詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス「ジェスチャー(1969-70)」より(1)中井久夫訳

2009-01-12 00:24:25 | リッツォス(中井久夫訳)

暗闇で    リッツォス(中井久夫訳)

日暮。点灯夫が通り過ぎた、梯子をかついで。
島のランプをともしてまわる。ドリルで暗闇に孔を開けてまわるように。
あるいは大きな黄色の泉を掘って歩くように。泉の中で
ランプは青銅色になり、上向きに揺れ、海に溺れる。
セント・ペラギア教会の鐘楼の上で十字がきらりと光った。
一匹の犬が馬小屋の後ろで吠えた。もう一匹が税関のところで--。
宿屋の看板が血を流した。男は胸をはだけて
大きなナイフを握る。女は
髪をさんばらにしたまま鉢の中の卵の白味を練る。



 前半は、とても美しい。詩を特徴づけるもの比喩であるとしたら、これはまさしく詩である。夕暮れに街灯の明かりがぽつりぽつりとついてゆく。闇と光の対比。「ドリルで暗闇に孔を開けてまわるように。」は新鮮で気持ちがいい。
 しかし、次の比喩はどうだろうか。

あるいは大きな黄色の泉を掘って歩くように。

 色は鮮やかだが、とても不思議だ。なぜ、黄色い泉? だいたい「泉」は「天」にはない。「地」にある。人間が立って歩く、その足の下にある。
 暗闇に孔を開け、そこから黄色い泉があふれだしたら、どうなるだろう。人は溺れてしまう。--あ、ここには、不思議な死がある。「島」の暮らしのひとがいつも感じている死がある。つまり、海で難破して、溺れて死んでゆく人間の、日常としての死がある。
 このイメージと非常に似通った死があった。「タナグラの女性像」のなかの、「救済の途」。嵐の夜、女は大波が階段を上ってきて、ランプを消してしまう、と恐れていた。

そうなると、海の中でランプは、溺れた男の頭みたいになるでしょう。

 水の中のランプ。そして、死。--夜の、死。
 「島」にあって、死は昼の出来事ではなく、夜の出来事である。夜を知らせるランプ、ランプに明かりを灯して歩く男は、また、死を連れてくる死神でもあるのかもしれない。死神にさそわれるように、事件が起こる。
 宿屋の前では、男が刃傷ざたを起こしている。そこだけではなく、いくつかの場所で。そして、犬が吠えている。死を、あるいは死に近いことがらを見てしまって。

 そういうときも、日常はつづいている。女は、いつものように懸命に卵白をあわだてている。料理のために。日常があり、その日常をまったく無視して死は同じように存在する。日常と死を、並列の物としてみつめる詩人がここにいる。そこには、あるいは内戦の苦悩が反映しているかもしれない。内戦の、繰り返される死が、影響しているかもしれない。非情な死が。

 リッツォスの詩の透明さは、そういう死と隣り合わせに生きる人間の孤独のせいかもしれない。

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江代充「黒いミニ」

2009-01-11 03:14:55 | 詩(雑誌・同人誌)
江代充「黒いミニ」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 江代充「黒いミニ」も、平出隆と同じように、文体だけを読ませる詩である。「黒いミニ」は2篇の詩から構成されている。そのうちの「夢のたとえ」。

明け方そこから隣接する空地の側へはいり
公孫樹のかげになる勝手口に向うあいだ
手帳の幅に対面してながめられる生家の一側面をみる
また広い範囲に 複数の雲が自然と浮きだしていることにより
それが殺された息子のたとえを語るときの
子の自覚であることがわかってくる

 1行目の「そこから」の「そこ」。「そこ」って、どこ? 先行することばはない。読者にはわからない「そこ」である。わからないものを冒頭に置くことで、ことばは緊張する。ふつうの動きとは違った動きをとるしかなくなる。
 わからないところから入って、「公孫樹」に出会う。これは、だれが見ても「公孫樹」だろう。見る人によって「ケヤキ」や「メタセコイア」になるわけではない。ところが、次に出てくる「勝手口」はどうだろうか。ある建物の扉が「勝手口」であるかどうかわかるのは、そこに住んだことがあるひと、あるいはそこへ尋ねてきたことがあるひとに限られる。家の構造をぐるりと見て回れば「勝手口」と想像がつくことはあるが、見知らぬ建物の「勝手口」へ向かうということは、ふつうはできない。そう思っていると、3行目に「生家」ということばが出てくる。ここまできて、読者は「そこ」というのは「生家」の近くの空き地を囲んでいる塀か柵か何かだと推測できる。
 その推測までの、間。それが江代の文体である。文体の特徴である。「わざと」わからないような要素を冒頭に置いて、そこからことばを動かしていく。読者を緊張させておいてことばを動かしていく。
 そして、その途中には「手帳の幅に対面してながめられる」というような、これもわかったような、わからないような比喩(?)が書かれる。緊張しているので、もう、それは信じるしかない。信じられることば(わかっているこことば)が少ないのだから、そこに書いてあることばを信じないことには、これから始まることがわからない。そうやって、いわば読者の緊張を増幅させる。
 そこからは、緊張でぎこちなくなったまま、ことばはさらにさらに、わかったようなわからないような方向へ動いていく。

また広い範囲に 複数の雲が自然と浮きだしていることにより
それが殺された息子のたとえを語るときの
子の自覚であることがわかってくる

 なんだろう、これは。
 「ことにより」というのは、理由を指し示すことばだろう。だが、「複数の雲」が広がっていたとして、そんなものが人間の何かを語るときの「理由」になどなるだろうか。しかも、語る内容が「殺された息子のたとえ」とは。
 「たとえ」って何?
 ことばはわかるのに、なんのことかわからない。
 「それが」もわからない。「雲」そのものなのか、雲が浮きでていることなのか。
 わからないことだらけである。

 非常にまだるっこしい。なぜまだるっこしいかといえば、そこに書かれていることばのひとつひとつは明瞭なのに、知っていることばなのに、それが何かとしっかり結び合うということがないからだ。
 やっと「生家」と「息子」にたどりついたのに……。

 それでも、私は、江代のことばに詩を感じる。そして、そのとき感じている詩とは、実は、まだるっこしさである。私は書きたいことを、こんなふうにまだるっこしくは書かない。(書けない。)そこには、不思議な迂回、間、というものがある。対象に接近していくときの、回り道と、回り道をすることによって生まれる「距離」、「不必要な」きょりがある。
 不必要--というのは、正確な散文、流通のためなの散文には不必要な、という意味である。
 詩とは、不必要なものなのである。流通言語を批判するあらゆることばが詩なのである。流通させまいとする抵抗--その精神の力が詩である。どうやって、ことばを、いま流通していることばから切り離し、ことばそれ自体のふくらみを回復するか。そのための、果敢な行為が文学であり、詩なのだ。そういう文体を作り上げることが、詩人になることなのだ。

