詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山田英子『夜のとばりの烏丸通』

2006-07-05 21:13:48 | 詩集
 山田英子『夜のとばりの烏丸通』(思潮社)。「通り庭の井戸」に非常に興味深い行がある。

『夜のまに渡れ
かくてのみ日を経れば
(長いこと会うてへんのやから)』

 私が興味深く感じたのは、(長いこと会うてへんのやから)の「こと」である。「長いこと、会っていない」とは標準語(口語)でもつかうが、こんなふうに古典の注釈を書く場合は、たぶん「長い間会っていないのだから」と書くだろう。書きことば「こと」はつかわないだろうと思う。(少なくとも私はつかわない。)
 このことを山田がどれくらい意識して書いているかわからない。たぶん、意識せず、ごく普通に、山田の肉体にしみついたことばをつかったのだと思う。意識するとしたら、京都のことば、山田の肉体になじんだことばで書きたい、ということだろう。「こと」にどんな意味があるか、ということまで考えてつかっていないと思う。
 私が関心をもつのは、その「無関心さ」(無意識さ)である。人は意識的にことばをつかう。同時に無意識的にことばをつかう。そして、無意識につかったことばの方に、その人自身の思想(肉体にしみついた考え)があらわれる。

 「長いこと」の「こと」は標準語では「間」(時間)である。京都ことばでも同じなのか。私は違うと感じた。山田の書いている詩の数々が「長いこと」の「こと」は「間」(時間)という標準語とは少し違うと感じさせるのだ。もちろん「間」(時間)も含まれるが、単純に何日間、何年間という日時の単位でははかれないものを指していると思う。
 では何を指しているのか。「嵯峨野を歩く」を読んでいて、その手がかりをみつけた。

大正時代の末になって
唐突に天皇と認められた
長慶天皇の墓は
まぶしい白砂の向こう
松の緑が異様に鮮やか
にわか造りの小さな御陵に
訪れる人もない
大友皇子は弘文天皇
早良親王は崇道天皇
まがまがしい出来事の
恨み悲しみたちこめて

 「こと」は「出来事」の「事」なのである。時間そのものではなく、その時間にあったさまざまな出来事を指すのだ。長い間会わなかった、その時間の間にいろいろな出来事があった、という意識があって「長いこと会うてへんのやから」ということばが発せられる。したがって、会ったときに取り戻すのは、会わなかった時間の距離(年月、日時)だけではない。それ以上に、その間に起きたそれぞれの出来事、それをつきあわせ、情を交わす、情を深めるのである。それぞれのこころの変化を抱き締めるのである。

 山田はこの詩集で京都の変貌を描いている。今、京都では古い街並みが壊され、新しい街がつくられている。その現場に立ち会って、山田自身というよりは京都の街としての「思い出」を書いている。京都という街になりかわって「記憶」を書いている。たとえば「『空き地』の夜」。

京都 中京 町なかの家並み
詳細地図を見れば「空き地」
表札はぎ取られても
塀ごしに金木犀匂う
見なれた古い町家あり
先ほど挨拶した青白い顔の女は
長年この建物に住んでいる
深夜の通り庭に
かくまわれて人の靴音
むかし鬼殿があったところ
(略)

ビル解体の後は埋蔵調査
囲まれた広い「空き地」は
室町時代の二条殿跡
庭園と龍躍池の一部だった
黒々と口開ける穴は
異界への通底口
わたしの住処は池のほとり
胸にトゲ背にウロコ隠し
龍人が夜毎おとずれ
いたい愛撫
物語りしてかきくどく

