詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

コマガネトモオ「波からなる都市」、キキダダマママキキ「神馬、土地を鎮めよ

2006-06-02 13:32:07 | 詩集
 コマガネトモオ「波からなる都市 Metropolitan imperfecta 」(「現代詩手帖」 6月号)。連作なのだろう。「9.[イオタ] 」というサブタイトルがある。書き出しだとてもおもしろい。

暗澹たる灰緑色のチューブを抜けると
抜ければ、文学上
一面の銀世界である。
それから描かれるのは
明けたあとの空白である。
明けてしまえば出会ってしまい、それは語るに足らない。
仕舞い、足らないことをうめようと必死で書きつなぐ。
転がるように筆を滑られ、ただ結末を急ぐことになる。

 「……を抜けれると/抜ければ」の一種の尻取りのようなリズム。「明けたあとの……」からの3行にも似たリズム、繰り返しがある。「あけたあと」「あけてしまえば」、「しまえば」「しまい」「仕舞い」、「語るに足らない」「たらないことを」。これが絵を描く画家の筆のリズムに見えてしまう。描いた色を確認し、確認した上で新しい色と形を繰り広げる。繰り広げながら徐々に世界を展開していくリズムに見えてくる。
 このリズムは、タイトルにある「波」そのもののように、繰り返すことに疲れを知らない。若々しい。

平行を避けて二点を手放せば
帰結まで雲を引き、遥かな飛行を見せてくれるだろう。
それが物語であろう。出会いはヨモツヒラサカを転がることを言うのである。
遠く隔壁を通した向こう岸に
無理にでも光を見ようとした。

 これは先の引用のつづきだが、尻取りのリズムは、たんに同じことばだけにあるのではない。「ただ結末を急ぐことになる」の「結末」と「帰結」。そのわずかな「ずれ」のようなもののなかに、さまざまなイメージが飛び込む。あるいは「ずれ」がさまざまなイメージを呼び出す。それはたしかに「物語」をつくりだす。人間は、どんなときにでも「物語」をつくってしまう。私のこの感想も「物語」である。つまりある構造によって始まりと終わりをつくりだし、その広がりに意味をもたせることを狙っている。
 そうしたことをすべて知った上でコマガネはことばをつなぐ。

詩はしかし明け行く空を永遠に引き延ばすことができる、

 「物語」は結末(帰結)をもっている。しかし「詩」にはそれがない。帰結、結末がないもの、永遠が「詩」であるという。ランボーのように潔く、軽やかではないか。かっこいいではないか。

詩はしかし明け行く空を永遠に引き延ばすことができる、
と、強がってみせようか。
暗澹たる灰緑色のチューブを
ある日抜ける日が来る、
来るのだろうが
いまはまだ
ここは暗澹たる灰緑色の蛇腹、その中腹である。

 かっこいいと同時に、そのかっこよさが「強がり」であることも自覚する。この自制が、たぶん、コマガネのリズムの基本なのだろう。前へ前へと突き進みながら、その進む先を瞬間瞬間立ち止まり、見据え、もう一度前へと進む。
 リズムが、ことばの運動を規定し、同時にその内容を決定している。とてもいい詩だと思う。

 ところで、この詩の「主語」は何だろうか。書きそびれてしまったが(今になって書くことになってしまったが)、私は「チューブ」のなかの「色」そのものと思って読んだ。便宜上、画家の絵筆の動きと書いたけれど、ほんとうは色の気持ちだ。チューブから押し出され、真っ白なキャンバスを目にする。その布の上で一筆ごとにほんとうの色になるのだ、という感じがする。
 同じように、コマガネのことばは、「ことばのチューブ」のなかにあったものがしぼりだされ、紙の上を走る。突き進む。そのときほんとうの色になる。つまり「詩」になる。そういう気持ちのいいリズム、軽さ、速度がみなぎっている。
 そして、そのチューブはコマガネの肉体そのものであり、それは常に復元する。どれだけ色をしぼりだしても、チューブが空になることはない。人間の体が空になることがないのと同じである。しぼりだすことによって、しぼりだされたものの入っていた部分にあらたな色が充満してくる感じだ。疲れを知らない--という批評をコマガネがどう感じるかわからないが、そこには疲れを知らない若さ、しなやかさという強靱を身につけた若さの特権のようなものが輝いている。
 こういう作品が、私は、とても好きだ。


 キキダダママママキキ「神馬、土地を鎮めよ」。この人は言いたいことばが体のなかにあふれているのだろう。その速度が速すぎて意識がついていかない、意識でコントロールしようとすると吃音になってしまう、という感じなのだろうか。
 肉体のなかからあふれてくることばとの格闘ということを納得した上で、しかし、私には少し疑問が残る。たとえば、

田螺を塩で煮、残った者は今日の灯りを手で掬う
籾殻を敷き詰めた芋壺に守る家の神、婦人以外は入ってはならぬ穴

 キキダダは「田螺を塩で煮」るということを実際に体験したのだろうか。「籾殻を敷き詰めた芋壺」をほんとうに見たことがあるのだろうか。私は田螺を塩で煮るという体験はないが、籾殻を敷き詰めた芋壺ならよく知っている。さつまいもを保存してある。必要な分だけ取り出してくる。そうした生活の知恵には「時間」が潜んでいる。それはキキダダが描くように「神話」の世界なのかどうか、私にはわからない。私には、動かそうにも動かせない「時間」に思える。その「動かない時間」が、どうもキキダダの書いている速度のある世界とは違うように思える。だから思わず、キキダダはほんとうに籾殻を敷き詰めた芋壺を知っているのだろうか、と書いてしまう。
 速度のある神話もあるだろうが、速度のない神話、停滞し、沈殿する神話もあると思う。「月蝕とともにのどを突いた武士の舞う影」ということばが速度のある神話なら、「籾殻を敷き詰めた芋壺」というのは沈殿する神話である。もちろん、速度をより速いものとして印象づけるために停滞した神話、沈殿する神話を同時に描くということもわかるけれど、私にはとても違和感が残った。
コメント (2)
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