詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清岡卓行論のためのメモ(20)

2007-02-08 07:58:17 | 詩集
 『通り過ぎる女たち』(思潮社、1995年11月25日発行)。
 「円き広場」はさまざまな形であらわれる。たとえば「ある日光浴」。パリ、セーヌの岸辺。若い女性がふたり日光浴をしている。

なぜなら人間の生活にとって本源的な
土地と水流と空気の三つが同時に接する一線に
二人の娘はほとんど触れているから。
大昔に集落があったというパリのまんなかで。

 複数のものが「同時に接する一線」。それは「円き広場」を貫く道である。この作品からもうひとつ重要なことばを拾い上げるとしたら「まんなか」である。「円き広場」にはかならず「まんなか」、つまり中心がある。そして、その中心が「と」である。「土地と水流と空気」のなかの「と」。「と」という中心から広がる無限大の広がり。宇宙。それを常に清岡は夢みている。
 清岡の見ているものが単に水平方向だけではなく、立体を含めた「円」、つまり「球」であることは、いま引用した「土地と水流と空気」という「一線」のなかに、「空気」という立体方向のものが含まれていることからもわかる。
 そうしたことがより鮮明にわかる作品として、「冬の樹の下の美女」の次の連がある。

樹が存在する位置の不動
幹が意志する上昇への垂直
その内部にふくらむ年輪の持続
いつもすべてがそろうわけではないが
枝に葉や花や実が現れる移ろい
そして 根が広く深く下降して行く暗闇。

 「樹」のなかで接する「一線」。そこに垂直に伸びる幹があり、水平に広がる年輪がある。そして、そこには上昇と同時に「下降」もある。
 この「下降」はもちろん清岡卓行の夢想である。「樹」そのものに「下降して行く暗闇」があるということは、植物学的に誰も観察していないだろう。
 ここに「詩」がある。存在しないもの。存在しないものを、あたかも存在するかのように出現させてしまうことばの力。それが「詩」である。そして、この「詩」をじっくりと眺めるならば、そこからまたひとつ清岡の「嗜好」(これは「思考」に通じ、したがって「思想」にも通じる)ものが見えてくる。
 「根が広く深く下降して」ということばのなかの「広く深く」という広がり。清岡のことばは凝縮した一点ではなく、ある一点からどこまでも広く深く(あるいは高く)動いて行く運動を特徴とする。
 こうした運動のために必要なのは「中心」である。「と」である。何か「と」何か。それを「一線」として形成するための中心としての「と」。

 「中心」ということばから連想するものに、「太陽」がある。清岡は太陽が非常に好きである。何度も何度も作品に出てくる。この詩集のなかにも、次のような行がある。

  太陽に酔うこと
  それはそのままで
  人生への愛である。  (「地球のうえで」)

 「ある日光浴」でにおいても太陽を満喫する女性が描かれていた。太陽を満喫しているからこそ、清岡は彼女たちを作品に描いたのである。
 もうひとつ「太陽」、そして「一線」(あるいは一直線)とつながる作品。「謎の裸女」。その最終連。

賑やかさがもどった自由なマーケットの日本人たちの逆境を
女の後ろ姿は嘲笑すると同時に激励するかのように
坂の頂上で無一物の裸の垂直を夕日にひときわ輝かせる。
謎の女が坂の向こうに沈んで行ったその後の明るさのまだ残る青い空。

 敗戦後の大連。その街のマーケットにあらわれた裸の女がマーケットをまっすぐに引き裂き坂を上る。その頂上で夕日と重なる。その美しさ。
 この作品には、また「嘲笑すると同時に激励」ということばがあるが、こうした矛盾を一点に集中させ、そこから全宇宙へ「美」を放射する--というのが清岡の「詩」である。「裸の女」は実際に裸の女であると同時に、世界の中心の「と」なのである。



 少し逆戻りして……。「冬の樹の下の美女」のなかの「根が広く深く下降して行く暗闇」という行について。「暗闇」について。
 清岡は「太陽」が好きである。しかし同時に「暗闇」を忘れない。暗闇があるからこそ太陽が輝くし、太陽が輝くからこそ暗闇も意味を持つ。「謎の裸女」も「闇」であり同時に「太陽」のような存在だった。汚れた裸の体、何も身につけいない女は、いわば「暗闇」のような大連の日本人の状態を象徴しているかもしれない。それが毅然として街中を歩いていく。そのとき「暗闇」は「暗闇」ではなくなる。何か輝かしいもの、表面は汚れても内部はけっして汚れていない--その汚れのなさ、無垢さ、輝く美を感じさせる。だからこそ、それは夕日の輝きと一直線でつながるのである。

 美と汚れ。その一直線のつながりは、再生とむすびついているかもしれない。詩集中、私がもっとも美しいと感じる作品は「嬰児ではなく」である。そこに描かれているのは若い娘である。夢のなかで彼女は襁褓(おしめ)をつけている。そう気がついたあとの夢の描写がとても美しい。

どうして襁褓(おしめ)なのだろう?
そう訝ったとき
宙に浮く 無色透明の 見えない右手
だれのものかわからない右手が
襁褓の背中のほうの端をつかみ
静かにそれを剥ぎとっていった。
おお そのあとに現われたのは
赤ちゃんのように
たんぽぽの花の黄色い便を
肛門のまわりにべったりつけた
お尻であった。
かれは驚愕した。
なんという汚さ!
さあ早く 生温いお湯で
よく洗い落としてやり
そのあとに石鹸の白い泡をいっぱいつけ
もう一度 生ぬるいお湯で
よくよく洗ってやらなければ!
すっかり綺麗に洗ってしまえば
今度は逆に
眩しいほどの白さで
ふっくら輝く
すばらしく美しいお尻があらわれるだろう!

