ことばは何を求めて生きているのだろう。何を求めて動き回るのだろう。「意味」を求めてだろうか。そう考えると簡単な(?)ような気がする。だが、私には、どうもその感覚(?)がなじめない。「意味」はことばに寄生して生きているとは思うけれど、ことばは「意味」を求めてなどいない。というか、「意味」と通い合いたいと思っているとは思えない。あ、「ことば」がなにかを思っている、というのは変かな? しかし、すぐれた文学作品(おもしろいと私が感じる文学)は、ことばが「意味」とは無関係になにかと通じているものだ。「なにか」としか書けないのは、それが「なにか」私にはまだわからないからである。
「かざり」という作品。
生垣も
斜塔も
ひょうたんも
ラムプも
人々の残した
飾りだ。
人間の作つた偉大な遺物だ。
ここには「意味」があるかもしれない。どんなものでも、いま、ここに存在するもの。それには「人間」の「意思」や「感情」が反映されているから、人間が作ったものだと言えるかもしれない。それはささいなものであっても「偉大な」存在である。「遺物だ」という断定には、そういう存在が「時間」をへて完成し、また「時間」を生きているという西脇の「思い」(世間で言う「哲学・思想」)が反映しているかもしれない。
それはそうなのだろうけれど。
私は、どうも、そんなふうに読むと楽しくない。
この詩には、あるいはこの詩にかぎらず、西脇の詩にはなにかしら「かなしい」ものがあって、この詩では、「人々が残した」の「人々」にそれがひそんでいる。
「生垣も/斜塔も/ひょうたんも/ラムプも」、それはたしかに「人々」のものである。「人間」とはちょっと違う。「人間」ということばには「間」という文字がある。人と人の「間」。そこで生まれるのが「人間」。でも、「人」は「人」との「間」だけで生きるのではなく、「もの」と触れ合って生きる。そこには「間」はない。「間」がないまま、「もの」と親密になる。そうやってできた「生垣」「斜塔」「ひょうたん」「ラムプ」には、ひとの何かが宿っている。それは最初はひとりの「ひと」と「もの」との対話だった。いつのまにか、「もの」が「人」と「人」との「間」を行き交うようになって、そこに「人間」も生まれてきて、そのうち「もの」からは、「ひと」と「もの」との直接対話のようなものが消えてしまって、「遺物」なってしまった。そして、それは、その消えてしまったなにかを求めて動いている。
「人々」の「ひと」ということばの響きが、その消えてしまった「なにか」を揺り動かそうとしているように感じる。「人間」ではなく、「ひと」と「もの」、「もの」の素朴な名前--そのふたつのあいだで呼びかわされる「声」が、この詩を動かしていると私には感じられる。
もう何も言うことがない
詩は、その1行をはさんで動いていく。「何も言うことはない」といいながら、そのあとも、ことばは動いていく。
その動きは「意味」を見つけ出すため、というよりも、いま、ここに、ことばとともにあらわれてくる「意味」、ことばに寄生してくる「意味」を拒絶するための動きに思える。西脇のことばは「意味」ではなく、「もの」そのものになりたがっている。
あるいは。
西脇は、「人間」ではなく、「人(ひと)」になりたがっている。西脇はことばといっしょに動くことで「人間」ではなく「ひと」になろうとしている。「ひと」になるために「意味」をふりきろうとしている。
そして、そのとき、ことばの「音」(音楽)を頼っている。音の響きあいに、「意味」を拒絶する力を感じ、それをひきだそうとしているように、私には感じられる。
秋が来るとウィンザーの村を訪ねるのだ。
イーソップ物語の挿絵に出てくるような
親子の百姓から黄色い梨を買つて
シェフィールド製の光つた三日月形の
ナイフで皮をむいてたべた。
1行1行が、他の行のことばと「意味」でつながるのを拒絶するように独立している。「シェフィールド製の光つた三日月形の」という行では、「シェフィールド製」「光つた(る)」「三日月形」がそれぞれ拮抗している。「三日月形」では、「三日月」と「形」さえ、なにか独立して向き合っている感じがする。そして、
ひ「か」つた、み「か」づき、「が(か)」た、
というような、音の通いあいが、なぜかはわからないが、私には「ひと」と「もの」の向き合いのように、「音」と「音」の向き合い、触れ合いにも感じられるのだ。
私の書いていることは、たぶん、強引だ。
強引なのは、私には、まだまだわからないことがあるからだ。わからないのに、なんとかことばを動かしていく内に、ことば自身がそれをみつけてくれないかなあ、と願いながら書いているからだ。
私にはなにもみつけられない。けれど、ことばは、どこかで西脇のことばと呼び掛け合い、声を聞きあい、かってになにかを見つけてくれる--そんなことを思っている。
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