詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

関富士子「3月が耳を濡らすので」ほか

2006-06-12 11:38:39 | 詩集
 関富士子「3月が耳を濡らすので」(http://www.interq.or.jp/sun/raintree/rain31/kugatu3.html#sangatu)を読む。冒頭の1連がおもしろい。

人が頭を揺すって不満や怒りや焦燥に歯噛みするとき
ミス・フリージアは同情深げに肯いて重たげなつぼみを揺するのである

 「揺すって」が二度出てくる。そしてそれは重なり合わないものであるはずなのだが、つまり一方は「不満や怒りや焦燥」とともにいる「人」(一般名詞、普通の人)であり、他方はその人に「同情」を寄せる個人(固有名詞、ミス・フリージアを持つ人間)である。同情される人と同情する人が、ともに「揺する」という動きをする。前者は「頭」をゆする。後者は「つぼみ」を揺する。「つぼみ」は「頭」の比喩であろう。すると、同情される人と同情する人がともに「頭」(つぼみ)を揺することになる。「つぼみ」が「頭」ならば、「頭」はまた「つぼみ」であるかもしれない。花開いていないもの、完成(?)の途上にあるものが「不満や怒りや焦燥」にとらわれるのか。完成の途上にあるものが「同情」をするのか。そうしたことが「揺する」というひとつの動詞が繰り返されることであいまいになる。どちらともとれるようになる。前者と後者の区別がつかなくなるかといえば、そうではなく、「歯噛み」と「肯く」という明確な動作の違いがくっきりと残る。そして、そこに明確な差異があるということによって、初めて「揺する」という動作で重なりうることがわかる。もし明確な区別が存在しないなら、重なるという問題は起きない。区別があるからこそ、重なる、ずれる、その重なり、ずれのなかで、何かがあいまいになる、ということが起きるのだ。

 「桜を見にいく」(http://www.interq.or.jp/sun/raintree/rain31/tatte3.html#sakura)にも、重なりとずれ、それを意識する感情の、ことばにならないものが、ことばにならないまま描かれている。詩はことばで書かれているのに、それをことばにならないものが、ことばにならないまま書かれているというのは言語矛盾のようであるけれど、そうとしか言いようのないものが書かれている。

ここでわたしたちは手を振ってまたねと言って別れた
その人は手を振りながらぎこちなく後ろを向き
あとは振り向きもせずに行ってしまった
駅までわたしを送ってくれて
じゃあと言って早足ですぐ見えなくなった
その刈り上げた首筋のあたり
いっしょに歩きながら駅前に来てようやく
うつむいて歩く人の横顔がくっきり見えたので
少しやせた? と尋ねたのだった
その人はうつむいたまま そう見えるかもしれない と答えた
それでようやく髪が短くなっているのに気づいた
床屋に行ったのねと言ったのだったか
そのあとわたしたちはすぐ駅に着き
じゃあとお互いにうなずきながら手を振った

 「手を振る」という行為が繰り返し書かれている。その反復の間に、それ以前の時間が記憶の形で反復される。時間の順序に従ってというよりは、時間を逆に戻るようにして反復される。
 この反復は、反復であることによって、けっして重ならない。今、という時間に出現してこない。何かを反復するとき、というか、何かを反復することができるとき、それはけっして取り返せないものであるから、人は、こころのなかで繰り返してみるしかないのだ。
 詩は、以前、「その人」といっしょに見た桜を、「その人」の住む家の近くにある公園の桜を一人で見に行く(桜を見るという行為の反復)姿を描いているが、この反復のなかで明らかになるのは「不可能」性だけである。
 桜を見に行くという行為が反復され、行為(動詞)そのものが重なるとき、そこから逃げていくもの、けっして重ならないものがよりくっきりと浮き上がる。

今はもうだめだ
あたりは暗くて表情が見えなかった
それ以上どうしたら近づけるのかわからなかった

 切なさ、あるいはすべての感情は、そうした反復と、反復では取り返せないものを意識するこころによって、体に染み付いていくものなのだろう。

あまりにためらいもなく桜がみずから望むかのように
無造作に散るので
はらはらして積もった花びらを踏むのもためらわれた

とは、この詩のなかの3行だが、切なさもまたみずから望むかのように、無造作に、反復するしかないのだ。「無造作」とは、このとき、制御しようがないもの、命の自然な発露のあり方という意味である。自然な力である。
 「無造作」のなかに、ことばにならないことば、思いが強く潜んでいる。だからこそ、その無造作の結果としてある花びらを踏むことはできない。
 このとき、関は、花びらに自分自身を重ねて生きている。

 けっして重ならないものがある時、必然であるかのように重なり合うものもある。その瞬間に切なさが輝く。

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