監督 アレクサンダー・ロゴシュキン 出演 アンニ=クリスティーナ・ユーソ、ヴィクトル・ヴィチコフ、ヴィル・ハーパサロ
フィンランド兵士がロシア兵士に捕らえられる。足かせをつけて山に取り残される。そこから脱出するシーンがおもしろい。『抵抗』のように、ただひたすら、ことばもなく兵士の手作業を延々と映し出す。眼鏡のレンズを外して組み合わせ、そのなかに水を入れて凸レンズをつくる。火を燃やす。岩に打ち込まれた金杭(足かせが括られている)の上で小枝を燃やす。水をかける。岩がパチンと割れる。繰り返す。延々と繰り返す。それがなんとも濃密な時間である。まあ、最後には成功するんだろうと思いながらも、なんだかどきどきはらはらする。興奮する。
濃密な時間は暮らしであり、思想である。フィンランド兵士は、手持ちのもの(たとえば眼鏡)をつかって状況を切り開くことを考える。そのために根気を発揮する。時間がどれだけかかるか、ということは気にしない。これをやれば、こうなる、と現実のなかで状況を切り開く行動をとることができる。
彼は、逃れていった先で一人の女と出会う。けがをしたロシア兵士とも出会う。そこで出会った女の暮らしも、なんともいえず、深い深い時間を持っている。トナカイを飼育し、潮の満ち引きを利用して魚をとる。そこに、その土地で暮らす人の知恵、思想が濃密にでている。
人の思想が濃密に存在する場というのは、どこでも美しい。どこでも豊かである。そこに生活することはとても困難をともなうものなのに、あ、ここでくらしてみたいという夢を誘い出す。女の暮らしは、そういうものだ。
ロシア兵士があやまってフィンランド兵士を銃撃する。死の境をさまよう男を、女は昔ながらの土俗的な祈りで呼び戻す。魂を肉体に呼び戻す。このシーンも、その前に女の時間の豊かさ、強さを見ているので、とても納得がゆく。私たちの知らない思想、私たちの知らない肉体と時間、そういうものがたしかにどこかにあるのだ。
人にはかならず、自分自身の時間を濃密にすることができる場がある。思想を持つことができる場がある。
そういうことを信じさせてくれる映画である。
おだやかで、ユーモアにも満ちた、ゆるぎのない映画である。
フィンランド兵士がロシア兵士に捕らえられる。足かせをつけて山に取り残される。そこから脱出するシーンがおもしろい。『抵抗』のように、ただひたすら、ことばもなく兵士の手作業を延々と映し出す。眼鏡のレンズを外して組み合わせ、そのなかに水を入れて凸レンズをつくる。火を燃やす。岩に打ち込まれた金杭(足かせが括られている)の上で小枝を燃やす。水をかける。岩がパチンと割れる。繰り返す。延々と繰り返す。それがなんとも濃密な時間である。まあ、最後には成功するんだろうと思いながらも、なんだかどきどきはらはらする。興奮する。
濃密な時間は暮らしであり、思想である。フィンランド兵士は、手持ちのもの(たとえば眼鏡)をつかって状況を切り開くことを考える。そのために根気を発揮する。時間がどれだけかかるか、ということは気にしない。これをやれば、こうなる、と現実のなかで状況を切り開く行動をとることができる。
彼は、逃れていった先で一人の女と出会う。けがをしたロシア兵士とも出会う。そこで出会った女の暮らしも、なんともいえず、深い深い時間を持っている。トナカイを飼育し、潮の満ち引きを利用して魚をとる。そこに、その土地で暮らす人の知恵、思想が濃密にでている。
人の思想が濃密に存在する場というのは、どこでも美しい。どこでも豊かである。そこに生活することはとても困難をともなうものなのに、あ、ここでくらしてみたいという夢を誘い出す。女の暮らしは、そういうものだ。
ロシア兵士があやまってフィンランド兵士を銃撃する。死の境をさまよう男を、女は昔ながらの土俗的な祈りで呼び戻す。魂を肉体に呼び戻す。このシーンも、その前に女の時間の豊かさ、強さを見ているので、とても納得がゆく。私たちの知らない思想、私たちの知らない肉体と時間、そういうものがたしかにどこかにあるのだ。
人にはかならず、自分自身の時間を濃密にすることができる場がある。思想を持つことができる場がある。
そういうことを信じさせてくれる映画である。
おだやかで、ユーモアにも満ちた、ゆるぎのない映画である。