 それにしても。

手帳の幅に対面してながめられる生家の一側面をみる

 これはなんと美しい1行であることか。手帳には何が書いてあるのだろう。その手帳を見ながら、生家をながめているのだろうか。ちょうど手帳の幅に生家が見える距離。そういう距離の取り方。そんなところから生家をながめるという行為。そうしたもののなかにある、静かな静かな、ゆらぎ。こころのゆらぎ。そのゆらぎを肉体になじませるために、江代は、一見まだるっこしく見える文体をつくりあげている。
 静かなこころのゆらぎと、それを肉体になじませることに関心のない人には、この文体は納得できないかもしれない。でも、そういうことを密かに必要としているひとには、たまらなく魅力的な文体だといえる。




隅角 ものかくひと
江代 充
思潮社

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リッツォス「棚(1969)」より(7)中井久夫訳

2009-01-11 01:08:48 | リッツォス(中井久夫訳)
視力を回復した少女    リッツォス(中井久夫訳)

あっ、と彼女は言った。また見えるようになったんだわ。何年も自分のものでなかった眼。眼は私の中に沈み込んでいた。暗い、深い水の中に沈んだ二個の鋳型のような小石だった。黒い水。今は--。雲ってあれなのね。薔薇ってこれなのね。木の葉がこれ。緑ね。み-ど-り。これ、私の声ね。そうよね。私の声、聞こえて? 声と眼--これね。自由ってものはこれね。あ、下の地下室にお盆を忘れてきたわ、大きな、ほら、銀の。それにカード・ボックスも、鳥籠も、糸巻も。



 私はこの詩が大好きだ。「これ、私の声ね。」ここが、大好きだ。
 少女は声を取り戻したのではない。視力を取り戻した。けれど、視力を取り戻すことは単に見えるようになったということを超えるのだ。新しい感覚が、それまで眠っていた別の感覚、肉体の意識を呼び覚ます。その結果、いままでと同じものであるはずのものも、違った風に感じられるのだ。
 そして、そのあと。

自由ってものはこれね。

 あ、そうなのだ。自由とは、いままでとは違った感覚の融合のことである。新しい感覚の発見のことである。
 声が変わったのは(「私の声ね。」と確かめずにいられないのは)、喜びのためにほんとうに声が明るく変わったのか、それとも耳の感覚が視覚に影響されて変化したのか--それは、わからない。また、わかる必要もない。必要なのは、人間の感覚というのは、そんなふうにいつでも生まれ変わるということを知ることだ。
 そして、そういう新しい感覚こそが「自由」なのである。

 詩の存在理由はここにある。
 詩は、いままで存在しなかったあたらしい感覚の動きをことばで書き表す。それは人間の可能性の表現であり、そういう可能性こそが「自由」なのである。「自由」になるために、人間は、リッツォスは詩を書くのだ。

 だから、銀の盆、カード・ボックス、鳥籠、糸巻は、ほんとうに地下室に「忘れてきた」のか、捨て去ってきたのか、これも実はわからないことになる。盲目だったとき、それらはきってと、少女のかけがえのないよりどころだった。いま、視力を取り戻し、新しい世界に、自由な世界に生まれ変わったのだから、もう少女は、それらを「よりどころ」としなくても大丈夫なのだ。
 大丈夫だから、「忘れてきたわ」とは言うものの、「取りに戻らなければ」とは言わないのだ。

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平出隆「日雷 ほか」

2009-01-10 12:23:52 | 詩(雑誌・同人誌)
平出隆「日雷 ほか」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 平出隆「日雷 ほか」は、どう読む詩なのだろう。「日雷 ほか」とあるけれど、「*」を挟んで3行ずつ書かれている。

蒐めるときに価値が壊れるので、あれらの断片はあなたかよいように選んでください。

だれも、雲の晴れ間ほどの自分しか掴めないとしても、思考の進行をとどめる手捌きがここでの
行為のすべてなのでしょう。日かみなりがまたしています。意のあるところをお汲みくださるように。



あるがままの自分を、自分抜きにして、自分から少しずつ離していくと、
この世界に属していない、と自分で自分にうそぶけるようになる。

小用(こよう)に起きて梅の花。夢の潜り戸をくぐると、まだそれはつづいていた。

 前半には「日かみなり」ということばがあるので、前半の部分は「日雷」というタイトルなのかもしれない。もしそうであるなら、後半は? まさか「ほか」ではあるまい。
 これはつまらないことのようだけれど、とても重要なことだと思う。
 平出の作品は、実は何が書いてあるか、わからない。たとえば、前半の部分。「あれら」と書かれているものは何? 後半の「それはつづいていた」の「それは」って何? 誰にもわからない。
 もしかすると平出にもわからないかもしれない。
 そんなわからないものを対象にして、ことばを動かせるのか。そういう疑問があるかもしれない。答えは決まっている。動かせる。ことばは、「いま」「ここ」も、そして描いている対象さえも不明にしたまま動かすことができる。そして、そうやって詩として提出することができる。
 平出が書いているのは、ある対象ではない。ことばは、こんなふうにして動くことができる--という実践である。そして、その運動のことを、平出は「思考の進行」と呼んでいる。
 「思考の進行をとどめる手捌きが」という表現が象徴的だが、平出が書いているのは、そして、その「手捌き」なのである。ことばの処理の余韻とでも言うべきものなのである。
 「雲の晴れ間ほどの自分しか掴めないとしても」というような、いったい何のこと、といいたくなるような、比喩。わからないけれど、あ、美しいことばだなあ、と強く印象づけることば。短いことばだが、「日かみなり」も「梅の花」も同じである。それは、平出の文体(文脈)のなかで、美しく輝く。
 それは、どこかで「日本語の古典」とつながっている。「日本語の呼吸」とつながっている。
 「意のあるところをお汲みくださるように」も暗示的な表現だか、平出は「日本語の呼吸」と、その呼吸がつくりだす「空気」を「空気」のまま提出しようとしているのである。美意識の「呼吸」、美意識の「空気」と言い直すこともできると思う。
 そういう意味で、平出の作風と、高貝弘也の作風は少し似通っているかもしれない。高貝が「単語」の距離を置いて配置することで、その距離の中に詩を(空気を)浮かび上がらせるが、平出は「単語」ではなく、文体で、句読点で、改行で、「呼吸」(空気)を表現する。
 
 こういう作品を楽しく読むには、平出の作品に、そして平出が親しんできた作品に精通する必要があるかもしれない。精通といっても、別に、何もかも知っていなければならないというのではない。というよりも、なんというのだろう、おおざっぱに、「肉体」として知っている必要があるのだと思う。
 1行目の「あれら」、最終行の「それ」が象徴的である。よく、日常で、親しい間柄で「あれは、どうした?」「あれ、とって」というような会話をする。それは親しい人ならわかる。いっしょに暮らしている人なら見当がつく。けれど、第三者にはわからない。
 そういうときの「あれ」「それ」である。

 平出は、ごくごく親しい人に向けて、ほら、日本語の呼吸はこんなに美しい、私(平出)はこんなに微妙な呼吸を表現できるところまで、ことばをつかいこなしている--と告げているのかもしれない。
 あ、たしかに美しい呼吸、美しい空気ですね、とは思うけれど。2篇(?)だけでは、実際のところ、こころもとない。1冊の詩集になれば、たぶん、もっと呼吸、空気の美しさがページ全体に広がるのだとは思うけれど。
 詩集になったら、もう一度読み直してみよう。違った感想が浮かぶかもしれない。


ベルリンの瞬間
平出 隆
集英社

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リッツォス「棚(1969)」より(6)中井久夫訳

2009-01-10 00:57:51 | リッツォス(中井久夫訳)
それほど小さくない    リッツォス(中井久夫訳)

もうすこし。何だって? 彼は自分が分かってない。付け加えるんだ。何に付け加える?
どうする? 彼は分かってない。分かってないのだ。これだけの意志だ。彼のものだ。
巻き煙草を一本取る。火を付ける。外は風だ。教会の墓地の棕櫚の樹が倒れるのでは?
でも時計の中には風が入らない。時間は揺れない。九時、十時、十一時、十二時、一時。隣りの扉の部屋には食卓をしつらえつつある。皿を運んでる。老婆が十字を切る。匙が口に動く。パンが一片テーブルの下に落ちている。



 これは何を描いているのだろうか。リッツォスの詩は説明がないので想像力がいる。
 私はこの作品を死んだ男を描写していると読んだ。葬儀(?)のとき、棺のなかの男。その遺体に「付け加える」。何を? 言った本人もわからないかもしれない。ただ今のままでは不憫だ。そういう思いがあふれてきて、思わず「付け加えるんだ」と言ってしまった。
 その場所からは教会の墓地が見える。そこに埋葬される男。

 そういうことを具体的に書かないのは、リッツォスにとって書きたいことが、男の死そのものではないからだろう。
 何を書きたいか。
 たとえば、たばこ。葬儀のとき、埋葬の前の時間。そういう時でも、人間は日常を繰り返す。たばこを吸う。たばこを吸いながら外の景色を見る。風が強いなあ、と思ったりする。死んだ男のことを考えているわけではない。
 同じように、葬儀のあとには会食がつきものである。そういう準備が扉の向こう、隣の部屋で進んでいる。
 一方に死があり、他方に日常がある。その日常の時間は、ある意味で非情である。時間そのもののように決まった形で進んで行く。そこには何も入り込むことはできない。悲しみにうちひしがれる人を描くのではなく、悲しいときにも日常があると正確に書く。それは、もしかすると、その日常が悲しみにくれているだけの余裕がないからだともいえる。たとえば、内戦の最中であるとか……。

 そして、また、この非情な日常が、人間の孤独を浮き彫りにする。どんなときでも生きていかなければならないという淋しさを浮き彫りにする。--そういう、きっぱりとした生きる力をいつもリッツォスに感じる。

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天沢退二郎「オホーツク波寄せ歌」、鈴木志郎康「蒟蒻のペチャプルル」

2009-01-09 12:23:22 | 詩(雑誌・同人誌)
天沢退二郎「オホーツク波寄せ歌」、鈴木志郎康「蒟蒻のペチャプルル」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 天沢退二郎「オホーツク波寄せ歌」と鈴木志郎康「蒟蒻のペチャプルル」は似ているわけではないが、似ている。「音」から始まるのである。
 天沢退二郎の作品の書き出し。

スパヤー
スパヤー
シュワーッ
 
  スパヤー
  スパヤー
  シュワーッ

 2連目は、実際は1連目よりも活字の大きさが小さいのだが、そう想像して読んでください。
 これは、波の音。海岸線を「妻と私」は歩いている。規則正しい波の音を聞きながら。波を見ながら。ところが、突然、規則正しいはずの波が乱れ、高波になって二人を襲う。一度は難を免れるが、2度目、妻は波に倒される。ぐっしょり濡れて、

海神の手を振りきった●ーナスさながら
この世へ生還したのだ

スパヤー
スパヤー
シュワーッ

(次のが来たら今度は
沖へさらわれるぞ)
(大丈夫よ もう
敵の手は読めたから)
妻は濡れた長い髪をかき上げながら
まったく何の屈託もなく笑った

スパヤー
スパヤー
シュワーッ
  スパヤー
  スパヤー
  シュワーッ
    (谷内注・●は、「イ」の旧かなに濁点。「ヴィ」、最後の3行も小さい活字)

 なんとも気楽なのだ。波の音が繰り返され、それがそのまま音が苦になっているからだ。
 一方で、波の音以外の部分は、たとえば「この世へ帰還したのだ」というような、ちょっと時代がかったことばで書かれている。その対比が絶妙で、あれよあれよ、という感じでことばを読んでしまう。
 これは何?
 
 これは、詩?

 詩を書いていない人に聞かれたら、ちょっと説明に困るだろうなあ。深遠な志が書かれているわけではない。美しい風景が書かれているわけではない。冬の海に倒れこみ、ぐっしょり濡れたのに、そのまま歩いていて大丈夫?などと突っ込まれたら、きっと困ってしまう。
 そういうとき、でも、私はこういうだろう。
 ほら、この「スパヤー/スパヤー/シュワーッ/スパヤー/スパヤー/シュワーッ」って、大きい音と小さい音の繰り返しって、ほんとうの波みたいじゃない? 思い出さない? ほんとうの音を聞きに行ってみたくならない?
 ほんとうの波の音はきっと文字にはできない。けれど、それを文字にしてしまう。音にしてしまう。それが楽しい。その音を引き立てるために、「わざと」妻が波にさらわれそうになった、なんて書いているんだよ。どんな話だって、わざとする部分ってあるでしょう? そうやって、ことばを遊ぶのが詩なんです。
 音の楽しみにあわせて、ことばがどこまで動いて行けるか、その音にあわせて人間はどこまで動いていけるか--それを楽しんでいる。
 ほんとうのことなんか、どうでもいい。ことばで楽しく遊べればいい。今まで知らなかったことがら、波の音が「スパヤー/スパヤー/シュワーッ/スパヤー/スパヤー/シュワーッ」大きく、小さく繰り返す。それで、もう私は満足。音だけじゃなく、白い泡まで見えてくるからねえ。
 天沢はとってもいい耳をしている。音に敏感なだけではなく、そこには色や形まであるからね。すごい。



 鈴木志郎康「蒟蒻のペチャプルル」も、音が楽しい。書き出し。

コンニャクが
わたしの手から滑って、
台所のリノリュームの床に落ちた、
蒟蒻のペチャプルル。
瞬間のごくごく小さな衝撃と振動。
ペチャプルル。
夕方のペチャプルル。
わたしが手を滑らせ、
スルリと落下、
手加減が狂って、
75センチ下の床に
コンニャクが落ちた。
ただそれだけのこと。

 「ペチャプルル」。コンニャクが落ちてペチャと音を立て、プルルと震えている。もう、これ以外に床に落ちたコンニャクを描写する音はないね。天沢の波の音と同じように、そこには「音」だけではなく「視覚」も含まれている。「音」のなかに聴覚と視覚が融合している。いいなあ、こういう感覚の融合。
 鈴木のおもしろいことろは、しかし、それだけではない。コンニャクを落としたということを、コンニャクを落とした日に書いているのではないのだ。実は。そして、蒟蒻だけを描いているのでもないのだ。

それからひと月余り経って、
今夜、晩秋の雨の夜、
庭の枯れ葉が雨滴に濡れて揺れ、
窓からの光に照らされ、
雨水が光っているのをしばらくの間、見ていた。
闇の中に植物の葉が光っている。
小さな光に見とれる人、
わたしこと、一個の詩人。
滴を落とした葉が震えるのを見る。
コンニャクが手元から落ちて震えた。
それが、言葉を思い立って、
この十日余りの筋肉のストーリー、
蒟蒻のペチャプルルのストーリー、
ペチャプルルのストーリー、
究極の瞬間の小さな衝動と振動、
ペチャプルル。
葉を揺らす雨滴はスヌヌッーと無音の
極極の小さな衝撃と振動。
光が震える。

だから、どうだっていのう。
じれったいね。一個の詩人さん。

晩秋の雨の夜の
わたしの脳内を巡る小さな衝撃と振動と筋肉のストーリー。
蒟蒻軟体を持つべき指の力の加減の無意識の衰退が問題。
掴んだ蒟蒻が手の中で揺れる、
オットトット、
そこで加減の衰退から生じた
ペチャプルル。
ペチャプルル。

 「滴を落とした葉」と「蒟蒻を落としたわたし」が重なり、「滴を落とした葉の震え」が「蒟蒻を落としたわたしの筋肉の震え(衰退)」と重なり合う。重なり合うことで「ストーリー」が生まれる。
 「ストーリー」というのは、そして、鈴木の場合、その構造の中へ鈴木自身がはいっていく、あるいはその構造を鈴木自身の「肉体」の構造に同一化させるということなのだ。(自己拡張、と鈴木はいうだろうけれど。)
 蒟蒻は床に落ちてペチャプルルと震えるだけではなく、その震えは鈴木の肉体そのものをも震わせる。床に落ちたのは蒟蒻というより、蒟蒻の形をした鈴木の肉体(筋力の衰えた肉体)なのだ。自分自身の肉体を蒟蒻の中に見ることができたとき、鈴木はやっと安心する。ことばを獲得した、という気持ちになる。そういう詩人だ。



 天沢も鈴木も「音」に対して敏感である。その「音」には音だけではなく、視覚も触覚も含まれている。融合している。それも共通している。
 しかし、まったく違った風に「音」をつかっている。
 天沢は自分から抜け出すために、遊ぶために「音」を活用している。鈴木は自分から抜け出すように見えて、実は、外にあるものを肉体に取り込むために「音」を利用している。天沢は、どこまで遠くへいけるか、ということを狙って(楽しんで)、ことばを動かしている。鈴木は、自分の外にある何かをどこまで自分の内部に取り込むことができるかを狙って(楽しんで)、ことばを動かしている。
 二人の詩をつづけて読むと、そういう印象が生まれる。




人間の運命―黄変綺草集
天沢 退二郎
思潮社

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リッツォス「棚(1969)」より(5)中井久夫訳

2009-01-09 00:47:44 | リッツォス(中井久夫訳)

訊問室    リッツォス(中井久夫訳)

長い廊下。両側は閉じた扉。
煙突。ストーヴはどこだろう。少し煙が出てる。
廊下のもう一方の端に黒づくめの男が五人。同じ格好の覆面。彼を眺めてる。
彼は扉を叩く。無音。次の扉。第三の扉。最後の扉まで
反応なし。こんどは反対側。叩く。一つづつ。
扉が尽きた。反応なし。覆面男は不動。
はたしてそうか。戸口から出ると戸口はひとりでに閉まった。
暗くなった。外は雨だった。
彼はトタン板を打つ雨を聞く。中庭のタイルにしぶく音も。
思い出した。記憶の中だ。濡れたアスファルトが
ガラス張りの新しい理髪店を映していた。淡青の高い肘掛け椅子を入れた店だった。



 廊下があり、両側に「訊問室」があるのだろうか。よくわからない。だが、とても不気味だ。「訊問室」の扉を叩いて歩く「彼」を「男が五人」眺めている。「訊問室」には誰もいないので、反応がない。「五人」はそれを知っているはずである。知っていて、「彼」にそういう無意味なことをさせているのだろう。無意味なことをさせられる、という不気味さがある。
 この前半と、「はたしてそうか。」以後の後半ががらりと変わる。
 「記憶」というか、精神がふいにいきいきと動きだすのを感じる。前半の不気味さとはまったく違う。
 「濡れたアスファルトが/ガラス張りの新しい理髪店を映していた。」はテオ・アンゲロプロスの映像(映画)を見ているように美しい。「淡青の高い肘掛け椅子」も、濡れたアスファルトの色と響きあって、雨の日の湿った空気が見えるようだ。この鮮やかさは、いったい何なのだろう。

 ふいに、何の理由もなく、私は思うのだ。
 前半は、「彼」の現実ではない。扉を叩いてまわっているのは「彼」ではない。「彼」は「訊問室」にいる。扉は閉じている。そして、その「訊問室」のなかで、扉を叩いている誰かの動きを思い描いている。扉を叩く回数によって、その廊下のまわりに幾つ同じ部屋があるのか想像している。探っている。それは、同じようにして「訊問」されている仲間が何人いるか、想像しているということと同じだろう。扉を叩いている「彼」は「訊問」が順調に進んでいるか、確かめているのかもしれない。
 そして、最後。
 彼の部屋の扉が開く。「訊問官」(?)がやってくる。彼が訊問される番なのだ。そのときが、やってきたのだ。
 そのとき、ふいに思い出すのだ。彼がとらえられた(拘束された)のは雨の日だった。雨の音が聞こえた。最後に彼が見た「訊問室」以外の風景--拘束されている場所以外の風景は、濡れたアスファルトに映った新しい理髪店。そして、その店の美しい椅子。--ああ、それに比べると、この「訊問室」の、この椅子はいったいなんだろう……。

 私が想像するようなことは、ほんとうは書いてはないのかもしれない。しかし、なぜか、そんなシーンが、まるで映画のなかのシーンのように思い浮かぶ。ことばがかってに「物語」をつくっていく。リッツォスのことばにふれると、私のなかで「物語」が動きはじめる。

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加島祥造「倦夜 伊那谷中沢」

2009-01-08 10:21:30 | 詩(雑誌・同人誌)
加島祥造「倦夜 伊那谷中沢」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 加島祥造「倦夜 伊那谷中沢」は、ある夜のことを描いている。加島は友人が送ってくれた杜甫の「倦夜」を読み、それを訳す(1の部分)。それから加島自身の「倦夜」を「暮らし」のなかで繰り返す(2の部分)。杜甫の詩を踏まえ、自分の「暮らし」を唐詩風に再現すると、どんな感じかなあ……。
 しかしそれは、「暮らし」をことばにする、というのではなく、まるでことばが「暮らし」をととのえる、という感じがする。普通、私たちは(私だけかな?)、自分が体験したことをことばにすることで、その体験を確かめる。ことばには、そういう効果かあると思う。加島がここでやっているのは、そういうことに似ているけれど、根本が違う。加島は体験をことばで再現して、それを「詩」という形にして提出しているのではなく、詩のことばによって、自分自身の「暮らし」(いのち)を律している。
 次のように。

