廿楽順治「たかくおよぐや」(「現代詩手帖」6月号)の、ことばの動きについて、ちょっと書きたくなる。省略の仕方がとても気になる。
「主語」は何? 「上と下」というけれど、何の「上と下」? 何もわからないのに、「高さをはかってくれるひともいなくなった/(もう平成だもんな)」まで読むと、5月5日の「背比べ」を思い浮かべてしまう。「たかくおよぐや」はもちろん「こいのぼり」である。
だからといって何かがわかるわけではない。何もわからない。
三日も同じ料理がでればだれだって(どうして毎晩しめ鯖ばっかりだすのかねえ)と言うだろう。それに対して「三日目です」といわれれば、たしかに三日目だろうけれど、と一瞬ことばを失うだろう。これは「背比べ」ならぬ「ことば比べ」である。人は「背比べ」の時をへて、奇妙な「ことば比べ」の時代を生きていく。柱の傷の上をみえないままのぼるように、こころの傷を隠して、ここではなく、別の場へのぼってしまう「ことば比べ」としての「くらし」がある。
そういうことを、「もの」として、「もの」としかいいようのないことばの動きとして、廿楽は書いてみたいのだろう。暮らしのなかに潜んでいる「もの」としてのことばを書いてみたいのだろう。
その視点で考えてみれば(というか、ふりかえってみれば)、たとえば背比べの線の位置。それはあるところに集中している。おとなになったあとの背の高さは「目のさき」にはない。あのときはかった高さの「上と下が切れてしまっている」(存在していない)。その後、子供が成長しなくなったということではなく、成長するけれどその成長を「背比べ」として残さなくなったということだ。背比べの線の位置をのりこえて(廿楽のことばをつかえば「のぼってい」って)、そしてその見えない線のなかに、ほんとうは「くらし」がある。人は「くらし」のなかへ成長していくということだろう。
「くらし」といえば、やはり男と女と飯である。「しめ鯖」の話が出てくるのもうなずけるのである。
脈絡はぜんぜんない。あるいは、廿楽のなかの脈絡がはっきりしすぎていて、それを省略してしまうので、それが私にみえないだけということかもしれない。
「現代詩手帖」5月号は「2000年代の詩人たち」という特集を組んでいて、廿楽もそのひとりとして紹介されているのだが、この「くらし」の脈絡の隠し方というか、見せ方というか、そのことばの動きがとても大人っぽい。若々しくない。「くらし」知ってるでしょ? 子供時代あったでしょ? 肉体の奥を揺さぶるように、見えるものと見えないもの、見えないと思っていたものがあとからちらりちらりとああ、あのこと?という感じでよみがえる時間のあり方を、水分を含んだ和紙のようなものですくいとるような、いやあな感じがする。大人でしかうごかせないことばの動き。おとなの肉体としてのことばの動き。10代の若者にはありえないような、つまり神経を脂肪で隠したような、奇妙な動きである。「くらし」を省略しながら、省略した「くらし」しか見せないというような高等技法の詩なのだろうなあ……。
*
小木曽淑子「終幕」は「視力」を信じきった詩である。その信じきり方が気持ちがいい。廿楽は「見えない」ものは「見ていないだけ」、ほらここにこんなふうに気持ちの悪いもの(?)があるよ、と差し出すのに対し、小木曽は「私にはこれこれが見えます」ときれいな発音で言い切る。こういう歯切れのいいことばは、たしかに若者ならではという感じがして気持ちがいい。
「光」「瞳孔」「顕れ」。視力が満ちあふれている。(第3連には「眼差し」ということばもある。)ただし、その視力はいささか「現代詩」に汚染されているかもしれない。「取り返しのつかぬ重さとなって」という行のなかにある「重さ」への無意識の依存が気になる。「重さ」ではなく「軽さ」こそ視力でとらえるべきではないだろうか。スピードを視力でとらえるべきではないだろうか。(と、私は願ってしまう。)
うーん、第一連の視力はどこへ行ってしまったのだろうか。「完成された完成された唯ひとつのものが立ち上がってくる」のはいいのだけれど、何によってその存在を確認するのだろうか。「視力」ではそれはどんなふうに見えるのだろうか。「視力」は肉眼から観念としての視力(脳のなかの視力=頭脳の明晰さ)に知らないあいだに変化してしまっているように思える。
その直前の「吐き出されるながい息が/空間をひとつひとつ吹き消していく」が呼吸と視力をいっしょにとらえていて美しいだけに、最後の2行が、読んでいてとても悔しい。もっと頑張って肉眼で、強靱な視力で、その存在をとらえてほしかったと思う。
(補足?)
