詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

支倉隆子「苔桃」

2006-12-07 10:54:11 | 詩(雑誌・同人誌)
 支倉隆子「苔桃」(「すぴんくす」2、2006年11月25日発行)。
 ある作品を読む。それにつづけて別の作品を読む。すると今までなじみにくかったことばが急に親しいものにかわる--そういう経験をすることがある。たとえば稲川方人のことばは私には非常に遠い。ところが平出隆のことばを読んだあとでならとても新鮮で生き生きと迫ってくる。それに似た体験をした。支倉隆子のことばは私にはつかみどころのないものだった。ところが海埜今日子の「砂街」「門街」を読んだあと、もう一度支倉の詩を読み返してみると、すーっと頭に入ってくる。

風景が入ってくる入ってくる

 という行が途中にあるが、そのことばそのままに、支倉の書いていることばがすーっと頭のなかに入ってきて、風景になる。
 海埜の世界は、存在と(たとえば、砂、たとえば草と)私が重なり溶け合い、どれがどれだかわからなくなるまで融合する。そのとき海埜は「たくす」ということばをつかっていた。海埜のなかにある何か、記憶、精神、感覚、感情……を海埜以外の存在に「たくす」。いわば、私の内から私の外へとあふれさせ、私と世界を融合した宇宙をつくりだし、「詩」として提出する。
 支倉のしていることは、海埜とは逆の操作である。逆の操作であるけれど、結果的には類似の世界、つまり私と世界の融合としての宇宙を「詩」として提出する。逆、というのは、海埜が「たくす」のに対して、支倉は受け入れるからである。「入ってくる」という状態を楽しむからである。

(風景が入ってくる入ってくる)
(光る日)

      光る日
     るるるるる  カヒヒ
 光る日 るひるひるひ  火の日
     かひかひか  悲の日
      光る日

 「光る日」、光に満ちた日(太陽ではなく、一日、と私は読んだ)が支倉のなかに入ってくる。引用では省略したが、詩の冒頭に書かれている苔桃もアオシギも平等に支倉のなかに入ってくる。そして支倉の頭脳で砕け、まばゆく乱反射する。意味ではなく音に(音楽に)砕け散り、そこからもう一度意味を求めて輝きだす。「光る日」から「る」の音が無意味な音楽(モーツァルトのように?)疾走し、逃げ出し、その輝かしい足跡を追いかけるように、取り残された「か」「ひ」が走り出す。「火」は「か」か「ひ」か。「ひ」は「悲」であり、「悲」は「ひ」であると同時に「かなしみ」の「か」でもある。
 支倉はこうしたことばの戯れを楽しんでいる。ことばとそんなふうに交わること、喜びをわかちあうことが支倉にとっての「詩」なのだ。

 支倉の詩を単独で読んだときには、こうした楽しみが私にはわからなかった。
 なぜわからなかったのだろうか、と考え直してみると、ひとつには私に音楽の耳がないことがある。一方で、支倉のことばが「頭」に頼りすぎているようにも思える。支倉のことばは肉体を感じさせない、肉体の動きと重ならない、ということがあると思う。

風景が入ってくる入ってくる

開脚の青空はぬれ
開脚の青空の内桃

 という部分は、肉体の動きというか、セックスを連想させるし、「内桃」ということばの遊びには、那珂太郎の「もももももも……」の音楽と肉体の融合の影響も感じるけれど、一瞬のうちに「桃」という外部へと世界が逃げて行ってしまう。
 「入ってくる」とは言うものの、肉体の内部には入ってはこない。肉体にさっと触れ(接触し)、その感触を音楽にして、一気に「頭脳」へ入ってくるという感じなのである。もっと生々しい肉体の感じがまじっていれば親しみやすいのに、と私は思う。

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海埜今日子「砂街」

2006-12-06 14:01:09 | 詩(雑誌・同人誌)
 海埜今日子「砂街」(「すぴんくす」2、2006年11月25日発行)。
 海埜のことばは読んでいるうちに、これは誰の声?とわからなくなる。「砂街」の書き出し。

 旅がすけるまで歩きたかった。唐突なまでに砂。写真たちのめくれ、すどおりが加速され、すれちがったどんなものもかきあつめ、という動作の際で、ささやく時間をながめている。あせた道しるべ、風をあえぐくるしい街。気流をまとうようにして、想いたちがよぎっていたから、うつむくそぶりであたためていたんです。草の香りが待たれるわきで、むかしの規律がさわいでいる。砂の底がかつてのながれだ。いないひとをささえたくなる、そんなこともありました、ね。

 「旅がすけるまで歩きたかった。」と私(海埜)の欲望だろう。「唐突なまでに砂。」は海埜が見たものだろう。「現実」の風景だろう。
 それにつづく「写真たちのめくれ、すどおりが加速され、すれちがったどんなものもかきあつめ、という動作の際で、ささやく時間をながめている。」は何だろう。
 砂の動きを見ることで、海埜の意識の中に出現してきた記憶だろうか。砂は動く。その動きは写真たち(アルバム?)をめくっていくとき感じに似ている。何かがすぎさっていく。たとえば「時間が」。そして、そのとき写真(アルバム)をながめているのではなく、海埜は「ささやく時間をながめている」。この「ながめている」は普通の散文なら「ながめていた」と過去形で書かれるものであるけれど、そのときの記憶のよみがえり、思い出の印象が強いので現在形として、そこに立ち上がっているのだろう。
 「歩きたかった」という欲望は過去形で書かれ、それよりも過去の記憶は「ながめている」と現在形で書かれる。日本語の文章は、感覚が強くなると過去形は消えて、現在形として立ち上がってくる。人間の感覚には今という「現在」しかないからだろう。
 新しい街へ入って、その瞬間に、なまなましい感覚が覚醒する。そういう動きがここでは書かれている。--私は、そんなふうに思いながら、この詩を読み始めた。

 「あせた道しるべ、風をあえぐくるしい街。」は再び「現実」の風景だと思う。では、それにつづく、「気流をまとうようにして、想いたちがよぎっていたから、うつむくそぶりであたためていたんです。」は誰の声だろう。海埜の声だろうか。海埜の声だとすれば、「あたためていたんです」はいつ、どこでのことだろうか。それとも「砂」の声? しかし「砂」が「うつむく」ということがあるだろうか。
 わからないまま、「草の香りが待たれるわきで、むかしの規律がさわいでいる。」に出会う。そしてその瞬間、あ、さっきの声は「草」の声だったのか、と思う。
 街外れの風景。砂がある。そして草がある。風が吹き、砂が移動する。人も(旅人も)行き過ぎる。草は動かず、動いていくものの「思い」をだきしめている。--そんなふうに風景を見つめている海埜の姿が浮かんでくる。
 「砂の底がかつてのながれだ。いないひとをささえたくなる、そんなこともありました、ね。」は草の声であり、同時に、草に託された海埜の声でもある。

 海埜はそこにあるものを描写しながら、そこにあるものに海埜自身の声を託す。そうすることでそこにある存在と一体となり、海埜の宇宙を拡げていく。
 海埜にとって世界とは自己(海埜)と他者が出会い、その区別を意識しながら同時にその区別を乗り越えて融合して広がるものだろう。そして、その乗り越え、融合するとき、海埜は声を託すのである。
 同じ号の「門街」の最後の方に、次のことばが出てくる。

こういがそよぐたびに、さわられていたきもちをはしる。草のうごめきを指におぼえたかったのだから、かれらはわすれたむねにちかいばしょで、われたあかりをたくす。

 「たくす」は他者と一体となることである。そして、そういう行為をとおして世界(宇宙)は広がっていく。世界(宇宙)は私の外に広がると同時に私の内部にも広がるものだからである。そして、私と他者(私と私の外部)が区別をなくすとき、宇宙は無限の広さになる。
 海埜のことばは、そういう奇跡のような一瞬をことばにしようとしているように感じられる。
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アルフォンソ・キュアロン監督「トゥモロー・ワールド」

2006-12-06 01:50:53 | 映画
監督 アルフォンソ・キュアロン 出演 クライヴ・オーウェンジュリアン・ムーア、マイケル・ケイン

 あらゆる映像がひたすら長い。1シーンが長いというのではなく、1ショットが長い。カメラが動くのである。人の移動にあわせてカメラが移動する。そういう映像が延々とつづく。その結果、どれだけ移動しても、別世界へ行ったという感じがしない。遠くへ行ったという感じがしない。たぶん、この延々と地つづきという感覚がこの映画の狙いなのだと思う。空間の地つづきの感覚を利用して、時間の地つづきの感覚を引き起こしたいのだと思う。未来のことではなく、これは「今」と地つづきの世界を描いているのだと主張したいのだと思う。
 しかし、あまり生理的に「時間」が地つづきという印象は起きない。
 映画はもともと「今」「ここ」ではない世界を楽しむものだから、その世界が「今」や「ここ」と地つづきであることを期待していない。むしろ、「今」「ここ」から遠い世界を期待する。そのうえ、描かれている街、人の様子が、あまりにも「今」そのものなのである。汚れた服、人込みのにごった感じ、難民、軍隊……。登場するすべてが「今」そのものなのだから、わざわざその世界が「今」と地つづきと言われても、という反発の方が強くなる。
 撮影と演技の苦労はわかるが、映画は撮影の苦労や演技の苦労を見るためのものではない。
 カメラの長まわしに何か意味があるとすれば、その長まわしの間で、そのカメラに写っている人間の感情・意識が変化していく様子がリアルに再現されていなければならない。人の感情、意識は、その数分間にこんなにも変化するのだ、こんなにもむき出しになるのだということが、それこそ地つづきの変化として再現されていなければならない。そうでなければ長まわしの必然性がない。
 そういう視点から見直せば、この映画の長まわしの唯一、必然性があるシーンは冒頭だけのような気がする。主人公がコーヒーを買って店を出る。路上でコーヒーにアルコールを注ぐ。その瞬間、さっきまでいた店がテロによって爆破される。日常(コーヒーにアルコールを入れるというだらしない日常)とテロがまったく切断面をもたず地つづきである、そういう時間と私たちの時間がつながっているということをリアルに感じさせる。クライヴ・オーウェンの演技も、このときは、演技なのか、爆発の衝撃にほんとうにびっくりしているのか区別がつかないほどである。
 あ、すごい。これからどうなるのだろう、という期待が強すぎたのかもしれない。あとの長まわしが弱すぎた。だからジュリアン・ムーが死んでいくシーンなど、死の衝撃というよりも、なぜ、こんなに早く死んでしまう? 嘘だろう? というような奇妙な疑問、わだかまりが残るだけで、映像としてはまったくおもしろくないのである。
 たぶん冒頭のシーンがうまく撮れすぎたために、映画全体が、それにひっぱられてしまったのだろう。
 長まわしのべったりした映像のために、人間関係(軍隊、難民、市民)の対立関係などもべったりとしていて、何が起きても冒頭の爆発ほどの衝撃がない。全員が同じ人間であり、戦いそのものが無意味にしか見えない。(これが狙いなら、それはそれでいいけれど。)
 そして、このべったりした映像そのものよりも気持ちが悪いというか、いやな感じがするのがストーリーのキイとなる「キー」(まるで駄洒落のような名前だが)の在り方だ。こどもが生まれなくなった時代、なぜか彼女だけが突然妊娠する。これは単にストーリーの設定だけれど、彼女だけが妊娠するとき、その相手は? 登場しない。ここから浮かび上がる問題点は、こどもが生まれない原因は女性にあって男性にはないという主張が、その奥に潜んでいる点である。こどもが生まれない原因が男女両方にかかわる問題なら、絶対に男が必要である。精子が必要である。男の側に問題はなく、女性が流産する(流産だけが何度か語られる)。それが原因でこどもが生まれないというのでは、問題の設定自体が間違っていると思ってしまうのである。この問題をカメラの長まわしと関連づけて言えば、この映画は男の側からだけ見た「未来」である。カメラはクライヴ・オーウェンを追って動くが、それはクライヴ・オーウェンがこう見てもらいたいという自画自賛の自画像であって、実際に女性が見たクライヴ・オーウェン(男)ではない。女性が見たクライヴ・オーウェンを描くなら、ジュリアン・ムーアはもっと生きていなければならない。女性の視点を助けられる妊娠した少女(?)に限定するためにも、この映画はジュリアン・ムーアは早く死ななければならなかった。
 この映画の長まわしには、とんでもないマチシズムが隠されているかもしれない。