 汚れと美が一瞬にして逆転する。逆転するのは、それが「一線」に結びついているからである。そして、この美の奥には、人間の肉体への限りない信頼がある。
 便で汚れた若い娘の裸--それを夢みるのは人間の「暗闇」だろうか。そして、それを洗ってきれいにすれば「美」があらわれるというのも人間の「暗闇」だろうか。--それはよくわからないが、真新しい輝く尻の美しさ、それを美しいと感じる肉体の真実。そういうものが清岡の詩をとても健康なものにしていると思う。


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ニコラス・ギエン「ルンバ」

2007-02-07 12:08:19 | 詩集
 ニコラス・ギエン「ルンバ」(恒川邦夫訳)(「現代詩手帖」2007年02月号)。
 リズムというとき日本語ならば五七調。英語の詩ならば脚韻。音楽ならば8ビート、16ビート。いろいろなとらえ方があるだろう。そういう純粋な音のリズムのほかに「意味」のリズム、ことばの論理が飛躍するときのリズムというものがある。ニコラス・ギエン「ルンバ」(恒川邦夫訳)を読みながら、そのことを思った。

ルンバは
棒で
ねっとりした音楽を
かきまわす。
ジンジャーとシナモン……
まずい!
まずい、だっていまヒモの黒ん坊が
フェラと来るから。

 「まずい!/まずい、だっていまヒモの黒ん坊が」。このふたつの「まずい」のことばのなかでの飛躍。ジンジャーとシナモンをかき混ぜた味がまずい。この肉体の反応。そして、「ヒモ」を見かけて感じる精神(感情)がしめす「まずい」。二つのものは別々の「まずい」であるけれど、重なり合う。肉体が瞬間的に感じる「まずい」という反応までのスピードもぴったり重なり合う。もつれあう。ダンスのように……。

腰のスパイス
しなやかな、金の尻
ルンバがうまい、
ルンバがまずい。

 これは、女は「ルンバがうまい」、いまここで女と「ルンバを踊るのはまずい」という意味だろう。「ルンバがまずい」ではなく、正しい日本語(?)としては「ルンバはまずい」だろう。しかし、その「は」を「が」にかえることで、この詩はとても魅力的になっている。
 ことばの論理のリズムが躍動する。ことばが「意味」よりも「肉体の反応」を優先する。その結果、女と男がルンバを踊っているのだが、そこに二つの肉体があるのではなく、「ルンバ」という肉体があるかのように感じられる。男と女の肉体はもちろんあるのだが、それが「ルンバ」という踊りの中で、分割できない肉体になっている。「ルンバ」そのものが肉体になっている。だからこそ「ルンバがうまい」であり、同時に「ルンバがまずい」なのである。「ルンバはまずい」ではなく「ルンバがまずい」でなければならない理由がここにある。
 詩はつづく。

おまえのガウンの水中を
ぼくのすべての悩みが泳ぐ
ルンバがうまい、
ルンバがまずい。

 この「ルンバ」という肉体が、男と女の肉体を別々のものでありながら分割できないものとしてリズムのなかに融合させるからこそ、「おまえのガウンの水中を/ぼくのすべての悩みが泳ぐ」という行も生まれる。
 官能は肉体の悦びと精神の苦悩によって、いっそう飛躍する。
 詩はこのあと、「ルンバがうまい」「ルンバがまずい」がつくりだしたリズムの中で、さらにさらに熱狂的にねっとりと絡み合わされて行く。常に二つの肉体が触れ合い、「ルンバ」のなかで一つになり、一つになることで逆に二人が二つの肉体であることを自覚させ、もつれる。つまり、感情がより鮮明になる。欲望に火がつく。燃え上がる。だからこそ「ルンバがうまい、/ルンバがまずい。」と揺れ動くのだ。
 この揺れ動き、そのときどきのことばとことばの距離、飛躍が、とてもいい。ぜひ「現代詩手帖」で読んでもらいたい。
 
 原文との対比もなしにこうしたことを書くのは問題があるかもしれないが、このリズムをつくりだしているのは、日本語の訳においては「ルンバがうまい、ルンバがまずい。」の「ルンバがまずい」の方の訳である。「が」と訳出することで、「ルンバ」そのものが「第三の肉体」として出現し、あらゆることばの距離を、その距離つくりだす意味の飛躍、あるいは意味の接近を一定にしている。
 スペイン語には日本語の助詞にあたる「は」「が」はないから、どのような助詞を補って日本語にするかは恒川次第ということになるのだろうけれど、「ルンバがうまい、ルンバがまずい。」はほんとうにすばらしい訳出だと思う。
 「(女は)ルンバがうまい、(いまここで)ルンバ(を踊るの)はまずい。」という訳では、肉体と頭が分離してしまい、熱狂的な官能は消えてしまう。ほんとうにいい訳だ。

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瀬崎祐「情事」ほか

2007-02-06 22:14:32 | 詩(雑誌・同人誌)
 瀬崎祐「情事」ほか(「風都市」16、2007年冬)。
 瀬崎祐「情事」は書き出しが非常に魅力的である。

彼女の実家は大きな農家だ。家人が出払った昼下がりに情欲がつのり、庭に面した座敷の障子を閉めて、彼女と二人で布団の上に横たわる。薄い胸をはだけると、乳頭のように見えていたのは小さな皮疹であった。もう水に伝染したわよ、かすれた声で告げる彼女の顔は、いつのまにか皮疹だらけになっている。

 「もう水に伝染したわよ」が何のことかわからない。そして、このわからなさが「物語」へと関心をひっぱっていきながら、同時に物語から逸脱し、詩でありつづける根拠のようなものだと感じた。
 「水」がどう出現し、伝染した結果としてどんなふうにかわっていくのか。ちょっとわくわくする書き出しである。
 2連目までは、それがつづいている。

布団のなかの暗闇には絶え間ない川音が充ちている。そういえば、彼女の家系は川からやってきたのだった。

 「水」は川となってどこかへ流れていく。「伝染」してしまったものは、川下へ流れるだけであろうか。あるいは流れに逆らって源へと逆流していくだろうか。そのとき、「伝染」はどんなふうに広がり、そこからどんな破壊が、あるいは破滅が、そして破壊・破滅をとおして、そこから何が誕生するだろうか。どんなことばの冒険がはじまるだろうか。
 しかし、期待は裏切られる。3連目で、突然「水」が消えてしまう。「水」が消えれば「伝染」も消えてしまう。「皮疹」ももちろん消えてしまう。肉体が消えてしまう。そのかわり「大きな農家」の主、つまり彼女の「父親」という「制度」が出てきて、「情事」は「制度」にのみこまれて、消えてしまう。
 「皮疹」「伝染」「水」という三つの肉体を持続できなくなって、「情事」そのものが消えてしまっている。とても残念である。せっかく「水」を書いたのだから、どこまでもどこまでも、小さな隙間を見つけ出して流れつづけてほしかった。そして、その細部から「伝染」が広がり、全体が「病気」になってしまうような詩を読ませてほしかった。
 出だしがおもしろいだけに、残念という気持ちが強く残る。



