詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三井葉子『花』(8)

2008-06-16 10:29:20 | 詩集
 三井葉子『花』(8)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
 きのう「比喩」について書いたが、三井には「比喩」を題材にした詩がある。「自伝・喩」。

ある 晴れた日
父はむすめに おや おまえは鴨の子のようだねえと言った
それで わたしは
その日から鴨の子になった

ある日 わたしは
荒海や佐渡に横たふ天の川というハイクに出会った

どうして?
陸に川が横たふの? 陸が海に横たわっているのではないかと思ったが
鴨の子にさえなったわたしを思い出して
あら
おじさん
天がほしかったのねえと思った

荒海にさえなれば天地等価にすることができるあらあらしい自己消滅の
あらうみの
しぶき

わたしの父もいつかは鴨になりたかったのだ
ただおじさんと違うのは父がむすめを泳がせたことだ


ユウ ユウ

ララ ラ ユウユウ喩
わたしは水掻きで 水掻きながら

って
いったいなんだろうと思う
わたしを鴨の子にした

って

もしかして
変化?
進化
かも
よ。

 「喩」は「変化」か「進化」か。「変化」と「進化」に共通することばは「化」、「ばける」である。それは別のことばで言えば「なる」でもある。自分ではなく、自分以外のものに「なる」。そして、この作品には、その「なる」が「自己」と関係づける形で、しっかりと書かれている。

荒海にさえ「なれ」ば天地等価にすることができるあらあらしい「自己」消滅の

 「なる」と「自己」。しかもその「自己」は「消滅」と硬く結びついて「自己消滅」というひとつのことばになっている。「自己消滅」して、つまり、いま、ここにある「自己」を消し去って、何かに「なる」。そういうことが、「喩」のなかで起きている。
 「鴨の子」と言われたとき、そしてそれを信じたとき、三井はそれまでの三井ではない。何かが別のものになっている。それが「変化」か「進化」かは、人によって判断がわかれるだろう。そういう判断がわかれるものはどうでもいい(ともいえないだろうけれど、私はいったん無視する)。判断がわかれるだろうけれど、そこには「わたし」が「わたし以外のもの」に「なる」という運動があることだけは、共通認識として持ちうる。そういう「共通認識」をもとに、私は考えたいのである。
 この「なる」という運動のなかで、とても重要なのは、同じ行にある「天地等価にすることができる」ということばだ。
 「なる」という運動の最中は、それまでの判断基準が成り立たない。それまで「固定」されていたものがばらばらになる。どれが重要で、どれが重要でないかは、「なる」という運動のなかでは消えてしまう。何が重要かは、常に「自己」にとっての問題だから、「自己消滅」すれば、重要さを決める基準も消えてしまうのは、当然の「数学」である。
 この「天地等価」の状態、「天」も「地」も等しい、という状態を、私がこれまで三井の作品について説明するときつかってきたことばで言いなおせば、「混沌」である。
 「混沌」のなかでの「生成」。
 そういうことが「喩」の瞬間に、起きている。

 「喩」はそれまでの判断基準の解体である。揺り動かしである。判断基準がゆれるということは、「自己」がゆれる、「自己」が消えてしまう恐れがあるということである。その恐れに対して、恐れて身を引くのではなく、恐れの中に飛び込んでゆく。飛び込んで行って、自己が自己でなくなってもかまわないと決めて、「喩」を生きる。「喩」として生成する。再生する。生まれ変わる。そうすると、世界そのものが変わってしまうのだ。
 いままで見えていた世界が、まったく新しく見える。
 「荒海や佐渡に横たふ天の川」。
 それは世界の「再構築」である。
 こうしたことを、三井はもちろん「再構築」などというめんどうなことばでは書いていない。

あら
おじさん
天がほしかったのねえと思った

 「ほしかった」。何かを欲する。何かを手に入れることは、「自己」がその何かによっていままでの「自己」を超越できるからである。(と、少しめんどうなことばで書いておく。)この「自己超越」を「ほしい」という簡単なことば、日常のことばでまるづかみにしてしまうところが三井のすごいところである。
 「喩」には「ほしい」に通じる思いがあるのだ。自己にはない何かを「ほしい」と思う気持ちが人間を突き動かす。いまのままでは手に入らないものを「喩」になることによって手に入れるのだ。「ほしい」と「なる」は重なり合って、世界そのものをも変えていく。
 「自伝」ということばを信じれば、三井は、そんなふうにして三井の世界をつくってきたのである。ことばをつかって、常に自己解体(自己消滅)し、「混沌」(天地等価の状態)に身をくぐらせ、そしてそのつど、何かに「なる」、何かに「再生する」。そうすることによって世界を「生成」しなおす。世界を「再構築」する。
 三井は、そういう詩人である。

 いや、それ以上の詩人である。

 私は、どこかから借りてきたような「再構築」だの「混沌」だの「生成」だのという、めんどうくさいことばをつかってしか感想を書けないが、三井はそういう借り物のことばをつかわない。あくまでも三井の生活している世界のことばで語りきってしまう。
 私は、三井の「喩」の意識と、その意味について、めんどうくさいことを書いたけれど、そういうめんどうくさいことよりも、もっと感心したことがある。


ユウ ユウ

ララ ラ ユウユウ喩

 この口語のリズム。「喩」は私の発音(口語)では「ユ」だが、三井の関西弁なら「ユウ」なのである。(私は三井の話すことばを聞いたことがないので、想像で書いている。間違っているかもしれないが。)関西弁は1音節のことばを、母音を伸ばす(重ねる)形で2音節にする。その「口語」がそのまま文字にすることで、「ユ」と書いたとき(発音したとき)には触れ得ない世界をつかみとる。
 「喩」は「ゆうゆう」。「ゆうゆう」は「悠々」。ゆったりしている。広々としている。「自己解体(自己消滅)」→「混沌」→「生成(再生)」→「再構築」などという固苦しい世界ではないのだ。ゆったりと、のんびりと、いつも話している日常と地続きなのである。「おまえは鴨の子のようだねえ」ということば--それは日常なのである。そういうことばをそのまましっかり受け止めて、そのことばからずれずにことばをつづける。そこに三井のほんとうの力がある。ことばの力がある。これはほんとうにすごいことである。
 最後の連。

もしかして
変化?
進化
かも
よ。

 この連に、ふいに「鴨の子」の「鴨」が「かも」になって甦り、笑い話(冗談)のようにして作品が終わるのも楽しい。「自己消滅」だの「再構築」なんてことばでガチガチになると、いやだよねえ。大阪の漫才(私は実際には見たことはないのだが)のように、さらっと「おち」をつけて、さっと引き上げる。
 いいなあ、これ。
 私はたぶん、ごちゃごちゃややこしいことを書かずに、「かもは鴨の子のカモかよ」と突っ込むべきだったんだろうなあ。それだけで、この詩の魅力はより輝いたんだろうなあ、と思う。ごめんね。せっかくの話芸をぶち壊しにしちゃって、と反省するしかない。





ええやんか―大阪弁歳時記
三井 葉子
ビレッジプレス

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三井葉子『花』(8)

2008-06-15 08:42:42 | 詩集
 三井葉子『花』(8)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
 なぜその詩が好きなのか。その理由のほんとうのところはわからない。理由(?)を探して、私はただ感じたことを書く。たとえば「きりんの日」。

汗を拭きながら
坂道を下ってゆくひとの
うしろ姿が
わたしの目裏に
やきつく日

ああ 歩いていたのだ
黄緑の丘を
ながい首を立てて きりんが
高い木の枝の葉を食べていた
あごを
銀色のよだれで
ぬらしながら
木々は
ゆれ
木の葉は
ゆれ

 「きりん」は「坂道を下ってゆくひと」と同じだろう。「きりん」は「坂道を下ってゆくひと」の比喩である。何の説明もなく、ただ比喩である。
 でも、比喩って、それでいいのかな? 国語の試験で「きりん」は「坂道を下ってゆくひと」の比喩である、と書いたとして、その理由は?とさらに問いかけられたら……。私は答えを持たない。答えを持たないのに、その比喩を納得している。
 なぜか。
 きりんの描写がとても美しいからである。そこに至福がある。2連目のことばの美しさに酔ってしまうからである。

あごを
銀色のよだれで
ぬらしながら
木々は
ゆれ
木の葉は
ゆれ

 ああ、きりんしか見えない。きりんになって、高い木の枝の葉を食べたい。よだれをたらしたい。よだれであごをぬらしたい。そのとき木々はゆれ、木の葉はゆれる。そんなふうに自然(木や風や空)といったいになり、自分の食欲だけにうっとりと酔ってみるというのは、とても幸福であると思う。
 その幸福の感じと、ことばのリズムが一体になる。

木々は
ゆれ
木の葉は
ゆれ

 なんでもないことばのようだけれど、とても美しい。木々がゆれるのと、木の葉がゆれるのしか見えない幸福。よろこび。それが、それ以外にはないというリズムのなかに充満している。きりんは木の葉を食べながら木の葉にもなっている。空気に、というか、たぶん、いのちの循環に。こんなふうに思ってしまうのは、たぶんわたしの感じ方が奇妙なのかもしれないが、そのとき木の葉は、きりんに食べられることがうれしいのだ。きりんがうれしそうに木の葉を食べる。その瞬間、木の葉はきりんに食べられることがうれしい。こんなふうによろこんで食べられることがうれしい。その、きりんと木の葉のなかの「よろこび」が重なり合っている。--そういうものを感じるのだ。
 そして、そのよろこびは三井のよろこびでもある。
 「坂を下ってゆくひと」の肉体の中にあるよろこび--それをきりんのよろこび、きりんに食べられる木の葉のよろこびと感じ取るときの、三井の体全体のよろこび。きりんと一体になり、木の葉と一体になり、そして「坂を下ってゆくひと」と一体になる。
 「きりん」は、そういう一体感のために、突然、三井の目の前にあらわれてきた「比喩」である。「理由」はない。あるとすれば、それは神様(詩の神様)からの贈り物である。詩の神様の贈り物は不思議である。だれもがそれをきちんと受け止めることはできない。きちんと受け止めることができるひとだけが、たぶん詩人なのである。三井はまぎれもない詩人である。だから「きりん」という比喩を正確に受け止めることができた。それが何をあらわすか、なぜ「きりん」であるかなど、頓着せずに、「だって、きりんなのだもの」としか言いようのない感じで……。
 詩のつづき。

ぶどうの棚の下で
わたしたちは笑いさざめいていて
紅茶をのんでいた
そして
かきまぜられた空気

すきまから
日が暮れて
夜が
きたのだった

あのひとが汗を拭きながら
坂道を下ってゆく
姿が
わたしの目裏にのこる


なんのために
忘れ得ぬ記憶があるのだろう と わたしが思う日

 「なんのために/忘れ得ぬ記憶があるのだろう」。わからない。わからないけれど、それはたしかにある。忘れられぬ日があるということが、たぶん生きているということなのだと思う。その忘れられぬ日、その忘れられぬ思い出のなかで、ひとはひとではなくなる。ひとは、一瞬、ひとを超越する。逸脱する。
 ひとは「きりん」になり、きりんに食べられる「木の葉」になる。比喩になる。比喩のなかで、いのちの循環そのものになる。いのちの区別がなくなり、わたしが「地球」あるいは「宇宙」と溶け合う。何になったといってもいいのだ。何になっても自分であり、何にでもなれることが「いのち」の至福なのだ。
 その至福を、三井はことばで手に入れる。詩人である。




