詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(30)

2006-06-27 13:01:23 | 詩集
 「詩人の骨」(『星曼陀羅』)。偶然手にした尾形亀之助の『障子のある家』。その入手した経緯と、読んだ感想が語られている。

ただ驚いたことには、そして多分に異様なことには、自序の最後に注記のようにして「尚、表紙の緑色のつや紙は間もなく変形しやぶけたりして、この面はゆい一冊の本を古ぼけたことにするでせう」などとあるではないか。再販本でさえ、ほぼ四十年後の今まさにその通りの姿になっている。

 「異様なことに」とは何が「異様」なのだろうか。本が古ぼけることを作者が自覚していて、それを自覚のまま書いており、それがそのまま現実になっているということだろう。ことばが現実になる--そのことが「異様」だと渋沢は書いている。しかも、その本が実物(というか、最初のもの、オリジナルのもの)ではなく、再販本(コピー本、複製本)なのに、それがオリジナルなことばの予言どおりになっているということが「異様」なのである。ことばはオリジナルを越えて、そのことばが書かれた別の本にも現実となって具体化している。そのことが「異様」なのである。そして、そのことに渋沢は「驚い」ているのだ。
 この「異様な」ことがらは、詩の最後の行で美しく完結する。尾形のことばが引用され、そのことばどおりのことを渋沢は思う。尾形のことばが、尾形のことばとしてではなく、渋沢のことばになってしまう。

彼等の中の或者はひよつとしたら如何にも感に堪へぬといふ様子で言ふだらう『これは大昔にゐた詩人の骨だ』と。

 渋沢は、このとき渋沢が『障子のある家』を読んでいる間中、渋沢のことばがすべて尾形の「掌」の上で動いていたことを知る。尾形の「構造(骨)」の中を動いていたことを知る。
 動きながら「ただ……」と渋沢は骨に肉をつけていたのである。(「ただ」という書き出しで始まる感想は、先に引用した文のほかにもある。)その「ただ」は肉とはいいながらも「骨」を豊かにしているとはいえない。「骨」を隠し、「骨」を目にやさしいものに変えているとはいえない。いわば、渋沢の「骨」を照らす仕組みになっていると言った方がいいかもしれない。尾形の「骨」に誘われて、渋沢が「骨」になって、ことばをもらしていると言った方がいいかもしれない。
 このことが私には非常におもしろい。
 渋沢は「直列の詩学」にしな「放電の詩学」にしろ、自分のことばを動かそうとしていた。自分のことばで世界をつくりだそうとしていた。しかし、ここではそういう「意図」はない。単純に尾形のことばに誘われるままに渋沢のことばを動かしている。そうすることで、尾形のことばそのものに重なってしまう。その瞬間が、私には、とても美しく感じられる。
 あ、渋沢の理想、渋沢のことばが内に秘めている願い、見果てぬ夢は「詩人の骨」なのだと納得してしまう。


(余祿として)
 2006年06月26日の「日記」に松尾真由美「きわやかな供物……」の感想を書いた。松尾は広瀬のことばを引用しながら、松尾でも広瀬でもない「場」へことばを動かしていこうとしていた。松尾がめざしている「どこ」は、意外と、「外」ではなく、「骨」の内側にあるかもしれないと、渋沢の詩を読みながら、ふと思った。遠く遠くへと、重力を引き剥がすようにして遠くへ動きながら、その内部に、重力の「骨」を抱え込むことがあるかもしれないと思った。
コメント
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