ここに暮しているのは
ひとりでいたいからだ。
それでいて心はたえず誰も
来ないのを淋しがる。
夜になると恋しくなる--
ある晩、おれは
だしぬけに立ち上がって
書斎を出て廊下にゆき
土間をおりて玄関の戸を引きあけた。
外は闇ばかり、
大きな椎が枝葉をざわつかせ
月はもう南に廻っていた。
ふと、入口に吊りさがった鐘の
(唐招提寺の鐘の模造品だ)
細い紐(ひも)に手をのばし、
二度鳴らした、
訪れなかった人の代りに--
衝動的な愚かな行為だ。
すると澄んだすがすがしい音
ほとんど朗らかといえる無邪気な
音色が高らかにひびき、
おれは驚ろきに立ちすくみ
ひびきの消えた闇のしじまを 
見つめた

家に入る前、また
手をのばして吊り紐を取り
強く三度鳴らして園生との消えぬ内に
土間から廊下へ走り込み
書斎に入って耳をすませた!
おれの
昨夜のひとり遊びだった

 家の外で鳴らした鐘の音が、廊下を走り書斎に入って聞き取る--ということが可能かどうかは知らない。客観的に考えれば、音速と人間の足の速度は違いすぎるから、そんなことは不可能である。また、廊下を走れば足音が響く。その足音が、いま聞いたばかりの鐘の音を消してしまうということもあるだろう。
 しかし、ここに書かれているのは、「現実」の報告ではないのだ。

 ここで大切なのは、そういう行為を「ひとり遊び」とことばにすることで、「暮らし」に美しい「枠組み」を与えていることだ。
 この「ひとり遊び」は、その前の連の「ほとんど朗らかといえる無邪気な」と呼応している。「ほとんど朗らかといえる無邪気な」は、鐘の音の描写であった。「ひとり遊び」は加島の行為であった。その、鐘の音と加島の行為がそんなふうにことばのなかで呼応した結果として、加島は、「鐘の音」そのものになる。
 鐘の音そのものになっているから、「土間から廊下へ走り込み/書斎に入って耳をすませ」れば、鐘の音は聞こえるのである。加島自身が鐘の音なのだから、彼のいるところでは、いつもその鐘の音が自然に鳴り出すのだ。「肉体」から、彼の外へと静かに響いていくのである。

 あ、美しいなあ。

 思わず、声に出てしまう。杜甫の「倦夜」の最後の部分を加島は

ああ
こんな清い静かな晩なのに
ざわついた心で過ごすなんて。

 と訳していた。
 夜がどんなに美しくても人間のこころは、ざわついてしまう。こころはざわつくことが仕事だからかもしれない。そうであっても、やはり静かな夜、美しい夜にはこころを美しいものにしてみたい。美しい夜にふさわしいものにしてみたい。
 そんなとき、人には何ができるのか。
 加島は、本を読む。たとえば、杜甫を。そして、そのことばを「遊んで」みる。そのことばの運動にそって自分のできることをしてみる。それが、この詩では鐘を鳴らすこととして書かれている。そうすると、一瞬、「朗らか」が、「無邪気」がもどってくる。

おれの
倦夜のひとり遊びだった。

 この終わりの「おれの」のなんと美しいことか。孤独のなんと美しいことか。「訪れなかった人の代りに」、ことばがやってきて、対話してくれる。ことばに耳をすませ、ことばにだけ従って、美しく生きる。
 いいなあ。





『求めない』 加島祥造
加島 祥造
小学館

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リッツォス「棚(1969)」より(4)中井久夫訳

2009-01-08 00:06:25 | リッツォス(中井久夫訳)
捜索    リッツォス(中井久夫訳)

はいって下さい、みなさん--と彼は言った。お困りになることはありません。
隠すようなものは一つもないのです。寝室がここ、書斎がここ、
ここが食堂。ここですって? 古物を入れる屋根裏。
皆がらくたですよ。ね? いっぱいです。皆がらくたです。
すぐ、がらくたになってしまいますよね。これですか? 裁縫の指ぬきです。母のです。
これ? 母のランプです。母の傘。母は私がとてもかわいくて・・・。
この鋳りつけた名札は? この宝石箱は? 誰の? このきたないタオルは?
この劇場の入場券は? 彼女の? そうです。花をいっぱいに飾った帽子をかむって。
このサイン、知らぬ宛先だぞ。奴の筆跡だ。誰がここにはめこんだんだ? はめこんだのは誰だ? 誰がはめ込んだのだ、これは?



 内戦時の捜索の様子を描いたものだろうか。捜索されているのは「隠れ家」かもしれない。何もかも処分し、どこを捜索されても大丈夫。そういう準備はしてきた。
 そのはずだったが、警官(?)といっしょに家のなかを歩いているうちに、ふいに「サイン」が目に入る。
 その「異質なもの」「文字」に警官は気がつくだろうか。
 余裕を持って、家のなかを案内していた男の意識が急にあわただしくなる。そのあわただしさが、「このサイン、」からの1行に凝縮している。「誰がここにはめこんだんだ? はめこんだのは誰だ? 誰がはめ込んだのだ、これは?」。同じことば、同じ内容が、順序をかえて3回繰り返される。そのリズムの変化が、そのまま男の同様をあらわしている。「このサイン、知らぬ宛先だぞ。」という「は」を省略して読点「、」に代弁させたリズムがとても効果的だ。中井の訳は、そういう生きた人間のリズムをとても大切にしている。


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大西若人「大地に刻まれたパターンへの感性」

2009-01-08 00:04:13 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「大地に刻まれたパターンへの感性」(「朝日新聞」2009年01月07日夕刊)

 「ランドスケープ----柴田敏雄展」の紹介記事。その最後の部分。

 まねできそうに見えるのは、表現が明確な輪郭を備えている証しだろう。でもまねできないとしたら、表現がもっと深い構造を備えている証しだ。

 この2 行に詩を感じた。「まねできそうに見える」、でも「まねできない」。その距離の遠さ、その間に存在する淵の深さ。それが、ぐい、と体のなかに侵入してくる。
なぜだろう。
 同じことばが繰り返されている。「まね」「表現」「備えて」「証し」。その繰り返しが、同じことばをつかってしか言えないことがあり、繰り返すことで、同じ実は違ったことに触れていることを暗示し、互いに拮抗し、距離と深淵を強調するのである。そして、その非常に接近したことばどうしがショートし、火花を散らすようにして、繰り返されないことばが、瞬間的に炸裂する。
 「明確な輪郭」と「深い構造」。さらに「証しだろう」(推測)から「証しだ」(断定)への飛躍。
 あ、これは全く違った概念なのか。それとも違った形に見えるだけで同じ概念なのか。
 ふいに意識が覚醒させられる。答えのないまま。いいなあ。この感覚。酔ったように、私は大西の文章を読みなおしてしまった。

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セドリック・クラピッシュ監督「PARIS(パリ)」(★)