三井葉子詩集 (1984年) (日本現代詩文庫〈19〉)
三井 葉子,倉橋 健一,吉原 幸子
土曜美術社

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橋本和彦「直線」、北川朱実「電話ボックスに降る雨」

2008-06-14 08:33:15 | 詩(雑誌・同人誌)
 橋本和彦「直線」、北川朱実「電話ボックスに降る雨」(「石の詩」70、2008年05月20日発行)
 ことばへの信頼--それが詩である。橋本和彦の「直線」を読み、そう感じた。そして、その感じをなんだか、なつかしいもののように感じた。
 中学1年の数学の授業。「直線」の定義。それに誘われて動いたこころ。

「どこまでもつづく真っ直ぐな線のことを、直線と呼びます。」
(略)
「先生!」と、河野君がいきなり大きな声を上げた。「どこまでも続くって、どこまでですか?」
(略)
「いい質問だ。いまは黒板の中にしか描けないけれど、本当はこの教室をはみ出して、町や海さえ突き抜けて、宇宙の果てまで続く線だ。」
「うっ、宇宙!」今度は僕の後ろで細田君が、調子外れの声を出した。
 ぼくも細田君もちょうど同じ気持ちだったのだと思う。教科書やノートの中にきっちり納まっていた数学が、突然、社会や理科さえ凌駕して、宇宙の果てを目指し始めたように思えた。(略)
 しかし、その授業の後、僕の心の中には、確かに一本の直線が存在した。校庭に寝転んで何気なく空を見上げたときや、疲れて目を閉じたとき、銀色に輝く真っ直ぐな線が、どこまでも延びていくさまが、僕には確かに見えたのだ。

 「直線の定義」は数学の問題である。数学は文学ではない。しかし、そのことばを信じるとき、そしてそのことばとともにそこにないものが含まれるとき、それは文学になる。ことばは、意味は、いつでも「余分なもの」「過剰なもの」、たとえばこの作品では「直線」の定義にあらわれた「宇宙」が、「余分なもの」であり「過剰なもの」にあたるが、そういうものの中へと逸脱する。そのとき、そこに文学が、詩があらわれてくる。ことばのなかの「余分なもの」「過剰なもの」を、こころが信じるとき、それは詩として確立する。「どこまでも」が「宇宙」に変化することで、「数学」が「詩」として、こころのなかにしっかり定着する。
 そのよろこびが、この作品には結晶している。
 詩への信頼、ことばへの信頼が、なつかしいもののようにして甦ってくる。

 橋本の詩が教えてくれるのは、たしかになつかしさなのだと思う。詩が、ことばが信頼にたるものであり、その信頼が、私たちを、いま、ここにはない世界へと導いてくれる。その瞬間の、目眩のような、なつかしさ……。

 だが、それだけでは「詩」は「現代詩」にはならないのだ、とも思った。

 橋本は、この作品でさらにもう一つ「余分なもの」「過剰なもの」を持ち込んでいる。「余分なもの」「過剰なもの」へと逸脱していっている。「銀色に輝く真っ直ぐな線」の「銀色に輝く」。「直線」には「色」などない。「輝く」という運動もありえない。しかし、それを橋本は「ある」ものとして書いている。
 この詩は、本当は、この「銀色に輝く真っ直ぐな線」を、もっともっと書き込まなければならない。そうでないと、「意味」で終わってしまう。「現代詩」にならない。
 なぜ、銀色なのか。なぜ、輝くのか。
 それは橋本にしかわからない。数学の授業で先生は「銀色」も「輝く」も言っていない。そのふたつには、橋本の「無意識」と「独自性」がある。それをみつめていくことは、流通する言語を批判することである。そして、その批判の中にこそ「現代」という時間が噴出してくる。そういうものをこそ、「現代詩」は書かなければならない。

 橋本が、作品を「僕には確かに見えたのだ。」と過去形で締めくくっている。その過去形が象徴するように、橋本の作品は「過去・詩」であって、「現代・詩」ではない。だから、なつかしい。なつかしさを超えて、「現代」を描くために、何をしなければならないのか。それを考えなければならないと思った。



 北川朱実「電話ボックスに降る雨」は、ことばを探している。橋本和彦と北川にある大きな違いは、ことばを探すか探さないかである。
 「電話ボックスに降る雨」の後半。

いつだったか けんか別れした人に
公衆電話から電話をしたことがあった
長い沈黙のあと
--今、どこにいるの?
と聞かれたけれど
そこがどこなのかわからなかった

私は海に降る雨のことを思った
音もなく海面を叩いて
魚たちにすら知られることのない雨

どこでもない場所のまん中で
耳から何百年も前の音をあふれさせて

私は
遠い日との声を聞き取ろうとした

 「どこなのかわからなかった」とは単に「場所」のことではない。そこがどこであろうと、その「場」と「けんか別れをした人」とを結ぶ「直線」がない。「私」と「けんか別れをした人」を結ぶ「直線」がない。「最短距離」がない。そればかりか「最長距離」すらもない。「定義」できない距離だけが、抽象的に「線」として放り出されている。不安定なまま、そこに存在している。
 どういえばいいのか。
 北川は「海に降る雨」で「定義」しようとする。「私」と「けんか別れをした人」との「距離」を定義できるとしたら、「海に降る雨」しかないのである。北川にとっては。数学のことば、たとえば「あなたの家から何キロ(何メートル)」では定義できない。地理のことばでも定義できない。「某街のガソリンスタンドの公衆電話」というふうには定義できない。
 北川が探しているのは、こころの「距離」だからである。
 言えない何かを言おうとする--その苦悩の中に、詩があらわれる。





人のかたち鳥のかたち
北川 朱実
思潮社

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三井葉子『花』(7)

2008-06-13 01:27:27 | 詩集
 三井葉子『花』(7)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
 きのう、坂多瑩子「母は」に触れながら、「私」と「母」が入れ替わるのを感じた。三井葉子も、それに似た感覚のことを書いている。
 「月離(さか)る日離(さか)る里のはなふぶき」。その1連目。

聞いてくださる?
わたしが 子に宿るようになったのを
むかしはわたしが 子を宿したのに

 「宿る」。誰かが誰かに。その逆も起きる。--これは、たとえば母がこどもを宿すということを例にとれば、そこに不可逆の「時間」があるから、絶対的にありえない。母が子を宿すということはあり得ても、子が母を宿すということは、「時間」の流れがめちゃくちゃになるから、そういうことは本来許されない。
 何から許されないのか。
 論理からである。「頭」からである。
 そうであるなら、「頭」で考えるのをやめればいいのである。ただ「肉体」の感じだけを頼りにすれば、「時間」の流れは消えてしまい、そこには母と子が一体になる、ひとつの体になるということだけが存在する。
 その一体感のなかで、母と子は簡単に入れ替わる。母が胎内の子の動きを感じる。それは母の肉体の内部のできごとだけれど、そういう動きを感じているとき、母は同時に子が母の肉体の存在を感じていることを知っている。腹を蹴る。そのときこどもの足が母の原の感触を感じていることを知っている。
 内と外は簡単に入れ替わる。というよりも、もともと、そんなものは区別ができない。同時に存在する。そして、その「同時」という感覚が、不可逆の「時間の流れ」を消してしまう。「時間の流れ」が消えてしまうから、母が胎児であってもかまわないのだ。胎児が母であってもかまわないのだ。胎児と母が同時に存在しているということで、はじめて「いのち」がつながるのである。「同時」が存在しなければ、「いのち」はつながらないのだから。

 私の書いていることは、奇妙に「論理的」すぎるかもしれない。
 三井は、私の書いているような、面倒くさい「論理」をふりまわさない。簡単に「同時」のなかへ入っていって、するりと「いれかわり」をやってのける。

いとしまれて育ったはずの
内ではない外で
日に会い
かなたにこそ向いていとしまれたはずの わたしのいま
子の胎にいると思うわたしの安堵を

 「同時」は、「入れ替わり」は「安堵」といっしょに存在する。母→子という時間の流れが消滅し、区別がなくなること、その瞬間の「安堵」。「同時」とは「安堵」以外の何者でもない。

 この入れ替わりは、母と子の間だけで起きるのではない。他人との間でも起きるのである。たとえば三井は和泉式部の歌を読む。そうすると和泉式部は三井の胎内に入ってきて、胎児として成長する。「時間」の流れ(歴史の流れ)からいうと、三井は式部のはるかはるか先の「子」である可能性はあるが、その逆はない。式部が三井の「子」である可能性は、「時間」が阻止している。絶対に、ありえない。はずである。
 しかし、強い共感によって、三井と式部の感覚が一体になるとき、その瞬間「時間」(歴史)は消えてしまう。「時間」が消えてしまうことが「一体」の真の意味である。

聞いてくださる?
わたしが 子に宿るようになったのを
むかしはわたしが 子を宿したのに

と詩を始めた三井は、最後には、まったく違った「場」にいる。

式部は泣くかしら くらきよりくらき道をあるいた式部は まっかな
かおをして 泣くかしら

おお お
よしよし。

 三井は式部の子孫(?)であることをやめて、ここでは突然式部の「母」になって、式部をあやしている。
 そして、こうやって式部をあやすとき、「安堵」するのは式部だけではない。その「安堵」する式部を見て、三井自身も「安堵」するのである。
 泣くこどもをあやす母。母にあやされてこどもがにっこり笑って安堵する。だが、そのとき安堵しているのはこどもだけではない。母こそが一番安堵している。安堵のなかで二人は一体になり、入れ替わる。泣き止み、にっこり笑うこどもの顔にこそ、母は安堵をもらう。母はあやされる。
 この安堵のくりかえし、入れ替わりは、三井たち女性が、「時間」を消し去りながら共有してきた「宝」である。

 こういう詩は、ほんとうにいい。すばらしい。美しい。





詩集 風が吹いて
三井 葉子
花神社

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坂多瑩子「母は」

2008-06-12 10:59:53 | 詩(雑誌・同人誌)
 坂多瑩子「母は」(「ぶらんこのり」5、2008年06月10日発行)
 2か所、不思議なところがある。

右手の小指の骨を折ってから
午後はいつだって
腰掛けたまま眠っている
おやつが出ても目を開けない
おやつよ とゆさぶると
あなた たべなさい
と言ったきり 目も開けない
きっとかたつむりになりかけている
まるまった体は生家のへやに
うすく赤くまかれたまま
すっかり重くなっている
誰かが箱をかかえてやってきた
とびらを開けようとしているが
(母は)
鍵をかけてしまったので
開かない それでも
誰かが力いっぱいとびらに体をぶつけて
開けようとしている
(母は)
楽しみながらかたつむりになったのか
それとも悲しみながらなったのか
きょうも
またたくまに夜になって
私はひとりでしゃべっている