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清岡卓行論のためのメモ(7)

2006-12-05 23:44:13 | 詩集
 現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
 「奇妙な幕間の告白」(「現代詩」昭和31年4月号)は「戦争責任」について書かれた文章である。吉本隆明らの厳しい姿勢に異議をとなえている。こうした文章の中にも「と」にかかわる内容が書かれている。
 「と」はある存在と別の存在を隔て、同時に結びつける。「と」を中心にして、いわば矛盾する逆方向のもの、分離と結合が出会い、ひとつのものになる。新しい「宇宙」を生成し、そのなかでふたつは一体になる。
 その矛盾し、矛盾を乗り越えて融合する運動。それを感じさせる文章がこのエッセイの後半に出てくる。

 戦争の共犯者であり、かつ同時にその犠牲者であるという意識、それこそ、ぼくの胸を今もなおつらぬいている短刀である。( 115ページ)

 「と」とは「かつ同時に」と同義である。たとえば「石膏」のきみ「と」ぼくは、きみであり、「かつ同時に」ぼくなのである。そして「決闘」に出てくる「二重の宇宙」の「二重」とは「かつ同時に」の言い換えでもある。
 先の文章は、すぐそのまま次の文章につづいている。

この欺瞞、この矛盾、しかしそれは、戦争への協力と抵抗という明確な図式で裁断され得るものではあるまい。( 115ページ)

 戦争への協力(戦争の共犯者)「と」抵抗(犠牲者)。この「と」は「かつ同時に」である。それは「二重」に重なり合い、融合したものである。だから「裁断」などできない。清岡の意識は、いつもそうした「二重」のものへと向けられる。
 「と」によって分離されたものが、「と」によって結合される。ひとつになる。「二重」になる。「二重」は空間的な在り方である。それが「かつ同時に」と言い換えうるのは、そうした分離・結合が空間的なものとしてのみ存在するのではなく、時間的にも存在することを意味する。「と」による分離・結合は、空間・時間が融合した「宇宙」でのできごとなのである。
 同じ意味合いのことを清岡は、さらに言い換えている。何度も言い換えるのは、それが清岡にとってなんとしてでも明確にしておきたいことだからである。

戦争に対して、いわゆる協力することも抵抗することも、ともになし得なかった二十才前後の人間にも、加害者であると同時に被害者であるという二律背反的な意識はあり得たのである。( 115ページ)(谷内注、「被害者」は「彼害者」と表記されているが単純な誤植と思われるので引用に際して「被害者」に書き換えた。)

 「かつ同時に」は「同時に」と単純に言い換えられている。「矛盾」は「二律背反」と言い換えられている。
 この「矛盾」「二律背反」は、また先の引用部分では「欺瞞」とも書かれていたが、「矛盾」「二律背反」のなかから「欺瞞」を少しずつ分析し、その構図を明確にして行くのが清岡の「詩作法」なのである。

 そしてこのとき重要なのは、「加害者であると同時に被害者である」という文の中の「ある」ということばだ。「戦争の共犯者であり、かつ同時にその犠牲者である」という文の中の「ある」という動詞だ。
 「……であると同時に……である」。「……であり、かつ同時に……である」。
 この「ある」は単に存在していることを意味するのではない。「ある」のなかには「動き」がある。この「ある」は「なる」とほとんど意味が同じなのである。
 戦争の協力者に「なり」、かつ同時にその犠牲者に「なる」。加害者に「なる」と同時に被害者に「なる」。
 「ある」は、むしろ「なる」と読み替えた方が清岡の意識に即しているかもしれない。私たちはどちらにも「なる」。なりうる。

 「石膏」のきみ「と」ぼくは、きみがぼくで「あり」、ぼくがきみで「ある」というより、きみがぼくに「なり」、ぼくがきみに「なる」のだ。だからその「二重の宇宙」の「二重性」は「なる」という過程でのみ見えるもの、意識されるものであり、生成が完結すればひとつに「なる」ものでもある。
 「と」を中心にして繰り広げられる運動は「ある」を突き破って「なる」という運動のなかで展開されるものなのである。

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谷川俊太郎(詩)太田大八(絵)『詩人の墓』

2006-12-04 23:17:52 | 詩集
 谷川俊太郎(詩)太田大八(絵)『詩人の墓』(集英社、2006年12月10日)。
 8月26日の日記で「詩人の墓」の感想を書いた。「現代詩手帖」で読んだときの感想である。その詩に太田大八の絵がついて「絵本」になった。絵本になることによってまったく印象が違ったことばがある。

「何か言って詩じゃないことを
なんでもいいから私に言って! 」

 この2行が違ってみえてきた。最初に読んだときも今も「詩じゃないこと」が「詩」と響いてくるのは同じだが、「現代詩手帖」で読んだときは「私に言って! 」を軽く読みとばしていた。大切なことばとして印象に残らなかった。ところが「絵本」になってみると、「私に言って! 」が痛切に響いてくる。「詩じゃないこと」に「詩」があるという印象はかわらないが、それよりもっと強い「詩」が「私に言って! 」にはある。「私に言って! 」こそが、この作品の「詩」なのだと思った。

 「詩」はだれに対して書かれているのだろうか。読者に向けて書かれている。ほとんど無意識に私はそう考えている。読者が読んだとき、あることばが「詩」になる。作者の意図(精神や感情)とは無関係に「詩」になってしまうことがある。書かれた瞬間からことばは詩人の手を離れ、読まれた瞬間からことばは読者のものになる。そして読者が必要とするなら、それがどんなことばであるにしろ、それは「詩」である。
 --ほんとうに、それでいいのだろうか。

 「詩」はだれに対しても開かれている。ことばを読み、そこに「詩」を感じる人すべてのものである。「詩」は詩人の所有物ではなく、「詩」を読んだものの所有物である。それが「詩」の理想の形である。
 --ほんとうに、そうだろうか。

 谷川と太田の「絵本」を読み返して、私は、今、上に書いたことは「空論」だと思い始めている。
 「詩」はだれに対しても開かれている(文学は、あるいは芸術は、だれに対しても開かれている)、というのは「理想的な姿」でも「真実」でもない。そんなものなど、だれも求めていないのだ。「私に」(私だけに)、存在していてほしい。それこそが「詩」なのだ。
 「何か言って詩じゃないことを」とは、「何か言って、だれに対しても『詩』であることではないことを」という意味である。その1行には「だれに対しても」ということばが省略されているのだ。そして、その省略された「だれに対しても」と向き合っているのが「私に」である。
 「だれに対しても詩じゃないこと」を言ってくれれば、それを「私は」私だけの「詩」として抱き締める。これは「私だけのあなたでいてほしい」と言うのと同義である。愛の告白である。「なんでもいいから私に言って! 」の「なんでもいいから」は正確には「それがなんであっても私はそれを受け入れるから、私に言って」という意味である。だれに対しても開かれていることばではなく、私だけにしか伝わらない(私だけしか受け止められない)、限りなく「私的」なことを言って、という切実な祈りなのである。だれに対しても開かれていることばではなく、私だけにしか開かれていないことば--それを抱き締めるとき(それを受け止めるとき)、詩人と私は一体になる。そこに愛がある。そう娘は告げているのだと思う。

 「絵本」を読んだとき、そうした考えが、突然わきあがってきた。
 「絵本」を読んだとき、太田の絵が、娘そのものに見えてきたのである。「私に言って! 」と叫んでいる「私」が突然見えてきて、その「私」こそが谷川のことばとまっすぐに向き合っていることがわかったのだ。
 「現代詩手帖」でことばだけを読んでいたとき、私は「娘」を忘れていた。そこに書かれているのが谷川の自画像だとばかり思っていた。
 しかし違うのだ。
 そこに描かれている「詩人」は谷川が鏡を見ながら描いた自画像ではなく、「娘」という他人が見た、「娘」だけの谷川俊太郎なのである。ある「私」だけがとらえた谷川俊太郎なのである。

 これは、谷川俊太郎から、詩を読むなら人間という抽象的な存在ではなく、たったひとりの「私」になって詩を読めという厳しいメッセージである。

男の詩はみんなに気にいられた
声をあげて泣かずにいられない詩
お腹の皮がよじれるほど笑ってしまう詩
思わずじっと考え込んでしまうような詩

人々は何やかやと男に問いかけた
「どうすればそんなふうに書けるんだい」
「詩人になるにはどんな勉強をすればいいの」
「どこからそんな美しい言葉が出てくるのかね」

 そんなふうに受け止められたものは「詩」ではない。「みんなに」ではなく「私に」だけ、「私に」しか受け止められないことば--それが「詩」であるなら、「詩」を読むとは、「私」にしか読み得ないような読み方でことばを読むことだ。そういう読み方をとおして詩人と向き合うことだ。
「私」になれ。
 そんなふうに谷川は言っているのだと思った。

 そして、私は、いま書いた私のことばのすべてが太田大八の絵によっていることを自覚しないではいられない。4行ずつのことばと向き合っている太田の絵。その1枚1枚が私の想像していたものとはまったく違う。つまり、そこには太田という完全な個人がいる。太田だけしか受け止めることのできない谷川のことばが色と形になって存在している。絵の1枚1枚が「娘」なのである。「私に言って! 」と叫んでいる「娘」なのである。これらの絵に出会わなければ、私は「私に言って! 」の「私に」を永遠に読み落としていたと思う。

 この「絵本」にはとんでもない(?)付録がついている。56-57ページの見開きに、谷川のことばはなく、ただ太田の絵がある。それは「娘」の「墓」である。つまり「娘」の完全なる「自画像」、そして、谷川のことばと向き合い続けた結果誕生した太田自身でもある。「詩人」が死んだとき、「詩人」のことばと向き合い続けた「娘」(太田)も死に、その死をとおして、新しく再生した「娘」(太田)がここにいるのだ。
 見つめていると、なぜか、どきどきしてくる。
 印刷ではなく、原画を見てみたい--そう思った。

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清岡卓行論のためのメモ(6)

2006-12-03 14:46:24 | 詩集
 現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
 「指の先の角砂糖(抄)」(1965年03月)は萩原朔太郎の詩の中に登場する「手」をめぐる評論である。清岡卓行は萩原が手について自虐的に表現していると作品を分析した上で、次のように書いている。

そこには奥深く共通している激しいモチーフがあるようだ。それは、一口で言えば、あまりにも熱烈に生きようとするための生への恐怖であり、従ってそのための、いわば倒錯的な死への親和である。その場合、外部の世界と最初に接触する任務をもたらされた手や指は、その直接の交渉を本能的に忌避して、自ら先んじて鉱物に化そうとするである。あるいは、こう言いかえてもいいだろう、この奇妙で不条理な宇宙と連結するために、敏感すぎる生命は、いちはやく自らの尖端にいくらかの無機物を、つまり部分的な死を、用心深くも所有したがっているのだ、と。(91ページ)

 この部分に私は清岡の「と」を見る。ある存在と存在を結びつける清岡の精神の動きを見てしまう。
 生「と」死。清岡の視点にしたがえば、それは萩原の場合、「手」によって接触する。萩原が「手」(あるいは「指」)であらわそうとしているものを「と」と置き換えると、ここに書かれている萩原の詩の世界は、そのまま清岡の詩の世界になる。「手」に対する解説は「と」に対する自注になる。
 「手」は生と死を結ぶ。そのいわば矛盾したもの、まったく相いれないものが連結するためには、命は変形しなければならない。命が存在する空間(宇宙)は変形しなければならない。そして、その変形を象徴として表現したものが、萩原の「手」(鉱物に変形した手)なのである。

 もう一か所、清岡自身の詩の自注にふさわしいことばが書かれている。

『この手に限るよ』の夢物語における主人公はいささかも「馬鹿者(フール)」ではなく、その行為の内部には充分な論理がかくされているのである。

 ある「行為の内部」に「かくされている」「充分な論理」。
 清岡が「と」によってある存在と別の存在を結ぶ。そのとき存在がかわる。つまり「宇宙」があたらしく誕生し、その「宇宙」のなかで存在の新しい生成が始まる。(萩原朔太郎の「手」を例にとれば、手の鉱物への変形が始まる。)それは奇妙にみえるかもしれないが、その変形の内部には充分な論理がかくされている--つまり、それはとても論理的なことがらなのである。
 清岡の詩は、そのことばの運動はとても論理的である。「宇宙」のなかで起きうる運動を論理的に、静かに、着実に押し進める。清岡にとっては、論理は詩を破壊するものではなく、詩を補強するものなのである。