 ここで呼び出される「記憶」(思い出、出来事)は過去のものではない。過去には違いないが、「長い間会わなかった」というような「間」のある過去ではない。とういより、呼び起こすとき、そこには何年という年月はさしはさまれない。平安時代に起きたことも、室町時代に起きたことも、明治時代に起きたことも、さらには昭和に起きたことも、時間の隔たる長さとは無関係に「今」と重なり合ってよみがえる。思い出されるのは、常に「こと」(出来事)である。「時間」ではない。
 「こと」は「今」ここに立ち現れる。過去の「時間」に私たちが重なり合うことはできない。しかし過去にあった出来事に重なり合うことはできる。男と女は昔から、同じ「こと」をしてきた。愛し、憎しみ、裏切り、別れ、哀しくなり、ふたたび会う。そのための「通り庭」。そのための「殿」。そのための「龍躍池」……。「こと」には実は過去というものがない。いつでも現在である。その「こと」をすれば、いつでもそれは「今」でしかありえない。
 「長いこと会うてへんのやから」には、深い「時間哲学」が隠されている。「時間」は過去-現在-未来と直線的に流れていて、そこには不可逆的なものが存在すると一般に考えられているが、実は、そうではないのかもしれない。平安の男と女のした「こと」をする。室町の男と女のした「こと」をする。そのとき、今と平安、今と室町を隔てる時間の間は頭では「何年」ということができるが、今、ここにしかない肉体はその隔たりをいっさい感じない。どんな時代の男と女がしたことでも、今繰り返せば、それは今でしかない。「こと」とは、そういう時間哲学に通じる何かである。
 そう考えれば、京都の街の破壊は過去・歴史の破壊ではない。「今」という時間そのものの破壊である。「こと」の破壊である。山田は、私が書いたようには説明していない。しかし、私が感じる山田の肉声は、そう言っている。京都には京都の街がまもりつづけた「こと」がたくさんある。街を壊すことは、そうした「こと」を壊すことである。つまり、それまで生きてきた人間のこころ、いのちのあり方を壊すことである。それは哀しくてやりきれない。そうした切実な思いがあふれた詩集である。

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明楽四三『カジカの歌』、柳原省三『船内時間』

2006-07-04 23:44:54 | 詩集
 明楽四三『カジカの歌』(編集工房ノア)。淡々としたことばである。飾るということを知らない美しさがある。「救急室の夜」。

五月のある夕方
長男が勤めから帰り
頭が痛い目が霞む吐き気がするという。
妻が病院に電話、私が車で連れて行く。

 「妻が病院に電話、私が車で連れて行く。」という1行のリズムがいい。この行だけに主語がふたつある。妻と私。ふたりが一体となって動いている感じが、とてもよく伝わってくる。明楽は、たぶん、この行を書くとき、ふたりの一体感、さらには家族の一体感をあらわすのだと意識しなかったと思う。無意識の日常がそのまま表現になったのだと思う。その無意識、飾りのなさが美しい。
 このあと詩は、病院での検査、長男の様子をふたたび淡々と描く。異常はなかった。安心したとき、明楽は長男が二歳のとき熱を出して病院へかけつけたことを思い出す。

五十年前の長男の幼い笑顔が浮かび
老いても子どもの面倒を見られる幸せを
しみじみと思う夜だった。

 この感想も飾り気がなくて、すっとこころに入ってくる。長男はこのとき五十二歳になる。明楽は何歳だろう。少なくとも七十歳は超えている。そうした年齢で「老いても子どもの面倒を見られる幸せを/しみじみと思う夜だった。」と書く。これは自分自身への健康への感謝か。それもあるかもしれないが、私はもう少し違ったものを感じた。家族を愛することができる、という喜びをそこに感じた。
 4行目の妻と私の一体感、それに長男が加わった。家族としての一体感、その喜びが、ここにあふれている。親にとっては子どもはいくつになっても(五十二歳にになっても)子どもである。そのことがうれしいのだ。
 いい家族だなあ、と思う。



 柳原省三『船内時間』(土曜美術社出版販売)にも実直なことばが書かれている。

聞いていてなんだか良く分からない話は
たいてい間違ったことをいっているのだ

 「今の世の中」という作品のなかの2行だが、生きる意志、自分は自分の信じたままに生きるのだ、という意志が伝わってくる。
 「詩友について」にも率直なことばが書かれている。

H氏賞を受賞するような詩の名人でも
詩集は見事に売れないのだという
現代詩の世界は
読む人が書く人でもあるという閉回路
ざまあ見ろ
ヘボ詩人のぼくは益々自信を深めてゆく
けれども愚痴は
誰かに聞いてもらわなければ意味がない

 「けれども」がやさしい。ここでは柳原は自分自身のことを語っているのだが、そのとき自分自身のなかに必然的に他人が、詩を書く仲間が入ってきている。詩を書く仲間がいるから「けれども」ということばが、ここに登場するのだと思う。そこに「やさしさ」を感じる。
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境節『薔薇の はなびら』