 途中に2回出てくる

(母は)

 という表記。なぜ括弧のなかに入っているのだろうか。括弧のなかに入っていなくて、そのまま、母は、と書かれているとどう違うのだろうか。
 この(母は)は、ほんとうはもう一か所ある。書き出しにはやはり(母は)が存在するのだが、タイトルに「母は」とあるので、そこでは省略されている。
 そして、その省略に気がつくと、(母は)という表記も見えてくる。なぜ、坂多が(母は)と書いたかがわかる。その(母は)はほんとうは省略すべき(母は)なのである。
 なぜ、省略すべきなのか。
 それは実在の「母」ではないからだ。母はたしかにそこにいる。たぶん、場所は病院である。施設である。そこが病院であるにもかかわらず、母は、そこにはいない。「生家」にいる。昔のまま、生家にいて、昔のまま、おやつが出ればそのおやつを娘である坂多に「あなた たべなさいよ」と母の口調で言うのだ。
 その母は、実在である。目の前に存在する。
 だからこそ、坂多は「省略」する。省略して、目の前いる母そのものではなく、その存在の内部にいる母を引き出そうとする。実在する母は、その姿、その行動しか見えない。目を閉じて、こころを閉ざしている。おやつが出たときは「あなた たべなさいよ」と突然母親に戻るけれど、その母親は「昔」の母親であって、今の母親ではない。坂多は、実在する母の肉体に、その行動に触れることはできるが、その肉体が隠している内部、こころには触れることができない。--いま、こうして病院で介護している瞬間、坂多は母の内部には触れてはいない。内部とは交流していない。
 だから、外部としての母を括弧のなかにいれてしまう。(母は)と省略してしまう。そして、その内部に、そのこころに触れようとする。
 (母は)につづくのは、坂多が、坂多のこころのなかに思い描いた母である。外部である母を(母は)と省略することで、坂多は、ちょくせつ母のこころに触れようとする。坂多のこころと母のこころを重ね合わせようとする。
 そのために(母は)とわざと書いているのである。
 外形としての母は省略している、と強調しているのである。

 なぜ、強調するのか。

 強調しないことには、母とふれあえないのだ。そういう遠いところに母はいる。目の前に母はいる。しかし、そのこころは遠いところにいる。その「遠さ」、その「距離」を省略するために、(母は)は目の前にいる母を省略し、こころのなかにいる母に触れるのだ。
 しかし、どんなに省略しても、かたつむりが殻にとじこもるように、母がこころをとごし、無言の肉体になっている「理由」がわからない。「感情」がわからない。こころがわからない。「楽しみ」ながらとじこもるようになったのか、「悲しみ」ながらとじこもるようになったのか。
 想像しても、想像しても、想像しても、わからない。

 そして、想像の果てに

きょうも
またたくまに夜になって
私はひとりでしゃべっている

 に、たどりついたとき、(母は)は突然、坂多そのものになる。
 坂多は(母は)と省略することで、母のこころに触れようとした。
 そういう省略と接触は、実は、「母性」そのものである。「母性」(母親は)いつでもこどもに対して(娘は)と省略して感じている。目の前にいる娘--その外形に、外にあらわれた行動の形に触れるのではなく、それを省略して、娘のこころに触れる。語らない悲しみ、楽しみ(ことばにしないで、ひそかに娘が胸にしまいこんでいる楽しみ、悲しみ)に触れようとする。そんなふうにして想像すること、思いめぐらすこと--それが娘を見守ることであり、それが母の愛なのだ。

 (母は)の省略のなかで、坂多は、娘でありながら母になる。母がかつて坂多を、(娘は)と省略することで抱きしめたように、(母は)は省略することで抱きしめる。抱きしめ、いったいになり、だれにも言わず、ただこころのなかで「ひとりでしゃべっている」。対話している。「ひとり」は、母と私が一体になった「母性」そのものの存在である。「母性」となって、対話しているのである。

 この不思議な母と娘の入れ替わり、そして一体となった対話--これは男性には書けない。性差別につながることになるかもしれないけれど、こうした一体感は、やはり胎内にいのちを10か月守りつづけた女性(一体でいのちを共有した体験のある女性)だからこそはじめて書くことができる世界だと思う。
 こういうことばに触れると、女性のことばは美しく、強いと、改めて思う。坂多のことばなのだけれど、坂多のことばは美しい、強い、ではなく、坂多の「枠」を超えて、女性のことばは美しく、強いと思う。


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三井葉子『花』(6)

2008-06-11 08:37:30 | 詩集
 三井葉子『花』(6)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
 「まっしろ」は美しい。

すっぱだか
火屋(ひや)の寝台の上で

まっすぐに寝て
まっしろな骨はそのままで

頭蓋骨の次はのど のどの次は胸 手指の関節はひい ふう みい よう いつつ
並んで 足のさきまでまっすぐにのびている

わずかに煙っているのは


花がもえたあとですと 火屋の男が教えている

ああ
すっぱだか

まっしろ

言い足すことはなにもない
これが返事だと言っている
わたしがいつもあれこれ言ってあれこれ聞いて
ねえ もしかしたらなどと空を見上げて
口説いていた
ずっと返事をしてくれなかった
けれど

とうとう
とつときの返事をしてくれた

まっすぐに寝て
まっしろな骨
ところどころ煙っている。

 何も言うことはない。「とつとき」(「とっておきの」だろうと思って私は読んだのだが)の詩である。こんなふうに愛するひとに受け入れられるなら、死んで遺骨になるのもいいものである。遺骨になって、愛するひとに、自分の骨を「ひい ふう みい」と数えてもらいたい気持ちにさえなる。

 すべての行が好きだが、3連目が特に好きである。「頭蓋骨」から「足のさき」までていねいにつないでいる。つなぐことが三井のことば、三井の思想の基本なのだと思う。
 「五七(ごひち)」の書き出しの3連。

踏んでも踏んでも
追っても追っても 繋いでも繋いでも
とうとう
そらの雲みたいだとした 分からない
踏んでも踏んでも 跳んだような気がしない頼りなさ

それでも
繋ぐことは生きていることだ

数珠を繋ぐように
ひとつ
ふたつ
みつ……
草叢で
虫が鳴いている
チィッ

 繋ぐ、繋ぐ、繋いで世界をつむぎだす。なんとか完成させる。そのとき、その繋いだ世界からはみだして、何かが存在を主張する。「五七」では、虫。草叢で鳴いている。そういうものに出会って、つまり、自分で繋いだものではないものにふいに出会って、世界が結晶する。他者(自分が繋いでいるものいがいのもの)が、ふいにあらわれて、「一期一会」の世界が結晶する。
 それが美しい。その瞬間の、世界の広がりが美しい。

 「まっしろ」でも同じことが起きる。遺骨。その白い骨を繋いで行く。頭から足の先まで繋いで行く。繋いで行くと、それはそのまま人間の形である。そして、人間を支えていた形でもある。人間のなかにあって、人間そのものを支えるものは、その人間の真実である。その真実を三井は「ひい ふう みい」と数えあげながらつないでゆく。
 そこに、数えられないもの、三井の意識でつなぎとめることのできなかったものが唐突にあらわれてくる。「煙っている」もの。「花がもえたあと」。
 ああ、美しい。
 「花」は「遺骨」にとって「他者」である。三井にとっても「他者」である。「意味」がない。「意味」がないけれど、それが存在することで、繋いできたものの「意味」が結晶するのである。世界が求心・遠心の形で結晶し、きゅーっと小さくなると同時にビッグバンのように宇宙全体の広がりを獲得する。
 ほんとうに美しい。
 花のもえたあとは遺骨のように「真実」ではない。しかし、それは死んでしまった人間の「真実」ではないということであって、どんな世界にとっても「真実」ではないということにはならない。花を「真実」とする世界もどこかにある。花が骨のようにまっすぐに世界の中心に存在し、世界を支えているということもあり得る。
 そういう世界と、三井は、突然出会うのである。
 その瞬間、三井は思い出すのだ。
 まっしろな遺骨になってしまった「あなた」。その「あなた」のまっしろな、まっすぐな骨。そこには、花もたしかにいっしょに存在していたのだと。

ねえ もしかしたらなどと空を見上げて
口説いていた
ずっと返事をしてくれなかった
けれど

 「けれど」。「返事をしない」という形の「返事」があったのだ。そこには「あなた」の「花」があったのだ。まっしろな骨を見ながら、骨をつつんでいたすべてのもの、肉だけではなく、こころをも三井は、いま、見ている。
 頭から足の先まで意識をつないでゆく。その意識の先に、肉があり、肌があり、そしてたとえば花を愛するこころがある。そのこころは、骨と肉(皮)の間にあるのか、骨のさらに内部にあるのか、あるいは消えてしまった肉体の、その外部にあるのか。そういう構造は分からないけれど、たしかに存在して、世界のつながりを、見えない形で完成させている。
 その余韻のようなものが煙っている。

 そのすべてを三井は、ことばで、しずかに拾い、静かに詩の壺におさめる。抱きしめる。美しく、艶っぽい。と書くと不謹慎かもしれないけれど、艶っぽい。いいなあ、たまらない美しさだなあ、と書かずにはいられない。




日の記―三井葉子詩集
三井 葉子
富岡書房

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伊藤悠子「まなざしのなかを チェーザレ・パヴェーゼの故郷ランゲ」

2008-06-10 12:18:47 | その他(音楽、小説etc)
 伊藤悠子「まなざしのなかを チェーザレ・パヴェーゼの故郷ランゲ」(「港のひと」5、2008年06月01日発行)
 パヴェーゼの故郷ランゲにある生家は展示館になっている。そこへ伊藤は日本語訳の本を持っていく。そのときのことを書いた散文である。不思議な美しさに満ちている。

 必要なページだけ破いて持ってきた時刻表をポケットに押し込んで歩きだした。時刻表はミラノに着いた翌日、ミラノ中央駅のキオスクで買ったものである。「時刻表(オラリオ)はありますか」と聞くと、黒い肌をした青年は「おはよう」と日本語で言って「オラリオ」と時刻表を差し出した。ふたつの「お」という音が美しく響いた。

 伊藤の本を生家へ持っていくという行為とは関係ないことなのだが、その無関係な部分に、ふっとあらわれる美しさ。それが、とてもいい。伊藤には目的があるが、その目的だけのために精神を縛りつけていない。ゆったりとときほぐしている。その、ゆったりした精神のなかへ入ってくるものをしっかり受け止めている。受け止めたものを、ていねいにことばにしている。
 この文章につづけて、伊藤は書いている。

頭韻の勉強をしているのかもしれない。

 このことばは、そのまま伊藤の姿勢(生き方、思想)をあらわしている。伊藤は、とても勉強家なのだろう。何かについて勉強する。精神を、その方向に向けてととのえる。ちょうど、伊藤がいま、パヴェーゼの家へ向かうように、何かに向けて精神をととのえる、ということを常にしているために、他人の行為のなかにも、そうした姿勢をくみ取るのだろう。
 こうした他人に対するひそかな共感、他人と自分を、そっと自分のなかで重ねるという姿勢は、どこからともなく滲み出るものかもしれない。だからこそ、伊藤が出会う人々は、みな、伊藤に対して親切である。こころを静かに開いて向き合っている。
 だれとの対話を取り上げてもいいが、そのひとつひとつが美しい。
 たとえば、

 遠い線路に列車がゆらゆらと定刻通りに現れた。切符を持っていないので、車内で車掌から買う。無人駅だから仕方がない。車掌は私の財布をちょっと覗くと、「小銭ばかりたまってしまったね。取り替えてあげよう」と言って立ち去り、すぐ戻ってきて、私にわかるようにゆっくり両替してくれた。

 「言って立ち去り、すぐ戻ってきて」の「すぐ」がとても美しい。車掌が戻ってくるまでの時間を「すぐ」と受け止める美しさ、車掌に対する信頼・感謝のようなものが車掌に伝わり、両替をするときの「ゆっくり」を引き出すのだろう。車掌の動きを描写しているだけなのだが、その描写の細部から、伊藤のこころの動きが、そっと見えてくる。
 こういう文章が、私は、とても好きである。

 詩集『道を 小道を』を読んだときの感動が甦ってくる。
 そこに書かれていることばは、何かを強引に主張しようとはしない。「わざと」がない。現代詩の詩は、その大半が「わざと」のなかにあるのだが、伊藤にはその「わざと」がない。「わざと」ではなく、ただ動いてゆく。伊藤が生きていることそのままに、ただ動いてゆく。パヴェーゼの故郷へゆく。そのために時刻表を買う。切符を買う。それは必要に迫られてしているだけのことである。「わざと」しているのではない。そして、その必要に迫られてしていることのまわりに、そっと身を寄り添えてくるものがある。たとえばキオスクの青年は「おはよう、オラリオ」と言い、車掌は「両替してあげよう」という。そういうものを、そういう出会い、一種の「一期一会」を伊藤はきちんと受け止めている。きちんと受け止めることで「一途な目的」をゆったりしたものに広げている。
 ひとりのパヴェーゼ愛好家が日本語の翻訳が生家の展示館にないからといって、わざわざ飛行機、列車を乗り継ぎ、しかも徒歩で届けに行くというのは、傍から見れば「熱狂」に属する行為である。それって、伊藤がしなければならない仕事? そうだとしても、郵便で送ったら? そういう疑問を、静かに消していく力が、伊藤の姿勢のなかにある。「しっかり」としか言いようのない何かがある。きちんと他人を受け止めるという姿勢が、伊藤のすべてを「しっかり」したものにするのだろう。

 「しっかり」とか「きちんと」とか「ゆったり」という感じ--これは、たぶん、私がいくらことばを重ねても伝わらないだろう。ひとりでも多くの読者に、実際に、伊藤の詩集を読んでもらうしかない。
 まだ読んでいないひとは、ぜひ読んでみてください。



 今回紹介したことと、少しずれることになるかもしれないが……。
 伊藤が「おはよう、オラリオ」について「頭韻の勉強をしているのかもしれない」と書いていることには、伊藤の姿勢がとても強く現れている。伊藤自身が頭韻を勉強しているらしいことは、それにつづく次の文章のなかにくっきりとは現れている。

よく使われる外国語の挨拶とキオスクに置いてあるものとで頭韻を踏むことが出来るのは、一体どれほどあるだろう。見当がつかない。ひとつも思い浮かばない。こまかな雨が降り始めた。藤の花が咲いている家がある。藤はイタリア語でグリーチネという。複数形はグリーチニ。グッド・アフターヌーン、グリーチニ。あまりきれいに響かない。

 すらすらと出てくる「頭韻」。それは伊藤の日頃の勉強をあらわしている。そういう勉強をしているから、キオスクの青年のことばに「頭韻」を感じるのだ。
 
 でも、「おはよう、オラリオ」のなかにあるのは、ほんとうに「頭韻」の音楽なのだろうか。私は、実は疑問に思っている。(疑問に思うからこそ、伊藤が「頭韻」を勉強しているのでは、と思ってしまうのである。「頭韻を勉強しているのかもしれない」という感想がとても印象的に浮かび上がってくるのである。)
 「おはよう、オラリオ」。このことばのなかには「お」の繰り返し、「お」と「あ」の組み合わせ。そして「い」と「お」の組み合わせが魅力的に重なり合っている。「OHAYO、ORARIO」。「OHAYO」のYはIでもある。(Yはギリシャ語のIである)したがって、「OHAYO、ORARIO」は「OHAIO、ORARIO」である。母音だけを引き出すと、ともにO・A・I・Oという動きになる。そしてラテン語圏ではHが無音であるというのも、この重なりをさらに強く印象づけるかもしれない。また、私の印象ではHとRはラテン語圏のなかでは発音が似ているかもしれない。(フランス語を私は思い浮かべているのだが。)

 脱線してしまったが、「おはよう、オラリオ」はほんとうに美しいことばの出会いだ。一度聞いたら忘れることの出来ない音楽だ。

*

伊藤の作品を読むなら、次の1冊。
2007年の、これしかないという1冊です。

道を小道を―詩集
伊藤 悠子
ふらんす堂

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斎藤健一「生活と病者」、有田忠郎「捧げる詩」

2008-06-09 09:53:23 | 詩(雑誌・同人誌)
 斎藤健一「生活と病者」、有田忠郎「捧げる詩」(「乾河」52、2008年06月01日発行)
 斎藤健一「生活と病者」のことばにはむだがない。切り詰められている。切り詰められた精神の美しさがある。
 「生活と病病」の全行。

雨はいっとき膝だけに仄暗い光を浴びせた。しかし、錯覚である。ここは病室なのだ。広くもない古びた硝子戸のはまる四角い部屋。長身の看護師が廊下を急ぐ。滴を含んだ器具やビンは綿布を摩擦させるようなひびきをたてる。ベッドの上。横が天井。村山槐多詩集をぼくは引き裂いた。

 「天井が横」とは、斎藤が横向きに固定されてベッドにいるということだろうか。ともかく「ここは病室なのだ。」というとおり、病室にいる。そして、ことばを動かしている。そのことばの動きのなかで、私は「長身の看護師が廊下を急ぐ。」の「長身」に詩を感じた。「長身」に斎藤の思想を感じた。



 この詩には対立の要素がある。対極にあるものが向き合うことでつくりだす緊張感がある。
 書き出しの「雨はいっとき膝だけに仄暗い光を浴びせた。」のなかにある「仄暗い」と「光」。「暗い」と「光」はほんとうは反対のものである。それが「仄」という文字のなかで硬く結びつき、いままで意識されなかった細部へと精神を誘う。読者の精神を緊張させる。
 しかし、この緊張を、斎藤は「錯覚である。」と即座に否定する。そして「ここは病室である。」とつづける。この「ここは病室である。」という「現実」の描写を対比することで、「錯覚」とは、斎藤の意識のなかにのみあらわれたことばを指していることがわかる。
 「仄/暗い/光」。そのことばの結びつき、ことばが結びつくことで姿をあらわす世界。それは、まず斎藤にやってきた。斎藤がことばにしないかぎり、存在しない。「病室」は斎藤が意識しなくても存在する。

 だが、ほんとうだろうか。斎藤が意識しなくても病室はほんとうに存在するだろうか。それは、よくわからない。「錯覚」というのはことばのなかにしか存在しないことはわかるが、病室が意識しなくても存在するかどうかは、わからない。病室だって、意識しないことには、そこには存在しないかもしれない。ことばにしたから、いま、ここに、病室が存在しているのだとしたら、それは「仄/暗い/光」と同じなのではないだろうか。

 そういう意識の揺らぎを引き継ぐようにして、「広くもない古びた硝子戸のはまる四角い部屋。」ということばが登場する。
 この1行の、ことばの揺らぎは不思議である。ことばが緊張を求めてさまよっている。この行のなかにある緊張は「広くもなく」ということばの「なく」、非定型のなかにある。「広くもない」硝子戸がはまっている部屋は、実は硝子戸よりは「広い」。「広くもない」と「広い」が向き合っている。
 こうした現実の描写、窓が部屋にはまっているという描写は、事実そのままである。硝子戸が部屋にはまっているというのは、何の矛盾もない事実である。しかし、だからこそ、それは「錯覚」のようなものである。「無意味」である。言わなくてもいいことをわざわざ言うというとき、そこには言わなければならないと信じている「何か」が潜んでいる。「錯覚」のようなものが潜んでいる。そして、何かを探しているのだ。ことばになりきれない何かを。
 斎藤の意識のなかに、いままでは存在しなかった何かが忍び込んでいる。そして、それが姿をあらわそうとして、現実を少しずつ歪めている。歪めているという言い方は、よくないかもしれない。現実を、現実のなかの何か、精神とはぴったり重なり合わないものをそぎ落としている。そぎ落としながら、精神と世界が重なるように仕向けている。「錯覚」を、「錯覚」というより、純粋な「精神」のようなものに仕立てようとしている。
 そういう精神の動きが「長身」のなかに結晶している。「長身」という「錯覚」のなかに、斎藤の精神が結晶している。
 私は斎藤を知らないが、おそらく「長身」なのだろう。そして「長身」であるだけではなく、細い体であるかもしれない。
 看護師は病人ではない。つまり、病室に固定されているわけではない。その看護師が廊下を歩いている。--歩けない(ベッドに固定されている)斎藤との、絶対的な対比がここにある。その看護師を、わざわざ「長身」と描写するとき、そこには斎藤自身の姿が投影されているのである。だから、私は、斎藤を「長身」だろうと想像したのである。そして、看護師を「長身」と描写することで、斎藤自身は、看護師になってしまう。完全に「錯覚」してしまう。斎藤はベッドに固定されているのに、意識は「長身の看護師」になって、薬や何かを運んでいるのだ。

 だが、「仄/暗い/光」を「錯覚」と理解する斎藤は、その「長身の看護師」も「錯覚」だと知っている。ことばにすぎないと知っている。ことばとして存在するだけだと知っている。ことばに助けられ、ことばに裏切られる。
 --そういう「苦悩」が最後の行に昇華されている。

 斎藤は、どこまでもどこまでも、自己の精神を切り詰め、正確にしたいと願う詩人なのだろう。

**

 有田忠郎「捧げる詩」は風倉匠に捧げられた詩である。途中にとても美しい連がある。

身体を病んだ風の匠は
中指の爪ほどのデカルコマニーを
ユフインの天に近い
リリパット共和国に並べた
虫眼鏡をぶら下げて
見えるのは 遠い天体のうねる雲の渦
クレーターの多重リング
地球には存在しない青い大気の風だった
蝶も鳥もカゲロウも見にきただろう

 「蝶も鳥もカゲロウも見にきただろう」に有田の祈りがある。そうか、有田は、風倉のパフォーマンスを蝶や鳥やカゲロウにこそ見せたかったのか。蝶や鳥やカゲロウこそが観客にふさわしいと考えていたのか。パフォーマンスを見ながら、有田は蝶や鳥やカゲロウになりたかったのか……と思った。




有田忠郎詩集 (日本現代詩文庫)
有田 忠郎
土曜美術社

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六月博多座大歌舞伎(夜の部)

2008-06-09 00:09:34 | その他(音楽、小説etc)
 「菅原伝授手習鑑」「達陀」「弁天娘女男白浪」。
 「達陀」は僧集慶が尾上菊五郎、青衣の女人が坂田藤十郎。踊りは一部に不満がある。たとえば、最初の場の、松明を持って石段を登る最後の男。彼だけが石段を踏みしめていない。ほかの役者は全員、松明を持って石段を登るときの慎重な足さばきをするが、最後の役者はただ登ってゆくだけである。しかし、とてもおもしろかった。
 おもしろい理由はいくつかある。そのひとつは、私はこの演目を知らないこと。昭和42年に尾上松緑が初演というから、新しい出し物なのだ。実際、見ていて、とても新しいと感じる。その「新しさ」が、おもしろさの最大の理由だ。
 チラシから内容を引用する。

 お水取りの儀式が始まり、僧集慶が過去帳を読み上げていると、青衣の女人が忽然と現れ、過去の恨み言を述べますが、集慶が青衣を投げつけ妄執を断ち切ると、女人は消え、集慶を中心に練行衆の行法が始まります。袈裟を絞り上げ、松明を振って、達陀の妙法が激しく舞われます。歌舞伎では珍しい勇壮な群舞が見物です。

 読経とダンス(と、思わず書きたくなる)の組み合わせが斬新で、まるで現代のダンスを見ている感じがする。ただし、歌舞伎の所作がモダンダンスとは違うので、ダンス(あるいは「舞踏」)を見るよりも、もっともっと「新しい」感じがする。見慣れていないものを見る衝撃に襲われる。
 実際、昭和42年が初演というから「現代」の歌舞伎なのだ。そして、歌舞伎とはダンスそのものなのだ。特に、群舞が、歌舞伎の動きを満載していて、とても愉快だ。舞台を踏みならす足の音がこころをわくわくさせる。
 火の粉が舞い散るなかでの群舞は壮観である。何人で演じるのが基本なのか知らないが、今回の舞台の人数よりももっと多い方がおもしろいかもしれない。
 ただし、菊五郎の舞いは、群舞をリードするという意味では、なんとなく力強さに欠ける。上半身と下半身が緊密に動きすぎる。しなやかすぎる。力のタメというのだろうか、無理な感じがしなくて、そこがおもしろくない。
 これは私だけの感覚かもしれないが、歌舞伎がおもしろいのは、動きに無理があるからだ。たとえば群舞のなかで、僧たちがとんぼを切る。着地のとき、右足は曲げているが左足は伸ばしている。片方の足を曲げ、片方を伸ばし、尻から着地する。そこには、体育の時間にやる前方宙返りにはない無理がある。無理があるから、そこに「美」がある。
 菊五郎の動きには、そういう「無理」がない。

 全体がダンスという印象があるなかで、藤十郎の舞いだけは異質である。それもおもしろい。女の執念、情念を舞うのだが、手の動きがとてもいい。手といっても、振りそでからのぞく手の甲から先、つまり指だ。指の動きが情念をあらわしている。それは自然な指ではなく、無理をしてつくりだした形なのだろうけれど、その無理のなかに「美」が結晶している。白塗りの指がライトをあびてゆっくり動くと、はかなさが、くやしさが、哀しみが、そこからあふれてくる。
 時間にすると藤十郎がでている時間は少ないのだが、群舞との対比が強烈なので、最後まで強い印象を残す。藤十郎の舞いと対抗するには菊五郎だけでは不十分で、群舞が必要なのだ、ということを実感(?)させられる。

 モダンダンスとの関係(?)でいえば、読経を音楽としてつかっている点のほかに、影を見せる点にも新しさを感じた。舞台の中央に薄膜があり、そこに僧たちの影が映る。そして、その影になった部分、薄膜が光を反射しない部分にだけ、薄膜の向こうの僧たちの動きが見える。不思議な視覚の試みをしている。それも楽しかった。



 「弁天娘」は弁天小僧が菊之助。南郷力丸が松緑。菊之助は菊五郎の美形をうまく引き継いでいるなあ、と感心した。(寺島しのぶ、との対比でのことであるけれど。)菊之助の声は、私は好きである。だが、松緑の声は物足りない。声そのものはなかなか魅力的だけれど、母音の感じが弱い。そのため、早口という印象が残る。長い声のなかで表情がかわるといいのになあ、と思う。


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三井葉子『花』(5)

2008-06-08 09:15:33 | 詩集
 三井葉子『花』(5)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
 三井の詩を読んでいると、なんだか孫悟空になった気持ちになる。釈迦の掌の上を飛び回っている孫悟空の感じに。三井のことばは、ふところが深い。広い。どこまで行っても果てがない。そして、不思議な安心感がある。私のことばは、どこまで行っても三井にはたどりつけない。それでも、書かずにはいられない。書いていると、なんだか落ち着く。きっと、三井のふところの広さが、まだまだ書いても大丈夫だよ、と励ましてくれるのだ。どこまで書いても、何を書いても、三井からははみださない。三井の領分のなかで、私は、ああでもない、こうでもないと動いているだけなのだ。そして、そうやって動けることが、とても気持ちがいいのだ。

 と、いう次第で5回目の感想。(まだ、詩集のほんのはじめをうろうろしているだけだが。)

 「ココロ」が何度も出てくる。「ココロ」というのは、私が書く「こころ」とはずいぶん違う。「思い」とか「精神」とか「感情」とか「思想」というものとは、まったく違っている。
 たとえば、「田舎道」。

ココロがものを食べている
タヌキでもないし
サルでもないし
猫 なんかではないが手肢四本で
ココロはカスミを食べるのか
ホタルや羽虫や青虫
まで
食べているすそは水に漬かり青青と水草が流れているので
はなれて見ていると たなびいている
羽衣

食べ終わったココロはナプキンで
口を拭きながら
きょうのホタルはおいしかった
ほんとにね

 「ココロ」は私には「思い」と「肉体」がいっしょになったものに見える。「思い」「精神」「感情」「思想」などといった、何か抽象的なもの、あるいは純粋(?)なものではなく、「肉体」にまみれて、不純(?)なもの、という印象がある。手で触ることができる「不透明なもの」を持っているような感じがする。そして、その「不透明なもの」が、なんといえばいいのだろう。純粋さがもっている「間違い」のようなものを吸収してくれる。受け止めてくれる。そういう感じがする。
 純粋さのなかには、まっすぐであることの、どうしようもない間違い(たぶん、他者を拒絶する、排除してしまう、という間違い)がある。不透明なものは、そういう間違いの刺みたいなものを包み込み、柔らかくする。
 この不透明さを、私は「肉体」と呼ぶのだが……。あるいは、「血」と呼んでもいいかもしれないが、それは「思い」や「感情」「思想」のように、それだけを分離して、純粋さを高めることができない。けれども、それは何かをつつみこむことができる。「肉体」が「思い」「感情」「精神」を内部につつみこむように。三井の「ココロ」は、そういう存在のように感じられる。

 別な角度から、私の感じていることを書いてみる。
 ここでは「きょうのホタルはおいしかった」と「ココロ」が言う。「美しかった」ではなく、「おいしかった」。
 「目」だけで味わっているのではない。舌で、鼻で、ホタルの光、飛翔を「見る」(視覚)だけではなく、それを視覚以外のものでとらえている。「目」だけでとらえると間違ってしまうような感覚、繊細で、鋭敏で、ひりひりしてしまうようなものが、(あるいは、新古今集の技巧のようなものが)、突出してくるのをつつみこみ、防いでいる。
 「肉体」がそこにある。
 何かを「見る」とき、視覚といっしょにある感覚が、視覚にまで侵入してきて、視覚の領域を汚していく(侵犯してゆく)。「おいしかった」と。「口を拭きながら」という、手の動きまで、そこに侵入してきている。「肉体」全体で、「視覚」が見つけてきたものを消化してしまう。つつみこんでしまう。そこに、不思議な不思議な手触り、「肉体」としか言いようのないものがあらわれてくる。
 しかも、そういう「肉体」の世界を、三井はひとりで持っているのではない。他人と共有している。「肉体」を共有する。新古今の歌は繊細な感覚、感覚を繊細にする技巧を共有するが、三井は、そういう感覚・技巧をつつみこむ、たっぷりとした「肉体」を他人と共有するのである。

きょうのホタルはおいしかった
ほんとにね

 これは会話である。
 三井のことばは、いつでも、同じように「肉体」を持った他人との「会話」である。「会話」というのはことばの共有である。そして、三井の「会話」においては、ことばだけが共有されるのではなく、ことばをつつみこむ「肉体」が共有されるのである。
 「他人」との「会話」である、ということは、そのことばが三井のなかだけでは完結しないということである。いつでも「他人」に対して開かれている。「他人」の反応によって、そのことばを変えていくという要素を持っているということでもある。
 三井のことばは、「他人」と出会い、出会いのなかで浮かび上がってくるものを吸収しながら「変化」する。「変化」とは、三井にとって「生成」のことである。三井のことばは、いつでも「生成」するように動いている。

 そして、その「他人」との出会いによる「生成」は、かならずしも、「他人」の何かをそのまま受け入れることでもないようである。
 「ほんとにね」と言われても、それをそのまま肯定して、そこで終わるのではない。ほんとうに「きょうのホタルはおいしかった」が通じたのかどうかという疑問が残る。そういことも、三井を動かしてゆく。「あれ、ほんとうにね、なんて簡単に言ってほしくなかったのに、もっと違ったことばがあるはずなのに……」。たぶん、そういう思いが、「会話」を逸脱させる。そこにまた、不思議な不思議な魅力、三井の「個性」としか言いようのないものがあらわれてくる。ことばにできない何かを探して、それをことばにしようとする動きがはじまる。

どうしてココロなんかはるばる運んできてしまったのだろうと
私は思うが
いや 田舎道でな
思わず落っことしたんだとカミサマがおっしゃっている

 「カミサマ」は「他人」を超越している。三井をも超越している。そういう超越した領域(いま、ここにはないもの、ことばだけで存在する領域)へ進んでゆく。
 そのときの「カミサマ」もまた、「肉体」をもって、平然としている。そこが非常におもしろい。非常におもしろいし、あ、かなわないなあ、と思う。
 私のことばはどうしても「論理」を求めてしまう。「論理的」に書くことが文章を書くことだと思ってしまう。「いや 田舎道でな/思わず落っことしたんだ」というときの、口語の口調が「肉体」である。