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山田洋次監督「武士の一分」

2006-12-03 12:23:41 | 映画
監督 山田洋次 出演 木村拓哉、檀れい、坂東三津五郎

 木村拓哉がご飯を食べるとき最後に必ずお湯をもらう。最後の一口をお茶漬けにする。これは茶碗と箸を洗っているのである。食べ終わると布巾で茶碗の内側を拭き、茶碗をしまう。箸もしまう。武士の世界の節約、その節約が生み出す「美」が丁寧に丁寧に描かれている。こうした部分はおもしろい。木村拓哉が失明したあと一族が集まり今後どうするか相談するところも、おもしろい。だれが木村拓哉の面倒を見るか--これは「食い扶持」がかかっているだけに大問題なのである。武士が食うことがいかに大変か、は、そこに「美意識」のようなものが絡んでくるからなんだなあ、ということがわかるのでおもしろい。檀れいが食堂の店員(?)でも何でもやると言うと、そんな仕事をさせるわけにはいかない、と一族が反対するところに「美意識」が如実にあらわれている。この「美意識」は「みえ」と置き換えることもできると思う。
 そして、「美意識」を「みえ」と読み替えるとき、それは自分が他人からどう見られるかという問題にかわる。どう生きるかではなく、どう見られるか、という問題に置き換えられる。そして、そのふたつは似ているようでありながら、大きく違う。ご飯の最後にお湯をもらい、茶碗をあらうのをかねてお茶漬けをすするという「美意識」は同時に自分自身の節約、生活をまもるということと直結する。食堂で女中をやるのは許せないという「みえ」は、生活を否定する。
 「武士の一分」では「美意識」と「みえ」が交錯しながら展開する。そして、その結果、ちょっと変なことが起きる。映画が破綻する。「決闘」のことである。
 決闘において大切なことは、ひとつは、自分が強いこと。自己の腕を磨くこと。自分自身がひとつの「美」として完成することである。もうひとつは、相手をよく知ること。その強さも弱点も知ること。
 傑作「たそがれ清兵衛」では敵役は長刀づかいであることが紹介されていた。真田広之は室内では長刀が存分に振り回せないことを知っている。だからこそ室内で戦うことを選んでいる。そして、その長刀が最後の最後で、油断から(勝ったと思った気の弛みから)大まわしになり、鴨居にひっかかり、真田を切りそこねる。そのすきに真田が相手を切るという劇的展開へとつながる。
 そういう「他人」の研究に対する丁寧さがこの映画では欠けていた。「意識」と実際の行動の分析が欠けていた。「他人」が欠落したまま、木村拓哉がどうするか、ということだけに焦点があたりすぎていた。それが、とてもとてもこの映画を甘いものにしている。「恋愛映画」(?)だから甘くてもいいのかもしれないが、「決闘」の部分で「美意識」が崩れ、人情になってしまうので、これはちょっと違うのではないのか、と思ってしまうのだ。木村拓哉は決闘にあたり「免許皆伝」のときの「ことば」を復唱するが、そういう「精神論」ではなく、ご飯の最後にはお湯をもらって茶碗をあらいながら食べるというのような実際の具体的な行動として「美意識」が貫かれないと、甘さだけが浮き立ってしまう。

 「美意識」はむしろ木村拓哉に破れた方で完遂する。だれに切られたか言わない。なぜきられたか言わない。沈黙を守るために自害する。そこには恥ずべきことをしたという自覚がある。この自覚が「美意識」である。
 木村拓哉の方の「美意識」は仇(?)が貫いた「美意識」を壊さないようにして沈黙を守り、妻を守り、ひっそりといままでの生活をつづけるというなかでしか完成されない。この奇妙な結末はカタルシスになり得ない。カタルシスになりえないと山田洋次もわかっているのだろう。わかっているから最後は「お涙」で終わる。涙で観客をごまかしてしまう。木村拓哉と檀れいが元の夫婦に戻れてよかった、よかった、で終わる。
 そのとき「武士の一分」とはなんだったのか、ちょっと見失う。思い出さなければならない。これではなあ、と思う。「詩」(美意識)が「涙」で曇ってしまった映画である。



 美しいなあ、と感じたシーンもある。たとえば蛍のシーン。障子にとまった蛍の光がぼーっとゆれる。蛍はまだかと失明した木村拓哉が問う。檀れいはまだだと答える。その答えに木村はどんなふうに納得したのだろうか。何も語られない。ほんとうに蛍はまだなのか。蛍はでているけれど、目の見えない木村に蛍がでているとつたえることはつらいと思い言わなかったのか。木村がどう納得したか説明しないで、ただ、蛍と二人の会話だけをさしだす。
 ここに「美」の深みがある。共有される「意識」がある。それが「詩」である。


 
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清岡卓行論のためのメモ(5)

2006-12-02 23:17:08 | 詩集
 現代詩文庫「清岡卓行詩集」(思潮社、1986年02月01日発行)。
 「無人島で」(『四季のスケッチ』収録)にはことば(日本語)について語られている。もし清岡が無人島へ何か一冊本を持っていくとしたなら……。

ぼくにまで最も魅力的であるもの、それはなぜか、ぎりぎりの単位までばらばらに解体された、遠く懐しい母国語の集合体なのです。母国語の単語たちのすべてが、小学校の入学式に並んだ新入生のように発音順に整列し、爽やかな潮風に吹きかえされている、一冊の古ぼけた、ありきたりの辞書なのです。

 「辞書」のことばには「と」がない。「と」による結びつきがない。言い換えると……。

一つの響きしかもたない一つの単語は、おびただしい意味やイメージをその周囲に、可能性においてまぶしく放射しています。ほかの単語たちとの生臭い脉絡を断たれている、決定的な位置。

 他の単語(ことば)と結びついていな、「と」の欠如によって意味の、イメージの可能性を無限大に持っているのが「辞書」のことばである。そして、それは「詩は言葉を物(ショーズ)のように扱う」という定義を思い起こさせる。
 その詩とことば(物としてのことば)とについての思いめぐらしのなかに、清岡の、ことばに対する独特の思いが語られている。