2006-07-03 23:16:58 | 詩集
 境節『薔薇(ばら)の はなびら』(思潮社)。「手を振る」の書き出しが印象的である。

誰の足あとかわからぬ足あとを
たどって歩く
ぬかるみの中を わたしの足より少し
大きな足あとが続く
まだ誰も通らない
しめった道を
こんなことをしたのは はじめてで
なにか小さな犯罪の気がする

 なぜ、「小さな犯罪の気がする」のか。この8行だけではわからないのに、なぜか、それが切実に感じられる。肉体に迫ってくる。たぶん、人の足跡を面白半分にたどって歩いた記憶があるからだ。人の足跡をたどるときいちばん感じるのは自分の体の動きとその人の体の動きが違うということだ。足跡の続く先を見れば、その足跡がどこへ続いているかわかるはずなのに、何かが納得できない。私の肉体は、その方向を見つめてはいない。先に歩いた人の肉体を見ている。足の動きを見ている。肉体の力の入れ方を見ている。そんなふうに肉体を見ること、他人の肉体を自分の肉体に重ねて、そこに違和感を感じること--それを境は「罪」だと感じている。こころではなく、たぶん、肉体で。ことばで思いつくのは「罪」だが、それは頭で考える「罪」ではなく、肉体で感じる罪である。だから、その「罪」の説明は、ことばではできない。だから、境は説明していない。
 肉体で罪を感じたあと、その肉体がどう現実と出会ったかだけを書く。

びっくりするほど景色が変って
すでに町に出た

 景色が変わるのは、境が道を進んだからか、それとも他人の足跡をたどったからか。もちろん両方なのだが、他人の足跡をたどるという肉体の動きが視力に作用したために、景色が違って見えるということが、この行には強く含まれている。「びっくりするほど」ということばがそれを明らかにしている。ここでも、ことばはほとんど無意味なくらい単純である。罪を感じたのが肉体だったように、びっくりしているのも肉体なのである。
 「びっくり」と感じる肉体が、境の「思想」である。他人の肉体の動きを、自分の肉体でたどるということが「小さな罪」と感じる肉体が、境の「思想」である。他人の肉体の動きをそのままたどることを自分の肉体に対する罪と感じない人もいる。他人の肉体の動きを自分の肉体でなぞってみても、そのとき景色が変わって見えない人もいる。しかし、境はそうすることを「罪」と感じ、そうしたあと景色が違って見える人間なのである。
 これは裏返していえば、境は自分の肉体の動きにこだわる人間だということだろう。自分の肉体がどんなふうに動くかということをしっかり感じ取り、その感じを守り通す人間だということだ。自分の肉体が感じたものを信じる人間だということだ。
 詩集の中にはそうしたことばが出てくる詩もある。

みごとな街路樹に
からだが反応する    (「けむり」)

なにか ひろびろとしたものに
出会うと からだが反応する   (「ひかり」)

 こうした「からだ」(肉体)が反応したことを、ことばにするのは難しい。境も、とりあえず「からだが反応する」としか書くことができない。この正直さも、とてもいい。「びっくりするほど景色が変って」の「びっくりするほど」と同じ類のことばである。
 自分の肉体を信じる境の、不思議な体験。他人の足跡をたどるという体験。それは、境にどんなふうに影響するのか。そこから境はどんなふうにして自分へ還るのか。
 「手を振る」の最後の6行。

こどもが二人遊んでいる
その表情がおとなびて
「どこへ行くの」と聞く
「どこへ行けばいい?」と聞きたいが
少し笑って手を振る
本当はどこへ行くんだろう

 「手を振る」は別れのあいさつだろう。ここではなく、ここを立ち去る。そういうことを意味する。「どこへ」はわからない。わかるのはここを立ち去るということだけだ。「本当はどこへ行くんだろう」という疑問をとおして、境は自分自身へ還る。手を振るという行為の中へ、ひとまず還る。わかるのは、ここから立ち去るということだけだと確認する。そういう確認に「手を振る」という肉体の動きが重なるところが、境の「思想」のありかたである。

 もうひとつ、非常に説明のしにくいことばが登場する詩がある。「流れる」。

ゆれ動く風景を
からだを傾けて見続ける
記憶が途(と)切れて
どうしようも無いとしつきから
立ち上がる
地下にひそんでいたような気持を
投げ捨てる
激動の時代に遭遇してしまったことを
誰にあやまればいいのか