 たぶん、三井のことばは「論理」を気にしない。気にしないというと、おおげさかもしれないし、否定的なイメージを与えてしまうかもしれないが、世界は「論理」を超えたものをもっているということを三井のことばは承知している。ことばは世界のなかで勝手に動き回っているだけで、それはどんなに動き回ってみても、世界の内部のことにすぎないことを知っている。そういう動きを超越して(そういう動きを飲み込んで)世界が存在していることを知っていて、平然と飛躍する。「カミサマ」ということばを突然出してきて、それで平然としている。「カミサマ」であっても、口語で語らせれば、そこに「肉体」が出現し、三井とことばを共有できる。ふれあうことができる。「いや 田舎道でな/思わず落っことしたんだ」という口語ではなく、堅苦しい「論理的な言語」であった場合は、たぶん、三井は「カミサマ」とは交流できない。
 「カミサマ」との会話という飛躍も、実は「生成」である。
 「生成」というのは、もともと「飛躍」である。自分を超えてしまって、自分ではなくなることが「生成」である。「飛躍」なしには「生成」、「なる」ということはあり得ない。

 三井は、私が書いているようなことは、ごちゃごちゃとは書かない。ただ、「呼吸」として、ぱっと提出する。

きょうのホタルはおいしかった
ほんとにね

 ふいにあらわれる「他人」。「他人」との会話という呼吸。
 それは三井が自分でつくりだしたものではなく、他人が発した「呼吸」である。三井は、いつも「他人」の呼吸とともにあり、そこで「生成」している。そして、その「他人」には「カミサマ」も含まれていて、「いや 田舎道でな……」という応答さえするのである。



 「岩戸川」にも魅力的な「ココロ」が出てくる。

ココロがココロのいうことをきいてやるとき ココロは嘘をつく
そのほうがココロが
よろこぶ

 「嘘」。「嘘」とは、そこにないものである。ほんとうではないものである。そういうものを「ココロ」はよろこぶ。なぜか。そこには「生成」のきっかけがあるからだ。自分を超越するきっかけがある体。「嘘」とは、存在しないものを存在させること。それは「生成」に通じる。そこには、常に、運動が存在する。
 三井のことばは、いま、ここから、いま、ここではない世界へ動いてゆくことをよろこぶ。動いてゆくとき、いま、ここが、運動の可能性の「場」と「なる」からである。
 それはたぶん「カミサマ」の領域である。
「嘘」を「芸術」と書き換えると、そのことが鮮明になるはずである。
 三井が書いている「カミサマ」は、そういう領域にいて、三井といっしょに遊ぶ、いっしょによろこぶ。このよろこびがあるから、三井の掌(ふところ)は釈迦の掌のように広いのである。果てがないのである。




白昼―詩集 (1964年)
三井 葉子
竜詩社

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三井葉子『花』(4)

2008-06-07 00:40:30 | 詩集
 三井葉子『花』(4)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
 「楠の下で」は、私がこれまで三井葉子の詩について書いてきたこととは少し違ったことが書かれている。しかし、書いてきたことと、とても重なり合っている。
 その書き出し。

愚鈍な男がいた。愚鈍とは一体、何のことであろう。側にいてもいかにもつまらなかった。退屈であった。そこが薄曇りのようにその男がいるとけしきが曇る。向うにあるに違いない風景をさえぎるというふうである。

 「さえぎる」ということばが、この詩の思想であると思う。さえぎられたとき、世界は限定する。世界は限られる。このことを、三井はつまらないと感じている。この「さえぎる」を三井は「関係ができない」と言い換えてもいる。

射程がのびないのを退屈というのかもしれない。しかし、何よりも男は関係ができない。関係できても淡い。
ところで関係とは、えいえいと関係するという意味であった淡いものは関係とは言わない。在る、ということかもしれない。在ることが目障りな、ということは、つまり、けしきをさえぎったりすると思うことはたぶんわたしが、わたし達と同様。蟻の行列と同様。えいえいとつながろうとしているせいである。

 「在る」ということばが、もうひとつのキーワードである。(これは、私がいつもつかう「キーワード」というときのことばとは少し違う。普通、誰もがつかう「キーワード」という意味である。--この文章だけでは、わかりにくいかもしれないが、ちょっと面倒なので説明は省略する。)
 三井は思想の基本に「存在論」をおいていない。「関係論」をおいている。「関係」とは、前に書いたことばつかっていえば「生成」である。三井は「存在論」ではなく、「生成論」として世界を把握する。そこに、何かが「ある」ということではなく、ある「場」で何かが生成する。それが世界である。「存在」は「生成」の一瞬であって、それは不確実なものである。確実なものは「生成」という運動であり、運動とは「関係」である。それは固定化しているのではなく、常に動いている。
 そこに「在る」、在って、何かをさえぎるのではなく、そこで「在る」ことをやめ、何かとつながり、いま、ここ、ではない何かに「なる」--その「なる」という運動が「関係」である。
 愚鈍な男、射程がのびない、関係ができない--とは、「在る」ままであること、「なる」ということができない、ということである。

 この「愚鈍」を、しかし、三井は不思議なことばでたたえている。否定しきってはいない。と、いうふうに読める部分がある。

愚鈍な男が歩いている。
目鼻があるとは思えないのだが
ただ薄ぼんやりと胞を抱いているだけで
そして抱いているだけではとうてい伸びない
五寸の罪。五尺の罪をわたし達は犯すと。かの聖(ひじり)は言われた
あの罪を犯さない愚鈍が歩いている。

 愚鈍は罪を犯さない。わたし達は罪を犯す。これは普通に考えれば、罪を犯さない愚鈍が肯定され、罪を犯すわたし達が否定されていることになる。だが、それはほんとうだろうか。罪を犯さないことが、ほんとうに肯定されることなのだろうか。
 「在る」であるかぎり、ひとは罪を犯さない。「なる」を選択した瞬間、ひとは必ず罪を犯す。「なる」とは自分の枠(自分の領土)からでて行くことである。自分以外のものになるということは、自分以外のものの領域を自分のものにするということ、侵犯するということである。「なる」は罪なのだ。
 だが、「なる」以外に、人間は「生きる」ことができないのではないのか。

 「在る」とは何か。最後に、三井は、「在る」を放り出してみせる。そこに、ただ存在するものとして表現する。

愚鈍な男が歩いている。

あれはいのち、かもしれない。
ある日、
薔薇に花びらを散らしたあとに残る、あの青い実のような。

 「いのち」ということばを、私はこれまで三井の詩について語るときつかってきたが、ここで書かれている「いのち」とは少し違う。三井の「いのち」(私が書いてきた「いのち」)は「生成するいのち」、「なる」いのちであった。
 ここに書かれているいのちは「なる」ではなく、「在る」いのちだ。
 薔薇が花びらを散らし、青い身に「なる」。その「なる」が完了してしまったあとの存在--そういうものとしての「在る」なのだ。
 ひとは常に何かに「なる」。「なる」ために関係し、つながる。しかし、ある日、「なる」が完了する。--その完了したものは、私たちに不思議な印象をもたらす。
 「なる」が「完了した」とき、それは、私たちには「愚鈍」にしか見えない。何かを「さえぎる」ものとしか見えない。それは、しかし「いのち」の完成なのである。完成しているがゆえに、他者を侵犯しない。他者を侵犯しないゆえに、「罪」を犯さない。
 これもまた、ひとつの「いのち」のあり方である。

 こういう詩を読むと、三井が、では「在る」と「なる」とどちらをほんとうは肯定しているかわからなくなる--そういう感じがするかもしれない。だが、そういう感じがするのは、詩に「答え」を求めるからである。「答え」ではなく、「答え」を探す道筋、その道程、そのことばの運動として詩を読めば、印象はかわらない。
 三井は「愚鈍」に出会い、それに対して三井がどんなふうに関係し、三井自身のあり方を変えうるか、愚鈍に出会って、三井自身はどのように「なる」ことができるか--それをことばで探しているととらえ直せば、ここに書かれていることは、「変化」や「こおろぎ」とかわらない。

 「蛙」は「ころおぎ」に「なる」。「蛙」は「こおろぎ」に「還る」。同じように、三井は「愚鈍」をみつめて、考えながら、「いのち」に「なる」。「青い実」に「なる」。最終行の信じられない美しさ--それは「青い実」に「なる」というところにある。「青い実」が「在る」のではなく、「愚鈍」が「青い実」に「なる」。それは「愚鈍」で出会った三井が「愚鈍」を通って(深く関係して--深く深くことばとつながって)、「青い実」に「なる」ということである。
 ここでは、やはり「なる」ということが書かれている。その運動が書かれている。運動だけを、三井は書いている。ある存在が「在る」のではない。「なる」という運動だけが「在る」のである。





詩集 風が吹いて
三井 葉子
花神社

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三井葉子『花』(3)

2008-06-06 10:53:46 | 詩集
 三井葉子『花』(3)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
 きょうも三井葉子である。すべて詩がおもしろい。すべての行について、私が感じたことを、そのまま脚注のような形で書き綴ることができれば、と思うくらいおもしろい。
 「こおろぎ」。その前半。

山越え
野越え
里越えて

帰って来たのか え

行くときは
たしか蛙だったのに

私には垣根がない きょうは蛙のような
でも
きのうの こおろぎも残っていて

 4連目は、とても不思議な連である。
 3連目の「行くときは/たしかに蛙だったのに」の論理を普通(?)に引き継げば、3連と4連目の間に、しかし「きょう戻ってきたのは蛙ではなかった、こおろぎだった」にということばがあるはずである。3連目の「のに」は、前にあることばを否定して、次のことばを引き寄せるはずである。
 そして4連目は、

私には垣根がない きょうはころおぎのような
でも
きのうの 蛙も残っていて

 と、なると思う。
 けれども三井のことばはそんなふうに動いて行かない。
 3連目の「のに」を引き継げば、きょうは「蛙」ではないはずなのに、「きょうは蛙のような」とつながる。そして「きのうの こおろぎも残っていて」と、ことばが追い打ちをかける。
 え? どっちなの? 「行くとき」(たぶん、きのう)は「蛙」だったのに、きょうは「蛙」ではない、とはどうしてならないの?