 川野圭子「日常」は読み進むにつれて、ことばと肉体が交錯し、ことばと思っていたものがだんだん肉体になってきて、「情事」を描いているわけではないのに、なんだか川野の裸を見ているようで、あるいは川野とセックスでもしているような感じに誘い込まれ、生々しくておもしろい。
 タイトルが「日常」なのに、描かれているのは「宇宙旅行」である。夢である。そして、そういうありえない夢なのに、それがたしかに「日常」だと感じるのは、川野のことばを動かしているものが肉体と非常に重なり合っているからである。肉体の感覚が「日常」を引き寄せるのである。
 最終連。

お客はまばらで 皆シートに座っている。
私もシートまで行きたいのに 下半身が伸びて 這ったままだ。
じわじわと膝を折り曲げて 足首を引き寄せ
やっとの思いで立ち上がることができた。
 立って歩くって良いものよねー。
と前に座っている青年に話しかけたら
つるぴかの眉目をピクッと動かしたか動かさなかったか。
宇宙人だと思った。

 「じわじわと膝を折り曲げて 足首を引き寄せ」。このリアルな肉体を動かすときの描写がいい。描かれているのは川野の肉体なのに、ことばを読んでいるだけで、自分で自分の膝を折り曲げて足首を引き寄せているような気持ちになってくる。川野の肉体と私の肉体がぴったり重なって動く。「情事」という印象はここから生まれる。他人の肉体の動きを自分の動きとして感じるのは、セックスの一番の醍醐味である。そして、こういう肉体の感覚は、たしかに「日常」なのだ。「日常」だからこそ、私たちはそれを共有する。
 宇宙旅行なのに「日常」というタイトル--しかし、この詩を最後まで読むと、これは「日常」以外のタイトルであっては困るという気持ちになる。

 「情事」というのは「物語」ではなく、たぶん「日常」なのだ。
 「情事」を描いたものに「情事」を感じず、「日常」を描いたものに「情事」を感じてしまう。その差は、たぶん、肉体をどこまで「物語」のなかで維持しつづけているか、いないかにかかっている。肉体を手放した瞬間、すべての「情事」は消える。逆に肉体さえ手放さなければ何を描いても「情事」になりうる。「日常」はあらゆる瞬間において「情事」になりうる危険(?)な誘惑として広がっているのだ。

 川野圭子の作品を読むのは、私にとっては、たぶん初めての経験である。川野圭子という詩人は私には記憶にない。しかし、きょうからしっかりと記憶に残った。とてもおもしろい詩人だと思う。

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オリヴィエ・マルシャル監督「あるいは裏切りという名の犬」

2007-02-06 01:24:41 | 映画
監督 オリヴィエ・マルシャル 出演 ダニエル・オートゥイユ 、ジェラール・ドパルデュー 、アンドレ・デュソリエ 、ヴァレリア・ゴリノ 、ロシュディ・ゼム 、ダニエル・デュヴァル

 フランス映画を見ていて一番奇妙に感じるのは距離感である。役者と役の距離感、役者と役者の距離感が、べっりとくっついている感じがする。映画なのにストーリーではなく、常に役者そのものを見ている感じがつきまとう。役者の肉体が必要以上に役を乗り越えて前面に出てくる。
 ダニエル・オートゥイユとジェラール・ドパルデューはともに鼻と目に特徴がある。
 ダニエル・オートゥイユ の鼻は左右が極端に違っていて、しかも大きい。目はなんだか濡れていて、いつも自分の内部を、あるいは親密な人間の内部を見つめている。内部が犯されること、踏みにじられることを、いつも心配している。その手触りのような感じが不思議だ。目を見ていると、ダニエル・オートゥイユに触れる感じがする。
 ジェラール・ドパルデューの鼻の頭は割れている。そして大きい。目は、内部をのぞかれることを拒絶し、そして他人の内部へも入っていかない。まるで人間に内部というものなどないかのように他人を見つめる。ただ外部だけをなめまわし、平気で内面を拒絶する。そこにも手触りがある。払いのけたいような、いやな感じがある。それはそれで、ジェラール・ドパルデューに触れている感じがする。
  そして、その人間性というのが、どうも触覚的なのである。視力というのは離れていて(目と対象の間に距離があって)初めて成立するものだが、二人の目は、触覚のように肉体に絡みついてくる。--二人の目は、もちろん演技なのだろうけれど、その演技に乱れがないために、それがそのまま二人の人間性のようにして迫ってくる。
 たぶん、この触覚的な視線のためなのだと思うが、この映画にはハードボイルドという感じがない。そしてストーリーを映像を媒介にして見ているという感じもしない。はらはらどきどきという感じがまったくなく、生々しい肌触りだけがある。その生々しさに、思わず触ったものを握りしめたり、逆に、ぎょっとして手をひっこめたりするような肉体の反応がつきまとう。ストーリー手はなく、その瞬間瞬間の手触りの変化に引き込まれ、揺さぶられるのである。
 この手の映画をフランス語でフィルム・ノワールという。黒い映画。黒いは「暗黒街」というような意味合いだが、そのノワールから私は別のことを感じた。この映画を見たあと、その印象が強くなった。
 黒--暗闇。そこでは視力は何もとらえない。暗闇では人間は手さぐりである。手で触って、それが何かを確かめる。それがそのまま映画になる。それがフィルム・ノワールだ。
 暗闇の中で、手は思いがけないものに触る。たとえばダニエル・オートゥイユの「信頼」という手触りに。「信頼」を何があっても守り抜く。その確かさ、強固な拳の感触に安心する。握りしめるということは、それがたとえ自分を傷つけるものであっても手放さないということだ。
 また逆に、ジェラール・ドパルデューの「裏切り」に。「手のひらをかえす」という日本語があるが、それはダニエル・オートゥイユの握りしめる手とはまったく逆だ。開かれた手は無防備のように見えて、自分をけっして傷つけず、他者をぱっとほうりだす強暴さをもっている。その強暴さに、ぞくっとする。
 ハリウッドの「ハード・ボイルド」あるいは「ギャング」映画には、はらはらどきどきがあるかもしれない。フランス映画のフィルム・ノワールには、はらはらどきどきのかわりに、ほっとする安心感と、それとは逆のぞくっとする恐怖感がある。どちらも手触りである。それは目では見えない。暗闇の中で、手さぐりで、触ったときに感じるだけのものである。その感じ--それを目でみることは、ふつうはできない。その目で見えない手触りをこの映画は再現している。二人の役者は再現している。
 強烈である。
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藤維夫「鳥の考え方」