 この「あやまる」もまたこころの問題ではない。あたま、ことばの問題ではない。そして誰かというのも抽象的な人間ではない。実際に肉体をもった人間である。肉体をもった人間の前で、境自身のからだを折り曲げ、あやまる。その動きを境は問題にしている。あやまるとき、ことばはいらない。からだを折り曲げ、その折り曲げかたを人に見せればいい。人はことばよりも、そうした肉体の動きをこそ信じる。
 この詩では、境は、自分の肉体を誰に対して折り曲げていいのかわからないと、肉体の問題として語っている。
 このことは、この詩に描かれている「怒り」について見るとき、より明らかになる。境は「怒り」をことばとして書いていない。やはり肉体として書いている。枯れ葉を踏む。冬なのに薄いコートで歩き続ける……。
 そうしたものをからだ、肉体で受け止めることができない。怒る人に対して、とりあえずあやまってとりなすという生活の知恵があるが、そういうときの謝罪はことばではなく、やはりからだ、肉体である。そういうことができない。どんなからだの使い方があるのかわからない。それが境の苦悩である。

 「思想」は精神のことばではない。「思想」は肉体のなかにとけこんだ知恵である。知恵としての肉体がどこかに消えてしまった。境はそのことを、肉体で感じている。そして、その肉体の悲しみを、詩にしている。



 詩集のタイトルにもなっている「薔薇の はなびら」は、境の肉体の思想、知恵としての肉体というものについて考えるとき、とても暗示的な作品である。境は瀬永清子に詩集のタイトルで相談した。「薔薇の はなびら」にしたい、と話した。

瀬永さんは
「バラのトゲならともかく はなびらでは」
と即座に言われた
それから数日してハガキが届いた
「バラのトゲなら まだしも」と
瀬永清子さんが よく使っていたトゲ
まだ わたしには
「薔薇のトゲ」は
書けない

 なぜ書けないのか。境はからだで、肉体で「トゲ」と向き合っているからである。頭、ことば、精神で向き合っているのではない。触ったら痛い、というからだの現実があり、そこから境は踏み出さない。頭、ことばでなら、たしたに花びらではなくトゲに描けるだろう。しかし、からだがとげに対してとれる振る舞いは痛いしかないだろう。
 これは境の限界だろうか。そうではなく、私には、非常に大きな可能性に見える。知恵としての肉体、からだ。そこには頭、ことば、精神ではつかみきれないやさしさ、おだやかな他人との出会い方というものがある。
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麻生直子『足形のレリーフ』

2006-07-02 15:11:42 | 詩集
 麻生直子『足形のレリーフ』(梧桐書院)。冒頭の「発掘」がおもしろい。北国の島。火焔土器を発掘している男と会い、話をする。土器は、男たちが狩りや漁に出ている間に、女たちがつくったものだと言われているが……。

  女のヒトが その水甕を造ったという証拠はどんな
  ふうに 判明できるのだろう たとえば 造りかけ
  の容器を手にしたまま パタリと倒れて そのまま
  の女のヒトたちの骨が いくつも発掘されたとか?

男は パスタ入りの白い皿を両手にして
パタリと倒れるしぐさをした
瞼まで閉じている

 たしかに土器を女がつくり狩りや漁を男がしたという証拠はないだろう。そう私たちが信じ込んでいる(思い込んでいる)だけなのかもしれない。
 私がおもしろいと感じるのは、そういうことばを麻生自身が語るのではなく、他者に語らせていることである。ここに麻生の詩人としての正直さがあらわれている。
 どんな事実、たとえばこの詩集に出てくる奥尻島の津波被害にしろ、そこには、そこで生きた人の数だけ事実があり、真実がある。そうしたことに対して私たちはいろいろ想像することができる。しかし、麻生は、想像はしない。想像は創造につながる。ことばの創造は捏造につながる。想像を拒み、ただ耳を傾け、発せられたことばを記録する。あるいは、実際に出会った人々の生き方を記録する。

 「発掘」の詩に戻る。
 男のことばは麻生を驚かしたはずである。驚いたから、それが記憶に残り、記録として書かれた。
 記録のことばは、対象と、記録する人間の両方を伝える。私はまず記録された対象に目を奪われる。土器を発掘しながら、「土器は女が造ったという証拠は何もない」と語る男の発想の豊かさに驚かされる。しかし、本当に驚くべきなのは、それを記録することばの正確さである。麻生は、そのことばに対して、批判も肯定もしない。ただ記録し、そのことばが麻生を運んでいった先、「夢」のような感想を控え目にそえるだけである。

