詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

映画「ククーシュカ」

2006-06-05 23:42:41 | 映画
監督 アレクサンダー・ロゴシュキン 出演 アンニ=クリスティーナ・ユーソ、ヴィクトル・ヴィチコフ、ヴィル・ハーパサロ

 フィンランド兵士がロシア兵士に捕らえられる。足かせをつけて山に取り残される。そこから脱出するシーンがおもしろい。『抵抗』のように、ただひたすら、ことばもなく兵士の手作業を延々と映し出す。眼鏡のレンズを外して組み合わせ、そのなかに水を入れて凸レンズをつくる。火を燃やす。岩に打ち込まれた金杭(足かせが括られている)の上で小枝を燃やす。水をかける。岩がパチンと割れる。繰り返す。延々と繰り返す。それがなんとも濃密な時間である。まあ、最後には成功するんだろうと思いながらも、なんだかどきどきはらはらする。興奮する。
 濃密な時間は暮らしであり、思想である。フィンランド兵士は、手持ちのもの(たとえば眼鏡)をつかって状況を切り開くことを考える。そのために根気を発揮する。時間がどれだけかかるか、ということは気にしない。これをやれば、こうなる、と現実のなかで状況を切り開く行動をとることができる。
 彼は、逃れていった先で一人の女と出会う。けがをしたロシア兵士とも出会う。そこで出会った女の暮らしも、なんともいえず、深い深い時間を持っている。トナカイを飼育し、潮の満ち引きを利用して魚をとる。そこに、その土地で暮らす人の知恵、思想が濃密にでている。
 人の思想が濃密に存在する場というのは、どこでも美しい。どこでも豊かである。そこに生活することはとても困難をともなうものなのに、あ、ここでくらしてみたいという夢を誘い出す。女の暮らしは、そういうものだ。
 ロシア兵士があやまってフィンランド兵士を銃撃する。死の境をさまよう男を、女は昔ながらの土俗的な祈りで呼び戻す。魂を肉体に呼び戻す。このシーンも、その前に女の時間の豊かさ、強さを見ているので、とても納得がゆく。私たちの知らない思想、私たちの知らない肉体と時間、そういうものがたしかにどこかにあるのだ。
 人にはかならず、自分自身の時間を濃密にすることができる場がある。思想を持つことができる場がある。
 そういうことを信じさせてくれる映画である。
 おだやかで、ユーモアにも満ちた、ゆるぎのない映画である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貞久秀紀「数のよろこび」

2006-06-05 22:49:35 | 詩集
 貞久秀紀「数のよろこび」(「現代詩手帖」6月号)はことばのいいかげんさを軽やかに笑う。連作のうちの「松」

 松が二、三本、道のわきに生えている。
 あとから思いかえしてみると、二本でも三本でもなく、二、三本として思いかえされる。
 べつの日におなじ道をあるいて近づいてゆけば、二本か三本かのいずれかがある。

 「二、三本」というのはしばしばつかう数ではあるが、貞久がつかっているようには私はつかわない。松の数を数えるのに「二、三本、」とは私は絶対に(というと言い過ぎだろうか)言わない。「鉛筆を二、三本持ってきて」とは言う。誰かに何かを頼むとき、たぶん相手に「ゆるやかな」印象を与えるためにそういうのだと思う。どちらでもかまわないというニュアンスが、強制力をやわらげるからだろう。(もちろん、こういうことはいちいち意識していうわけではなく、なんとなく、そういうふうにいうのが習慣だからだろう。)そして、そんなふうに実際に「二、三本」ということばをつかう習慣があるからこそ、「松が二、三本、道のわきに生えている。」という文にであっても、最初は違和感はない。すっと読み過ごしてしまう。
 ここに「わな」がある。「詩」の入り口がある。深い意識のないまま、すっと貞久のことばに誘い込まれる。

 あとから思いかえしてみると、二本でも三本でもなく、二、三本として思いかえされる。

 そんな馬鹿な、と言いたいが、最初の一行で「二、三本」を受け入れてしまったので、なんとなくそんな馬鹿な、と言いそびれてしまう。二本と三本は数えなくても一目でわかる。二本と三本を見間違えることなど有り得ない。見間違えたとしても、それを二本か三本かわからないはずがない。二本を三本と勘違いして思い返すか、逆に三本を二本として思い返すかのどちらかである。
 貞久は、ありそうで、絶対にありえないことを書いている。

 べつの日におなじ道をあるいて近づいてゆけば、二本か三本かのいずれかがある。

 これはもちろん、そうである。現実には「二、三本」という数はありえないからである。そんな数は目では確認できない。数えられない。
 だから、この行にであって、ふっと安心し、それが体の奥から笑いとなって立ち上がってくる。
 しかし、なぜ、こんなに簡単に貞久のことばにだまされたのだろうか。誘い込まれたのだろうか。
 たぶん長さが関係している。ことばの単純さが関係している。
 「松」という作品は「一目」で読むことができる。ことばの意味を、これはどういうことだろうか、と確認しながら読み進むのではなく、確認できないままに読み進んでしまう「短さ」が、ここにある。
 「現代詩」は難解である、とは言い古されたことばであるが、ここには難解さはなく、平易さがある。平易すぎて、すっと読み落としてしまうものがある。
 貞久は、これを巧みに利用している。
 私たちは文字を読むとき目で読むのはもちろんだが、たぶん目で読んでいるという意識がないまま、目で読んでいる。目がどれくらいの分量のことばなら一気に把握できるかを意識しないで読んでいる。貞久はこれを逆手にとっている。一目で読めることばを差し出して、私たちの目の読解力を笑うのである。
 その題材に、また目の読解力をあざ笑うように、道のわきの松の「二、三本」を提出するところが巧みである。とても技巧的であり、その技巧がわざとらしくない。さりげない。だから素直にだまされたような気持ちで笑ってしまう。

 では、それにつづく「或るまとまり」はどうか。「公民の庭」はどうか。
 これは一目で読める分量ではない。しかし、「松」で、貞久マジックに誘い込まれているので、そのまま引き込まれてしまう。そして連作の最後の「子規の小松」で「二三本の小松」という数え方に出会い、読み進む内に、また「あっ」と叫ばされる。「三本松」はみもと松であり、それは「本から三つに分かれた一本松である」。
 え、一体何本が正しい?
 正しいものなどないのである。正しいことがあるとすれば、目は錯覚する。一目で何かを把握し、それはしばしば間違いであるということだけが「正しい」のかもしれない。ことばは「目」で読むと、しばしば間違うものである。

 貞久はことばを目で遊ぶのが大好きな詩人である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする