詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(4)

2009-02-23 00:00:00 | 田村隆一
 矛盾。対立。対句。そういうものに呼応する、もうひとつのことばの動き。それを「腐刻画」に感じた。

 ドイツの腐刻画でみた或る風景が いま彼の眼前にある それは黄昏から夜に入つてゆく古代都市の俯瞰図のようでもあり あるいは深夜から未明に導かれてゆく近代の懸崖を模した写実画のごとくにも想われた

 この男 つまり私が語りはじめた彼は 若年にして父を殺した その秋 母親は美しく発狂した

 2連目は、とてもおもしろい。ここには不要な(?)ことばがある。なくても、この作品が成立することばがある。「私が語りはじめた」である。その挿入があろうがなかろうが、「彼」が「若年にして父を殺した」という文意は変わらない。
 ……はずである。
 ところが、「わざと」そのことばを挿入したために、その瞬間から、文意が変わるのではないかという疑念がわいてくる。
 それは、それにつづく「その秋 母親は美しく発狂した」で、いっそう強くなる。
 「母親」というのは、誰? 彼の母親? 私の母親? 区別がつかない。
 「私が語りはじめた」という一言によって、「彼」と「私」が、「母親」ということばのなかで融合してしまう。
 そして、「彼」と「私」が「母親」のなかで融合してしまうと、その印象は、ことばを逆流して、すべてを作り替えてしまう。「母親」が誰の母親かわからないのだったら、「父」も誰の父かわからない。「彼」と「私」と言っているが、それは「わざと」そう言っているだけであり、ほんとうは「私」のことをそう呼んでいるだけかもしれない。
 風景が「彼の眼前にある」というけれど、それは「私」の眼前かもしれない。いや、「私」の眼前でなければ、リアルにそれを再現できないだろう。「想われた」というような主観的なことばで語ることはできないだろう。「……のようでもあり、あるいは……のごとくにも」というような、複数の「思い」を語ることができるのは、それを見ている本人(私)であり、他人(彼)にはそう「想われた」というのは論理的におかしい。「彼」にそう「想われた」かどうかは、「彼」にしかわからないことだからである。

 ぼくの耳は彼女の声を聴かない
 ぼくの眼は彼女の声を聴く     (「Nu」)

 耳(聴覚)と眼(視覚)が融合したように、「私」と「彼」は融合する。そしてそれは「語る」ということをとおしてのことである。
 「私」が「彼」を語るということは、一方で「彼」と距離を置くことだが、他方で「彼」と接近することでもある。語ることは対象を客観化することであるけれど、また、同時に対象と一体化しないとほんとうに語るということにはならない。対象と一体化したとき、ほんとうにその対象を語っているという印象が、そのことばのなかに生まれる。
 語るというのは、そういう矛盾した行為である。

 語る--語っていることをどれだけ意識するか。つまり、そこに書かれていることのなかに「わざと」がどれだけ含まれているか、「わざと」をどれだけ意識するかが詩にとって重要なのである。ことばに対して自覚的であるかどうか、それが「現代詩」の出発点の基本である。
 矛盾も対句も融合も、すべて「わざと」である。「わざと」という自覚こそが、詩なのである。




スコッチと銭湯 (ランティエ叢書)
田村 隆一
角川春樹事務所

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三木卓「曇天」

2009-02-22 10:43:16 | 詩(雑誌・同人誌)
三木卓「曇天」(「文藝春秋」2009年03月号)

 詩--まだ、ことばになっていないものを、ことばにすることによって出現させる。その運動。私はそんなふうに定義している。そういうことを最初に考えたのはいつのことだろう。もう忘れてしまったが、三木卓の「曇天」を読みながら、ふと思い出した。詩を書いてみたい、詩をもっと読みたいと思ったころの、最初の喜びを思い出した。
 「曇天」の全行。

中空反転中の縞猫は
制帽の上に逆立ちしている 将校を一瞥する

鼻息あらい輓馬に 美醜の判定を迫られ
ただちに 曇天化する 鏡

少女の腰が ゆっくり動き
皺のある乾いた指は 砂時計を にぎりしめる

 中空で反転している猫。その目が一瞬、将校を見る。将校は逆立ちしているのではなく、猫が逆さまなので、将校が逆立ちしているように見える。それを「ように見える」を省略して、「逆立ちにしてしまう」。その省略のなかの、ことばの動き。「のように見える」。比喩。詩の出発点はそこにある。「のように見える」という比喩の論理が省略されると、比喩を超越して、対象そのものが出現する。それまで存在しなかったものが、突然、目の前にあらわれてくる。
 省略は、異次元へのジャンプなのだ。
 三木のこの詩には、1字空きがたくさん出てくる。1行目以外にはすべて1行空きがある。「制帽の……」の1字空きは「のように見える」を補うと論理(?)がすっきりする。2連目、3連目は? 私にはすぐには思いつかない。思いつかないが、感じることがある。1字空きのたびに、ことばが私の想像力を超えた領域へ動いていく。それはつまり、ことばが同じ次元をなだらかに移行しているということではなく、ジャンプしていることを意味する。
 輓馬が美醜の判定を迫る、というようなことは、ふつうはありえない。輓馬は太っていて醜い。美とは遠い存在である。常識(?)的には、そうである。しかし、そういう輓馬、太って醜い、野性的な力に満ちているものが「美とは何か」と問うたからといって問題はない。むしろ、単純に輓馬は太っていて醜いという流通概念で満足している意識そのものに問題があるかもしれない。
 ことばがジャンプする。そうすると、1行目の「反転中」の猫ではないが、意識がひっくり返る。意識が知らない領域へつっこんでしまう。
 詩--まだ、ことばになっていないものを、ことばにすることによって出現させる、と私は最初に書いたが、それは、意識が、まだ意識化していない領域に突入することで、いままで意識できなかったものを意識できるようになる、ということでもある。
 この運動が6行のことばのなかで次々に起きる。それが楽しい。

 ところで。
 2連目、「ただちに 曇天化する 鏡」を読みながら、もしこれが「快晴化」するだったら、どうだろうと考えた。三木は、輓馬に美醜の判断を求められ、鏡は自分の意識(太って荒々しいものは醜いという固定概念)が間違っているかもしれないと曇っていく--曇天化する鏡と書いているのだが、これが「快晴化する」だったらどうなるだろう。
 「快晴化」では、不十分かもしれない。快晴さえも通り越して、光に満ちて、鏡みずからが割れて砕けるというのは、どうだろう。
 --これは、三木の詩とは関係ないことである。たしかに関係ないことなのだが、そんな暴走へ私を誘ってくれる。
 私は、そんなふうに私の想像力(ことばの自律運動)を誘ってくれる詩(ことば)が大好きだ。詩人が書いたことばを無視して、私自身のなかからことばが動いていく--そういう瞬間に、なぜか、あ、いい詩を読んだなあ、という気持ちになる。ことばが解放されたということを実感するからである。ことばを解放することが、たぶん詩にとっての最大の仕事なのだ。



わが青春の詩人たち
三木 卓
岩波書店

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『田村隆一全詩集』を読む(3)

2009-02-22 00:22:43 | 田村隆一
 矛盾。あるいは対立。それと呼応するように、対句のような行が書かれる。「Nu」。その書き出し。

窓のない部屋があるように
心の世界には部屋のない窓がある

 「窓のない部屋」は矛盾ではない。しかし「部屋のない窓」は矛盾である。そういうものは現実には想定できない。
 「部屋のない窓」というのは、たとえば工事現場の塀の「窓」という例がある--というのは屁理屈である。1行目を無視した、単なる「現象」の証拠にすぎない。2行目はあくまで1行目の対句なのだから、そこに「塀」などをもってきても、ことばの運動として無意味である。
 「部屋のない窓」というものは現実にはない。けれど、ことばの運動としてはありうる。これが「現代詩」の出発点である。虚数が現実にはないが、数学上は存在するのと同じように、言語の運動、その運動を証明するひとつの方法として、「部屋のない窓」は存在する。ただし、これは1行目を前提とする。2行目は、1行目を前提として、「わざと」書かれた矛盾なのである。
 詩において、矛盾は、あくまで「わざと」書かれたものなのだ。

 なぜ、矛盾は詩に導入されるのか。3、4連目。

あなたは黙つて立ち止まる
まだはつきりと物が生れないまえに
行方不明になつたあなたの心が
窓のなかで叫んだとしても

 ぼくの耳は彼女の声を聴かない
 ぼくの眼は彼女の声を聴く

 「窓のなかで叫んだとしても」の「窓のなか」というのは、「部屋」のことではない。あくまで「窓」そのものの「なか」である。「部屋のない窓」の、その「窓」そのものの「なか」である。
 これも、ことばの運動そのものでしかつかむことのできない「虚数」としての表現である。
 虚数は平方すると-1(マイナス1)になる。「-1」自体、奇妙な数字で、実際にそれを存在として見ることはできない。「-1本のエンピツ」は見ることはできない。手で触ることはできない。けれど、思考のなかでは、それは存在する。
 そういうものが、数学だけではなく、言語のなかでも起きる。数学は、数字をつかって書かれた世界共通の国語であるが、数学という国語で起きることは、日常の国語でも起きるのだ。論理としてというより、運動として、そういうことが可能なのである。その可能性を追及しているのが「現代詩」である。
 言語としての「窓のなか」の叫び声--それは、どうやってとらえることができるか。聞くことができるのか。

 ぼくの耳は彼女の声を聴かない
 ぼくの眼は彼女の声を聴く

 「耳」ではなく、「眼」で聴く。これは、日常の文法からすると奇妙かもしれない。眼は聴覚ではないからだ。だが、この詩では、叫び声は絶対に「眼」で聴かなければならない。なぜか。「部屋のない窓」と、その「窓のなか」を実感できるのは「眼」だからである。現実には存在しないものを見る。その眼の力で、その「窓のなか」の叫びを見る。彼女が叫ぶのを見る。そのとき、「眼」のなかに、その叫びが届くのだ。
 その叫びは、声にはならない声なのだ。声にならないまま、ただ口が叫びの形になる。それを見るとき、叫びはまず「眼」に見え、「眼」に聴こえる。「眼」が「耳」となって、叫びをつかみ取る。
 肉体の感覚は、感覚の領域を越境する。超越する。

 ある感覚が別の感覚を越境する。侵入する。超越する。こういうことは、奇妙かもしれないけれど、実際に存在する。感覚は、ある「共通」の何かをもっている。感覚の母体である「肉体」は、感覚を融合させる何かを持っている。
 「冷たい声」という表現には触覚と聴覚の融合がある。「白々しい声」には視覚と聴覚の融合がある。そういう日常の表現を点検すれば、感覚は互いに越境することがわかる。そういう表現を私たちは日常的に知っている。その、知っているけれど、普段はありま意識しない領域へ向けて、ことばを動かしてゆく。そこで、新しい感覚を呼び起こすものとして、詩というものがある。
 その具体的実践が「ぼくの眼は彼女の声を聴く」なのである。詩は、そういうことばの運動の実践のことである。



ぼくの人生案内 (知恵の森文庫)
田村 隆一
光文社

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滝悦子『薔薇の耳のラバ』

2009-02-21 22:29:53 | 詩集
滝悦子『薔薇の耳のラバ』(まろうど社、2008年12月10日発行)

滝悦子『薔薇の耳のラバ』の「「共有」」という詩に忘れられない行がある。面会謝絶のAのことを書いている。

Aの指が確実に磨り減ってゆくのがわかる

 「やせ細る」ではなく「磨り減ってゆく」。その視覚ではなく、触覚の表現が、とても強く響いてくる。肉体感覚が鋭敏な詩人なのだろう。
 それは他の作品でもうかがうことができる。「「共有」」のように強烈ではないけれど、肉体を持っているという感じがしっかりと伝わってくる。「行方」という作品。全行。

----是より旧西国街道

木蓮の茂みは揺れもせず
塀と垣根と電柱と
陽炎だけの道

ひそかに石の道標が傾くとき
首が灼ける
肩が灼ける
棺ごと焼かれた人の記憶だろうか

脳髄が沸き立つ
汗がしたたる

影と方角が
くにゃりと
アスファルトに流れ出す



みんな、どこへ行ったのだ

 「首が灼ける/肩が灼ける」の繰り返しというか、静かな移動がおそろしい。首と肩はつながっている。その連続が、その肉体の部位のしっかりしたつながりが、「棺ごと焼かれた人」へとつながっていくとき、人のいのちと死のつながりが、そのまま肉体のなかでかっと熱く燃え出すような感じがする。滝は「記憶」と書いているが、その記憶は「頭」の記憶ではなく、「肉体」の記憶である。
 アスファルトへ流れ出したのは、影でも方角でもなく、そういう「肉体」の記憶のように思える。「肉体」が「くにゃりと」、つまり固定したか形を失って流れたしてしまえば、そこに「他人」などいるはずがない。

みんな、どこへ行ったのだ

 という疑問が生まれるのは当然だろう。熱い熱い太陽。空気。そのなかでつながってしまう私とだれかの「肉体」、溶け合ってしまういのち、そして死。そのまぶしい輝き。直視できないまぶしさ。そういうものが、ふっと見えてくる詩である。




鮨くう日々
滝 悦子
求龍堂

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クリント・イーストウッド監督「チェンジリング」(★★★★★)

2009-02-21 11:07:07 | 映画
監督 クリント・イーストウッド 出演 アンジェリーナ・ジョリー、ジョン・マルコヴィッチ

 どのシーンもすばらしいが、特に最後の方に突然あらわれる少年の訊問のシーンがいい。誘拐され、行方不明になっていた少年(アンジェリーナ・ジョリーの息子とは別人)が、「なぜ、いままで名乗り出なかったのか」と問われて答える。「こわかった。自分だけではなく、家族も同じ目にあうのではないかと不安だった」と。この瞬間、子供から親への愛が、この映画ではじめて描かれる。そして、親から子への愛が固く結び合い、その愛が希望に変わる。
 アンジェリーナ・ジョリーは息子を愛している。だから、必死になって探している。死んだという確証がないかぎり探しつづける。帰って来た子供は同じ場所で監禁されていた別の子供である。しかし、その子供が「こわかった。自分だけではなく、家族も同じ目にあうのではないかと不安だった」と語るのを聞いたとき、それは他人の子供の声ではなく、彼女にとっては自分の子供の声だった。ウォルターは、母のことを思って、名乗り出ることを恐れ、どこかに必ず生きている。遠く離れて、互いに相手のことを思い生きている、そう思うとき、絶望が希望にかわる。
 この映画は、単に誘拐された子供を探す母の愛というよりも、希望を取り戻す映画なのだ。あらゆるひとが希望を取り戻そうと生きている。
 腐敗した警察。人権を無視した精神科病院。だれもが希望を失っている。
 そうした時代を背景に、もっとも絶望的な母が強い信念で息子を探しつづける。警察の暴力、精神科医の暴力と闘う。素手で闘う。悲劇の構造が明らかになればなるほど、そして警察の暴力や精神科医の暴力が事実として告白され、批判されればされるほど、その一方で、愛する息子の死は確定的なものという印象が深まる。事実がわかれば、他人(警察の暴力を告発しているジョン・マルコヴィッチや、映画を見ている観客)は、事件はこれで終わりという印象を抱く。実際、誘拐犯が逮捕され、事件を隠蔽しようとした担当警部が処分されたとき、これでこの映画は終り、という印象を私は持った。ジョン・マルコヴィッチは警察の不正が明らかになったあとは映画には登場しなくなるのも、この映画はここで終わりという印象を強くする。ふつうなら、警察の処分で事件そのもののカタルシスがやってくるからである。アンジェリーナ・ジョリーが闘ってきた相手が消えるからである。ところが、犯人の絞首刑のシーンがあり……と映画はつづいていく。そして、そのあとに冒頭に書いた少年のシーンがある。 
 そのとき、私はようやく気づいたのである。
 子供を誘拐された母親の事件、誘拐された子供の事件は、事件の構造がわかり、その構造を隠していたものがわかり、処分されれば終わりではないのだ。犯人がつかまり、処分され、怠慢だった警部が処分されれば終わりではないのだ。事件というのはいつまでもいつまでもつづいていくのである。母親にとって事件は息子と再会しないかぎり終わらないのだ。解決したことにならないのだ。それは息子にとっても同じなのだ。

 この映画は、一見、とても淡々としている。映像に抑制がきいているし、警察や精神科医の追及も、意外とさらりと描いている。感情が高ぶる、その感情によって出演者と観客が一体になるのを回避するかのように、感情の高ぶりが頂点に達する前に、ぱっと画面が切り替わる。
 それには目的があったのだ。
 クリント・イーストウッドは警察や精神科医の暴力、市民を虐待する暴力も追及しているが、彼が描きたかったのはそれだけではないのだ。警察や精神科医の暴力、腐敗、その構造を描いた映画なら、これまでにもある。それを追及することで、カタルシスに達する映画はこれまでもある。
 イーストウッドは、それだけでは事件は解決したことにならない--そうことを主張したくてこの映画を撮ったのだと思う。事件は被害者にとっては永遠につづくのである。その永遠に続く感じを忘れてはならない。被害者の気持ちを、表面的なカタルシス(警部の処分、精神科医の追及、一種の勝訴)で分断してはならない。そういうカタルシスを描いてしまえば、事件が解決してしまったかのような錯覚を与えてしまう。だから、そういう印象を抑えるようにして、ふつうの映画ならクライマックスである法廷のシーンもたんたんと処理しているのだ。
 この姿勢には、胸を打たれる。イーストウッドの深い愛、被害者への深い思いやりにこころを打たれる。
 出演者にも、こういう姿勢はきちんと伝わっているのだろう。どのシーンもとても落ち着いている。深みがある。感情の暴走で映像を輝かせるというようなことをしない。ひとつのシーンは別のいくつものシーンと関連しており、それは永遠に途切れない、という印象を与えるように工夫されている。

 私たちの国には、北朝鮮に拉致された人がいる。その家族がいる。その人たちのことを思い出す。被害者と家族が再会するまで、事件は終わらない。


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『田村隆一全詩集』を読む(2)

2009-02-21 11:05:27 | 田村隆一
 「幻を見る人」は4篇から構成されている。この詩にも矛盾がある。4連目。

 (これまでに
  われわれの眼で見てきたものは
  いつも終りからはじまつた)
 (われわれが生れた時は
  とつくにわれわれは死んでいた
  われわれが叫び声を聴く時は
  もう沈黙があるばかり)

 「終りからはじまつた」「生れた時は/とつくにわれわれは死んでいた」。そして、矛盾であるにもかかわらず、なぜか、そのことばの運動が「間違っている」という印象呼び起こさない。たぶん、私たちは現実が矛盾で構成されていることをどこかで感じているのからかもしれない。田村は、そういう私たちがぼんやりと感じているものの「内部」といえばいいのか、その「構造」をことばでとらえ直そうとしている。そして、そういう「内部」あるいは「構造」というものをくっきりと見るために、わざと矛盾を導入している。矛盾した存在は、そのふたつの存在の「あいだ」に「広がり」をつくりだすからである。
 もちろん矛盾するものがぴったり密着していてもいい。矛盾するものが密着しているということは、もちろん現実にはあるだろう。
 けれど、その密着を、田村は、強引に(?)切り離し、「あいだ」をつくり、その「あいだ」(広がり)のなかでことばを動かす。
 「あいだ」の存在によって、現実を突き動かすと言い換えることもできると思う。
 この「あいだ」、「ひろがり」の意識は、この詩に特徴的にあらわれている。引用しなかった部分に、おもしろい行があるのだ。
 1連目「四時半」、3連目「二時」、5連目「一時半」、7連目「十二時」。
 詩は、ことばの運動に逆らって、「過去」へと進む。田村は「時間」を「過去」へと動かしている。自然の(日常の)時間は、もちろん、そういうふうには動かない。この意識的な時間の操作は、日常感覚と矛盾している。
 そういう矛盾した時間の流れ(逆方向の流れ)をことばの運動に持ち込むことで、田村は「あいだ」「広がり」を強調している。
 時間が自然に進むとき、私たちは時間というものをあまり意識しない。知らない内に別の時間にたどりついている。(目的があって、ある時間をめざして何かをしている場合は別である。)ところが、時間を過去へさかのぼらせるときは、その流れを明確に意識しないといけない。「わざと」、時間を逆にとらえ直さないといけない。
 意識的に「あいだ」「広がり」をつくりだし、その「広がり」のなかで、田村は矛盾を見つめようとしている。いのちを「広がり」のなかで、意識的に追跡しようとしている。


腐敗性物質 (講談社文芸文庫)
田村 隆一
講談社

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鈴木絹代『ありがとう』

2009-02-20 10:48:21 | 詩集
鈴木絹代『ありがとう』(編集工房ノア、2008年12月17日発行)

 鈴木絹代『ありがとう』の巻頭の「小春日和」を、何度も読み返してしまった。

小さな男の子が
タンポポの綿毛を
ふーと吹いている
それをお母さんが
写真にとっている

もういいよ
とお母さんが言っているが
男の子には聞こえない
なんども
なんども
ふー
ふー
と吹いている
どこまで飛ぶんだろうね

午後の公園も笑って見ている

 きのう読んだ近江順子の詩が「現代詩」と呼ばれるなら、鈴木の作品は「現代詩」の範疇からはずれるかもしれない。
 「自覚」に差がある。
 近江の作品には、「十四世紀の自分は下女で」というように、「私」を「私」から切り離して見つめるという視点があった。そうした視点はことばそきものへの態度でもある。「いま」「ここ」にあることば、それをいったん「いま」「ここ」から切り離して、ことば自体の可能性を探る。ことばにどんな運動ができるかを常に意識する。ことばが運動するとき、世界はどうかわるかを意識的に考える。「わざと」そういうことを考える。その「わざと」のなかに、詩がある。
 鈴木の作品には、この「わざと」がない。「わざと」書くものが詩であるという「自覚」がない。だから、「現代詩」ではない。

 鈴木は逆に「わざと」を除外して書く。ことばを書いているという意識を取り払う。そして、実際に、それが消える一瞬がある。そのとき、そこに鈴木の詩があらわれる。
 2連目の最後の行「どこまで飛ぶんだろうね」。
 これは誰のことばだろうか。男の子は綿毛を吹いているので、もちろんことばはしゃべらない。お母さんだろうか。私には、鈴木の「声」に聴こえる。
 こどもがタンポポの綿毛を夢中で吹いている。たぶん、何も考えていない。息を吹きかけると綿毛が飛ぶというそのことに夢中になっている。自分の息で何かが変わるということに夢中になっているで、何も考えない。お母さんが何か言っているなんてことも考えない。お母さんも何も考えてはいない。写真は撮った。満足している。「もういいよ」と言ったのに、こどもはまだ綿毛を吹いている。そのことに、ちょっとあきれているかもしれない。でも、どう言っていいか、わからない。「もういいよ、って言ったでしょ」と言えば、怒りん坊のお母さんになってしまう、くらいのことは考えるかもしれないが……。
 いま、男の子とお母さんは、ことばを放棄した状態でいる。
 そして、それを見ている鈴木が、ふたりのかわりに「ことば」でふたりを、「いま」「ここ」ではない別の場所へ運ぶのだ。

なんども
なんども
ふー
ふー
と吹いている

 と、男の子の動作をことばで正確においかけ、一体になる。男の子になってしまう。そして、男の子のなかの、まだ、ことばになっていない思いを「どこまで飛ぶんだろうね」ということばですくいあげる。輝かせる。それから、それを鈴木自身のことばとしてではなく、お母さんに託して、こころのなかで言ってみる。お母さんに言わせてみる。
 「どこまで飛ぶんだろうね」。そのとき、そのことばのなかで男の子とお母さんは一体になる。この一体感は鈴木が作り上げたものだけれど、それを自分が作り上げたという気持ちを捨てて、いま、目の前にあるものとして受け止め、その「一体感」のなかへ鈴木も入れてもらう。
 「どこまで飛ぶんだろうね」は鈴木の「声」だが、それは「タンポポの綿毛を飛ばして遊ぶ仲間に入れてね」と言うべきところを、別のことばで言い換えたのだ。それは、挨拶であり、感謝だ。あくまで、男の子とお母さんの世界に入れてもらう、いっしょに楽しませてもらうという気持ちが、この「一体感」を生み出している。
 鈴木が男の子とお母さんの世界と一体になるとき、公園そのものも男の子とお母さんと一体になる。それが「午後の公園も笑って見ている」という至福の1行になる。飛んでいるタンポポの綿毛だって一体になっているはずである。 

 鈴木にとって、ことばは「批評」の対象ではない。鈴木にとって、ことばは、挨拶するための方法であり、感謝をするための道具である。挨拶と感謝--それが鈴木の思想(生き方)であり、それがことばのなかで固く結びついている。

 鈴木は、安水稔和のもとで詩を勉強しているひとのようだけれど、安水は、鈴木のような文学上の「わざと」から遠い詩人きちんとを育てる。文学上の「わざと」ではなく、くらし、生活のなかの「わざと」をていねいに生きているひとを大切にしている。「綿毛飛ばしの仲間に入れてね」と言えば、男の子とお母さんをびっくりさせる。そういうびっくりさせることばのかわりに、鈴木は「どこまで飛ぶんだろうね」と「わざと」こころのなかで共感のことばをつぶやく。その暮らしの智恵--その温かさ。そういうものを大切にしている。そういうものを大切にする視線があるから、安水のもとで何人もの詩人が育つのだと思う。



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『田村隆一全詩集』を読む(1)

2009-02-20 00:28:26 | 田村隆一
 田村隆一を読んでみようと思った。断片的に読んだことはあるが継続的に読んだことかなかったからだ。テキストは『田村隆一全詩集』(思潮社、2000年08月26日発行)。どんな田村隆一に出会えるのか、見当がつかないが、書きはじめることにする。

 「幻を見る人」。書き出しの3連が緊張感に満ちている。

空から小鳥が堕ちてくる
誰もいない所で射殺された一羽の小鳥のために
野はある

窓から叫びが聴えてくる
誰もいない部屋で射殺されたひとつの叫びのために
世界はある

空は小鳥のためにあり 小鳥は空からしか堕ちてこない
窓は叫びのためにあり 叫びは窓からしか聴えてこない

 この詩には矛盾がある。「ある」と断定されているものが矛盾している。
 小鳥のためには「野」と「空」がある。それは同時には存在し得ない。小鳥が死ぬとき野があり、小鳥が生きるとき空がある。生から死への、いのちの運動が野と空を隔て、またつなぐ。
 叫びにとっての「窓」と「世界」も同じである。
 いきるということ、いのちというものは、そういう矛盾をつなぐ運動そのものを指しているのだろう。
 その運動を、ことばで追跡したものが田村にとっての詩ということになるのかもしれない。

 この詩には矛盾がある--矛盾が詩である。「ある」と同じように強い断定で「ない」ということばが使われている。「堕ちてこない」「聴えてこない」の「ない」である。
 ことばは「ある」(生)から「ない」(死)へと動く。そのふたつの対立する何かを結ぶ力が、田村の詩なのだと思う。

 この詩の4連目も魅力的だ。

どうしてそうなのかわたしには分らない
ただどうしてそうなのかをわたしは感じる

 ここにも「分からない」という否定と、「感じる」という肯定が向き合う。
 田村にとっては、相対立するものが向き合うこと、矛盾することの「あいだ」を行き来する運動が大切なのだ。そういう運動を活発化させるために、相対立するもの、矛盾を選び取るのかもしれない。


 

田村隆一全詩集
田村 隆一
思潮社

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浜江順子『飛行する沈黙』

2009-02-19 11:02:34 | 詩集
浜江順子『飛行する沈黙』(思潮社、2008年09月30日発行)

 浜江順子の詩は、私にはよくわからない。どうにも私の「肉体」かみ合って来ない。「頭」に刺激はあるのだが、「肉体」になじまない。なぜなんだろう。そんなことを思いながら読み進んで、「飛行する沈黙」に出会う。その2連目。

中世の労働者たちのように水を求めて、身体の水をわさわさと共鳴させる。水は沈黙の奥に、清水のようにある。ペストを恐れぬ男たちは、ペニスを揺らし、修道院でふて寝して、脳には蚊が飛んでいる。血が飛ぶ。十四世紀の自分は下女で床をしわしわ磨きながら傷を食っている。内省行為とともにさらに中世へとにじみ出る。精液の射出は、ニンジンの葉っぱのように青々としていながら、無意味だ。

 「十四世紀の自分は下女で」。この一言で、私には、何かが納得できた。
 浜江は「私」を「いま」「ここ」でとらえていないのだ。「私」を常に「何か」に置き換えて世界との関係をつくっている。「頭」の操作が、「私」と「世界」とのあいだにあるのだ。
 「私」が「いま」「ここ」にある場合は、今度は、「世界」の方が「いま」「ここ」にはない。そこにあるすべての存在は、それ自体というよりも、それとは違う別のものなのだ。
  最終連には、次の行がある。

セイヨウヒルガオを噛んで「いま」にまた迷い出た私は行方不明の自分を探している。

 「十四世紀の自分」は「下女」のなかに存在することができたけれど(下女として「肉体」と「頭」を統合した存在として生きることができたけれど)、「いま」に戻ると「自分」が何かわからない。
 浜江にあっては、「私」と「世界」の和解は、どちらかが本来の姿ではないときにはじめて成立するのである。そんなふうに和解するために、ことばは動いていく。

 この詩では「私」が「十四世紀の下女」であると同時に、世界の方もそれ自身から離れている。ほんらいの「もの」自体の「肉体」を放棄している。たとえば「精液の噴出」は「ニンジンの葉っぱ」である。
 「私」も「世界」も、それ自体ではなく、別個の存在になっているので、この詩はとても速度がある。「頭」の速度がとても滑らかである。