2009-01-07 11:59:55 | 映画
監督 セドリック・クラピッシュ 出演 ジュリエット・ビノシュ、ロマン・デュリス、ファブリス・ルキーニ

 パリに生きる多様な人間群像--と書いてしまうと、それでおしまいの映画である。ダンサー、社会福祉士(?)、大学教授、建築家、市場店員、学生、不法入国の移民……。そういう人々の暮らしがパリの風景とともに描かれる。
 このパリが意外とつまらない。理由は簡単である。映像ではなく、ことばですべてを「説明」するからである。大学教授が講義で語っている。「パリは昔から古いものを破壊しながら新しいものをつくりつづけてきた。古いものと新しいものが共存しながら多様性をつくりだしてきた。」--こういうことは、ことばで語るのではなく、映像で実感させなければ映画にならない。ことばで納得するなら、本を読めばいい。本にすればいい。映画、活動写真にする必要はない。
 思うに、フランスというのはイギリス以上に「ことばの国」なのだ。すべてを語られたことばで理解しようとする。これは逆に言えば、語られないことは存在しないことになる。
 象徴的なシーンがいくつもあるが、そのうちのふたつ。
 一つは、ジュリエット・ビノシュの弟が「心臓病で死ぬ。助かる方法は移植だけだ」と打ち明ける。それに対して、ジュリエット・ビノシュは「なぜ今まで隠していたんだ」と責める。弟は、「自分が死ぬというのに、なぜ、責めるんだ」と抗議する。これは、ことばにしていないものを察知しようとしないのはなぜ、という抗議である。どうして自分のことばかり中心にしてことばを発するのか、という抗議である。フランス人は、自己防御のためにことばをつかうのである。そして、そのつかったことば、発せられたことばだけが、こころなのである。弟に対して怒ったジュリエット・ビノシュにしても、それはほんとうの怒りではない。弟のことが心配で、なぜ、そんなになるまで、という気持ちが彼女のことばの中にはあるのだが、そういう気持ちがそのままことばになっていないから、弟は「自分のことを中心に考えて」と不満をぶつける。この、ことばの行き違い。行き違うことでしか分かり合えない複雑さ……。
 これに関連して、弟の病気をジュリエット・ビノシュの子どもにどう説明するか、という場面もある。病気のことを聞かされ、幼い男の子は「なぜ、ぼくらにそんなことを離すの?」と聞く。これは、「そういうことを知っていないといけないのか、知ることによって何か責任が生まれるのか」という抗議と同じである。すべてをことばとして理解する必要がある、とフランス人は考えるのだと思う。
 もうひとつ。ジュリエット・ビノシュが心臓病で死ぬかもしれない弟の介護をするために働く時間を短縮したいと仲間に訴える。「理由」を伏せたまま、ただ「自分の時間が必要だ」とのみ語って。そのとき同僚は、だれひとりとしてジュリエット・ビノシュの「思い」を想像しようとはしない。「自分の時間って何? 私だってほしい」。人が何かを依頼するとき、そこには理由があるということを想像しないわけではないだろうけれど、ことばで説明されないかぎり、そういうものが存在するということを認めない、という頑固さがフランス人にはあるように思える。
 これがイギリスの映画だと、逆に、ジュリエット・ビノシュの事情をみんなが知っていて、しかし、ジュリエット・ビノシュが何も言わないので、その知っていることを知らなかったことにする、という感じになる。
 知っているけど知らない、というのがイギリス人の「個人主義」というか、プライバシーの尊重のしかたであり、知らせてもらわないかぎりいっさい知る必要はないし、知らないことのために自分が犠牲になるのはいや、というのがフランス人である。(知ってしまえば、たとえば「ディスコ」の主人公が、イギリスにいる息子とオーストラリアに旅行したいと願っていると知ってしまえば、自分の利益にならなくてもいっしょにダンス大会に出てしまう、という「人情」もフランス人である。「秘密」というか「こころのなか」をきちんとことばで知らせあっているかどうかが、フランス人の「友情」「人情」の出発点になるのだ。)
 そうしたフランス人気質の観察(?)には手頃な映画かもしれないが、それがすべてことば絡みで描かれると、うんざりしてしまう。
 そして何よりもいやだなあ、と思うのは、この映画はストーリーを死んでしまうかもしれないダンサー(ジュリエット・ビノシュの弟)を狂言回しにつかっていることである。心臓が悪い。生きる望みは心臓移植しかない。そういう人間が登場すれば、観客はどうしても死んで行く人間に同情してストーリーを追ってしまう。最初から観客の同情をあてこんだストーリーというのは気持ちがいいものではない。なんだかわからないけれど、つい、その映像にのみこまれ、気がついたらストーリーのなかにいた。主人公と、しらないうちに一体化していた--そういう映画でないと、私はなんだか気持ちが悪くなる。



ダメージ [DVD]

紀伊國屋書店

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岡井隆「牛と共に年を越える」

2009-01-07 08:58:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「牛と共に年を越える」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 岡井隆の作品を読むと、いつも「おとな」ということばを思う。たとえば、きのう感想を書いた辻井喬の作品。そこでは、私は「思春期の少年」を感じた。岡井のことばの運動からは、そういうものを感じない。ゆるぎない「おとな」を感じる。
 「牛と共に年を越える」の書き出し。

鴎外全集を奥へ移し植ゑたりやうやく出来た自分の本を平積みにしたり本林勝夫(斎藤茂吉研究の先達)の詩を悼んだり新旧二鉢のポインセチアをベランダから部屋へ入れたりだしたりする妻を見たり見なかつたりする織物みたいな水みたいな複数の時間それを透視したりしなかつたりしろがら新しい年を呼び込まうとしてゐた
 
 2009年のエトが「丑」であることを頭のなかに思い浮かべながら、2008年の年末、あれこれしている「暮らし」を描いている。そして、こんなにいろんなことを「したりしなかつたり」しているのに、岡井は少しも変化しない。「鹿」になったりはしないし、「妻」を「兎」や「鷲」のようにも考えず、「妻」は「妻」、「岡井」は「岡井」なのである。そして、岡井は変化はしないけれど、状況(現実)の方は変化しているから、岡井のことばはどうしたって、その現実の変化にあわせて動いていく。ことばは動いていくが、岡井はおなじところにとどまっている。不動である。
 途中省略して、最後の部分。

昔は荷を負つた牛が坂の途中に行きなづんだこの国では少年の頃のペットの非業の死を遠くまでひきずつたあげく人をあやめて留置されて越年する青年がゐる そんなあかつきの冷気に耐へながら木下杢太郎全集を鴎外全集の蔭に置かうかどうか迷ひつつタトヘバヴィルヘルム・ハンマースホイのなにもなくて妻だけのゐる室内の絵にいたく感動して帰つて来たもののまだ越年には数日かかるのだ