2007-02-05 22:44:40 | 詩集
 藤維夫「鳥の考え方」(「SEED」11、2006年12月10日)。
 1連目がとてもおもしろい。

いきなり鳥が飛んできて
木のてっぺんにとまっている
地上を眺めながらタイミングをはかっている
すっかり秋が深まった青い空の
もう山はすっかり赤く乱れてきている
鳥は考えて 気に飛んできているのだけれど
もう鳥いがいのことをまぎらわせずに眠るだろうか
やはり鳥はこの主語の鳥にかえりたがるから
鳥の古巣へかえるのかもしれない

 「やはり鳥はこの主語の鳥にかえりたがるから」が象徴的だが、この作品には隠された主語がある。「私」である。その隠された「私」という主語と、もうひとつの形式としての主語「鳥」が微妙に交錯する。融合する。そして分離する。その動きがおもしろいのである。

いきなり鳥が飛んできて
木のてっぺんにとまっている

 この2行の主語は「鳥」に見える。しかし、「鳥」ではなく、「鳥」を見つめる「私」こそが主語である。鳥は「いきなり」は飛んでこない。「いきなり」と感じるのはあくまで「私」である。正確(?)には、

いきなり鳥が飛んできて
木のてっぺんにとまっている
のを私は見た(見ている)

 である。「私は見た(見ている)」がここでは省略されている。そして、省略しているということは、藤は強く意識している。意識した上で、「鳥」と「私」の違いを見つめなおす。
 「いきなり」は鳥の感じとは違う。鳥の「考え方」とは違う。そして、そういう意識から「世界」を見つめなおす。
 一方に「私」(藤井)の見方、考え方があり、他方に鳥の考え方がある。鳥の考え方はふつうは人間にはわからない。理解できない。それが飼っている鳥ならいくらかは考え方がわかるかもしれないが、「いきなり」あらわれた鳥(なんという種類かもわからない鳥)であるからには、考え方などわかるはずもない。そしてわかるはずもないからこそ、そこに自由に「私」(藤井)の考えを投影することができる。その投影された考えが鳥の考えと合致しているかどうかは誰にもわからない。そのことを藤井は利用している。
 ときどき、「のを私は見た(感じた)」という行を挿入すると、藤井の書いている世界がよくわかる。

地上を眺めながらタイミングをはかっている
のを私は見た

 何のタイミング? 飛ぶタイミングである。再び飛ぶタイミングを鳥ははかっている。ほんとうにそうだろうか。誰もわからない。「のを私は見た」を省略すると、そのわからなさがいっそう強まる。だから、藤井は省略する。「見た、感じた」ではなく、断言してしまう。--そのとき、藤井は「私」から「鳥」になりかわっている。主語が交代してしまっている。つまり、鳥そのものになって、世界を見回す。
 それが次の2行である。

すっかり秋が深まった青い空の
もう山はすっかり赤く乱れてきている

 ほんとうは、そういうい風景を意識している(見ている)のは藤井なのに、あたかも鳥が見ているように書いてしまう。そして、そんなふうに鳥になりきった瞬間に、鳥ではいられなくなる。今書いた2行が「私」(藤井)の見た風景に過ぎないことに気づかざるを得ない。ちょっと反省せざるを得なくなる。
 このままつづけていってしまえば「抒情詩」になる。センチメンタルになる。「現代詩」ではなくなる。そういう踏みとどまりが次の行に凝縮する。

鳥は考えて 気に飛んできているのだけれど

 「もう山はすっかり赤く乱れてきている」のあとには「のを私は見ている」を補えるけれど、ここでは「のを私は見ている」を補えない。補うことができるとしたら、この行からあとは「というふうに私は考える」となってしまう。
 ここからは「鳥の考え方」ではなく「私(藤井)の考え方」、あるいは考えそのものを書かざるを得なくなっている。
 そのとき、第1行の「いきなり」とは違った「私」(藤井)の感覚も立ち上がってくる。
 この揺れ動き。「私」が「私」という主語を隠すことで鳥になったり私にもどったりする。そして、その動きに合わせて、鳥が見つめられた鳥と、鳥そのものにももどったりする。その動き、合致し、また離れていくということばの運動のなかに、絶対に手の届かないのも、つまり「鳥の考え方」というものがあるような気がしてくるのである。それが見えてくるのである。しかも、「見えない」という形で見えてくるのである。藤井は鳥のことを考えているが、それがほんとうに鳥の考えと合致するかどうかはわからない。わからない部分に、鳥の考えがほんとうはあるかもしれないのだ、という形で鳥の考えが見えてくる。
 どんなふうに鳥を描写しようと、また鳥が見ているものを描写しようと、それはもちろん藤井のことばであるから、鳥の考え方ではなく、ほんとうは藤井の考え方が反映している(藤井の考え方によって把握されている)鳥の考え方という幻想にすぎない。しかし、そういう幻想を幻想と言ってしまう藤井の強靱な理性が、あるいは自覚が、幻想を甘いものにせず、清潔にしている。
 抒情に流れず、抒情を拒絶して、理性を浮き彫りにしながら(といっても、隠しながら、という技法がここには存在するのだが)、ことばの可能性をさぐる。この複雑なことばの動きが「現代詩」なのである。
 そして、藤井の冷徹な精神の清潔さ、抒情を拒絶する精神が「やはり鳥はこの主語の鳥にかえりたがるから」の「主語」という一語に結晶している。

 藤井は「鳥の考え方」というものが藤井の幻想、藤井のことばの運動のなかにしかないことを知った上で、それでも「鳥の考え方」を押し進める。それは「鳥の考え方」というよりも、藤井の「理想」あるいは「祈り」のようなものである。
 それが2連目。

短い秋はぐるっと透明な風景を漂わせ
おだやかな風に静かになっていくだろう
鳥は音楽にケイレンして
このつるされた空の記憶の高みへ登っていくにちがいない
マーラーもモーツァルトも天の高みで作曲したじぶんの曲をきくはずだ
孤立も連体もしない鳥がいた
一直線に飛ぶだけだ

 孤立も連体もしない。ただ、一直線に動くことばとなって存在する。それは藤井の詩に託した「祈り」である。


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坂多瑩子「駆ける」ほか

2007-02-04 22:02:04 | 詩集
 坂多瑩子「駆ける」ほか(「鰐組」220、2007年02月01日発行)。
 坂多瑩子「駆ける」がおもしろい。暗い夜道で自転車とすれ違う様子を描いている。