そっと抱きよせ
沖積層のやわらかな火山灰に埋もれていたい
いとおしい水甕のヒミツのカケラ

まだ発掘されていないけれど

 この控え目な感想は、発掘の当事者が麻生ではないこと、土器をつくった人間が女である証拠は何もないと言った人間が麻生ではないことを明確に記す。
 麻生は他人のことばを「横取り」はしない。どんなことばにも、そのことばを発した人間がいて、その人間にはその人自身の時間が流れている、蓄積されている。他人のことばを「横取り」すれば、それは他人の生きた時間を「横取り」することになるということを知っているからだ。
 これはまた、他人の時間に勝手なことばをつけくわえれば、同じように他人の時間を乗っ取ることになる、という意味でもある。
 麻生は自己と他者をくっきりと区別して認識する。その上で、他人のことばに耳を傾ける。そして麻生に理解できることばを記録する。控え目に感想を書く。感想を書くことで、ゆったりと他者と交流する。そこに、ひとつの社会、人間が生きている時間が浮かび上がってくる。そうなるように、ことばを、自制しながら動かしている。
 その「自制」の力となっているのが、麻生の「日常」を見つめるたしかな視力である。「発掘」では、それはたとえば「パスタ入りの白い皿」である。古代の土器について麻生と男は話している。そのとき、しかし、現実は「今」であり、「今」を印づけるものが「パスタ入りの白い皿」である。そうしたものをきちんと踏まえて、男が「瞼まで閉じている」ところもきちんと見つめて、その上で、「そっと抱きよせて」から始まる行をつづける。そのとき、その夢想は、「瞼まで閉じている」男の夢想にも、麻生自身の夢想にもなって、ゆったりと交流する。そこに「詩」が生まれてくる。
 「詩」は現実を見つめないと、生まれて来ない。「詩」は他者と出会い、他者を正確に描かないことには生まれて来ない。麻生は、そう信じ、それを確実に実践している。

見知らぬ人びとのやさしさ
底無しの淋しさと口惜しさ
折おりの喜びや愉しみを 風景ではなく
あなたの日常に重ねて伝えることができただろうか

 この4行は「よみがえる故郷・奥尻島」に出てくることばだが、麻生の夢は、すべてのことば、すべての「詩」を日常に重ねるということかもしれない。
 古代の土器は女が造っていたというのは事実だろうか。その証拠はあるのだろうか。その疑問を「日常」と重ねるとき、何が見えてくるだろうか。発掘の体験者しかわからないことば、実感のこもったことば、それと向き合い、そこから他者の日常と向き合い、自分の日常を見直す。その過程で、本当の人間と人間の交流が生まれる。そこから本当に人間が人間として生き始めることができる。
 そのために、麻生は、ただただ正直を実践している。
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映画「ジャスミンの花開く」

2006-07-01 23:42:24 | 詩集
監督 ホウ・ヨン 出演 チャン・ツィイー

 女の恋愛というのは男にだまされ、ひとりで生きていくということに尽きるのか、といいたくなるような悲惨な映画である。こんな女の3代記をチャン・ツィイーがひとりで演じるのだから、いくら私がチャン・ツィイーのファンでも眠くなってしまう。なぜわざわざ3代にわたって描かなければならない? ひとりだけをもっと深く描けばいいだろうに。
 唯一の救いは、ラストの豪雨の中の出産シーンか。ここにだけは、子供を産むのだ、という強い女の情熱があふれている。チャン・ツィイーが別人のような演技を見せている。始まりから途中は全部見ないで、ラストの10分だけ見ることをお勧めします。
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斎藤澄子『人間がワイングラスになる方法』

2006-07-01 22:55:59 | 詩集
 斎藤澄子『人間がワイングラスになる方法』(思潮社)。ワイングラスのほか、お魚(谷内補記 「魚」ではなく「お魚」)、林檎、消しゴム、ホッチキスなどさまざまの「人間が**になる方法」が書かれている。しかし、ほんとうにワイングラスや魚、林檎になりたくて書いているのかどうか、私にはよくわからない。

この造形おもしろいんじゃない?