しかし、言葉を本当に物(ショーズ)のように扱えるでしょうか? それでは、言葉はピアノの音や大理石のかけらのようになってしまい、言葉を住まわせている空間が見えないではありませんか? ぼくは、母国語の辞書という思いがけない独特な空間の全域にはげしく戦慄するのです。

 清岡によれば、ことばは物(ショーズ)ではない。ことばは「空間」である。ことば自身が抱え込んでいる「空間」ではなく、ことばを「住まわせている空間」--それが「ことば」である。
 この「空間」は、最初に清岡の作品について触れたときに紹介した「宇宙」によく似ている。「ぼく」と「きみ」はそれぞれ「宇宙」を持っている。それは、「ぼく」と「きみ」はそれぞれ別々の「宇宙」に住んでいるということでもある。
 そしてその「ぼく」と「きみ」が出会うことによって、ふたつの「宇宙」が出会い、融合し、合体する。そんなふうにして、ことばとことばが出会い、それぞれの「空間」(宇宙)が融合し、合体するのが「詩」なのではないのか。--清岡は、そんなふうに考えているのだと思う。
 「詩」とはことばとことばの出会いである。そしてそれはことばが住んでいる「空間」(宇宙)同士の出会いである。融合であり、合体である。言い換えれば、あるいは正確にいえば、ことばが出会うのではなく、ことばを住まわせている空間(宇宙)が出会うのが「詩」なのである。
 そして「ことばを住まわせている空間」(宇宙)が出会うということは、実は、それぞれの「空間」(宇宙)の奥へと分け入っていくことなのである。それを清岡は次のように書いている。

母国語の辞書という空間の中に侵入します。--すると、そこは、また別な海の底につづいている。

 ことばを住まわせている「空間」。それが出会うことによって、単独では見えなかった「空間」が見えてくる。
 それは単に見えてくるというものではない。「別の海の底につづいている。」ということばが指し示しているように、別のものにかわってしまうのである。「空間」から「海の底」へと世界が変わったように、まったく別の次元--しかし、「つづいている」次元が現れるのである。
 それは一種の生成なのである。

 清岡の詩、「と」によって結びつけられる単語と単語の出会い。それは単語の持っている「宇宙」と「宇宙」の出会いであり、ふたつの「宇宙」が出会って始まる世界は、それまでの「宇宙」とつづいてはいるが、「空間」と「海の底」ほどの違いがあるものなのだ。異質なもの、まったく新しい「次元」なのである。
 清岡は、そうしたものを書こうとしている。
 ことばとことばが出会い、その結果、日本語の「空間」を耕して、新しい「宇宙」が生まれる、生成する--そういう瞬間を描こうとしている。
 この作品は、清岡の「詩論」というべき作品である。
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古賀忠昭『血ん穴』

2006-12-01 23:23:56 | 詩集
 古賀忠昭『血ん穴』(弦書房、2006年12月01日発行)。
 「血ん穴」は「母ん股倉ん奥の血ん穴ばひきあけ、そん中に頭ば突っ込む。」ということばから始まる。「奥」がこの作品のひとつのテーマである。人間の「奥」、欲望の「奥」、生の「奥」、性の「奥」、死の「奥」。それはひとつである。「そん中に頭ば突っ込む」とき、「奥」と「頭」は別々の存在のはずだが、突っ込んでしまえばそれはひとつのものになってしまう。母の股ぐらの「奥」と、そこに突っ込まれた「頭」は、いったん突っ込まれたらもう分離することはできない。それが「人間」であり「生」であり「性」であり「死」である。
 そこで起きることを、古賀はひとことで代弁させている。

 コンバカタレガ!
                 (30ページ)

 妹と性交した兄。二人を切り殺す父。切り殺されても離れない兄妹の性器。それへ向けて叫ぶ絶望のことば「バカタレ」。
 この「バカタレ」は「許し」である。否定することでしか「許し」はありえないのである。「否定」と「許し」は矛盾するが、その矛盾の中にすべてがある。
 「否定」は直接的には、ここでは近親相姦の兄妹に向けられているが、その近親相姦と父は無縁ではない。父と母が交わらなければ兄妹の誕生はなく、その結果としても近親相姦もありえない。父と母の欲望が産み落としたものが兄妹の近親相姦である。それは父の、そして母の夢の欲望であり、熱望かもしれないし、あるいは父と母がしてきたことかもしれない。
 そしてその「否定」が殺人の形で実行されるとき、「バカタレ」は兄妹にだけ向けられているのではない。二人を殺す父自身にも向けられている。近親相姦を「死」で否定する、なかったものにする--そういう方法しかとれない自分自身への「バカタレ」でもあるのだ。
 このとき「許し」は兄妹への「許し」であるというよりも、実は、父自身への「許し」という形をとっているといった方がいいかもしれない。「許してくれ」という絶望のなかで叫びながら、父は自分自身を許すのである。
 --これもまた矛盾である。矛盾がすべてである。