暗がりなので駆ける
自転車がライトをつけて走ってくる
よけてその場で待つ
朝礼のときのように気をつけの姿勢で
誰もみていないので休めと号令をかける
よそみしてはいけません
先生の口ぐせ
あなたはいつも顔色が悪いです
何も気にとめないふりをしよう
自転車が道の真ん中を走っていく
見慣れた景色だが
全部をみることができない

 現実と過去が体の動きとともに交錯する。記憶も交錯する。その交錯の加減がとてもいい。おかしい。「朝礼のときのように気をつけの姿勢で/誰もみていないので休めと号令をかける/よそみしてはいけません」の3行の動きが、単に肉体の動きだけでなく、坂多の人間性をも浮かび上がらせている。それがおかしい。
 --と書いて、私は、いや、違うな。人間性なんて、そういう大それたものは、こういう短い詩を読んだだけではわかるはずがない。私が見ているのは坂多の肉体そのものだという感じがする。
 自転車が走ってくる。身をかわす。最初は緊張して「気をつけ」のような感じ。でも、誰も見ていないんだから「休め」くらいの姿勢でいいかな。そう思った瞬間に、「よそみしてはいけません」という先生の声が思い浮かび、体が、ぴくりと動く。そういう変化そのものをみている。
 そうではなくて……。ほんとうは、私の肉体をみている。ちょっと気をひきしめて、ちょっと気をゆるめて、その瞬間を見破られてぴくっと動いた私自身の記憶のなかにある肉体。その動き。
 これは、なんというのだろうか。たとえば腹が痛くて腹を抱えてうずくまっている人を見たとき、その痛さが自分のものではないにもかかわらず、あ、腹が痛いんだと感じるときの肉体の反応に似ている。そのひとの腹がどれだけ痛もうと私の肉体はちっとも痛くない。ちっとも痛くないのに、あ、痛いんだ、かわいそう、と思ってしまう。その感じに似ている。
 そして、こういう感じになったとき、単に相手が痛がっていると感じるだけではなく、人はふつう、「ああ、かわいそう」と思うが、その「かわいそう」と思う気持ちの動きこそが、ほんとうは肉体の一番重要なものだと思う。
 坂多の詩の場合、「かわいそう」ではなく、「おかしい」「くすっ」という感じなのだが、それがまたとてもいい。「かわいそう」という感覚(同情)は人と共有すると、なんとなく自分が「正しい」ような気になるものである。「おかしい」「くすっ」というのは、そういう「正しさ」とは無縁である。その無縁さが、肉体の健康さそのもののように感じられて、とてもうれしいのである。



 高橋馨「文鳥論」は漱石の「文鳥」についての批評(感想)である。ちょっと疑問をもった。

 翌日(あくるひ)、眼が覚めるや否や、すぐ例の件を思ひだした。いくら当人が承知だつて、そんな所へ嫁に遣るのは行末(ゆくすゑ)よくあるまい、まだ子供だから何処へでも行けと云はれる所へ行く気になるんだろう。一旦行けば無闇に出られるものぢやない。世の中には満足しながら不孝に陥(おちい)つて行く者が沢山ある。などと考へて楊枝(やうじ)を使つて、朝飯を済まして又例の件を片付けに出掛けて行つた。(「漱石全集」第16巻、岩波書店、ただし漢字の正字は略字に、「また」は漢字が表記できないのでひらがなになおした--谷内注)

 「例の件」とは三重吉が関係する結婚話である。詳しくは書かれていないが、たぶん三重吉が少女の結婚の世話をしている。それについて漱石は反対なのだ。反対であると明確に三重吉に告げるために外出した。そして、その間に文鳥が死んでしまう。
 その部分について、先の漱石の文章を引いて、高橋は次のように書く。

 つまり、漱石は小鳥に餌もやらなければ、水も確かめないで外出したのだ。帰ったのは午後三時頃、その時はすでに小鳥は鳥籠の中で硬直して死んでいた。まるでこの文章は小鳥の境遇を語っているようにも私には取れるのだ。

 私はまったく逆に取った。鳥籠のなかの文鳥が子供のまま嫁に行ってしまう少女を暗示しているのだと思った。いやだとも言えずに結婚させられる少女。そこでは少女の「自然」は簡単にねじまげられてしまう。まるで文鳥が死ぬように、簡単に死んでしまう。少女の生死は、少女が決定できず、そのまわりの人にかかっている。まわりの人次第で、少女は簡単に死んでしまう。肉体の問題ではなく、精神、感情の問題として、死んでしまう。--そういうことの暗示として、漱石は文鳥の死を書いている。そんなことはよくない、と漱石は考えている。
 女と文鳥の対比は、これ以前にも書かれている。対比させられる女は、やはり結婚がきまった女である。漱石は、最初、文鳥とその女、かなりいろっぽい感じの女を重ね合わせている。
 結婚した当初(女が「嫁」として家に来た当初)は大事にされるだろう。文鳥が大事にされるのと同じである。だが、なれるにしたがって、大事にする、ちゃんと(漱石の場合、ちゃんとは「自然」に同じ意味である)生きているか面倒を見るということをおこたるようになる。そして、ある日は餌をやるのを忘れる。水をやるのを忘れる。そうして、気がついたら死んでしまっている、ということになってしまう。(これは繰り返すけれど、あくまで精神・感情の問題の「比喩」である。)
 そういう変化を、漱石は、漱石自身の文鳥に対する態度と重ね合わせる形で書いている。ほんとうに必要ではないもの、愛してもいないものを、他人が世話をしてくれるままに引き受けても、そこからは「幸福」は生まれない。どうせ他人が世話をしてくれたものだ、自分が欲したものではない、という気持ちが生まれてしまう。そこから、たとえば文鳥に対して愛情を注ぐということがないがしろになり、そうすることを忘れてさえしまう。そういう癖が、漱石にかぎらず、人間にはつきまとっている。
 三重吉はこういうことについて考えているのか、と漱石はこの作品の中で問いかけている。そして、その問いかけは、ひとり三重吉に対してのみの問いかけというより、漱石の生きた時代そのものへの問いかけであったと思う。