 ことばを書いているうちに、書いている本人そのものが、書く前の自分とは違った存在になる--というのが、たぶん「文学」のおもしろさ、詩のおもしろさなのだと定義できる。そういう定義からすると、岡井の作品は「文学」ではなく、辻井のような作品の方が「文学」ということになるのだけれど。
 なぜか、私には、岡井の作品の方が、辻井の作品よりはるかにおもしろい。読みはじめるとやめられない。
 岡井自身がかわらないのに、なぜおもしろいのか。
 先に書いたことと重複するが、状況の変化によって、岡井のことばが、きちんと(?)動いていかないからである。状況にひっぱられて、書くつもりがなかったこと(たとえば、ペットを処分されたことを恨んで殺人を犯した青年)を書いてしまう。状況に誘われるままに、ことばが動いていくからである。そして、そのときのことばが、不思議と不動のものを感じさせるからである。不動というと少し語弊があるかもしれないけれど、歴史というか、「文化の蓄積」を感じさせるからである。たとえば「あやめて」。殺人(殺害)と書かずに、岡井は「あやめて」と書いている。もちろん「あやめて」に日常でつかわないことはないけれど、普通の人は(とくに殺人事件のようなときには)「あやめて」ということばをつかわない。
 そういうことばが作品のなかに出てくると、「いま」という「時間」が、「いまではない時間」(たとえば「過去」)と連結し、あ、すべてはこうやって歴史になっていく、という気がしてくるのである。その「歴史になっていく」という感じが、何かに「固定されていく」という感じが、「不動」の感じと重なり合う。岡井がつかっている「旧かな」も、そういう働きをしているかもしれない。
 そして、そんなふうに「いま」が「いまではない時間」と結びつくことで、「いま」が「ひとつの時間」ではなく、「複数の時間」に見えてくる。(「複数の時間」は、最初に引用した部分にでてきていた。--たぶん、岡井のキーワードは「複数の時間」である。)「いま」生きている時間には、それぞれ「根っこ」がある、人間はその「根っこ」から派生するものを繰り返している、という気持ちになる。
 たしかに人間は、「ひとつの時間」ではなく、いくつもの時間を同時に生きている。そして、その時間のどれもが、「いま」「私」がやっていることなのに、かならずすでに誰かがやっていしまっている「時間」なのである。新しいようにみえても、それはすでに存在した「時間」なのである。
 岡井は、そういう「存在した」ことのある「複数の時間」を次々に岡井のなかから噴出させる。岡井の「肉体」のなかから噴出させる。「肉体」なかから、というのは、「過去」の「文学」のいくつもの時間が、岡井の肉体にしみついているからである。そういものが「存在した」ということを岡井は「肉体」として知っている。斎藤茂吉も万葉集も、「本」を取り出さなくても、次々に「そら」で結びつくのである。
 そんなふうに、自分は動かず、自分のなかにある「複数の時間(歴史)」をぱっぱっと噴出させて、状況をわたってゆく。そのことばのさばきに「おとな」を私は感じる。あ、「おとな」はこんなに沢山の時間を生きている。ひとつの時間にしばられず「複数の時間」を生きて、けっしてゆるがない。すごいなあ、と感動するのである。


限られた時のための四十四の機会詩 他
岡井 隆
思潮社

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リッツォス「棚(1969)」より(3)中井久夫訳

2009-01-07 00:00:19 | リッツォス(中井久夫訳)
これとこれとこれ    リッツォス(中井久夫訳)

夜。巨大なトラック。高速道路を高速で。
積み荷がガスマスク。バラ線のドラムだ。
明け方、石造りの建物の下で彼等はバイクにエンジンをかける。
蒼ざめた男が一人。赤いチュニクを着て屋根に登り、
閉じた窓々を眺め、丘のたわなりを眺め、痩せた指で指さしつつ、
ずっと前から使われていない箱小屋の孔の数を一つ一つ数えている。



 リッツォスの特徴があらわれた作品だ。「説明」ぬきの描写。この場合、「説明」とは「物語」と同じ意味である。どんなことがらも、それぞれに時間を持っている。時間とともに「物語」を持っている。あらゆるものは、ある意味で「物語」を持っている。
 高速道路を走るトラックはどこへ向かっているか。なぜガスマスクを積んでいるか--そこからたとえば内戦の一つの作戦が浮かび上がるかもしれない。「高速道路を高速で。」とわざわざ書いてあるのは、それが普通の高速ではなく、規制速度をオーバーしての「高速」という「意味」だろうから、そこからも何かが暗示されるだろう。
 リッツォスは、そういう暗示を最小限に抑える。「説明」を拒絶する。
 そして、「もの」に「もの」を、「描写」に「描写」を対比させる。俳句の、異質なものを二つ取り合わせ、その一期一会の瞬間に、世界が遠心・求心によって切り開かれる瞬間をつくりだす。
 この詩では、不気味な「巨大なトラック」、それに対して小さな「バイク」。「夜」に対して「明け方」。「蒼」に対して「赤」。「閉じた窓」に対して「丘のたわなり」の広がり。そういう何か波瀾を含んだ対比の世界全体(聖)に対して、「鳩小屋の孔」という「無意味」な「俗」。
 「聖」と「俗」をぶつけることで、世界を解放しようとしている。「意味」から解放しようとしている。
 リッツォスは、その解放感のなかに、詩を感じているのだ。

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辻井喬「大きな角の鹿」

2009-01-06 22:49:37 | 詩(雑誌・同人誌)
辻井喬「大きな角の鹿」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 辻井の詩も、谷川の詩と同じように「想像」からはじめている。書き出しの2行。

大きな角を持った鹿の哀しさを
想像するのはむずかしい

 谷川の作品と辻の作品を大きく分けるのは、対象と自己との距離の取り方である。谷川が「無名の娘」を書きながら、しだいに「男」の方に逸脱して行った。
 もちろん、谷川の作品は「締め切りをひかえて詩を書く男は机の前に座った」というのが書き出しの1行なのだから、「主役」は最初から「詩を書く男」であり、その「詩を書く男」が登場させた「娘」は脇役である、という視点から見つめなおせば、谷川の作品には「逸脱」はないといえるかもしれない。「娘」が「逸脱」なのであって、「男」は一度も逸脱していない、といえるかもしれないが、タイトルはあくまで「無名の娘」であった。タイトルの「無名の娘」を「主役」ととらえれば、「男」の方が「逸脱」していった。
 これに辻の作品では「主役」は「大きな角の鹿」であり、そこから辻は「逸脱」してゆかない。逆に、「鹿」のなかに「ぼく」が侵入していく。そして「鹿」になってしまう。「鹿」になって、何事かを語りはじめる。もし「逸脱」というものがあるとすれば、それは辻が「鹿」になってしまうことである。
 架空の自己として、「鹿」がそのとき誕生する。そして、その「鹿」は「ぼく」の精神を代弁することになる。そのとき、いわば「架空」が「ぼく」の現実になり、その現実というのは、「意味」のことである。辻には書きたい「意味」があり、その「意味」のために最初から「鹿」を用意しているのだ。「鹿」を書いているうちに「意味」がかってに動きだしたという見方もあるかもしれないが、私には、最初から辻には書きたいことがあったというふうにしか読めない。
 「鹿」を動かしていくことばは、たとえば「草の匂い」とか「水のありか」というようなものではなく、「自由」という抽象的なものだからである。(2連目の書き出しに、「かれはその鷲の自由が欲しかった」という具合に、「自由」が登場する。)「鹿」は人間なのではないのだから、たとえ「自由」を求めたとしても「自由」ということばなどをつかって「自由」を考えないだろう。「自由」には、最初から、人間の、辻の「意識」「意味」が反映されているのである。そして、その「自由」を、辻はまた、「孤独」と結びつけて、「意味」をより強いものにしていく。「大きな角の鹿」のように特別な存在の、「自由」と「孤独」の関係--という「意味」を語る。まるで、辻自身の苦悩を語るかのように。
 最終連。

