正津勉「さらばさるべしさようなら」(「現代詩手帖」12月号)。
ふるさとを詩にするとどうなるだろうか。今、どんなふるさとの詩を書くことができるか。
「おもうことはわすれること」という1行に揺り動かされて、思わず詩を読み返した。「おもう」で正津が言いたかったことは何だろうか。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」(室生犀星)の「思ふ」は感情の動きである。想像するというより、感じると言い換えた方がいいだろうと思う。遠きあって、なおかつ、遠くのふるさとは感情的には一体になっているのが犀星の詩である。
正津の「おもう」は「感じる」ことではない。「感じる」ことを拒否して、「考える」。「感じる」とは対象との「距離」をなくすことが条件である。対象と一体になる--それが対象を感じる最高の至福である。「考える」は対象と一体ではできないことである。対象と離れ、対象から自由になる。そこから「考える」という動きが始まる。
「距離」を埋めるのは何か。笑いである。
正津自身が「駄洒落」と呼んでいるが、笑いが「駄洒落」に終わっているのは、たぶん対象との「距離」のとり方が、「亀山」にのぼるというような、ふるさとを考えるにはちょんっと中途半端な位置と関係があるのだと思う。「亀山」はふることの一部であって、完全にふるさととは離れていない。どこかでふるさとにひっぱられているから、その重力のようなもの(引力のようなもの)の影響で、笑いが笑いに完全に昇華せずに、駄洒落になるのである。こうしたことばの正直な動き方に、なんともいえない「詩」がある。
この「一安心」も「感情」ではあるまい。あれやこれやの親類づきあいだとか、さまざまなことがらを「考え」、ああ、もうそういうことに頭を悩ますこと、気配りをする必要がなくなることを、「頭」で判断し、「頭」が「一安心」しているのである。「考え」が一安心しているのである。
この正直さが、詩をさっぱりさせている。美しくさせている。
そして、「おもうことはわすれること」。これは感じることは忘れることではない。感じることは忘れないことである。感情がよみがえるから、私たちは忘れていないと思うのである。
正津の、この「おもうことはわすれること」は、考えること、頭で整理することは忘れること、という意味である。ふるさとの母が大往生し、もうふるさとと正津を結びつけるものはなくなった。「知った顔もなくなり」ということばがあるが、頭で「知っている」ことがなくなると、「考え」は判断することができる。知っていることと知らないことを整理し、どういうつながりがあるのか判断し整理する。そして「一安心」。「知っている」の反対が「忘れる」に通じる。忘れていいものが何かを判断するために、私たちは「考える」のだともいえる。
そうやって、「おもうことはわすれること」ときれいに整理したあと、正津は初めて感情にかえる。ゆったりと自分の肉体を解き放つ。風呂に入って体をほぐし、酒に酔って、眠ってしまう。「忘れる」とこに拍車をかけるのである。
単純というか、平明なことばで、「おもう」ことの違いを明確にし、「哲学」の領域にまで達したおもしろい詩だと思った。
ふるさとを詩にするとどうなるだろうか。今、どんなふるさとの詩を書くことができるか。
「おもうことはわすれること」という1行に揺り動かされて、思わず詩を読み返した。「おもう」で正津が言いたかったことは何だろうか。
奥越はいまだ残雪ふかくして
死ぬような退屈さにもう堪えられなく
外気とちょっとばっか眺望がほしくなって
マフラーに深く頸を埋めてひとり
その亀甲めく形から呼んで亀山になる
城址のある頂上までえっちら上がって茫然
ぼうっと灰白にけむるような眼下をぼうっと
眺めやるともなく目をあそばせること
曇天のような生涯のような曇天
なんて感傷的にもあまりに感傷的なること
絶望のような愛情のような絶望
だとか駄洒落にもならない駄洒落しばらく
へらへらと腹の皮を捩るのだった
一昨年末に九一歳で母が大往生し一安心
数年後はあらかた知った顔もなくなり余所者
もうここに帰ることは多くあるまい
われらが高校の運動場や校舎のあった
あたりががらんと雪の捨て場の山となったまま
風景ぜんたいが寒貧としたふぜい
おもうことはわすれること
そろそろ戻って一風呂浴びて温かくして
さらばさるべしさようなら
きゅーっと熱燗いっぽん爆睡しようかと
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」(室生犀星)の「思ふ」は感情の動きである。想像するというより、感じると言い換えた方がいいだろうと思う。遠きあって、なおかつ、遠くのふるさとは感情的には一体になっているのが犀星の詩である。
正津の「おもう」は「感じる」ことではない。「感じる」ことを拒否して、「考える」。「感じる」とは対象との「距離」をなくすことが条件である。対象と一体になる--それが対象を感じる最高の至福である。「考える」は対象と一体ではできないことである。対象と離れ、対象から自由になる。そこから「考える」という動きが始まる。
「距離」を埋めるのは何か。笑いである。
曇天のような生涯のような曇天
なんて感傷的にもあまりに感傷的なること
絶望のような愛情のような絶望
だとか駄洒落にもならない駄洒落しばらく
正津自身が「駄洒落」と呼んでいるが、笑いが「駄洒落」に終わっているのは、たぶん対象との「距離」のとり方が、「亀山」にのぼるというような、ふるさとを考えるにはちょんっと中途半端な位置と関係があるのだと思う。「亀山」はふることの一部であって、完全にふるさととは離れていない。どこかでふるさとにひっぱられているから、その重力のようなもの(引力のようなもの)の影響で、笑いが笑いに完全に昇華せずに、駄洒落になるのである。こうしたことばの正直な動き方に、なんともいえない「詩」がある。
一昨年末に九一歳で母が大往生し一安心
この「一安心」も「感情」ではあるまい。あれやこれやの親類づきあいだとか、さまざまなことがらを「考え」、ああ、もうそういうことに頭を悩ますこと、気配りをする必要がなくなることを、「頭」で判断し、「頭」が「一安心」しているのである。「考え」が一安心しているのである。
この正直さが、詩をさっぱりさせている。美しくさせている。
そして、「おもうことはわすれること」。これは感じることは忘れることではない。感じることは忘れないことである。感情がよみがえるから、私たちは忘れていないと思うのである。
正津の、この「おもうことはわすれること」は、考えること、頭で整理することは忘れること、という意味である。ふるさとの母が大往生し、もうふるさとと正津を結びつけるものはなくなった。「知った顔もなくなり」ということばがあるが、頭で「知っている」ことがなくなると、「考え」は判断することができる。知っていることと知らないことを整理し、どういうつながりがあるのか判断し整理する。そして「一安心」。「知っている」の反対が「忘れる」に通じる。忘れていいものが何かを判断するために、私たちは「考える」のだともいえる。
そうやって、「おもうことはわすれること」ときれいに整理したあと、正津は初めて感情にかえる。ゆったりと自分の肉体を解き放つ。風呂に入って体をほぐし、酒に酔って、眠ってしまう。「忘れる」とこに拍車をかけるのである。
単純というか、平明なことばで、「おもう」ことの違いを明確にし、「哲学」の領域にまで達したおもしろい詩だと思った。