 「文鳥」の最後は次の通り。

 午後三重吉から返事が来た。文鳥は可愛相(かはいさう)な事を致しましたとある許(ばかり)で家人(うちのもの)が悪いとも残酷だとも一向(いつかう)に書いてなかつた。

 この部分に関する高橋の感想は、

 自分が墓をつくって埋めたのなら兎も角、他人が始末した埋葬にほっとしているのである。漱石の責任回避ともとれる不決断は徹底している。その上、三重吉の自体を容認するかのような手紙に内心救われたのではないだろうか。それとも、漱石よりずっと大人である三重吉は、漱石の狼狽に苦笑して書いて寄こしたのだろうか。

 私は、ここでも高橋と読み方がまったく違う。
 三重吉は文鳥のかわいそうなことを納得したのである。つまり、漱石の説得を受け入れたのである。三重吉が世話をするはずだった縁談は破談にした。だから、「家人」のことはもう問題にする必要がなくなった。だから、書いてないのである。三重吉は、そういうことを書かない。書かないことによって、そういう問題がなくなった、と書いている。
 たぶん、こういう書き方(ことばのかわし方)が明治にはあったのだと思う。
 三重吉はこの作品ではよくしゃべる人間として描かれているが、そのよくしゃべる三重吉が「家人」の問題について書かないというのは、その問題が発生のしようがなくなったことのあかしだろう。
 漱石は、そう理解して、この作品を、そこですぱっと切って捨てるように終わらせている。こういう結末は、私は大好きである。

 「例の件」がでは実際にどうなったのか。それは書かれていないが、破談になったがゆえに、(三重吉が破談にしたがゆえに)、漱石はそれを書かなかったのだろう。今の時代と違い、たぶん、明治時代は女性にとって破談は重いことがらだっただろう。たとえ他人が世話をしたものに過ぎなくても、破談の経歴がついてまわると女性にとってはそれからの人生が苦しかっただろう。だからこそ、そういうことは明確には書かず、書かないことによって、読者に想像させているのだろう。

 「文鳥」は私にとっては、漱石の愛を感じる作品である。「自然」を重んじる漱石の思想がきちんと描かれた作品である。
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北爪満喜「表面張力、並べて」ほか

2007-02-03 23:43:47 | 詩(雑誌・同人誌)
 北爪満喜「表面張力、並べて」ほか(「モーアシビ」第8号、2007年01月20日発行)。
 北爪満喜「表面張力、並べて」は草の茎に雨の雫がつらなっている様子を描いている。表面張力によってできた雫。その写真もそえられている。こうした作品は、どうしても「意味」になる。北爪の場合も例外ではない。

しゃがんで草に目を近づけてゆくと
円らな雫がきりりと並んで
表面張力
すごいなぁ 耐えている

一粒の 水のなかには
空も地も映し込まれて
覗き込む私も 映し込まれて
しっかりしてよと
耐えている雫の表面張力が言う

 こんな具合に「意味」がことばを動かしていく詩を私は好きではない。なんだか「学校」の宿題みたいな感じがする。「すごいなぁ 耐えている」という小学生の言いそうなことばを「しっかりしてよと/耐えている雫の表面張力が言う」と言い直すのも、ちょっとあざとい技法のように感じてしまう。
 ところが。

きのうテレビを見ていたとき
「それでは あなたのいま一番大事なものを思い浮かべてください」
といわれたとき
思いがけず浮かんできた顔に
鼻の奥がツンとして目が潤んできそうになって
あわてた

この目の奥の雫も
あの草の雫のように
目の奥で
目の奥のなにもかもを映し込んでいるのかも知れない

 ここで、この詩が好きになった。「目の奥の雫」。この肉体の感じ、外にあるもの、見たもの(草の雫)を自分の肉体のなかに取り込む感じがいい。「目の奥」に取り込んだ瞬間、北爪の肉体そのものが「雫」と一体になる。というか、「雫」になってしまう。
 北爪の肉体の内部と外部が逆転してしまう。
 この逆転をくっきりとあらわすのが、「この目の奥の雫も」の「この」、「あの草の雫のように」の「あの」、である。
 ふつう日本語では、自分の近くにあるものを「この」で指し、遠くにあるものを「あの」で指す。
 北爪は、今、草の原にいて雫を見ていて、きのうのことを思いだしているのだから、きのうの記憶、「鼻の奥がツンとして目が潤んできそうに」なったときの「目の奥の雫」は「あの」目の奥の雫であり、それが「この」草の雫のように……と書くのがふつうの日本語である。
 ところが北爪は、それを逆に書く。というより、書いてしまう。「鼻の奥がツン」と感じた瞬間を思いだしたときから、その肉体の感覚が、現実のありようをゆさぶり、変形させてしまうのだ。リアルな肉体の記憶が前面に出てきて、それが「この」という近さで存在し、目の前にあるものを「あの」という遠さに遠ざける。
 これは、おもしろい。とてもおもしろい。
 ここに書かれた「この」と「あの」の逆転によって、私は突然北爪が大好きになってしまった。今まで私は北爪をどちらかといえば批判的に批評してきたかもしれない。たぶん、この詩に書かれているような「この」「あの」の逆転、その肉体感覚を見落としていて、よく理解できなかったのだろうと反省した。
 このすばらしい逆転のあと、北爪のことばはとても美しく動く。

やりきれないことをきりりと包んで
きりりと
表面張力で
いま見上げた空なんかも 映して

掃除をしたり洗濯をしたり
なにごともないような一日を
しずかな一日を
仕立て上げているのかも知れない

 美しいなあ。ちょっと美しすぎるかもしれない。美しく「仕立て上」がりすぎているかもしれない。しかし、それはたぶん、ここに書かれたことが、北爪の肉体が何度も何度も夢みてきたことだからかもしれない。
 「この」「あの」の逆転をとおりぬけたあとでは、その夢は、絶対に見なければならない夢のように思えるのである。



 浅井拓也「稜線のラクダ」は奇妙である。

一日中 しとしとと降り続いた雨がはたと止んでいる
ガラス越しに稜線が見える
夕焼けに染まった稜線
砂漠の上をラクダがとおる

 この「ラクダ」って何? 浅井は何の説明もしない。ただ「あまりに美しく あまりに悲しすぎる」と書く。この単純さが、北爪の詩を読んだあとでは、不思議なことにリアルに感じられる。稜線。突然あらわれた夕焼け。そこに似合うのは何だろうか。ラクダ以外にない。--これは、遠い肉体の、遠い目の記憶が突然あらわれたのだろう。肉体は、或る日、突然、目の前に復活してくることがある。その復活に、理由は、ない。あるけれども、その理由など人間の「頭」を超えている。そこに人間の不思議さがある。
 --これはもちろん北爪の詩を読んだからそう感じるのであって、読む順序が逆だったら、そう感じたかどうかわからないのだが……。