ある日かれは断崖から落ちた
まっしぐらに黒い塊りとなって
ある兎はかれが身を投げたのだと言い
別の兎は頭が重くて踏み外したのだと解説した
いろいろ分析が行われたが
だれも彼の孤独については語らなかった
跳躍こそ翼を与える 跳躍せよと言った時
その鷲の言葉に嘘はなかったのだが
ただ大きな角にはあてはまらなかった
それだけの矛盾だったのだ
だから墜落の原因は孤独の重さと
ほんの少しの傲慢さのせいだという事実は
ついに解明されることのないまま
今日も夕焼けは空を染めている

 この最終連は、とてもおもしろい。「事実」「原因」「解明」。それがつながるとき「意味」が生まれると辻は考えている。そして、ここでは「事実は/ついに解明されることのないまま」という表現で、逆説的に「解明」されている。謎が謎として残っているわけではない。辻はきちんと「解明」している。
 「矛盾」ということばが出てくるが、この「解明されないまま」も「矛盾」である。そして、その「矛盾」が辻にとっての詩である。辻はなんでも「解明」してしまう。「解明」して「意味」を明確にする。一方で、その「意味」は自分にしかわからない。他人には共有されないままである、とわざわざ書くのである。
 「孤独」ということばも出てくるが、辻は、一方的に「孤独」にとじこもるのである。「事実」「原因」「解明」がつくりだす「意味」をきちんと書きながら、それを「解明されないまま」今日にいたっていると、一方的に他者を(たとえば、この詩の「兎」や「鷲」を)除外する。一方的に除外して、

孤独の重さ

というセンチメンタルなことばを抱きしめる。
 あ、まるで思春期の少年のようだ、と私は思ってしまう。「ぼく」の「孤独の重さ」をだれもわかってくれない。あらゆる行為が「孤独の重さ」を原因としているのに、それは「解明されないまま」残っている。そう、つぶやく辻。
 それは「解明されないまま」なのではなく、「解明されたくない」ものなのだろう。「解明されたい」けれど、「解明されては困る」ということかもしれない。だれにでも、知ってほしいというこころと、いや知られたくないという気持ちが共存している。なぜなら、知られることによって、現実が変わってしまうからである。たとえば、誰かを好きという気持ち。それは相手に知ってもらいたい。けれど知られて、その結果、あなたは私の対象外と拒絶されると、好きという現実のままではいられなくなる。その不安。不安の中で、深まる孤独。重くなる孤独。
 そういう「矛盾」があるために、ひとのこころは様々に動く。そして、ことばを動かす。その結果、辻は「鹿」にさえなってしまうのである。自己を放棄し(?)、つまり人間であることをやめて、「鹿」にさえなってしまうのである。
 ことばは人間を「鹿」にさえしてしまう。その動きのなかに、詩がある。




自伝詩のためのエスキース
辻井 喬
思潮社

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アレクサンドル・アジャ監督「ミラーズ」(★)

2009-01-06 11:27:36 | 映画
監督 アレクサンドル・アジャ 出演 キーファー・サザーランド、ポーラ・パットン、エイミー・スマート

 鏡は不思議な存在である。私たちは鏡に自分の姿を映してみる。そして、それが左右が逆であるにもかかわらず、それを自分の姿と認識する。でも、「逆」とはなんだろう。なぜ、鏡の世界を「逆」と感じるのだろう。もしかすると、私の方が「逆」で、鏡が「正」なのではないだろうか。鏡がほんとうの世界で、私たちの世界は鏡が描こうとしている世界を反映させたものなのではないだろうか。
 こういう疑問は、想像力が逸脱してしまう幼少期にだれもが一度は考えること、感じることである。この映画は、そういう不安定な感覚を出発点にしてつくられている。
 鏡に触れると、そこに手形がついて、それが鏡と私たちの世界の出入り口になる、というか、鏡に手形が刻印されて、鏡の世界からのがれられなくなる--という構造は、なかなかおもしろく、ホラー映画の出だしとしては快調だと思う。鏡だけではなく、磨かれたテーブル、水面、ドアのノブなど、ようするに姿を映しだすものすべてが、そういうものへの入り口だとする設定も、鏡の領域をひろげるものとしておもしろい。
 ただし、そうやって鏡を増幅させ、感覚がどんどん鋭敏になり、存在しない世界を描き出していくのならいいのだけれど、この映画は非常に後味が悪い。人が殺される(死んでいく)ときの映像が、ただただどぎつく、不気味なまでに悪趣味である。キーファー・サザーランドの妹がバスタブの中で死んでいくシーンは、彼女自身が鏡を見ていないのだから、そういうことが起こりうるはずがない。観客をこわがらせるだけのためにつくられたシーンである。
 さらに、ストーリーが「危険」である。「危険」をはらんでいる。
 ストーリーの説明に「統合失調症」を利用しているが、こういう利用のしかたは「統合失調症」への誤解・偏見をあおることになるのではないのか。
 「統合失調症」は、この映画では万華鏡の乱反射のようにとらえている。「統合失調症」の人間の内部には、複数の人間の魂が存在し、それが凶暴に暴れ回っている。その複数の魂と、人間を閉じ込める「万華鏡」をとおして直面することで、自己のすべてを認識することで完治するかのように説明される。万華鏡に映し出される映像の乱反射は、どれがどれかわからないけれど、それをしっかり識別できれば、そして識別したものを自分ではないと「外」へ出してしまえば、「統合失調症」はなおると説明される。ただし、そうやって「外」に出された複数の魂は、なんとかしてもとにもどりたいと(つまり、一人の人間の内部にもどりたいと)熱望しており、その欲望が怪奇現象を引き起こしていると説明される。
 この映画は、最終的に「統合失調症」だった少女が完治したために不可解な現象が起きたと説明され、その少女(映画の中では最終的に老人になっている)が「統合失調症」にもどり、様々な魂を受け入れたまま焼け死んでいくことで解決する。
 あ、ひどい。
 これでは、キーファー・サザーランドの「家族を助けてくれ」という願いを聞いた少女(老女)が救われない。「統合失調症」の人間が「統合失調症」のまま死んでいかないかぎり、世界は呪われたままである、怪奇現象が起きる、というのは、「結末」としてひどすぎる。

 映画では、そのあと、奇妙なオチがついている。少女(老女)を殺して、家族を救ったあと、キーファー・サザーランドは瓦礫のなかから這い出し街に出る。しかし、その街はすべて「鏡像」になっている。鏡に自分の姿を映してみると、そこには自分の姿は映らない。そして、鏡に触れた手形だけは鏡面に刻印される。--キーファー・サザーランドは、鏡の内部に入ってしまって、もう自分の姿を見ることができない。自分の姿を見るためには、少女(老女)のように鏡が向き合った万華鏡の世界へ行くしかない。
 こんなことで、「統合失調症」に対して、何か謝罪した(?)とでも言い訳するつもりなんだろうか。



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