 こういう「私」と「世界」の関係に、「沈黙」が重要な位置を占める。
 「沈黙」の定義はむずかしいが、たとえば「私」が「私ではない何か」であるとき、その「私ではない何か」と「世界」のあいだの空白が「沈黙」である。「私」が私であるときは、その「私」と「世界ではない世界」のとのあいだの「空白」が「沈黙」である。別のことばで言えば、「頭」と「肉体」の「空白」が「沈黙」である。その「空白」を埋めるために、近江のことばは動く。つまり、「沈黙」と拮抗するために。
 浜江の論法にしたがえば、たぶん、そうなるのだ。
 この作品では、ふたつの「沈黙」が複合し、透明になっている。そのため、どこまでも誘い込まれるような速度があるのだ。

 私が浜江のことばになじむことができないのは、その「沈黙」、あるいは「空白」が視覚(視力)をもとに把握されているからだ。「1/2の顔」。その冒頭。

しつこい蛇の追跡を逃れても
しびれが狙っている
二分の一の顔は
誰からも知られることなく
絶壁に隠れている

キッとなって
見つめる先は
嘘の城だったが
顔の右半分は死んでいる
左半分でなんとか
機械たりえている

 顔の半分--それを右と左にわける。この分離は視覚である。視力である。「飛行する沈黙」の「水は沈黙の奥に、清水のようにある」の「奥」も視覚である。視力である。
 視力の不思議さは、自分が無傷のまま、対象に触れることができる点にある。遠く離れ場所から、視力は対象に触れることができる。逆に近づきすぎると、視覚は対象に触れることができない。視覚は、対象と「私」とのあいだに「距離」を必要としている。「距離」とは「空白」のことである。浜江は、したがって「沈黙」をも視力でとらえていることになる。
 別のことばで補足すれば……。
 「沈黙」を聞き取る聴覚。それは対象が遠い場合も、近い場合も有効である。小さい音を聞くために、私たちは「耳」を対象に押し当てることさえする。近づけるだけではなく、押し当て、ごりごりしたりもする。視覚にはこんなことはできない。「目」を対象にくっつけてしまえば何も見えない。闇になる。

 浜江は「私」を私以外のものと仮定することで世界を描写する。ことばの運動として描き出す。あるいは「世界」をそれ自体とは違ったものと仮定することで、ことばの運動領域をひろげる。つまり、詩を書く。
 そのとき、浜江を動かしているのは視力である。視覚である。浜江はしかし、それを視覚と自覚していない。聴覚と誤解している。たぶん、どこかに、「ずれ」がある。「飛行する空白」という視点でことばを動かすと、その「ずれ」はすーっと消えるような気がする。
 「化け方が、うにゅうにゅだ」は、気持ちのいい詩である。そこでは「視力」がきちんと動いているからだと思う。

尻の穴から
すうっと入ってきた化け物は
実は自分自身で
そいつの背負ってきた鏡には
ハートの形が不自然にでこぼこに並んだ古ぼけた木枠がついていて
驚いたことに私のイニシャルまで彫ってある

化け方が、足りない
化け方が、チビている
化け方が、うにゅうにゅだ

 「鏡」は自己確認をする視覚にとって、とても重要なものである。鏡なしに、視覚は、自己確認できない。「鏡のなかの像」と「私」のあいだには「空白」があり、断絶しているにもかかわらず、視覚はそれを「連続したもの」「つながったもの」、つまり、自分とつながった「同一のもの」と見なしてしまう。「同一のもの」とみなすために、「空白」を必要としている。
 視力はまた、別の「証拠」も見つける。イニシャル。文字。
 浜江は、きっとことばを視力で覚えた人間だ。つまり、本を読むことで覚えた人間だろうと思う。きっとたくさんの本を読んでいるに違いないと思う。

 私が、この詩をとても気持ちよく感じるのは、その視覚、視力が、触覚と融合し、「肉体」を獲得しているからだ。「うにゅうにゅ」。なんとなく、何かに手で触っている感じがするでしょ? 
 その前に、でこぼこ、も出てきた。凸凹は視力でも把握できるが、触覚の方がより端的に理解できる。点字というようなものまで、世界には存在する。触ること、触覚を働かすことで、見るものまで、という意味なのだが。
 あらゆる感覚は融合して「肉体」になる。その瞬間に、私は詩を感じる。その瞬間を、とても気持ちよく感じる。
 「飛行する沈黙」は書いてあることは理解できる(つもり)だが、とても遠い。「うにゅうにゅ」はそれとは違って、気持ちがいい。肉体になじむ。読んでいて、安心感がある。


飛行する沈黙
浜江 順子
思潮社

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北野丘『黒筒の熊五郎』

2009-02-19 02:03:58 | 詩集
北野丘『黒筒の熊五郎』(ダニエル社、2008年12月20日発行)

 北野のことばには不思議なリズムがある。方言(?)が書かれているからそう感じるのか、それともほんとうに不思議なリズムを生きているのか、私には見極めがつかないのだけれど。
 「キン ぽたり。/キン。。」という詩がある。タイトルは2行になっているが、ここでは1行で紹介しておく。その書き出し。

ながいながい吹雪がやんで
屋根裏部屋で
ほっと女は目が覚めた

 なんてまぶし

 まっしろい雪
 なあ
 あったけぇような気がするな

 この部分が私はとても好きである。雪のまぶしさ。それは、たしかに温かい感じがする。しかし、私の感じている温かさは、「温かい」と書いた瞬間から消えてしまう。「あったけぇような気がするな」ということばを読んだときだけ、ずーっと、そこに存在しているように感じる温かさだ。口語が持っている「肉体」の感じがいいのだ。雪を見て暮らしてきたひとの「肉体」の反応が、その口語のなかにある。「なあ/あったけぇような気がするな」。ふたつの、「なあ」と「な」の音の違い。そのあいだに、「温かさ」がある。人に語りかけるときの、不思議な味がある。ここでは「女」はだれかに語っているというより、自分自身に語っているのかもしれないが、自分に語るのも、他人に語るのも同じ口調になる。そのときに、そのことばのなかに(ことばに寄り添うように)あらわれる「肉体」のあたたかさ、経験を共有する温かさというものがある。
 詩は(文学は)、ほんらいひとりの作業である。けれど、北野のことばの中には、たぶん「他人」がいる。北野がいっしょに暮らしたことのある人々がいる。その肉体があり、その肉体をもった人々と共有できることばだけが書かれている。
 「キン ぽたり。/キン。。」は「女」に恋した「鷹」がおんなのために食べ物を運んでくるという内容になっている。鷹は何も言わないが、女は鷹と会話ができる。いっしょにそこにいるとき、女も鷹も肉体を持っているので、互いの肉体が感応しあい、無言でもことばが通じるのである。そのことばは、「雪」に代表される「風土」がつくりだすことばである。
 北野のことばは「肉体」というより、「風土」を持っている、と言い換えた方がいいかもしれない。北野にとっては「肉体」とは「風土」である、と言い換えたほうかいいかもしれない。
 こんなふうに「風土」を書いた人がいるかどうかわからないが、そうやって描く北野の「風土」は私にはとてもなつかしい。雪国で生まれ育った私には、北野のことばがとてもあたたかく感じられる。同じように「雪」を生きたことがあるひとの、何かを感じてしまう。
 詩の最後。

浜の廃屋から
ばさっこばさこと音が聞こえた
雪の村には
まだ、なんの足跡もついていない
軒先にはつらら

キン ぽたり。
       キン。。

 最後の2行、タイトルと同じ表記の2行は、つららから雫が落ちるときの音と様子を描いたものである。あ、きれいだ、と思う。なつかしいと思う。その透明な輝きが、「なあ/あったけぇような気がするな」と思わず言いたくなる。