 垣根がない

 理由は単純である。「垣根」がないのである。「垣根がない」状態のことを、きのうの感想のつづきで書けば、私は「混沌」と呼ぶ。「蛙」と「こおろぎ」は違った存在であるが、いつでもすりかわりうるのである。それはともに「私」なのである。
 きのうは「蛙」として生成し、きょうは「こおろぎ」として生成する。しかし、その「きょうのこおろぎ」のなかには「(きのうの)蛙のような」ものも「残って」いるし、「きのうの蛙」のなかには「(きょうの)こおろぎ」につながるものも「残って」いる。はっきりとは区別できない。
 「垣根」とは何かを区別するものとして存在するのが一般的だけれど、そうではなくて、垣根はいう「場」で分けられたふたつのものが出会っていると考えると、それはある存在をつなげるものとも見ることができる。分けることはつなげること、つなげることは別個の存在があると意識すること、つまり分けること。
 どう考えてもいいのである。
 そして、三井は、どうとも考えるのである。つまり、あるときは分けるものとして、そしてあるときはつなげるものとして。「垣根」をひとつの意味に定義しない。固定しない。ただ、受け入れる。

 「蛙」や「こおろぎ」について三井は何も書いていない。「蛙」や「こおろぎ」を何かの比喩、象徴と解釈して、そこからこの詩について語りはじめることができたかもしれない。ほんとうはそうすべきなのかもしれない。けれども、私はそういうふうには読まない。
 「蛙」と「こおろぎ」に区別はない。「私には垣根はない」と三井がはっきり書いている。区別するものなどない。それは同時に「蛙」も「こおろぎ」も「私」である、ということだ。比喩や象徴ではなく、「私」そのものなのだ。「私」そのものとして、受け入れる、ということだ。
 しかし、「蛙」「こおろぎ」を「私」として受け入れるということは、その差異を無視するということではない。「垣根」についても、私は、三井はそれを分けるものとも、つなぐものともどうとも考えると書いたけれど、それは無責任に考えるということではない。非論理的に考えるということではない。
 詩の後半。

でも
忘れてはいない よ
五蘊七光の光がさして草色のおまえを分けていた類(るい) 分別の朝を

帰ったのか え

こおろぎ。

 すべての存在(世界)は意識のありかたによって変化する。世界は「混沌」としている。「混沌」に「意識」働きかけるとき、そこから「世界」が生成する。あるときは「蛙」に、あるときは「こおろぎ」に。そして、あるときは「私」に。
 この「生成」を三井は、「生成」とは呼ばずに、

帰って来たのか

 と呼ぶ。
 三井にとって「生成」ということばはない。すべてはただ「帰る」のである。何かになるのではなく、「帰る」。この「帰る」は「還る」であり、「戻る」でもある。
 三井は、書いてはいないけれど、この「帰る」「還る」「戻る」先は、「いのち」そのものである。「いのち」の根源。そこへ「帰る」「還る」「戻る」。
 三井のもとへ「帰って来た」ものは、ものではなく、「帰る」「還る」「戻る」という「いのち」のあり方、「いのち」の動き、「いのち」の運動である。
 三井は「蛙」に、「こおろぎ」に、その姿を見ているのではない。「いのち」の運動を見ている。「いのち」の運動、動きに、区別はない。生きる。動く。いま、ここから、いままではない時間、ここではない場所へ動く。そして、動いていったその「場」は、未来でもあれば過去でもある。あらゆるものが同居している。

 私が書いてきた「混沌」は「同居」とも言い換えることができる。
 三井はあらゆる「いのち」と同居している。そして、その「いのち」と出会い、そこで自分を「生成」する。つまり、「いのち」そのものに還っていく。出会った存在の、その「いのち」の力を借りながら。
 三井のことばには、そのときの、しずかな感謝が含まれている。感謝の気持ちが、ことばをとてもやさしくしている。
 「帰って来たのか え」「帰ったのか え」。この2行の「え」。しずかな問いかけ。それは問いかけであると同時に、納得なのだ。同意なのだ。よろこびなのだ。たとえばどこかへ行っていたこどもが家へ帰ってきたときの、母の「帰って来たのか え」「帰ったのか え」のような、「え」の気持ち。そこには、すべての「分類」できない思いがある。「混沌」の至福がある。

 私はこれまで三井葉子の作品をそんなにていねいには読んで来なかった。ほとんど三井の作品を知らない。--知らずにいたことを、とても恥ずかしく思った。



畦の薺―三井葉子詩集
三井 葉子
富岡書房

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三井葉子『花』(2)

2008-06-05 09:23:25 | 詩集

 三井葉子『花』(2)(深夜叢書、2008年05月30日発行)
 昨日、「変化」について書いた。きょうも「変化」について書く。昨日、書き残したこと、いい足りなかったことがある。

ようやっと
雀になった。

 最終連の「なった」を中心に、私は書いたが、この「なる」を三井は「変化」と書いているが、私には「生成」に見える。
 「変化」と「生成」の違いは? この説明は難しい。私の感じている「雀になった」は三井が雀に「変わってしまった」のでも「化けてしまった」のでもない。三井がいったん三井ではなくなる。そういう「場」をくぐって、新たに雀として「生まれ」「成長」した、という感じなのだ。

未来が
みんな過去に見える年寄りは
歯のないくちで
ほほ ほほ ほ と笑っている
 
 1連目では三井は「年寄り」であるう「歯のないくちで」「笑っている」年寄りの一人である。この段階では、まだ人間の感じが残っている。ただし、自画像を「歯のないくち」と見るような、自己を客観化できるような「余裕」を持っている。自己を受け入れる「余裕」を持っている。

そのむかし囓ったであろう白い歯の むこうの
固いフランス・パン
パンくずを拾った雀の
パンくずのように
私は運ばれる
雀の未来へ
運ばれる

 2連目は、1連目の「歯」をひきずっている。「歯」のことを思い出している。「歯」がかじったフランスパンのことを思い出している。
 ここから少しずつ、変わりはじめる。
 歯→固い→フランスパン→パンくず→雀→運ぶ→未来
 「→」を省略して、単語だけを並べるとどうなるだろうか。
 歯・固い・フランスパン・パンくずほ雀・運ぶ・未来
 何のことか、わからない。私たちは三井の詩を読んでいるので、その単語をつなぎ合わせることができるが、三井の詩を読んでいないひとには、きっと何のことかわからない。単語がただ入り交じっているだけである。どういう順序でならんでいるのかわからないだろう。
 こういう状態を「混沌」と定義してみよう。
 「混沌」とは、そこにまだ固まった「関係」が存在しない状態のことである。ただ「もの」が、そこ(ある「場」)にあって、うごめいている。その「もの」をつなぎあわせると「関係」が出てくる。この「出てくる」は「生まれる」と言い換えることができる。
 歯(白い)とフランスパンが「関係する」とき、「固い」という印象が「生まれる」。あるいは「かじる」「パンくず」という行為や存在が「生まれる」(思い出すことができる)。「パンくず」を拾った「雀」もその関係につながって「生まれてくる」。
 「混沌」とは、ある「場」のなかに、次々と存在が生まれ続ける状態のことである。いろんなものが生まれ続けるからこそ、関係は固定できない。したがって、「混沌」なのである。
 「生成」は、この「混沌」をくぐり抜けること--「混沌」の場を通過することを条件としている。「変化」にもこういう「混沌--関係の解体と再構築」という動きがあるかもしれないが、私は「生成」をそんなふうに定義している。

 「混沌」と「生成」。これは、ともに東洋哲学の用語であるかもしれない。そして、私が思い浮かべているのは、まさに東洋哲学(日本を含む)の伝統である。
 三井はこの詩集に「句まじり詩集」ということわりをつけているが、そのことばを借りていえば、「混沌」と「生成」は俳句の世界である。俳句の5・7・5の短いことばのなかには生成がある。俳句が描き出す世界は、単なる風景ではない。「生成する」風景である。ことばとともに生まれ、成長する風景である。

五月雨をあつめて早し最上川

 この句が描いているのは、単なる梅雨時の最上川ではない。芭蕉はその風景を見ているのではない。最上川そのものになっている。最上川になって、五月雨を集めて、どんどん早くなる川のいのちそのものになっている。そこに書かれているのは「川」ではなく、川が川であることの「いのち」なのである。
 「いのち」は常に「生まれ」「成長する」。生成する。
 雨か降る最上川を見ている内に、芭蕉は芭蕉ではなくなる。人間の「いのち」解きほぐされ、雨がまじる。水の流れがまじる。雨に降られて肥え太る川。早くなる川。その速さのなかに動いている「いのち」が芭蕉をとらえる。芭蕉はそれに呼応する。
 生成とは、また呼応のことでもある。

 三井は、「歯・固い・フランスパン・パンくずほ雀・運ぶ・未来」という混沌のなかにいったん解きほぐされ、そこから雀と呼応する。雀のよろこびと呼応する。「雀でいいんだわ、ほほ ほほ ほ」という感じである。

 この生成には、もうひとつ、大切なことがある。

よし

ようやっと
雀になった。

 私はこれまで「雀になった」の「なる」だけに焦点をあてて書いてきたが、この「生成」について三井は「ようやっと」ということばを添えている。
 ほんとうは、この「ようやっと」こそ、三井の「思想」である。
 混沌→生成、ということは、三井以外の人間でも表現する。俳句は、すべてそういう世界である。(と私は思っている。)俳句に限らず、東洋の哲学、仏教、特に禅というのは混沌→生成以外のなにものでもない。(と私は思っている。)
 そして、俳句や禅と三井のことばを分けるものがあるとすれば、そっと添えられた、この「ようやっと」なのである。
 生成の瞬間、芭蕉は、その生成過程をすぱっと切り捨て、隠してしまう。あたかも最上川が突然出現したかのように。禅の悟りというか、問答というものもそれに似ている。ほんとうは混沌をくぐり抜けている。くぐりぬけているけれど、そんなものなど存在しなかったかのように、悟りの一瞬として出現する。(私の勘違いかもしれないが。)
 三井は、そういうことをしない。さとらない。
 「ようやっと」と、「雀」に生成するまでに時間がかかったことを平然と言ってしまう。自画像を「歯のない年寄り」と書いてしまうように、自己のあり方を、みっともなさ(?)を受け入れて、それを提出する。そこに、不思議な「余裕」がある。

 さらに、この「ようやっと」にはもっともっと大切な三井が、三井のより深い思想が具体化している。思想というのは肉体に絡みついているので、なかなか説明しにくい。「ようやっと」を自己を受け入れる「余裕」というふうに、論理的(?)に説明できる部分は、ほんとうはまだ思想ではない。自己を客観化するだけの人間なら、これまたたくさんいる。
 「ようやっと」は「ようやく」と同じである。(と、私は思う)しかし、三井は「ようやく」とは書かず「ようやっと」と書く。ここに三井の思想そのものがある。「ようやく」と書いた方が、たぶん標準語として多くのひとにそのまま伝わる。三井はしかし、そうは書かない。「ようやっと」に含まれる三井の生きてきた「場」(関西)の時間をそっと差し出す。肉体が呼吸してきたものを手放さず、そっと差し出す。
 肉体が呼吸してきたものをちきんと保ったまま、生成をなしとげる。
 それは「頭」ではなく、「肉体」そのものとして「生成」することである。三井のことばにはいつも肉体がある。呼吸がある。それは「頭」からみると、一種の余分なものである。余分なものと取り払った方が、流通しやすい。理解を得やすい。しかし、そういうことはしない。流通しやすいことばではなく、自分が生きてきてたことば、自分が生きてきた「場」につながっていることばをしっかり守り、差し出す。ことばとともに存在する肉体、その呼吸を、まるごと差し出す。
 ここに魅力が、そのひとのほんとうの思想がある。
 私は三井に会ったことはない。写真を見たことはあるが、よく覚えていない。(申し訳ない。)しかし、あってもいないのに、いつも詩を読むと、そのことばを読むと、三井の肉体を感じる。生きている人間の呼吸を感じる。そういうものが感じられれば、実は、私にとって詩の内容など、どうでもいい。(と言ってしまうと、言い過ぎだろうか。)詩を読む、文学を読む--というのは、それを書いたひとに、ことばのなかで会うということである。ひとは肉体を持ち、呼吸をしている。それが感じられれば、その人に会ったことになる。ひとと会えば、挨拶し、無駄口を叩き合う。まあ、立派な話もときにはするかもしれないが、大半はどうでもいいことを話し合って、あ、いま、ここにこうやって生きているということを意識するともなく感じる。そういう出会い、ひととの触れ合いの楽しさ--それがあれば、何を話したかということは、どうでもいい。話を思い出すのではなく、ひとは、ひとをそのまま、まるごと、肉体・呼吸を思い出すものだ。
 三井のことばは、私を、そういう世界へ誘ってくれる。