「重さ」--これをとらえるのは触覚である。「彼らが記憶するのではない 記憶が/彼らを見つめ その両手にしっかり捕らえるのだ」(5連目の終わりの2行)。「両手」ということばがあらわしているように、「重さ」は手で測る。手から筋肉のなかをとおってくる何かが重さである。起点は触覚である。この行に「見つめ」ということばがあるが、小木曽は視力と触覚を融合することをこころみているのかもしれない。肉眼では闇は見えない。闇のなかで視力の働きをするのは触覚である。
それはそうではあるけれど、こうした考え方そのものが「現代詩」的である。もっと強靱な肉眼が見た世界を読ませてもらいたいと思わずにはいられなかった。
目のさきにはもう高さなんていらない
上と下が切れてしまっているのに
くらしはまだうごいている
ちょっときもちわるいが
こうしてのぼっていく方法にまちがいはない
なんて
わらいながら
高さをはかってくれるひともいなくなった
(もう平成だもんな)
「主語」は何? 「上と下」というけれど、何の「上と下」? 何もわからないのに、「高さをはかってくれるひともいなくなった/(もう平成だもんな)」まで読むと、5月5日の「背比べ」を思い浮かべてしまう。「たかくおよぐや」はもちろん「こいのぼり」である。
だからといって何かがわかるわけではない。何もわからない。
おとうさん
おかあさん
いってまいります
ぼくはもうこのおんなでいいのです
(どうして毎晩しめ鯖ばっかりだすのかねえ)
三日目です
三日も同じ料理がでればだれだって(どうして毎晩しめ鯖ばっかりだすのかねえ)と言うだろう。それに対して「三日目です」といわれれば、たしかに三日目だろうけれど、と一瞬ことばを失うだろう。これは「背比べ」ならぬ「ことば比べ」である。人は「背比べ」の時をへて、奇妙な「ことば比べ」の時代を生きていく。柱の傷の上をみえないままのぼるように、こころの傷を隠して、ここではなく、別の場へのぼってしまう「ことば比べ」としての「くらし」がある。
そういうことを、「もの」として、「もの」としかいいようのないことばの動きとして、廿楽は書いてみたいのだろう。暮らしのなかに潜んでいる「もの」としてのことばを書いてみたいのだろう。
その視点で考えてみれば(というか、ふりかえってみれば)、たとえば背比べの線の位置。それはあるところに集中している。おとなになったあとの背の高さは「目のさき」にはない。あのときはかった高さの「上と下が切れてしまっている」(存在していない)。その後、子供が成長しなくなったということではなく、成長するけれどその成長を「背比べ」として残さなくなったということだ。背比べの線の位置をのりこえて(廿楽のことばをつかえば「のぼってい」って)、そしてその見えない線のなかに、ほんとうは「くらし」がある。人は「くらし」のなかへ成長していくということだろう。
「くらし」といえば、やはり男と女と飯である。「しめ鯖」の話が出てくるのもうなずけるのである。
脈絡はぜんぜんない。あるいは、廿楽のなかの脈絡がはっきりしすぎていて、それを省略してしまうので、それが私にみえないだけということかもしれない。
「現代詩手帖」5月号は「2000年代の詩人たち」という特集を組んでいて、廿楽もそのひとりとして紹介されているのだが、この「くらし」の脈絡の隠し方というか、見せ方というか、そのことばの動きがとても大人っぽい。若々しくない。「くらし」知ってるでしょ? 子供時代あったでしょ? 肉体の奥を揺さぶるように、見えるものと見えないもの、見えないと思っていたものがあとからちらりちらりとああ、あのこと?という感じでよみがえる時間のあり方を、水分を含んだ和紙のようなものですくいとるような、いやあな感じがする。大人でしかうごかせないことばの動き。おとなの肉体としてのことばの動き。10代の若者にはありえないような、つまり神経を脂肪で隠したような、奇妙な動きである。「くらし」を省略しながら、省略した「くらし」しか見せないというような高等技法の詩なのだろうなあ……。
*
小木曽淑子「終幕」は「視力」を信じきった詩である。その信じきり方が気持ちがいい。廿楽は「見えない」ものは「見ていないだけ」、ほらここにこんなふうに気持ちの悪いもの(?)があるよ、と差し出すのに対し、小木曽は「私にはこれこれが見えます」ときれいな発音で言い切る。こういう歯切れのいいことばは、たしかに若者ならではという感じがして気持ちがいい。
彼らは絶え間なく注がれている
光によってなお孤立しながら
やがてあらゆるものが--そのようでしかありえぬ姿の
取り返しのつかぬ重さとなって
ひらく瞳孔の底から顕れ出ようとするとき
「光」「瞳孔」「顕れ」。視力が満ちあふれている。(第3連には「眼差し」ということばもある。)ただし、その視力はいささか「現代詩」に汚染されているかもしれない。「取り返しのつかぬ重さとなって」という行のなかにある「重さ」への無意識の依存が気になる。「重さ」ではなく「軽さ」こそ視力でとらえるべきではないだろうか。スピードを視力でとらえるべきではないだろうか。(と、私は願ってしまう。)
吐き出されるながい息が
空間をひとつひとつ吹き消していく
やがてあらゆる重さが闇のなかへ落下すると
そこから完成された唯ひとつのものが立ち上がってくる
うーん、第一連の視力はどこへ行ってしまったのだろうか。「完成された完成された唯ひとつのものが立ち上がってくる」のはいいのだけれど、何によってその存在を確認するのだろうか。「視力」ではそれはどんなふうに見えるのだろうか。「視力」は肉眼から観念としての視力(脳のなかの視力=頭脳の明晰さ)に知らないあいだに変化してしまっているように思える。
その直前の「吐き出されるながい息が/空間をひとつひとつ吹き消していく」が呼吸と視力をいっしょにとらえていて美しいだけに、最後の2行が、読んでいてとても悔しい。もっと頑張って肉眼で、強靱な視力で、その存在をとらえてほしかったと思う。
(補足?)
「重さ」--これをとらえるのは触覚である。「彼らが記憶するのではない 記憶が/彼らを見つめ その両手にしっかり捕らえるのだ」(5連目の終わりの2行)。「両手」ということばがあらわしているように、「重さ」は手で測る。手から筋肉のなかをとおってくる何かが重さである。起点は触覚である。この行に「見つめ」ということばがあるが、小木曽は視力と触覚を融合することをこころみているのかもしれない。肉眼では闇は見えない。闇のなかで視力の働きをするのは触覚である。
それはそうではあるけれど、こうした考え方そのものが「現代詩」的である。もっと強靱な肉眼が見た世界を読ませてもらいたいと思わずにはいられなかった。