 人間の、繰り返される矛盾、その生と死、性と死、そしてつづいていく命。あるいは生まれることを拒絶された命を含めてつながっていく血。血の中にあるあらゆる矛盾。それをどうやって古賀は乗り越えるのか。古賀の描くひとたちは乗り越えるのか。
 「バカタレ」に拮抗する美しいことば、あらゆる拒絶(否定)を超越することばが、この詩では繰り返されている。

ナンマイダブ ナンマイダブ
           (13ページほか)

 「バカタレ」と絶望視しながら兄妹を殺し(あるいは生まれてくるはずの子供を殺し--このとき「バカタレ」は子供が生まれるような行為をした自分自身に向けられているの蛾だ)、同時に「ナンマイダブ」と祈るのである。
 この祈りは、死んでしまった人間の成仏だけを祈る祈りではない。「殺し」という罪をおかしてしまった自分の精神と肉体との成仏をも祈る祈りである。「ナンマイダブ」は現世の命そのもの、自分自身がいまあることを清める祈りでこそあるのだ。
 死んだ人間ではなく、いま、ここに生きている自分への祈り--この祈りも矛盾かもしれない。仏教の教えとは相いれないものかもしれない。しかし、それが、命というものである。

 古賀はこの作品で何らかの「答え」を出してはいない。人間はどう生きるべきかという「答え」を出してはいない。
 そのかわりに人間は「バカタレ」と絶望し、同時に「ナンマイダブ」と命が浄化されることを切実に祈る現実を描く。「バカタレ」と「ナンマイダブ」の間で、矛盾したまま命を、血をつないでいく。それが生きることだと、ただ、その現実を描く。あからさまに、というよりも、その「奥」へ「奥」へと踏み込むようにして描く。
 どこまで突き進んでも「奥」には限りがない。これもまた矛盾である。
 そしてこの矛盾が「思想」なのである。
 そうした「思想」の荒々しさ、なまなましさ、それがうごめく「現場」を古賀のことばはとらえている。方言が、そのなまなましさ、肉体と結びついて離れない力そのままにうごめいている。
 強烈な詩集である。傑作である。手元にないなら、すぐに注文して詩集を買うべし。

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ラウル・ルイス監督「クリムト」

2006-12-01 22:02:40 | 映画
監督 ラウル・ルイス 出演 ジョン・マルコビッチ、ベロニカ・フェレ、サフラン・バロウズ

 冒頭のタイトルバックにクリムトの絵。それをとらえるカメラが回る。絵が回転する。そしてその回転、円の軸が、何か微妙にずれる。このずれが非常に気持ちが悪い。車酔いをしたような感じなのである。--そして、この酔いの気持ち悪さとは、実は、私自身の中にある何かしっかりした「軸」を求める気持ちの裏返しの生理である。
 私は、クリムトの絵は、そんなに好きではない。そしてその好きではない理由が、どうも、この映画の冒頭の酔いのようなものとぴったり重なっている。「軸」がない。「軸」が溶けてしまっている。立体(遠近感)が無視されて平面の中に融合し、装飾になってしまっていることに私は不安を覚える。その不安になじめない。クリムトの絵に対する私の不機嫌の原因はそこにある。
 映画を見ながら、あらためてそのことを確認した。
 私が気持ち悪くなったのは、たとえば冒頭の絵の回転のように、レストランでの人物を中心にカメラが回るシーンもそうだが、それにもましてクリムトが誰かと椅子に座って話していて、立ち上がり、また座るシーンでカメラが上下するシーンだ。まるでクリムトの視線の位置にあわせてカメラが動いている感じがするのである。
 言い換えれば、この映画は、監督がいてカメラマンがいて、クリムトという人物を撮っているというよりも、クリムト自身の視線(内面の動き)をそのまま特殊な方法で再現したもののように感じられるのだ。客観というもの、第三者の目(具体的にいえば監督、カメラマンの目)は存在せず、主観としての目、クリムトの目だけがあるのだ。
 その象徴のような存在が文部省(?)の次官のような男。彼は実在の人物なのか、それともクリムトだけに見える幻なのか。映画を見ているだけではわからない。(医師が「だれと話している?」と質問するシーンでは、クリムトの向こうに帽子があるだけだ。)マジックミラーの部屋、偽物と本物のレア--その虚実を判断できるものが何一つ提供されていない。
 クリムトの絵のなかにあるのが(クリムトの絵のなかで実現されているものが)クリムトの目であり感性であるのと同様に、この映画でもクリムトの目だけが実現されている。その目とうまく同調できないと、そこから始まるずれのために、私の感覚は狂い始め、その結果「酔い」が始まる。私自身の目の「軸」が外され、クリムトの目の「軸」が肉体のなかに入ってくる感じだ。そしてそのまま、クリムトという装飾の迷宮に迷い込み、その迷路が、迷路のまがりくねりが、いっそう酔いを誘う。
 こんなふうに私は映画を見ていて一種の吐き気を覚えるような肉体的気持ち悪さを感じたことはない。そういう意味では、これはとてつもない映画だ。「軸」を次々にずらしながら、それでいて存在感の確かさだけは失わないジョン・マルコビッチもまた大変すばらしい。彼がいなかったら、この映画は成り立たなかっただろうと思う。また彼でなかったら、私の感じた薄気味悪い酔いもなかったような気がする。すごい役者だ。

コメント (1)
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