 「黒筒の熊五郎」はせんべいのことだろうか。せんべいが丸い筒に入っている。筒の中に入ったせんべいと、その筒のことを書いている。

一家
せんべいを食べ尽くし
なんに使うの
熊五郎せんべい
土産の空(から)の黒い筒

ひんやり手にした黒い筒
底はつるりと銀の月
中はぽっかりしんと鎮まって

ちょうだい

 2連目が、とてもいい。読んでいてうれしくなる。「底はつるりと銀の月」--この歌うようなリズム。それは、ことばを口にしつづける人間(口語でことばをつかまえる人間)のみがつかみとることができる音だと思う。
 そして、私はなぜか、肉体と同時に「風土」を感じる。同じ空気を吸って生きている人々とのあいだでかわされることばのリズムを感じる。こういう歌はひとりでは歌にならない。だれかが聞いてくれて、同時に反応してくれてはじめて歌になる。そこには歌う「風土」がある。次の行の「ぽっかりしん」も、そういうことばに誘われてできてた美しい口語だ。書きことばにはつかみとれない音だと思う。
 ことばが空中を飛び交って、そのことばがまたひとつの「風土」になる。そういう時間の蓄積も感じる。人間が生きている感じが、とてもあたたかく伝わってくのである。
 そういう人間の「におい」「体温」があるからこそ、次の「ちょうだい」がとても美しく響く。せんべいを食べ終わったあと、空になった筒の容器--それ、ちょうだい。だれが、そういったのか。こどもなら言いそうなことばである。
 そして、それは実際にこどもがいったことばである。それは、そのあとの詩の展開のなかで明らかになるのだが、それは私が紹介するより詩集で読んでもらったほうがいい。おわりのちょっと前に、

おーい
おーい

 という2行がある。それは、まだ見ぬ読者へ向けて呼びかける声のようでもある。

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宮藤官九郎監督「少年メリケンサック」(★★★★)

2009-02-19 00:19:19 | 映画
監督 宮藤官九郎 出演 宮崎あおい、佐藤浩市、木村祐一

 宮藤官九郎ならではの強引なでたらめさ加減が楽しい。宮崎あおいも佐藤浩市も木村祐一も、みんな楽しんでやっている。芸能界をばかにして、というか、芸能界に夢中になる人間をばかにしているところが、とてもいい。当人たちはみんな芸能人なのだけれど。
 たとえば、昔のグループサウンズアイドルの描き方。マシュマロヘア(知ってます?)で、ぶりっこしている。メルヘンチックな歌を歌っている。なぜ、あんなものがヒットしたのか、いまの状況からはさっぱりわからない。ただこっけいである。それをまじめに、下手糞にやっている。それがとてもおかしい。
 現在の、抒情っぽい若者グループのポップサウンドも同じ。ソロを夢見ている宮崎あおいの恋人の歌も同じ。チープで、ありきたりで、とてもばかばかしい。「現実」とかけはなれていて、ばかとしかいいようがない。人気芸能人の行動もばかばかしい。そのとりまきも、ばかばかしい。
 これに対して、元「少年メリケンサック」の面々、中年メリケンサックには、どうしようもない生活が積み重なっている。音楽から離れ、他人の活動をくだらないと蔑みながら、そのくだらない音楽よりももっと落ちぶれている。「夢」の分だけ、ずれている。そのずれが、他の少年たち(若者たち)と違って自覚できるだけに、自分で自分のやっていることがとても面倒くさい。自分の面倒くささをもてあましている。
 あ、中年になる(大人になる)ということは、こういう面倒くさいことがわかる、自覚できることなんだなあ。その面倒くささを、どうやってこなしていくか。乗り越える、ではなく、まあ、こなしていくとしかいいようがない。面倒くささを他人にぶっつけて、暴れる。ようするに、不良をやってしまう。その不良中年ぶりが、とても楽しい。
 宮崎あおいは、まだ、その面倒くささの領域に達していない。彼等がとんでもない不良中年にしか見えない。けれど、その不良の面倒くささにどこかで接している。(だれもが、それに接している。)だから、彼等と接して、自分のなかにある面倒くささを発見する。恋人は単なるヒモなんだ、ということを知らされる。恋人は宮崎あおいを利用しているだけなんだ、というようなことを知る。けれども、好き、という気持ちを捨てきれない。それが「夢」の部分である。そこから「ずれ」がはじまる。あ、面倒くさいなあ。
 ただし、中年メリケンサックの男たちの面倒くささと、宮崎あおいの面倒くささは微妙に違う。そこがおもしろい。
 中年メリケンサックたちは、面倒は面倒でも、「他人」を気にしていない。「他人」なんか、なんとも思っていない。「自分」の面倒だけを生きている。面倒の性質が違う。ふっきれている。ある意味で「年季」が入っている。面倒くささが、その「年季」によって、かっこよさになる部分がある。宮崎あおいの面倒くささは「年季」が入っていないだけ、かっこよくはなれない。
 でも、まあ、こんなことはどうでもいい。
 ただ何かを壊したい。壊すことで、自分の面倒くささを発散してしまいたい。そういう感じの音楽と、行動--それを「堅牢」につみかさねているところにこの映画のよさがある。宮藤官九郎はばかばかしさに手を抜かない。ばかばかしさを堅牢にまで鍛え上げる。映像のひとつひとつ--といういいたいけれど、映像はまだ堅牢になってはいない。そのかわり、「ことば」、つまり脚本と、瞬間瞬間の役者の肉体を動きを堅牢に鍛えている。あくまで、ばかばかしく、堅牢にしている。
 そういう「笑い」と「中年」の結びつきが、とてもおもしろい。


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熊切和嘉監督「ノン子36歳(家事手伝い)」(★★★)

2009-02-18 21:58:59 | 映画
監督 熊切和嘉 出演 坂井真紀、星野源、鶴見辰吾

 元タレントの女性。マネジャーと離婚して実家に帰って来ている。何をするわけでもない。同級生の女性がやっている店で酒をのんでクダをまいている。この女性に、露天商のまねごとをしている青年がからんでくる。恋愛というには、あまりにも感動が乏しい。その感動の乏しさが、この映画の魅力である。どうにもならないことを、きちんと距離を置いて、どうにもならないまま描いている。坂井真紀という女優は私ははじめてみたのだが、とてもいい感じである。人生が思い通りにいかなくて、もう、いやだなあ、なんとかならないかなあ、とずるく生きている。ひとにというより、「空気」にやつあたりして生きている。その感じがなかなかいい。これは文学ではなかなか表現できない。女優という肉体があってはじめて成り立つ芸術である。
 とてもおもしろいのだが、★★★なのには理由がある。
 音楽が邪魔なのだ。とてもうるさい。音そのものはとてもいい。たとえば、坂井真紀が自転車に乗って走るとき、つぎつぎにごみ容器(ポリバケツのようなもの)を蹴る。やつあたりである。そのとき、もちろん倒れるごみ容器も映し出されるが、なによりも「音」で表現される。坂井真紀が酔って、転び、そのあと青年の泊まっている宿に寄ることになるシーンも、坂井真紀が倒れるシーンはなく、ただ音として表現される。音はスクリーンに映っているものにしばられないという特質を利用したたいへんおもしろいやり方だ。
 せっかくこういうシーンが撮れるのだから、安易なバックグラウンドミュージックはないほうがいい。音楽なんかに感情をもりあげてもらわなくていい、と逆に興ざめしてしまうのである。もし、バックグラウンドミュージックがなかったら、この映画は★4個である。
 だいたい(と、こんなときに、つかうのかなあ)、この映画の主人公は投げやりに生きている。「投げやり」にムードをもりあげるバックグラウンドミュージックはいらない。投げやりをあらため、生き方をかえてしまうという映画なら、あ、あの瞬間、彼女は別の生き方を知ったのだ、そのとき彼女のからだから音楽があふれだしたのだ、ということがあったのならいいけれど、そうではない。この監督は音楽を間違ったふうにつかっていて、平気である。それが、とても我慢ならない。
 最初の方に、坂井真紀は「空気」にやつあたりして生きていると書いたが、音楽はその「空気」とともに存在するものである。「空気」の振動が音楽である。映像は、坂井真紀が「空気」にやつあたりしていることをていねいに描くのに、音楽がその「空気」をうんざりするものにしてしまっている。坂井真紀がどんなに好演しても(「卒業」のように、青年と逃げ出したあとの電車のなかの、キャサリン・ロスを上回る表情の変化を見よ!)、これではむくわれない。かわいそうな坂井真紀と思ってしまった。

