詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

牟礼慶子「辛夷の森へ」

2008-06-02 09:22:40 | 詩(雑誌・同人誌)
 牟礼慶子「辛夷の森へ」(「現代詩手帖」2008年06月号)
 辛夷の花。辛夷の木。そして「あなた」。あなたは、いま、ここにいない。いま、ここに、「わたし」と時間を共有しているのは辛夷の木である。愛の記憶である。

あなたが辛夷に魅かれるわけを
なぜかと聞いたことはありませんが

 2連目の書き出しの2行。
 ここにこの詩の美しさのすべてがある。「わけ」を「聞かない」。聞かないことでゆったりとした「こころ」を漂わせる。「こころ」がいつでも動けるようにしておく。聞いてしまうと、「こころ」はその「わけ」にしばられてしまう。
 「正確」であることよりも、あいまいにしておく。
 なぜ、あいまいにしておくか、といえば、それは、「あなた」へ近づくためである。「わけ」でぴったりと密着するのではなく、わからない「わけ」を間に置くことで、その「間」のなかを少しずつ動いてゆく。
 その接近。
 その「間」。
 そのとき、いま、ここにいない「あなた」が存在しはじめる。

 愛とは、いつでも「あなた」に近づいてゆく、その近づくという行為のなかにある。肉体そのものが近づく。「思う」という「こころ」が近づく。そして、その「思う」にはいくつもの形がある。「間」があるがゆえに、「こころ」はある意味で乱れるのだけれど、その揺らぎのなかに「わたし」のほんとうの姿が浮かんでくる。
 どんなふうにして「あなた」に近づくか。近づき方(近づく方法)が「わたし」(牟礼慶子)の生き方(思想)である。

二人で住んでいた
どの庭を記憶に呼び返しても
そこにはあなたは立っていません
あなたが見えない 前に住んでいた庭の
あなたか好きだった木の名を
一本ずつ呼んでいます

 「呼ぶ」。二度出てくるこのことば。「記憶に呼ぶ」。そのために「名を」「呼ぶ」。「呼ぶ」ことが近づくということなのだ。「呼ぶ」のは「声」をだすこと。「呼ぶ」のは「ことば」を発すること。「ことば」にすることが「呼ぶ」ことなのだ。
 あらゆることばが「呼ぶ」につながる。
 「呼ぶ」ということばは、普通は、遠くにいる人をこちらに来させる方法だが、牟礼は、逆に使っている。独自の「意味」で使っている。「呼ぶ」とは、対象をはっきり意識し、そこへ「こころ」を向かわせるために「呼ぶ」。集中するために「呼ぶ」。「わたし」の決意のために「呼ぶ」。
 「呼ぶ」のは、「あなた」をこちらへ来させるためではない。「わたし」が「あなた」の方へ行くためなのだ。

 辛夷がなぜ好きなのか、「わたし」は「あなた」に聞かなかった。「あなた」が「わたし」のところへやってきて答えを告げることよりも、「わたし」が「あなた」の方へ近づいて行って、ことえを探したいからである。いつでも牟礼は「近づく」人間でいたいのだ。近づきたいのだ。自分の方から。行きたいのだ、自分を出て、相手の方へ。
 「わたし」を出て、「わたし」を脱ぎ捨てて、つまりは「わたし」がどうなってしまうかなど気にしないで、「あなた」の方へ行く。「わたし」がどうなってしまってもかまわない、そういう覚悟が愛なのだ。
 究極の愛が、ここにある。

夕暮れの仕事は
日の名残りが消えるまでに
今年になってから高く伸びた梢を
もっと高い空へ送り届けること
わたしの仕事は
ざわめく風の声を
あなたが眠る辛夷の森へ帰すこと

わたしはもう
夕焼けのように賑やかに燃えたたない
波うちぎわの波のように
音をたてて歌えない
わたしが願うのは
一日が閉じる前に 風の声をなだめること
森の奥で待っている
あなたの夢と結ばれること

 ここに書かれている「風」は、先に私が「間」について触れたときの「こころ」である。「間」のなかを動いている「こころ」の揺らぎ。それが風だ。「わたし」は「わたし」を逸脱・超越し、「風」になる。この「風」は単なる比喩ではないのだ。
 牟礼の「こころ」は「あなた」を、「あなたが好きだった木の名を」呼ぶことで、木に触れる風になる。空高く伸びる枝に触れる風になる。そして、「あなたの眠る」森へまではるばると渡って行く。

 愛は、こんなふうにして祈りに高まっていく。ほんとうに美しい詩だ。




牟礼慶子詩集 (現代詩文庫)
牟礼 慶子
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日々ノ十夢「溺れ眼」