三井葉子の世界―“うた”と永遠

深夜叢書社

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三井葉子『花』

2008-06-04 12:06:08 | 詩集
 三井葉子『花』(深夜叢書、2008年05月30日発行)
 詩集を開いた瞬間、今年の一冊はこれしかない、という印象の詩集に出会うことがある。2007年は伊藤悠子の『道を小道を』がそうだった。どのことばにも「人生」がある。「人生」というのは不思議なもので一本貫く何か(感性でも、思想でも、喜びでも、哀しみでもいいが)があると同時に、それだけではなく、そのまわりに一種の余分がある。余裕がある。そして、その余分・余裕が一本の何かを支える大地・空気のようになっている。全部を読み通すと、私が読んだものが、ことばを貫いていた一本の何かだったのか、それともその一本を支えていた大地・空気だったのかわからなくなる。たぶん、一本の何かとそれを支える大地・空気のようなものがいっしょになったものが「人生」なのだろう。

 冒頭の「変化」は短い詩である。

未来が
みんな過去に見える年寄りは
歯のないくちで
ほほ ほほ ほ と笑っている

そのむかし囓ったであろう白い歯の むこうの
固いフランス・パン
パンくずを拾った雀の
パンくずのように
私は運ばれる
雀の未来へ
運ばれる

よし

ようやっと
雀になった。

 「未来が/みんな過去に見える年寄り」という行は強烈である。だが、それよりも、「未来が/みんな過去に見え」ながら、それを「笑っている」というのも強烈である。しかしさらにそれよりも強烈なのは、三井が「雀になっ」てしまうことである。そしてそれを「よし」と肯定していることである。
 ひとは何かになる。
 簡単に言えばこどもはおとなになる。あるこどもは先生になる。あるこどもは詩人になる。あるいは若者は年寄りになる。そういう「時間」の変化、「社会」のなかにおける自分の「位置」の変化というものがある。
 しかし、それ以外の変化がある。
 三井は、この詩では「雀」になってしまっている。
 でも、「雀になる」とはどういうこと?

 これはこどもがおとなになる、先生になる、詩人になる、年寄りになるよりも、もっと単純で、もっと複雑だ。
 夢中になって、「私」を忘れてしまうことだ。「私」でありながら「私」ではなくなる。
 年寄りの笑う口元を見ている。歯がない。むかしは白い歯でフランス・パンをかじった。フランス・パンはこぼれ、そのパン屑をすずめが拾って食べている。いろんなことが思い出される。いろんなことを想像してしまう。その瞬間瞬間、三井は「白い歯」になり、「フランス・パン」になり、「パンくず」になり、「雀」になる。そういうものと一体になる。
 ある瞬間、自分が年寄りであることを忘れる。雀になって、こぼれたパン屑を拾って食べる満足、その喜びを感じる。あ、あの雀は、焦げた固いフランス・パンを食べる喜びに夢中になっていると感じる。我が家へ持って帰って、一人で、だれにも邪魔されず、存分に味わう喜びを知っている--そんなふうに感じることがある。
 (こんなことまでは、三井は書いてはないが、私は、読みながらそんなことを感じた。)
 そして、そう感じた瞬間、三井は年寄りの仲間の一人ではなく「雀」なのである。「雀になっ」てしまっている。それを「よし」と肯定している。

 これはいいなあ。とてもいいなあ。

 もちろん人間は「雀」そのものにはなれない。しかし「雀」よりももっと「雀」になることができる。「雀」を超越した「雀」になることができる。「雀」になって、「雀」の感じている世界を感じる、ということができる。
 人間が「雀」の喜びを知って、パン屑で満足する喜びを知って、それが現実に何の役に立つか。立たない。ばかにされるだけである。「雀」ならパン屑を食べていたら?と言われたら、それでおしまい。人を「雀」のようにあつかう人に利用されるだけかもしれない。--けれど、そういう見方は「余裕」のない人生のとらえ方というものだ。
 自分のものではない「人生」を想像してみる。それが「余裕」である。「私」なんか、どうでもいい、とはいわないが、世界には「私」とは違った視点がいくつもある。そういういくつもの視点があるということは、世界が複数存在するということである。私たちは「私」という小さな視点の世界しか知らない。その小さな世界から、たとえ「雀」であっても、それを借りて自分から脱出する(逸脱する、といった方がいいかもしれない)というのはたいへんなことだ。

 この、私が私ではなくなり、私以外の何かに「なる」ということ--それを三井はこの詩集でいくつも書いている。「なる」という「運動」について書いている。とてもおもしろい。魅力的な詩がたくさんある。しばらく三井の詩集について書くことにする。(これは 1回目です。)



草のような文字
三井 葉子
深夜叢書社

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鈴川夕伽莉「さよならピアニシモ」、水島英己「湯殿川」

2008-06-03 10:51:33 | 詩(雑誌・同人誌)
 鈴川夕伽莉「さよならピアニシモ」、水島英己「湯殿川」(「tab 」10、2008年05月15日発行)
 とても不思議な体験をした。

田園の真ん中にアップライトピアノがひとつ置かれてありました。

田園は風の通る道のりに一致して広がっていました。
あおあおと伸びる稲のうねりに負けぬよう
ピアノも弦を震わせるのでした。

 鈴川夕伽莉「さよならピアニシモ」の書き出しだが、童話のようである。童謡のようである。「置かれてありました」「負けぬよう」という文語っぽい響きと田んぼの真ん中のアップライトピアノというシュールな(?)組み合わせに似合っている。
 私は田舎育ちなので、こういう風景(宮沢賢治も書きそうな田園の風景)を読むととても心が落ち着く。感想が個人的になりすぎて、「心が落ち着くでは」では批評にならないかもしれないが……。

 風と音楽の関係が、そのあともつづく。その部分も好きである。ある意味では紋切り型といえるかもしれないが、それがまた童謡風で、なかなか落ち着く。新しいことばを読むのは楽しいが、なつかしいことばを読むのも、とてもいいものだ。
 作品のつづき。

しなりの良い枝が弦として張られていた日もありました。
台風の夜には台風の音楽を奏でるためでした。

おやすみ、フォルテシモ
ベッドの中で私はちぢこまり
夢の中では
空にぽっかりと口を開けた闇が
風を全部食べるところに居合わせるのでした。

蜘蛛の糸が弦として張られていた日もありました。
ちいさな雨粒の軌跡を正確になぞって奏でるためでした。

おはよう、ピアニシモ
糸のむこうに少しだけ高度を上げた空を見るのです。
しかし、ちいさな雲は足を縮こめ
死骸となって窓枠に転がっていました。

きれない糸の秘密を尋ねたかったのに

 「死」の登場、というか、「死」がこの世に存在することを知らせる--というのも、童謡(童話)の基本を踏まえていて、とてもいいなあ、と感じた。そして、感想を書きたい、この詩を紹介したいと思い、この文章を書こうとして、「あっ」と声を上げてしまった。
 ちょっと時間の経緯が違ってしまうのだが、その「あっ」を説明すると……。

 私は、この作品が「きれない糸の秘密を尋ねたかったのに」で終わっていると思っていた。本のページがくっついていて、その作品につづきがあるとは気がつかなかった。引用しようとするとページの下から文字が透けて見える。(本の体裁が片面コピーを重ねた形式)。「あれ」と思ってページをずらすと、詩のつづきが出てきてた。そして「あっ」と声を出してしまったのである。
 そして、この「あっ」はもう一度、変化した。
 詩のつづきをここでは引用しないが、次のページからはじまることばが、そんなにおもしろくない。
 鈴川は蜘蛛の死のあと「田園」を離れ、「町」をめざすのだが、そこから突然、童謡・童話ではなくなる。(と、私には思える。)落胆してしまった。前半の美しさが、突然きえてしまい、「あっ」は「あーあ」にかわってしまった。



 しかし、実は、不思議な体験--というのは、けれど鈴川の作品に対する私の感想の変化のことではない。
 同じことが「tab 」で、もう一度起きたのである。
 水島英己「湯殿川」。この作品でも私は 1ページ目にとても感動した。その3、4連目を引用する。

「さまよい人」が二人。
思う、考える、
食べる、飲む。
行路は難し、行路は難し。
愛が何であるかを知らないけれど、土手に咲くチューリップはきれい。
湯殿川、You don't...

セキレイが夕日に向かって飛び去ったとき、
鋭角的な線を残した。
横に引かれた線が垂直に曲がるところで、
否定と肯定が交わる。
湯殿川は流れようとしている。

 とても美しい。ことばの動きが美しい。思考が風景とまじりあう。概念を自然がひっかく。そのノイズが西脇順三郎のようである。いいなあ。とてもいいなあ。
 特に、

湯殿川、You don't...

 という1行。まるでサザンオールスターズの音楽である。日本語が英語のリズムになって、新しいメロディーとして流れはじめる。この1行だけで、私は、この作品を今年前半のベスト1に選びたいと思った。とても感動した。3連目、漢詩でいう起承転結の転のハイライトである。この突然の英語の乱入によって、ことばがいっきに変化し、4連目で自然のなかに「時間」が鮮やかに流れる。「時間」が姿をみせる。古い時代からずーっと流れ続けている川の流れのように、その川面を(あるいは水の本質を)輝かせて。
 ところが、この詩にも1ページ目があった。そして、そこで私はまたしても落胆してしまった。特に最後の6連目に。(引用はしない。)

 同じ本で、同じことが2度続けて起きた。これは、私にとって、とても不思議なことである。



 本を読む。ことばを読む。そのとき、私はたぶん、「結論」を想定していない。ことばが動いて、それが頂点に達したとき、それで「おしまい」と思ってしまう癖があるのだろう。その癖がたまたま2作品で続けて起きただけのことなのかもしれない。
 鈴川や水島のことばとは関係なく、単に、私の読み方の癖がはっきりしたというだけのことかもしれない。


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