*

坂井真紀が出ている映画。



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仲山清『文学ゴッコのやんま堂』(2)

2009-02-18 12:46:34 | 詩集
仲山清『文学ゴッコのやんま堂』(2)(ワニ・プロダクション、2008年12月22日発行)

 昨日の日記に書いた井本元義『レ モ ノワール』はことばの数学を「文学」のことばで台無しにしていた。「踊り子の舞い」というようなことばが古すぎて現在とあわないのだ。ただ、すべての古いことばが詩に向かないかというと、そうでもない。
 仲山清『文学ゴッコのやんま堂』のおもしろさは詩に「雲形定規」を持ち込んだことである。雲形定規をいまでも設計士が使うのかどうか私は知らない。いまはもっと便利なシステムがあるかもしれない。しかし、それでも「雲形定規」がおもしろいのは、使われないなら使われないで、いまもそれにこだわっているという姿勢が新鮮なのだ。そこに描かれている対象がどんなに古くても、それがいまの肉体と直接関係していればそれでおもしろくなるのだ。
 「もの」と「ことば」は、現実の中ではほとんど同時にあらわれる。新しい存在は新しい名前とともに現実に登場する。i Pod は「i Pod 」ということばとともに私たちの目の前にあらわれた。政治の世界では、少し逆のことが起きる。「スキーム」というようなことばは、それが何を意味するか多くの人がわからないうちに使われ、マスコミを通じて社会に流される。それが意味するところを不明確にすることで、国民の多くをだますためである。だますということばに語弊があるとすれば、批判がすぐに返って来ないようにするためである。「わからないことば」で語られたとき、それに対して質問し、反論するにはある程度時間が必要である。そのときの「ある程度」の時間を利用して、政治家はものごとを進めてしまう。
 文学ではどうだろう。
 ことばは遅れてやってくる。こころはいろいろなことを思うけれど、それはすぐにことばになるわけではない。どう言っていいかわからない現実の前で、私たちはことばをなくす。正確には、ことばがどこにあるか探し出せない。阪神大震災のあと、詩は、ずいぶん遅れてやってきた。現実と肉体がきちんと向き合い、ことばとして納得できるようになるまでには時間がかかるのだ。
 一方、生活になじんだことばはことばで、なかなか「文学」のなかへは進んでいかない。「文学」のなかに登場しなくても、ことばそのものにとって、不利益が生じるわけではない。たとえば「雲形定規」は「文学」として書かれなくても、そのことばはいっこうに気にしないだろう。そして、そんなふうに「文学」から遠くにあることばが「文学」に登場すると、とたんに「文学」はおもしろくなる。
 「もの」「ことば」は、それぞれ「暮らし」を持っているからである。人間だけではなく、「もの」も生活しているのである。そのときの「距離」がことばとなって、作品に一定の制限を設けるからである。その制限がつくりだす空間が他のことばに影響し、いつもと違った運動をさせるからである。この運動の変化に敏感なひとの詩はおもしろい。仲山清の『文学ゴッコのやんま堂』はそういうおもしろさでできているのだ。
 ことばはいつでもそれ自体で運動する。そういう運動に敏感だと、ことばがいきいきしてくる。
 「くもがたかなた」という作品。

雲形定規から私語をとりのぞく
とりわけ独りごとを
腐りかけた野菜を
ひえきらない魂をひきぬく。

 何が書いてあるかわからないでしょ? そこがいいのだ。「雲形定規」が突然現実にあらわれたら、どうしていいかわからないでしょ? それはようするに、「わからないけれど現実に存在するもの」なのだ。もちろん「雲形定規」を知っているひとは、もしかすると、これは「設計士」のだれかかな、と思う。製図を書くとき、いつも「独りごと」を言っているんだな、と連想する。その連想が正しいか、間違っているかはどうでもいい。作者のかこうとしたことと、読者の読みたいことは一致しなくてもかまわない。それが文学だ。
 今どき「雲形定規」を使う設計士なんて、きっと曲者である。かわりものである。変に頑固なところがあるに決まっている。(と、私は思う。)その頑固さ、かたくなな感じが、その後のことばの運動を支配する。そして、それが同じ運動でつづくとき、それは美しい詩になるのだ。
 「雲形定規」は「独りごと」と共存するものなのだ。「腐りかけた野菜」とも「冷えきらない魂」とも共存している。ときどき見分けがつかなくなる。「雲形定規」が「雲形定規」であるためには、つまり、世界にきちんと流通する形にするためには、だれもが利用できる形にするためには、そういうものを「ひきぬく」必要がある。
 別なことばで言うと。
 ある人がいる。その人は有能である。けれど、ちょんと癖がある。こだわりがある。変だなあ。あのこだわり、あの癖がなければ、もっと世界で通用するのになあ……というような感じ。そういうことが、ここでは、「雲形定規」にことよせて書かれているのである。そういう暮らしが、生き方が「雲形定規」にことよせて書かれているのである。

 何が書かれているかわからない。けれども、ここにはある特別な「空気」が書かれていて、その「空気」の書き方には一定の法則がある。そう感じさせるものが詩である。文学である。
 どういうことばを、その「空気」の出発点にするか。その「空気」のために、どんなことばを選ぶか--そういうことが大切なことなのだ。仲山はこの詩集で、「雲形定規」を発見している。その存在は現実には新しくはない。しかし、文学としては新しい。ことばが文学になるまでには時間がかかり、あることばは文学になったとたんに古びたりもする。(たとえば、「踊り子の舞い」である。)ことばを古びさせないためには、それは動かしつづけなければならない。
 「くもがたかなた」の3連目、4連目。

雲形といいつつ
雲にはありえない鋭角をかかえ
といをながれる雨音のようなものが
折れ曲がって男にささやく
しね、と。

私語がやむ
独りごとも
せきばらいも。
雨どいのながれの音も
尻すぼみに立ち消え
いちまいの雲形定規がつっぷす。

 この過激さ。いいなあ。
 いろんなことばが、必要もないのに飛び交っている事務所。そこに、何が原因かわからないけれど、誰かが誰かに対して「しね」と言う。瞬間、事務所がシーンとする。
設計事務所の人間関係がふわーっと浮いてくる。それは設計事務所だけではなく、あらゆる「会社」の事務所の人間関係に通じる。こういうことばを運動を読むと、あ、私の会社にはなぜ「雲形定規」を使う仕事がないんだろう、もしあれば、これとそっくりのことを見られるのに……となんだか悔しい気持ちになる。「雲形定規」を使う仕事をしているひとのことろへ会いに行きたくなる。いや、そういう「仕事」をのぞきに行きたくなる。
 こんな気持ちをひきだしてくれるのは、とてもいい詩である証拠だ。

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エドワード・ズウィック監督「ディファイアンス」(★★★)