2008-06-01 08:45:15 | 詩(雑誌・同人誌)
 日々ノ十夢「溺れ眼」(「現代詩手帖」2008年06月号)
 投稿欄「新人作品」で瀬尾育生が選んでいる。書き出しがとてもおもしろい。

深い翠に静まった昼下がりの階段を
いちだん にだん
くだりくだる有り様が
ようく見れば 視るほどに
君の黒髪のやうに感じたので
掃除当番の、こぼしたてのソレがこちらを目指して
そろり ひたり
近づいて来やるる一部始終に
ついいましがた記憶した 奥ゆかしい左眼
或いは、嫉妬深い右眼を
思い起こさずには居られなんだ。

 繰り返しが多い。繰り返しだが、少しずつ違う。「いちだん にだん」が象徴的だが、その繰り返しには変化がある。差異がある。そして、ことばは、その差異を探して動いてゆく。

くだりくだる有り様が
ようく見れば 視るほどに

 「くだり」と「くだる」は声の調子によって深まる差異であるかもしれない。「語り」がかかえこむ差異かもしれない。少なくとも、私は、文字ではなく、何らかの声を思い浮かべてしまう。声が聞こえる。
 1行目の「静まった」の「音」とも深くでひびきあって、とても気持ちがいい。
 そしてその「語り」の「声」(音)は「昼下がり」「いちだん にだん」「くだり くだる」にあわせて、しだいに下へ下へと「静」かに下りてゆく。暗みへおりてゆく。そういう印象がある。
 「有り様」という一種の間を伸ばした感じ(「様子」とか「姿」とかいう3音のことばではなく、「くだり」「くだる」を超える4音が間を伸ばしている感じを引き出す)、次の行の「ようく」という、間延びを拡大するような意識の動かし方(声の動かし方)がそういう印象をさらに強くする。

 一方、「見る」と「視る」。ここにある差異は、ことばを「書く」ことによってしか生まれない差異である。「視るほどに」。その、「ほどに」の間のばしの工夫を裏切るように、ここからことばが少し変質(?)する。「語り」(声)が「語り」のままでは持続できなくなってくる。性急になる。
 もちろんこれを、聴覚と視覚を動員した感覚の深みへの探検と呼ぶこともできる。
 たぶん日々ノは、そう主張するだろうと思う。

 いったん視覚をくぐりぬけると、聴覚も変化して、

そろり ひたり

 ここから、さらにすべてが変質する。「いちだん にだん」「くだりくだる」「ようく」の音の延長からゆけば「そろり そうろり」という感じがするのだが、「そろり ひたり」。「ひ」という音の冷たく、一瞬の光のようなものが、静かで暗い「声」を破壊する。
 「嫉妬深い」というような、情念というよりは、概念が暴走する。すべてを破壊する。「嫉妬」を「嫉妬」ということばではなく、「いちだん にだん」というようなていねいさ(執念)とからめて持続すれば、そこから「嫉妬」そのものが見えてくるはずだけれど、性急に「嫉妬」ということばに、ことばの底をさらわれていく。

 ここからどんなふうにして、ことばをもう一度立ち直らせてゆくか--そこにこそ、日々ノの作品の本質があるのかもしれない。
 2連目。

じわり じゅんわり
足の 爪先の 両脇あたりを 包み隠す上履きの 繊維を
ごくごく滑らかな過程を経て 侵してゆくソレと
さっき この顔に付属した唇に重ねられた、君の 程よく湿り気を帯びた
唇(薄すぎず厚からずの無反発な君の唇)とが、

 1連目のリズムを回復しようとする「じわり じゅんわり」。間延び(間伸ばし、このことばは一瞬「魔の橋」と変換され、私は、あっと叫んでしまいそうになったのだが)を誘う「足の 爪先の 両脇あたりを 包み隠す上履きの 繊維を」という行。
 悪戦苦闘という感じでことばが互いに戦いはじめる。協力しなくなる。
 これはことばの乱れといえば乱れなのだが、それが不思議なことに1連目を、1連目の書き出しを引き立てる。

深い翠に静まった昼下がりの階段を
いちだん にだん
くだりくだる有り様が

 という「語り」の「音」、「耳」の奥に残るやわらかさをなつかしく感じさせる。
 日々ノが、もう一度その「音」を回復させることができるのか、あるいはその「音」を完全に否定して、2連目以降の、ことばの格闘のなかで新しい感覚をつかみだすのか、この1篇からではなんとも判断できない。
 わからないだけに、もっとほかの作品を読んでみたい、という気持ちにさせられる詩人である。


現代詩手帖 2008年 06月号 [雑誌]

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