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四元康祐「詩人たちよ!」

2007-02-02 12:37:51 | 詩集
 四元康祐「詩人たちよ!」(「現代詩手帖」2007年2月号)。
 「川」や「石」「木」を「詩人」に見た立て書かれた作品。「石の詩人」に四元の個性が光っている。

雲に憧れる気持ちがまったくないといえば
やっぱり嘘になりますね
いや、月になりたいとは思いません
大きさこそ違え
ぼくらは本質的に同じですから

(雨が、あがって、風が吹く。
    雲が、流れる、月隠す。)

地上にありながら
深みを予感することが僕の仕事です
(そして夜になると重たい地球に沈んでゆく
 星々の隙間を抜けて孤独にむかって)

その日の彼は
なぜか珍しく饒舌だった
モグラは相槌を打とうとしたが
何だか恥ずかしくなってまた土にもぐった

 「頭」と「肉体」のバランスがとてもいい。「頭」が走り出すと、それを「肉体」が引きとどめる。「頭」が切り開いていく世界にも「詩」はあるかもしれないけれど、そこへ行ってしまう寸前でとどまり、ことばが透明になりすぎるのを防ぐ。
 この作品で言えば、石のことば「(そして夜になると…」をモグラの登場が引き止める。石のことばはかっこいい。美しい。けれど、それは「何だか恥ずかし」い。この「何だか恥ずかし」い、という引き止めが「肉体」のことばである。
 この「石」と「モグラ」の関係は、小林秀雄と中原中也の関係に少し似ている。山本哲也が「生きているふりをしなければ」(「SEED」8号、2005年11月)に書いている小林秀雄と中原中也の関係に。

(昭和十二年四月二十日夕刻
鎌倉の妙法寺の境内、
小林秀雄と中原中也の二人、
海棠の花がしきりに散っている
小林秀雄がいう
「あれは散るのぢやない、散らしてゐるのだ」)

あのとき、なんで
中也は、もういいなんて言ったのか
「もういいよ、帰らうよ」だなんて
(あれはおそらく中也の嘆息だった)
レトリックはもういい、
せめて生きているふりをしなければ
薄い胸のうちの
小暗い森のなにもないという空虚にむけて
      (「もういいよ」の二度目の「い」は本文は送り字)

 小林秀雄のことばは小林秀雄にとっては間違いなく小林秀雄のことばである。しかし、そのことばを中也は自分の「頭」で受け止めたくはなかった。小林秀雄の言っていることは充分わかる。それを言いたい気持ちもわかる。しかし、それを「ああそうだね」と引き受けてしまうと、それは小林秀雄と中原中也が「頭」でつながってしまうことになる。そういうことばでは、中也は自分の「肉体」、「薄い胸のうち」といっしょに生きることはできない、「胸のうちの/薄暗い森のなにもないという空虚」といっしょに生きることはできないと感じたのだ。
 山本哲也は「中也の嘆息」と書いているが、それはたしかに「嘆息」のようなものである。嘆息のなかにはことばにならないことばがうごめいている。そのことばはことばにならないまま、息そのものとして胸から(肉体から)吐き出される。「頭」を通って、もういちど喉(声帯)へ引き返してことばになるのではなく、「頭」を通ることを拒絶して、「頭」へ行く前に、喉をこすって漏れるのである。
 ここには「肉体」だけがとらえることができる何かがある。

 石のことばを聞いたモグラはどうしたか。「もういいよ」とは言わなかった。そして「相槌」も打たなかった。無言で土にもぐった。「何だか恥ずかし」いという感覚だけを抱き締めて。
 この恥ずかしさは中也の嘆息に似ている。「頭」のことばを拒絶している。「頭」で整理すれば、違ったことば、もっと透明なことば、誰の「頭」にも共有されうるものになるだろう。けれど、そうなってはいけないものなのだ。ことばにしないまま、「何だか恥ずかし」い、で留めておくべきことばなのである。「肉体」で共有すべきことばなのである。
 こうした「頭」と「肉体」のバランスが、四元の詩を楽しいものにしている。

 「木の詩人」の終わりの方にも、そういうことばがある。

夜、村はずれの一軒家の垣根越しに
ラジオの声を盗み聴くことの
あの後ろめたい歓びを手放すつもりも
毛頭なかった

 「あの後ろめたい歓び」。その「後ろめたい」という感じ。そして、それを修飾する「あの」ということば。
 そういえば「石の詩人」の「なんだか恥ずかしく」には「なんだか」というあいまいな修飾語がついていた。「あの」とその「なんだか」に似ている。「あの」も「なんだか」もほんとうは「木」と「モグラ」にしかわからないあいまいなことばのはずである。しかし、なぜだか、四元の詩を読んだ誰にもかならずわかる「なんだか」「あの」である。それは私たちの「肉体」が知らず知らずに受け止め消化し、共有している「なんだか」「あの」なのである。
 そういう「肉体」そのものの「なんだか」「あの」を丁寧につかいながら、「恥ずかしい」「後ろめたい」という感覚を引き出してくる。そうすることで、それまでに書いたことばが「頭」のなかで勝手に走って行ってしまうのを引き止める。
 その瞬間に、四元の「詩」がくっきりと立ち上がってくる。

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難波律郎『難波律郎全詩集』(2)

2007-02-01 13:26:56 | 詩集
 難波律郎『難波律郎全詩集』(書肆山田、2006年12月25日発行)。
 『昭和の子ども』の表題作「昭和の子ども--きこえてくる あの歌--」。その書き出し。

昭和ノ子ドモヨ ボクタチハ
昭和元年 満三歳だったボクタチは
やがてハナ ハト マメ マスで 字をならった

 私は知らないが「 昭和ノ子ドモヨ ボクタチハ」という歌があるのだろう。その歌の記憶。そして昭和という時代が重なり合い、難波にこの詩を書かせたのだろう。そんなことを想像しながら詩を読んだ。
 私が一番印象的に感じだのは、「昭和ノ子ドモヨ ボクタチハ」という歌から「 ボクタチ」が2行目に引き継がれていく部分である。「ボク」ではなく「ボクタチ」。複数形。時代を生きる人間はひとりではない。かならず複数である。しかし、複数であることを明確に意識するかどうかは個人によって違うだろう。また、その複数形をどういう形で意識するかも個人によって違うだろう。

