詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

韓成礼「罪の氾濫する井戸」ほか

2006-06-20 10:19:16 | 詩集
 韓成礼「罪の氾濫する井戸」(「something 」3)。水には2種類の水がある。ひとつは、こんこんとわいてくる水。垂直の水。重力に逆らい噴き上がる水。もう一つは水平に流れていく水。重力に従い低い方へ流れていく。たとえば河。井戸は噴き上がる水ではないが、深く掘られた穴のなかで次第次第に積みあがってくる水だ。--とここまで書いて、積みあがってくる水の中に「罪」が潜んでいることに気がついた。井戸の水は、積み上げられ、やがて掬い取られ、流されることを願っているだろうか。韓の詩を読むと、そんな思いがわいてくる。

血を集めるために女たちは身が疼く
土は全身で地下水を回し
道を作りながら集まってきた血の熱気で
常に子宮は熱い
ひと月に一度水を入れ替えようと
女たちは井戸端に集まり

 土と肉体、水と血、井戸と子宮が交錯する。肉体が大地と共鳴する。融合する。韓は、自然と、いや宇宙と共鳴する力が強い詩人だ。宇宙を肉体の内部にとりこみ、ことばを動かす。そうすることで肉体を宇宙へ解き放つ。肉体を解き放つとき、肉体が隠していたもの、たとえば罪も解き放つ。

その井戸端に
前世の罪を犯した命たちが
するする集まって来て
糸蛇に青大将に花蛇に
ぶら下がったり逆立ちしている
前世の熱気を冷やした井戸端
水気のある身だからどうしようもなかった
恍惚な罪に引きずられて帰り

 「どうしようもなかった」。ここに韓のこころの深さ、広さがある。水はせき止められれば積みあがる。上へ上へとのぼる。解き放たれれば、下へ下へと流れる。それは水にはどうしようもないことである。宇宙の法則である。同じように、人間の血にも人間の力ではどうすることもできないものがある。肉体は水のように、何ものかにせき止められて「「罪」を積み上げ、一気に壁を越えてあふれ、流れていく。
 肉体で、その「罪」を引き受けることができない人間は、たとえば「うわさ」ということばで肉体以前のものを解放する。「気持ち」を解き放つ。気持ちもまた「井戸」のように「罪」を積み上げ、壁を乗り越えてあふれていく。いや、井戸のまわりでなら、「罪」が積みあがり、あふれてくる前に、桶を深く深くへ潜らせ、それをくみ上げて、わざとこぼすということもある。
 韓のこの詩には、宇宙と肉体と、その内部にある感情が一体となった力がある。

 韓は「水」に対する共鳴力が強い詩人のようである。「川辺にて」もとてもいい詩だと思う。「流れる川の水は絶えずして……」というような、精神ではなく、生な肉体がいつも水の中にある。

老けた二十歳がそのまま
若くなることも老けることもできずに
時折道に迷い
息を切らして流れて来た私の川水は
水流の中に込められた時間を
身を捩じってむかむかと吐き出し
反芻しながら流れていく

 「水流の中に込められた時間」とは韓自身だけの時間ではない。「前世」、すべての女たちの時間であり、宇宙の時間である。
 「むかむかと吐き出し/反芻」するという、一種の矛盾は、肉体と精神の「どうしようもない」関係そのものである。精神だけでは人間は生きられない。肉体がある。そのふたつは、かならずしも同じ行動を欲しない。矛盾したことがらを欲する。たぶん、矛盾の中にこそ、次へ進むための力があるからだ。せき止められた水が積みあがり、あふれ、流れていくように、矛盾は何かをせき止め、爆発させるための、宇宙が用意した方法なのである。
 「どうしようもない」。とは、いいながら、その「どうしようもない」ことができるというのが人間の力である。「どうしようもない」ことをしなくては人間になれないのである。
 強い包容力、寛容さ。それをささえる肉体感覚を感じた。もっともっと読んでみたい詩人である。

コメント
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