の「思想」(出来合いの思想という意味)で映画を飾りたてているようで、とてもむなしい。

 この映画に比較すると、宮崎あおいが出た「ユリイカ」の方がはるかにハードボイルドであり、「こころの傷に時効はない」ということを、ことばではなく、肉体で伝えていた。他人にはどうすることもできない肉体(個人)が、そこに存在し、苦悩しているということを明確に肉体として表現していた。こころは、その肉体の中でしか回復しない、ということを切実に伝えていた。
 「ユリイカ」は名作だった、ということを証明するためにつくられた映画なのかもしれない。この「初恋」という映画は。

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豊原清明「暗闇の今日と明日」ほか

2006-06-22 21:54:57 | 詩集
 豊原清明「暗闇の今日と明日」(「SPACE」68)。腰痛の自画像なのだが、腰痛の人には申し訳ないが、楽しい。腰痛になるのもいいかも、という変な欲望(?)のようなものが沸き上がる。特に最後の部分に。

うつむいて歯を
くいしばっている僕は
異国の
街角の深夜を演じているようだ。
うなる星にまたたいて
ゆめの中であぐらをかいている僕は
アイスキャンディ一本も
かじる対象ではない。
おかげでかさぶたがふんわりと
僕の房を包み込んでくれる。
ゆめの中の国境越えて
白い木蓮のある
廃校のグラウンド。
胸のあたりの自明な部分。
ずっと生温かいかなしみと
似た頭を床に
こすりつけて、笑う。

 ことばがいつも、やわらかく、どこかへはみだして行く。21日に書いた鈴木ユリイカのことばは、否定をバネにことばを実在に変えたが、豊原のことばは逆に肯定を、肯定とも意識せずに、ことばからあふれさせる。あふれたこぼれたものは、まだ形にならない。永遠に形にならないかもしれない。ただ、やわらかく、何かがこぼれたよ、と教えてくれるだけかもしれない。そこが、とてもおもしろい。

ゆめの中の国境越えて
白い木蓮のある
廃校のグラウンド。

はリズムこそ違うが、俳句のようにも感じられる。(豊原は俳句も書いている。)「胸のあたりの自明な部分。」という一行は、その「俳句的世界」で豊原が書こうとしたものを「解説」(?)、あるいは「補足」した行だろうか。「胸のあたり」ということば、肉体の提示によって、今ここにないものが、肉体と同時に存在する。「白い木蓮のある/廃校のグラウンド」は豊原の「胸」のなかに「自明な」ものとして存在すると同時に、そのとき豊原の肉体は廃校となったグラウンドにあり、白い木蓮と一緒に存在する。肉体の内と外が交錯し、融合し、一体となって、宇宙(世界)を形作る。
 しかし、こうした私の感想は、あまり豊原の詩を楽しむのに役に立たないかもしれない。「おお、この行がいいなあ」とだけ、ことばにして、後は「頭を床に/こすりつけて、笑う」というのが一番楽しい豊原の作品の読み方だろう。
 書きながら、反省してしまった。



 同じ詩誌の指田一「分数」もおもしろかった。

うちの子が分数÷分数はひっくり返して掛けるっていうんです 本当ですか そんなことをして答えがでてくるんですか
おかあさんは緊張して白状しました

 「緊張」と「白状」に「詩」がある。こんな場面で「緊張」「白状」がつかわれるのは初めてだろう。初めてのとき、ことばは輝く。だれもささえてくれないので、ひとりで立っているしかない。そのとき、ことばが強くなる。
 豊原の、ことばからあふれたことばの数々も、そんなふうにして輝き、立っている。立っているだけではなく、あぐらをかいたり、頭をこすりつけたり、自在に動いている。この自在な動きが、豊原のことばを楽しくさせている。
 と書いたからといって、指田のことばとどちらが楽しいかという比較ではない。どちらも楽しい。


 
 渡辺正也「声」(「仙人掌」11)。

花桃が散って
少しして
海棠が散って
伽羅木の芽を刈るまでのあいだに
それ以上
模倣してはいけない

 「模倣してはいけない」を私は、ことばで、花桃を海棠を伽羅木を描写してはならないという意味で受け止めた。ことばで何かを模倣するとき、ことばは「詩」ではなくなる。模倣をやめて、初めてのことばとして存在と一緒になる、一体になる。たとえば指田の「緊張」や「白状」のように。そのとき、ことばが「詩」になる。
 渡辺の作品は、ことばが安易に「詩のことば」になってしまってはいけない、「詩」そのものにならなければならないと叱っているようだ。
 ちょっと叱られた気分になる。(もちろん、いい意味で。)

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