昭和元年 満三歳だったボクタチは

 この1行は、難波が同じ年齢の人間を意識していることを意味するだろう。満2歳も満4歳も、さらにはもっとほかの年齢の子どもも「昭和の子ども」には違いないけれど、「ボクタチ」と言うとき、難波はもっと身近な人間、身近な友達を思い描いている。抽象的な人間ではなく、顔を知っている、性格を知っている身近な友達を思い描いている。声を合わせて「昭和ノ子ドモヨ ボクタチハ」と歌ったときの、ひとりひとりの声を知っている。覚えている。そのせつなさが、この詩にはある。

昭和ノ子ドモヨ ボクタチハ
戦争 戦争 戦争の
昭和の子ドモのボクタチの 友達死んだ たくさん死んだ

 「ボクタチ」には死んだ友達と生き残った友達がいる。そのことが歌声といっしょに肉体を揺さぶるのだ。死んだ友達は生き残った友達ではありえない。死んだ友達は、また自分ではありえない。「昭和ノ子ドモヨ ボクタチハ」といっしょに歌ったけれど、もう、その「ボクタチ」は「ボクタチ」そのものではなくなっている。

天皇死んだら泣くだろう

昭和ノ子ドモの ボクタチの じぶんの歴史を思うだろう
風にはためく旗のもと 天皇の名で無になった
老若男女の人生を 思って涙を流すだろう

 「ボクタチ」の「歴史」ではない。「ボクタチ」の「歴史」なのに、そう呼ぶことはできない。あくまで「じぶんの歴史」。「じぶんの歴史」のすぐそばに「じぶんの歴史」とは違って、途中で寸断された「歴史」がある。それを、どう語ることができるだろうか。
 難波は、それをリズムに託している。
 「昭和ノ子ドモヨ ボクタチハ」という歌。その歌をいっしょに歌ったときの声のリズム。肉体が覚えているリズム。そのなかにことばをとけこませていく。
 一種、はつらつとした響きをもつ「昭和ノ子ドモヨ ボクタチハ」のリズムそのままに、「友達死んだ たくさん死んだ」「天皇死んだら泣くだろう」と声にする。いっしょに歌ったリズムのなかで、難波は、「じぶんの歴史」を失ってしまった友達と「時間」を共有する。リズムのなかに、友達をよみがえらせるのである。
 
 そんなふうに友達をよみがえらせながら、よみがえらせることで難波の苦悩はいっそう深くなる。
 「集団」(ボクタチ)と「ひとり」(じぶん)。同じであって、同じではない。同じではないのに、同じなのだ。人間はひとりひとりなのに、あるときは「集団」(ボクタチ)にひとくくりにされてしまう、その悲しみと怒り。
 「右カラ二番目ノ欅(けやき)ノ木」。そのなかほど。

死んだものは 一兵士としては被害者で 全体では
 加害者の一人にされてしまう
  書かれる歴史の 不条理をしゃべれない

その哀れさは なにかの折
 たとえば鰻の味が舌にとろけるときなどに 風のように
  私の心を吹くのだが ただそれだけのことだ

 難波がせつないのは、単に「一兵士」が「集団」にのみこまれてしまうからではない。その「一」は抽象的な数字ではなく、難波にとっては名前があり、顔があり、声があるからだ。具体的な肉体をもっているからだ。 そして、その具体的な肉体は「書かれる歴史」のなかでは消えてしまうことを、肉体そのものとして感じるからだ。「頭」が「書かれる歴史」を批判するのではない。「頭」ではそういうものを批判することは簡単である。だが問題は「頭」で知っている「一」兵士ではない。顔をもち、手足をもち、声をもっている友達の思い出が、「頭」で判断する「不条理」を拒絶するのである。「不条理」を批判してみても、「一」兵士の「一」は具体的な友達の名前にはかわらない。具体的な友達の手足、声、肉体としては戻ってこないのだ。そのことがせつない。それこそがほんとうに不条理なのだ。
 そうした感覚を難波は「肉体」として書いている。「鰻の味が舌にとろけるとき」。鰻を食べる。うまいと思う。このうまいという喜び、肉体の喜びを、なぜ今自分だけが味わうことができるのか。友達といっしょに、歌を歌ったように、あるいは軍事教練をしたときのように、いっしょに肉体で感じられないのか。
 こうしたせつなさをことばにし、「世界」をかえていく--ということももちろん可能かもしれない。難波は、しかし、そういう壮大な夢想をしない。「ただそれだけのことだ」とひ弱に引き下がる。
 私はこのひ弱な引き下がりにも感動する。肉体のひ弱さを隠さない。正直である。「頭」で論理武装し、平和論をつくりあげていくとき、たぶん何かをなくしてしまうのだ。肉体のひ弱さを。ひ弱であるということを自覚し、そこに踏みとどまるという苦しさ、やりきれなさをなくしてしまうのだ。ひ弱である、何もできない。その声こそ、ほんとうは「昭和の歴史」のなかで欠落していたものではなかったか--そう言っているように感じるのである。 肉体は頭と違ってひ弱である。血を流し、死んでしまう。そのことを、もっと声にできたら……そう言っているように感じるのである。



 「おじいちゃんの目」はビデオカメラで孫の成長を記録する祖父を孫の視線からとらえなおしたものである。そこにはおじいさんの姿は映っていない。おじいさんがカメラをまましているから映っていないのはあたりまえである。そのことに気がつき、孫は「この画面は/あなたの眼」と思う。そういう眼は抽象的なものではない。あくまで肉眼である。そういう肉眼が、実は、いつでもどこでも存在する。--ただし、そういうおおげさなこと、「頭」のなかなのことばを難波は繰り広げない。

あなたは或る日 ふっとその途中で消えてしまったけれど
今も大きくなったわたしを眼にいれて 痛がりもせず
どこかでファインダーをのぞいているのですね

 「眼にいれても痛くないほどかわいい」。これは比喩ではない。レトリックではない。肉体がほんとうに感じていることなのだ。こういうことばを「頭」ではなく、肉体そのもので受け止める。そして引き継いで行く。
 こうした肉体感覚が、難波のことばを、大元のところでしっかりと支えている。
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