2009-02-17 21:30:18 | 映画
監督 エドワード・ズウィック 出演 ダニエル・クレイグ

 第二次大戦中、ヒトラーの迫害を逃れ、ベラルーシの森の中で生き続けたユダヤ人たち。その極限の状況を描いている。
 この森がとても美しい。その森へ最初に逃れた兄弟が、「森のことならなんでも知っている」というようなことを冒頭に言う。これが、この映画のひとつの思想である。とても重要な思想である。ひとは、自分たちがよく知っている土地でなら生き延びる方法を探すことができる。生き延びることができる。その土地を知らない人、つまり侵略者は、未知の土地では生きることはできない。征服はできない。
 森の中の何を使えるか、何を使えないか、その森のそばで暮らしつづけてきたひとたちは知っている。逃げるときはどこへ逃げていけばいいかを知っている。木を見れば、傾斜を見れば、それだけで方角がわかる。迷子にはならない。また、どんな方法で進めば安全化、ということも知っている。
 たとえば、クライマックスの川(沼?)を歩いて渡るシーン。モーゼの出エジプト記のように、水は割れない。神は道をつくってくれない。だが、人間は道をつくることができる。ベルト、ロープを繋ぎ合わせ、全員がそれにつながることによって、脱落者がでることを防ぎ、長い長い列が1本の道になり、向こう岸にたどりつくことができる。ただ歩くのではなく、「ロープ」をこの岸から向うの岸へつなぎ、それをたどりながら水を渡るという生き方の応用がここにある。軍の訓練でそれを学ぶのではなく、森で生きる暮らし、その生活の智恵(これこそ、ほんとうの思想)が、そうやって人間を救うのである。いのちを救う生き方こそが、真に思想と呼べるものである。
 この土地と人との結びつき--それが、この映画のひとつの重要な思想である。ユダヤ人は土地を奪われ、さまよいつづける民族といわれるけれど、そのさまよいのさなかでも、暮らしは土地に結びついている。土地としっかり結びついて生きた人間が侵略者の暴力をかわすことができる。土地が、土地そのものが一種の「防御」の働きをするのである。土地は、ある意味では、そこに暮らし人に向けられた試練であるけれど、その試練で鍛えられた智恵は、そのまましっかりした思想になる。何かを克服しなければ生きられない、というのはひとつの矛盾だが、そういう矛盾は、矛盾を超えたときから思想になるのだ。
 声高の主張となってはいないが、描かれた森の美しさが、無言のまま雄弁にそのことを語っている。森は、彼等の住む家のための木材を提供してくれる。火の原料である木を提供してくれる。隙間をふさぐ土を提供してくれる。森にあるものだけで、いくつものものをつくることができる。そこには、いくつもの可能性としての美しさがある。それは生きる苦闘から解放された一瞬には、祝福の輝きとなる。若葉の明るさが美しいのはもちろんのこと、過酷な冬の雪さえ、とても美しい。特に結婚式の雪のシーンの、なんと華やかなこと。雪を愛することを知っているしか撮れない美しさである。
 その森に守られながら、生き延びるユダヤ人たち。地上からの攻撃があり、空からの爆撃もある。その戦いの中で、そこに生きている人間が変わりはじめる。劣等生だった男はリーダーになり、父の死に対して涙を流すことしか知らなかった青年は、リーダーの窮地を救うまでに成長する。恋があり、仲違いがあり、和解があり、横暴があり、不正があり、いさかいがあり、死があり、悲しみがあり、いのちの誕生もある……と、どの社会でも起きることがそのまま起きる。そして、そこにはまた、文学があり、音楽があり、ダンスがある。チェスといった遊びがある。その、どの社会でも起きることが起き、どの社会でもある楽しみがあるから、人間は成長できるかもしれない。それもこれもみな、森がそこにあるからである。その森で生き抜いたひとが美しいのはもちろんだが、そのひとたちを抱きしめつづけた森もとても美しい。ほんとうに久々に美しい森を見た。



エドワード・ズウィック監督は、「ブラッド・ダイヤモンド」「ラスト・サムライ」「戦火の勇気」なども撮っています。



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井本元義『レ モ ノワール』

2009-02-17 11:43:27 | 詩集
井本元義『レ モ ノワール』(書肆侃侃房、2008年10月20日発行)

 ことばの動きが律儀である。「満ちてくる水」の書き出し。

僕は身を隠すためにここに来たのだった
長い間使われていない倉庫群
錆びた廃線のレールに沿って白い小さな花が咲いている
僕は運河のほとりに佇む
水は透明なのか不透明なのかわからない
真っ黒だからだ

 運河のそばの倉庫群。その倉庫群はすでに活気はない。倉庫群とつながるレールはすでに廃線になっている。かつたの繁栄の代わりに白い小さな花が咲いている。この対比の中で「僕」は「倉庫」「廃線」の側に属している。「身を隠す」というのは、すでに誰からも見向かれなくなった「倉庫」「廃線」と自己を重ね、同一のものとなって溶け込むということである。
 ことばは互いに補足しあい、「意味」を深めていく。「感情」を深めていく。その動きはほんとうに「律儀」としかいいようがない。それはたとえていえば、数学の証明のようである。
 「僕は身を隠すために」の「ために」や、「水は透明なのか不透明なのかわからない/真っ黒だからだ」という結果(現象)と「原因」をきちんと説明することばの運動に、特にそういう性質を感じる。
 こういう性質のことばは、それをきちんと守っているあいだは美しい。しかし、そこに余分なものがはいるととたんに醜くなる。数学の証明は余分な径路をたどると奇妙になる。同じ答えにたどりついたとしても、変な脇道をたどったものと、いちばん単純な径路をたどったものとを比較すると、単純なものがどうしても美しく見える。
 1連目は、いわば、すっきりした証明である。ところが、2連目。

闇が降りてくる
僕の足元は揺れる
否 停滞していた運河が動きだす
かすかな漣が踊り子の舞いのように見えていたのに
逆流が次第に速さを増す
満ちてくる波の激しさ
流れが岸を打ち 雑草が気流に揺れる
鞭打たれた追われる罪なき囚人の群れ

 運河に塩が逆流してくる(海の近くなのだろう)。そのために「僕」が揺れて感じる。このときのことばの運動「僕の足元は揺れる/否 停滞していた運河が動きだす」、現象と原因の分析、そこから「逆流」ということばを導き出してくる運動も証明としてとても自然だ。美しい。しかし、

かすかな漣が踊り子の舞いのように見えていたのに

 これは何だろう。「踊り子の舞い」と何? このことばはどこから出てきたのだろう。引用はしないが、最後まで読んでも「僕」と「踊り子」を結びつける関係が出てこない。「踊り子」は「僕」の生活と無関係である。
 「鞭打たれた追われる罪なき囚人」は「雑草」の比喩であり、それはまた、「僕」自身の立場(たとえば、資本家に搾取される労働者)の比喩ともなりうるだろうが、「踊り子」は?
 たぶん「踊り子の舞い」は井本の生活とは無関係なのである。生活とは無関係であるけれど、そのことば、そのイメージだけを「文学」として知っている。「文学」が突然、「僕」の生活の「数学」に混じってきたのである。これは醜い。
 「漣」もおなじである。「踊り子の舞い」のように、井本が「文学」で読んだことばが、ふいにここに噴出してきている。その噴出を抑えるということができていない。

 井本はことばを生活をもとに動かしてはない。もちろん、そういう作品があるのはかまわないが、これはまた別の問題である。
 井本は、最初から、「文学」のことばを使いながら「数学」をやっているのかもしれない。「身を隠す」「長い間使われていない」「錆びた廃線」「佇む」。そうしたことばのなかにはひとつの「空気」がある。敗北の空気がある。そしてセンチメンタルがとても強く匂う。そのセンチメンタルに誘われて「漣」「踊り子の舞い」が滲み出てきたのである。こういう滲み出てき方は、ほんとうに醜い。ことばに対して井本には無意識な部分がある。



 


レ モ ノワール 黒い言葉
井本 元義
書肆侃侃房

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