詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『渋沢孝輔全詩集』を読む。(28)

2006-06-15 14:49:37 | 詩集
 『星曼陀羅』(1997)は散文詩集である。「わたし」(あるいは、それに類する主人公?)が登場するが、ある性質を担っている。
 「詩の相好」の2連目。

 こんなことを言ったからといって、わたしはなにも無常の観想者を気取っているわけではない。まして早なりの諦観者などではなく、どちらかといえば晩季頽唐の危うい美にわけもなく脳髄を酔わせ、「〈凋落〉という語に要約されるあらゆるもの」にこそ奇っ怪にも興趣をそそられる種類の人間にはちがいないが、それとてどうしようもなく骨がらみの本性や趣味というわけではない。

 断定は「ない」という否定形で語られるだけである。否定でないものさえ「ちがいない」という「ない」を含む形をとる。そして「ない」と「ない」の隔たりのなか、「ない」がつくりだす構造(時間・空間)のなかにことばが動いていく。「ない」をつかわずに語れるものを探していく。
 次のような具合である。

この怠惰な性癖はもういまさら矯正しようもなく、さりとてなんらかの奇策に頼ってでも最終的な平安への道を欲していないわけではない以上、ひとまずこのままに開き直ってみるよりほかはないではないか。案外そこに心安らぐ展望が開けないでもないし、実際この世には、思いがけない抜け道というものも結構用意されているらしく思われるからである。
 
 否定の「ない」につうじるもの。「矯正しようもなく」。これは今引用した部分では一回だけである。一方、二重否定によって肯定につうじる「ない」は「欲していないわけではない」「開き直ってみるよりほかはないではないか」「開けないわけではない」と3回も登場する。そして、その二重否定の「ない」と「ない」の間を意識することが、たぶん、渋沢にとっての「詩」なのである。
 「ない」と「ない」の二重否定の「ない」の間に、「思いがけない」という絶対否定の存在が滑り込む。それが「詩」であると「思われる」。ここで、やっと「肯定」、しかし、やわらかな肯定があらわれる。
 この二重否定と肯定の関係は、私には、「直列の詩学」に通じるものを含んでいるように思える。結びつくはずのないものを結びつけ、そこから絶対的なエネルギーとして噴出することば--というものが「直列の詩学」がめざしていたものだろう。そして、その絶対的エネルギーとして噴出することば、それが「思いがけない」存在でもある。
 行分けで書かれた「直列の詩学」、散文体での「直列の詩学」。そこには単純な肯定と、「ない」の二重否定による肯定の違いがある。前者はひたすら言語運動によって世界を切り開く。いままで存在しなかった世界を構築する。それに対して後者は「ない」と「ない」によってある程度の枠組みをつくっておいて、その内部を耕す、深めるという印象がある。
 たとえば「詩の相好」は『今昔物語』のなかの僧に関する物語がふたつ用意される。共通するのはともに僧らしく「ない」僧が極楽へ行くというものである。ふたりとも僧らしくないのではなく、実は僧らしくないのではない、のである。「ない」のではない「ない」というときのふたつの「ない」の間に共通するのは、知恵ではなくころである、というのが『今昔物語』の語るところである。
 「ないのではない」という二重否定は「頭脳的」な世界のようであるが、実は、それがこころを明るみに出すというのが、この作品の一番のおもしろい点かもしれない。


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