詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(24)

2006-06-07 15:04:04 | 詩集

 『綺想曲 Capriccio 』(1992)。
 私は渋沢孝輔の熱心な読者ではない。だから、私の感想にはずいぶんと誤読が多いだろう。そうしたことを承知で、誤読のさらに誤読の森へ踏み込むようにして書くのだが、『綺想曲』を読むとき、私は一瞬渋沢孝輔を見失う。そこに渋沢がいないというのではない。あれ、こんな渋沢がいままでいただろうか、と思ってしまう。たとえば「虚仮論(こけろん)」。

夜も眠れず 昼間はおきられぬものは
頑(かたくな)におのれを閉じて苔の夢をみている
石の音を聴いている
わずかに 耳鳴りのようなこおろぎの声が
いちめんの沈黙のさなかにきこえぬではないが
それよりも終わりを思っている 初めを思い出している

 「それよりも終わりを思っている 初めを思い出している」に私ははっと驚く。「思う」ということばはだれもがつかうことばである。しかし、渋沢は、これまで「思う」をつかっていただろうか。
 詩にかぎらず、あらゆる文章は「思う」ことを書いたものである。(この文章は断定形で書かれているが、「詩にかぎらず、あらゆる文章は『思う』ことを書いたものであると思う。」の末尾の「思う」が省略されたものである。)だからわざわざ「思う」とは普通は書かない。渋沢も、これまでつかってこなかったと思う。(詳しく読み返してみなければわからないが……。)少なくとも「思っている」「思い出している」というふうに連続的に繰り返したことはないだろうと思う。
 「思う」を簡単に(?)つかってしまう渋沢に、ふいに出会って、不思議なことに、ゆったりした気分になる。「直列の詩学」が緊張感に満ちているのは当然として、「放電の詩学」でも何かしら充実したもの、枠からあふれていく力のようなものを感じたが、ここではそれが迫って来ない。ただ、ゆったりとことばを読む、という気持ちになる。
 「雪の日の深夜に」も「思う」は出てくる。「思う」を含むことばが出てくる。

〈暫く存命(ぞんみょう)の間(あいだ)〉という言葉に打たれながら
雪の日の深夜ひとり 部屋にいて
身のまわりを見まわし思い返して慄然とする

 「見まわし」の補語は「身のまわり」だろう。「思い返し」の補語はなんだろうか。「身のまわり」と言えなくもないが、普通のことばでは「身のまわりを思い返す」とは言わないだろう。言うとしても、そのとき「身のまわり」はほんとうに自分の「周囲」ではなく、そこにいる「私」(自己)を指してのことだろう。
 ふいに「私」(自己)が詩のなかに登場してきたような印象を受ける。意識して来なかった「私」(じこ)が『綺想曲』に登場しているという印象がある。
 詩はつづく。

いまにも雪崩れ落ちそうな雑事の山
いまごろチューリップの花が
いやに艶かしく水盤からこちらを覗き
こんな時刻に〆切に迫られて字を書いている
外では自然のままに梅のつぼみが 刻
刻に寒気のなかで呼吸(いき)づいていることを
わたしは知っているし
いまでは珍しくもない放送衛星が間もなく
打上げられようとしていることも知っている
それらこれやを思い返してさらに
慄然とするのだ 暫く存命の間よ

 「知っている」と「思う」はどう違うか。「知っている」は「頭」の世界である。「思う」は「こころ」の世界である。「知っている」は明確であり「思う」は明確ではない。後者には揺らぎがある。
 渋沢は、この詩では、不確かな「わたし」、「思う」とともにある「わたし」に出会っている。
 
 「身のまわりを見まわし思い返して慄然とする」という行を、再び読み返す。すると、ひとつのことに気がつく。「思い返して」が書かれていなかったら、この詩はどうなるだろうか。詩そのものとしては、ほとんど変化がない。なくてもかまわない。しかし、渋沢は書かずにはいられなかった。
 だからこそ、 私は、この「思い返して」(思う)ということばに渋沢の「思想」が隠されていると思う。渋沢にとって非常に大切な何かが隠されていると思う。

 この詩には「思う」と同時に、もうひとつ不思議なことばがある。「自然」である。いま引用した部分の「自然」はなにげなく読んでしまう。植物の自然の変化をただ書いているだけのように思える。そして、この「自然」(自然のままに)は、先の「思い返して」と同様、省略されても意味的にはまったく変わらない。それでも、渋沢は「自然のままに」と書く。そこには実は渋沢の書こうとして書けない思い(思想)が隠されている。
 詩は、さらにつづく。

姿を消して死んでしまったと思った牡猫は
はからずも五日目の今日帰ってきたが
(奴め恋でもしていたのか) 今年ももう
身近にひとりの人を葬った 不慮の
死だ かつての乱世にはそれをこそしかも
〈自然の事〉と言ったという 自然の事と

 ここで繰り返される「自然」は梅について書いたときの「自然」とどう違うのか。
 たぶん渋沢の「思い」のなかでは同じものであろう。「自然の事」というときの「自然」は「不慮」に対してつかわれているのだが、それ以上のものを感じてしまう。
 季節のなかで梅は開き、散り、実を結び、枯れ、ふたたび花開く。繰り返しがある。繰り返すのが梅である。同じように、人は生まれ、死んでいく。それが人間の「自然」である。たとえ、それが「不慮」の死であっても、死は人間にとっての自然、自分の力ではどうすることもできない何かである。自然とは人間の力のおよばない世界の総称である。
 そういう自然に対する向き合い方はいろいろある。「知っている」(知識)として向き合う方法。「思う」という方法。渋沢は、「思う」という方法に、ふいに気がついたのかもしれない。

 「暫く存命の間」とは人間が生きている間、ということだろう。それは「死」と対比しての「思い」である。それは「知」ではなく「思い」である。思想である。
 「知識」は時代によって変わる。しかし「思い」(思想)はかわならい。そうした「思い」を渋沢は書き始めたのかもしれない。
コメント
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