という行が「人間がお魚になる方法」にあるが、どうも、そうした一瞬の感覚のおもしろさを狙って書いている作品のように思う。もちろん、そうしたおもしろさ、楽しさを狙って書かれる詩は、それはそれでいいと思う。

ホコロビタまま 歩く
ハナミズキの花 ほろほろ咲いて
失恋に育てられたキリンが泣く

 「私が消しゴムになる方法」の、この3行は楽しい。ただ、思うのは、たとえばこの3行で、「私」(斎藤)はすでに「キリン」になっている。
 引用した部分につづく行では

夕映えの光をなめる
なんと 甘いではありませんか
煙の花輪 首にかけ

 と「キリン」の描写がつづく。「キリン」になっているのに、キリンのまま、「人間が消しゴムになる方法」を書いている。これは、ことばの論理の上から見ると、本当はおかしい。ありえない。そのことに斎藤は気づいていない。「この造形おもしろいんじゃない?」という感じでことばを書いているためだと思う。「**になる」ということがどういうことか、あまり考え抜かれていないのだと思う。
 そうしたことを抜きにして感想を書けば、たとえば「人間がエンゲージリングになる方法」の明朝体で書かれた部分は傑作だし、「人間が地球になる方法」の隷書体で書かれた部分もおもしろい。
 しかし、おもしろいだけであり、斎藤の「思想」になっていない。

 この詩集の最後に「わたしがあなたになる方法」という一篇がある。斎藤がほんとうに「なる」ことを目指しているのは、ここにあるのだが、それまでのいくつもの「方法」がこの作品に結実していない。それまで書いてきたことが、何の役にも立っていないと思う。「この造形おもしろいんじゃない?」というような「思想」では「あなた」にはなれないのである。
 「なる」というのは見せかけることではない。

あなたのジージャンを着る
あなたのトレパンを履く
あなたの野球帽をかぶる
あなたの靴は大きくて合わない
わたしの靴を履く
あなたになれないわたしは
よろよろと書庫に入り
あなたを呼ぶ

 「あなたになれない」という自覚が初めて「なる」ということの意味を浮かび上がらせる。「思想」として斎藤の前に立ちはだかる。好意的に考えれば、斎藤はそれまで何篇もの「**になる方法」を書いてきたために、ようやくここで「この造形おもしろいんじゃない?」という「頭」で考えた技法では何も解決しないことに気がついたのかもしれない。そういう意味では、「**になる方法」は複数書かれる必要があったのかもしれない。
 この作品では、斎藤は「あなた」になろうとしていない。単純に「あなた」を呼んでいる。呼び出して向き合おうとしている。あなたとは何だったか。

退職して以来の読書記録
一九八七年四月より八十八冊
一九九〇年 八十八冊
一九九一年 八十八冊
一九九二年 百三十一冊
一九九三年 百四十冊

 さらに入院し死亡するまでの読書記録が本の冊数で書かれている。これが「あなた」である。
 ここには、奇妙な断絶がある。愛がある。
 本は冊数ではなく、内容が問題である。斎藤は「あなた」が何を読み、何を考えたかを、その本に具体的に触れることで明かそうとはしていない。たぶん、それは斎藤の理解を超えたものとして最初から見つめているのだろう。内容は理解を超えているから、その内容についてはわからない。しかし、読書にかけた情熱はわかる。わかる部分を「愛」でつつむ。あるいは、わからなくたって愛することはできる、といえばいいだろうか。
 「あなた」が好きだった山の名前を羅列した部分は、愛の絶唱である。とても美しい。

利尻山 羅臼山 八甲田山 早池峰山 鳥海山 飯豊山

から始まる5行。5行ついやして、「あなた」を思う。そのとき、斎藤が意志していようがいまいが、斎藤は「あなた」になっている。「あなた」と交わっている。「なる」とは「交わる」ことである。「交わる」ことをとおして、私が私でなくなってしまうことである。(愛とは、私が私でなくなってしまってもかまわないという思いで、他者と交わることである。)

鬱色の帯を締め
あなたの柩の奏でる歌を うっとりと聞いている
潮鳴りのうつろいを 骨のまま泳ぐ魚は
わたし です

 この作品の末尾の4行である。「わたし」は「あなた」にはならず「魚」になっている。これは「矛盾」である。「矛盾」であるからこそ、そこに「思想」がある。斎藤が肉体でつかんだものがある。
 ここから斎藤の本当の詩、「この造形おもしろいんじゃない?」を超えた、命の声が始まると思う。次の作品を読みたい。

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