鈴木ユリイカ「壁の中の青い犬」(「something 」3)。鈴木のことばは「詩」でしかありえない。というか、「詩」とは結局ことばなのだ、という単純なことを、鈴木の詩を読むとあらためて思う。
「青い犬」が何であるか、鈴木は説明しない。たぶん、できないのだ。最初に「青い犬」ということばが存在し、そのことばを動かしていくとき、「青い犬」はことばから実在に変化する。現実に存在するものをあらわすためにことばがあるのではなく、ことばがまず最初にあり、そのことばが動いていくとき存在が存在として立ち上がる。
という3行は、犬が見えるのか、見えないのか、どっちなのだ、と追求したくなるようなことばの動きだが、これは矛盾ではない。「壁の中にその犬はいた/だが まだ見えなかった」と書くことで初めて見えない姿で犬が存在し、いったん存在してしまうと、それは「壁の中」を一気に突き破って「空中に浮き上がっているように見え」るのである。存在しなかった犬、ことばでしかなかった犬が「見えなかった」と否定されることで、逆に存在を確固たるものにする。そして、いったん存在が確立されると、自在に動き始める。
「七つの頭」は普通の犬を否定する。否定することで、固有の犬になる。これは「まだ見えなかった」と否定することで存在を確立する想像力の動きと同じ物だ。鈴木のことばは「否定」を媒介にして動き、動くことで存在そのものに変わる。こうした動きそのもののなかに、鈴木の「詩」がある。
犬なのに「鳥が飛ぶように」と修飾される。犬であることが否定されることで、より強靱な犬になる。「炎の中をすす」むことは普通はできない。つまりそこではやはり犬であることが否定されることにより、より固有の、強烈な、神話的な犬という存在になる。
こうした運動のなかでの存在の確立、ある存在になることを「自分自身から次々に生まれているのだった」と鈴木は表現する。
想像力が躍動する、命にあふれた作品だと思う。
ただし、私には「機関銃の音 砲弾の音 閃光」以下の数行はつまらなかった。「体言止め」の数行は、鈴木の想像力が急速になっていることを物語っているが、速度が速すぎて、ことばに「うねり」が欠けている。それまでの「否定」をバネに、存在をより強固な物、手応えのある固有の物にするという鈴木の「詩学」がそこでは破綻している。その数行の描写(ことばの動き)は鈴木自身が目撃・体験したものではなく、「戦争体験」から取材したものだからだろう。他人のことばを自分自身のことばにするということは、鈴木のように卓越した言語感覚の詩人にとっても難しいことなのだ、と感じた。
*
同じ詩誌の田島安江「海のにおい」。第1連のおわりの3行がおもしろい。
人はもちろん「海の底」を歩けない。したがって、これは比喩である。比喩は比喩を語っている人には(田島には)、その存在のありようがくっきり見える。しかし、比喩で語られた本人には比喩など見えない。比喩で語られることは、田島にとっては比喩でしか語れない物だが、当の本人にとっては、語るようなことがらではないからだ。それは肉体に染み付いてしまった習慣だからである。肉体の自然だからである。肉体の無意識だからである。
肉体の自然、肉体の無意識は「思想」である。そうしたものがあって初めて人間は「他者」になる。「他者」として存在する。
さりげなく書かれているように見えるが、この詩には絶対的な「他者」との出会いが描かれている。出会いながらけっしてひとつになれないという思い、その思いがいっそうひとつになりたいという欲望を育てる--そういう出会いがしずかなことばの奥に感じられる詩だ。
ずいぶん長いあいだ 青い犬を
見たものはなかった しかしいまは
壁の中にその犬はいた
だが まだ見えなかった
その青い犬は空中に浮き上がっているように見え
七つの頭を次々にあげ まるで
鳥が飛ぶように 炎の中をすすみ
自分自身から次々に生まれているのだった
「青い犬」が何であるか、鈴木は説明しない。たぶん、できないのだ。最初に「青い犬」ということばが存在し、そのことばを動かしていくとき、「青い犬」はことばから実在に変化する。現実に存在するものをあらわすためにことばがあるのではなく、ことばがまず最初にあり、そのことばが動いていくとき存在が存在として立ち上がる。
壁の中にその犬はいた
だが まだ見えなかった
その青い犬は空中に浮き上がっているように見え
という3行は、犬が見えるのか、見えないのか、どっちなのだ、と追求したくなるようなことばの動きだが、これは矛盾ではない。「壁の中にその犬はいた/だが まだ見えなかった」と書くことで初めて見えない姿で犬が存在し、いったん存在してしまうと、それは「壁の中」を一気に突き破って「空中に浮き上がっているように見え」るのである。存在しなかった犬、ことばでしかなかった犬が「見えなかった」と否定されることで、逆に存在を確固たるものにする。そして、いったん存在が確立されると、自在に動き始める。
「七つの頭」は普通の犬を否定する。否定することで、固有の犬になる。これは「まだ見えなかった」と否定することで存在を確立する想像力の動きと同じ物だ。鈴木のことばは「否定」を媒介にして動き、動くことで存在そのものに変わる。こうした動きそのもののなかに、鈴木の「詩」がある。
犬なのに「鳥が飛ぶように」と修飾される。犬であることが否定されることで、より強靱な犬になる。「炎の中をすす」むことは普通はできない。つまりそこではやはり犬であることが否定されることにより、より固有の、強烈な、神話的な犬という存在になる。
こうした運動のなかでの存在の確立、ある存在になることを「自分自身から次々に生まれているのだった」と鈴木は表現する。
想像力が躍動する、命にあふれた作品だと思う。
ただし、私には「機関銃の音 砲弾の音 閃光」以下の数行はつまらなかった。「体言止め」の数行は、鈴木の想像力が急速になっていることを物語っているが、速度が速すぎて、ことばに「うねり」が欠けている。それまでの「否定」をバネに、存在をより強固な物、手応えのある固有の物にするという鈴木の「詩学」がそこでは破綻している。その数行の描写(ことばの動き)は鈴木自身が目撃・体験したものではなく、「戦争体験」から取材したものだからだろう。他人のことばを自分自身のことばにするということは、鈴木のように卓越した言語感覚の詩人にとっても難しいことなのだ、と感じた。
*
同じ詩誌の田島安江「海のにおい」。第1連のおわりの3行がおもしろい。
海の底を歩いてきたはずなのに
その人は
海の底を歩いてきたことに気がつかない
人はもちろん「海の底」を歩けない。したがって、これは比喩である。比喩は比喩を語っている人には(田島には)、その存在のありようがくっきり見える。しかし、比喩で語られた本人には比喩など見えない。比喩で語られることは、田島にとっては比喩でしか語れない物だが、当の本人にとっては、語るようなことがらではないからだ。それは肉体に染み付いてしまった習慣だからである。肉体の自然だからである。肉体の無意識だからである。
肉体の自然、肉体の無意識は「思想」である。そうしたものがあって初めて人間は「他者」になる。「他者」として存在する。
さりげなく書かれているように見えるが、この詩には絶対的な「他者」との出会いが描かれている。出会いながらけっしてひとつになれないという思い、その思いがいっそうひとつになりたいという欲望を育てる--そういう出会いがしずかなことばの奥に感じられる詩だ。