天沢退二郎「オホーツク波寄せ歌」、鈴木志郎康「蒟蒻のペチャプルル」(「現代詩手帖」2009年01月号)
天沢退二郎「オホーツク波寄せ歌」と鈴木志郎康「蒟蒻のペチャプルル」は似ているわけではないが、似ている。「音」から始まるのである。
天沢退二郎の作品の書き出し。
スパヤー
スパヤー
シュワーッ
スパヤー
スパヤー
シュワーッ
2連目は、実際は1連目よりも活字の大きさが小さいのだが、そう想像して読んでください。
これは、波の音。海岸線を「妻と私」は歩いている。規則正しい波の音を聞きながら。波を見ながら。ところが、突然、規則正しいはずの波が乱れ、高波になって二人を襲う。一度は難を免れるが、2度目、妻は波に倒される。ぐっしょり濡れて、
海神の手を振りきった●ーナスさながら
この世へ生還したのだ
スパヤー
スパヤー
シュワーッ
(次のが来たら今度は
沖へさらわれるぞ)
(大丈夫よ もう
敵の手は読めたから)
妻は濡れた長い髪をかき上げながら
まったく何の屈託もなく笑った
スパヤー
スパヤー
シュワーッ
スパヤー
スパヤー
シュワーッ
(谷内注・●は、「イ」の旧かなに濁点。「ヴィ」、最後の3行も小さい活字)
なんとも気楽なのだ。波の音が繰り返され、それがそのまま音が苦になっているからだ。
一方で、波の音以外の部分は、たとえば「この世へ帰還したのだ」というような、ちょっと時代がかったことばで書かれている。その対比が絶妙で、あれよあれよ、という感じでことばを読んでしまう。
これは何?
これは、詩?
詩を書いていない人に聞かれたら、ちょっと説明に困るだろうなあ。深遠な志が書かれているわけではない。美しい風景が書かれているわけではない。冬の海に倒れこみ、ぐっしょり濡れたのに、そのまま歩いていて大丈夫?などと突っ込まれたら、きっと困ってしまう。
そういうとき、でも、私はこういうだろう。
ほら、この「スパヤー/スパヤー/シュワーッ/スパヤー/スパヤー/シュワーッ」って、大きい音と小さい音の繰り返しって、ほんとうの波みたいじゃない? 思い出さない? ほんとうの音を聞きに行ってみたくならない?
ほんとうの波の音はきっと文字にはできない。けれど、それを文字にしてしまう。音にしてしまう。それが楽しい。その音を引き立てるために、「わざと」妻が波にさらわれそうになった、なんて書いているんだよ。どんな話だって、わざとする部分ってあるでしょう? そうやって、ことばを遊ぶのが詩なんです。
音の楽しみにあわせて、ことばがどこまで動いて行けるか、その音にあわせて人間はどこまで動いていけるか--それを楽しんでいる。
ほんとうのことなんか、どうでもいい。ことばで楽しく遊べればいい。今まで知らなかったことがら、波の音が「スパヤー/スパヤー/シュワーッ/スパヤー/スパヤー/シュワーッ」大きく、小さく繰り返す。それで、もう私は満足。音だけじゃなく、白い泡まで見えてくるからねえ。
天沢はとってもいい耳をしている。音に敏感なだけではなく、そこには色や形まであるからね。すごい。
*
鈴木志郎康「蒟蒻のペチャプルル」も、音が楽しい。書き出し。
コンニャクが
わたしの手から滑って、
台所のリノリュームの床に落ちた、
蒟蒻のペチャプルル。
瞬間のごくごく小さな衝撃と振動。
ペチャプルル。
夕方のペチャプルル。
わたしが手を滑らせ、
スルリと落下、
手加減が狂って、
75センチ下の床に
コンニャクが落ちた。
ただそれだけのこと。
「ペチャプルル」。コンニャクが落ちてペチャと音を立て、プルルと震えている。もう、これ以外に床に落ちたコンニャクを描写する音はないね。天沢の波の音と同じように、そこには「音」だけではなく「視覚」も含まれている。「音」のなかに聴覚と視覚が融合している。いいなあ、こういう感覚の融合。
鈴木のおもしろいことろは、しかし、それだけではない。コンニャクを落としたということを、コンニャクを落とした日に書いているのではないのだ。実は。そして、蒟蒻だけを描いているのでもないのだ。
それからひと月余り経って、
今夜、晩秋の雨の夜、
庭の枯れ葉が雨滴に濡れて揺れ、
窓からの光に照らされ、
雨水が光っているのをしばらくの間、見ていた。
闇の中に植物の葉が光っている。
小さな光に見とれる人、
わたしこと、一個の詩人。
滴を落とした葉が震えるのを見る。
コンニャクが手元から落ちて震えた。
それが、言葉を思い立って、
この十日余りの筋肉のストーリー、
蒟蒻のペチャプルルのストーリー、
ペチャプルルのストーリー、
究極の瞬間の小さな衝動と振動、
ペチャプルル。
葉を揺らす雨滴はスヌヌッーと無音の
極極の小さな衝撃と振動。
光が震える。
だから、どうだっていのう。
じれったいね。一個の詩人さん。
晩秋の雨の夜の
わたしの脳内を巡る小さな衝撃と振動と筋肉のストーリー。
蒟蒻軟体を持つべき指の力の加減の無意識の衰退が問題。
掴んだ蒟蒻が手の中で揺れる、
オットトット、
そこで加減の衰退から生じた
ペチャプルル。
ペチャプルル。
「滴を落とした葉」と「蒟蒻を落としたわたし」が重なり、「滴を落とした葉の震え」が「蒟蒻を落としたわたしの筋肉の震え(衰退)」と重なり合う。重なり合うことで「ストーリー」が生まれる。
「ストーリー」というのは、そして、鈴木の場合、その構造の中へ鈴木自身がはいっていく、あるいはその構造を鈴木自身の「肉体」の構造に同一化させるということなのだ。(自己拡張、と鈴木はいうだろうけれど。)
蒟蒻は床に落ちてペチャプルルと震えるだけではなく、その震えは鈴木の肉体そのものをも震わせる。床に落ちたのは蒟蒻というより、蒟蒻の形をした鈴木の肉体(筋力の衰えた肉体)なのだ。自分自身の肉体を蒟蒻の中に見ることができたとき、鈴木はやっと安心する。ことばを獲得した、という気持ちになる。そういう詩人だ。
*
天沢も鈴木も「音」に対して敏感である。その「音」には音だけではなく、視覚も触覚も含まれている。融合している。それも共通している。
しかし、まったく違った風に「音」をつかっている。
天沢は自分から抜け出すために、遊ぶために「音」を活用している。鈴木は自分から抜け出すように見えて、実は、外にあるものを肉体に取り込むために「音」を利用している。天沢は、どこまで遠くへいけるか、ということを狙って(楽しんで)、ことばを動かしている。鈴木は、自分の外にある何かをどこまで自分の内部に取り込むことができるかを狙って(楽しんで)、ことばを動かしている。
二人の詩をつづけて読むと、そういう印象が生まれる。