詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新川和江「田舎のオフェーリア」

2006-06-17 12:37:56 | 詩集
 新川和江が「田舎のオフェーリア」(「something 」3)で「体験したことをそのまま書いて詩になることは甚だ稀である。(略)詩人は虚構をまじえることで、ものの本質や、事実の奥に隠れている真実を、目に見えるものにして提出するのである。」と詩を定義している。その上で、とてもおもしろいことを書いている。
 「水の中の城」に登場するゲゼレ氏について、ある英詩人から、それが誰なのか問われた。「人名事典にあたってみたが不明なので教えて欲しい」と問われた。ところが答えようがない。新川の想像の人物だからである。そして、次のように書く。

 (登場人物がどういう名前であるかは)この詩にとっては枝葉末節。この詩のポイントは結びの四行にあって、すべてはそこへ読者を案内するための絵地図に過ぎないのだったから。

 私は、このことばに非常に驚いた。私が「水の中の城」で楽しく読んだ部分と新川が読者に詠んでほしいと願っている部分がまったく違っていることを知ったからである。新川が読者を案内しようとした世界は……。(荒川は「四行」と書いているが、便宜上5行引用する。)

水の中の城の主(あるじ)もやはり死んだのでしょうか
いいえ とわたしは思います
水は 城館を濯(あら)い 歳月を濯い 生を濯い 死をも濯い
その流れに 跡切(とぎ)れが無いように
水が所有するいのちの総てにもまた 跡切れは無いと

 新川のいいたいことはとてもよくわかる。ただ、私はこの部分は新川の意図に反して、付録として読んでしまった。「ゲゼレ氏」を登場させたために、結末としてそういうことを書かざるを得なくなったに過ぎないと思って読んでいた。「ゲゼレ氏」を新川は想像上の人物だと書いているが、頭でそうした人物をつくりだしてしまったために、頭でその人物についての結末、そしてそうした人物を登場させてしまった想像力について「結末」をつけているだけという印象がある。頭のなかの世界、きちんと整理された論理、精神の抒情という印象がある。(もっとも、これは新川が「ゲゼレ氏」を想像上の人物と書いた文を読んでからの感想である。それ以前は、「ゲゼレ氏」のことは私の感想のなかには含まれなかった。最後の4行は、「結末」らしい終わり方だなあ、とだけ思った。「精神の抒情」という印象は、今思ったことである。)
 私は、こうしたことばに対しては、なるほどなあ、とは思うけれど、心底感動はしない。肉眼を感じないからだ。

 私が感動したのは、まず、書き出しの4行である。

水が所有する建造物に
相似のかたちでほとりに聳える城館よりも
いたく惹かれるようになったのは
あの秋の旅いらいのことです

 水に映った城を「水が所有する」と書いている。もちろん水は城を所有などしない。ただ映しているだけである。しかしそれを「所有する」と書く。この「比喩」のなかには、新川の強い欲望がある。水となって、水が映している城を所有したいという欲望がある。その欲望の強さに私は惹かれた。水になりたいという欲望に惹かれたと言い換えてもいい。
 水になりたい、とはどういうことか。
 
明日はベルギーを去らねばならぬという日の午後
離れがたい思いでわたしは岸に佇み
水にうつって幽かにゆらめいている城館をしばし眺めました
小指ほどの雑魚が何匹も遊泳していて
おどろいたことにかれらは
とざされたままの城館の窓を
いとも自由に いともたやすく 出入りしていたのです

 水になるということは、単に城館を映すということではない。「鏡」になることではない。「映像」を所有することではない。「魚」という想像力を、自由に白のなかへ出入りさせることだ。城そのものを肉体にしてしまって、その自分の肉体のなかを自由に歩き回ることだ。水となって城を映すとき、新川は水であると同時に城そのものであり、またその城を自由に出入りする魚そのものでもある。そのとき、水、城、魚、新川の肉体の区別はない。すべてが一体となっている。
 「小指ほどの雑魚」というときの「小指ほどの」と単なる比喩ではない。「5センチ足らずの」と言うこともできるし、「折れた鉛筆ほどの」と言うこともできるだろうが、新川は「小指ほどの」と書く。そのとき、そこには新川の肉体が知らず知らずの内に入り込んでいる。このとき、新川の肉体は、小指一本に収斂し、魚となって、水のなかを泳ぎ、同時に魚となって城のなかへ入っている。水を感じ、城を感じている。
 そしてそのとき、私自身も、魚となって、新川の泳ぎについていく。閉ざされた城の窓から内部に入っていく。水のなかで、城が立体化する。映像という平面ではなく、立体になる。城が肉体として見えてくる。自分自身の肉体になる。
 新川の言う最後の4行は、魚となって、水となって、城を所有したよろこびを、後から頭で整理したもののように私には感じられるのである。
 


 なぜこんなことを書いたかと言うと……というのは、かなり強引かもしれないが……。6月10日の日記に書いた有田忠郎の作品への感想について、有田から手紙が届いた。その手紙には「誤植」が指摘されていた。「ALMEE」が犯した「誤植」と私が犯した「誤植」がある。私が犯した「誤植」は引用するときに間違えたもの。(6月10日の「日記」の引用は訂正しました。)

「この歌は……出たものではあるまいか」は、わたしの文章では「……ではあるまい」です。意味が正反対になりますね。

 不思議なことに、意味を正反対に取りながらも、私は誤読したという自覚があまりない。「誤読」(誤植)を指摘されているにもかかわらず、私がそこで書いた感想がぜんぜん変わらないと感じている。
 詩は「誤読」によって他者と結びつくのかもしれない。
 新川の詩を読んだ英詩人は「ゲゼレ氏」を実在した人物と「誤読」した。私は新川が書きたいと思った「4行」を付け足しだと誤読した。誤読しながら、何かを引き継ぎ、何かを引き渡す。それは「詩」という水の流れにとって、淀みなのか、あるいは障害物によってできたうねりなのか、よくわからない。しかし、そのときもたしかに「詩」のことばは水のように動くところへ動いているのだと思う。

 これは余分な自己弁解だったかもしれない。
コメント
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