詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(108 )

2010-02-14 13:14:29 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 ことばは何を求めて生きているのだろう。何を求めて動き回るのだろう。「意味」を求めてだろうか。そう考えると簡単な(?)ような気がする。だが、私には、どうもその感覚(?)がなじめない。「意味」はことばに寄生して生きているとは思うけれど、ことばは「意味」を求めてなどいない。というか、「意味」と通い合いたいと思っているとは思えない。あ、「ことば」がなにかを思っている、というのは変かな? しかし、すぐれた文学作品(おもしろいと私が感じる文学)は、ことばが「意味」とは無関係になにかと通じているものだ。「なにか」としか書けないのは、それが「なにか」私にはまだわからないからである。
 「かざり」という作品。

生垣も
斜塔も
ひょうたんも
ラムプも
人々の残した
飾りだ。
人間の作つた偉大な遺物だ。

 ここには「意味」があるかもしれない。どんなものでも、いま、ここに存在するもの。それには「人間」の「意思」や「感情」が反映されているから、人間が作ったものだと言えるかもしれない。それはささいなものであっても「偉大な」存在である。「遺物だ」という断定には、そういう存在が「時間」をへて完成し、また「時間」を生きているという西脇の「思い」(世間で言う「哲学・思想」)が反映しているかもしれない。
 それはそうなのだろうけれど。
 私は、どうも、そんなふうに読むと楽しくない。
 この詩には、あるいはこの詩にかぎらず、西脇の詩にはなにかしら「かなしい」ものがあって、この詩では、「人々が残した」の「人々」にそれがひそんでいる。
 「生垣も/斜塔も/ひょうたんも/ラムプも」、それはたしかに「人々」のものである。「人間」とはちょっと違う。「人間」ということばには「間」という文字がある。人と人の「間」。そこで生まれるのが「人間」。でも、「人」は「人」との「間」だけで生きるのではなく、「もの」と触れ合って生きる。そこには「間」はない。「間」がないまま、「もの」と親密になる。そうやってできた「生垣」「斜塔」「ひょうたん」「ラムプ」には、ひとの何かが宿っている。それは最初はひとりの「ひと」と「もの」との対話だった。いつのまにか、「もの」が「人」と「人」との「間」を行き交うようになって、そこに「人間」も生まれてきて、そのうち「もの」からは、「ひと」と「もの」との直接対話のようなものが消えてしまって、「遺物」なってしまった。そして、それは、その消えてしまったなにかを求めて動いている。
 「人々」の「ひと」ということばの響きが、その消えてしまった「なにか」を揺り動かそうとしているように感じる。「人間」ではなく、「ひと」と「もの」、「もの」の素朴な名前--そのふたつのあいだで呼びかわされる「声」が、この詩を動かしていると私には感じられる。

もう何も言うことがない

 詩は、その1行をはさんで動いていく。「何も言うことはない」といいながら、そのあとも、ことばは動いていく。
 その動きは「意味」を見つけ出すため、というよりも、いま、ここに、ことばとともにあらわれてくる「意味」、ことばに寄生してくる「意味」を拒絶するための動きに思える。西脇のことばは「意味」ではなく、「もの」そのものになりたがっている。
 あるいは。
 西脇は、「人間」ではなく、「人(ひと)」になりたがっている。西脇はことばといっしょに動くことで「人間」ではなく「ひと」になろうとしている。「ひと」になるために「意味」をふりきろうとしている。
 そして、そのとき、ことばの「音」(音楽)を頼っている。音の響きあいに、「意味」を拒絶する力を感じ、それをひきだそうとしているように、私には感じられる。

秋が来るとウィンザーの村を訪ねるのだ。
イーソップ物語の挿絵に出てくるような
親子の百姓から黄色い梨を買つて
シェフィールド製の光つた三日月形の
ナイフで皮をむいてたべた。

 1行1行が、他の行のことばと「意味」でつながるのを拒絶するように独立している。「シェフィールド製の光つた三日月形の」という行では、「シェフィールド製」「光つた(る)」「三日月形」がそれぞれ拮抗している。「三日月形」では、「三日月」と「形」さえ、なにか独立して向き合っている感じがする。そして、

 ひ「か」つた、み「か」づき、「が(か)」た、

 というような、音の通いあいが、なぜかはわからないが、私には「ひと」と「もの」の向き合いのように、「音」と「音」の向き合い、触れ合いにも感じられるのだ。

 私の書いていることは、たぶん、強引だ。
 強引なのは、私には、まだまだわからないことがあるからだ。わからないのに、なんとかことばを動かしていく内に、ことば自身がそれをみつけてくれないかなあ、と願いながら書いているからだ。
 私にはなにもみつけられない。けれど、ことばは、どこかで西脇のことばと呼び掛け合い、声を聞きあい、かってになにかを見つけてくれる--そんなことを思っている。



西脇順三郎絵画的旅
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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西岡寿美子「空に鳴る音」

2010-02-14 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
西岡寿美子「空に鳴る音」(「二人」283 、2010年02月05日発行)

 西岡寿美子「空に鳴る音」は、遠い土地の記憶を書いている。しかし、そこには「望郷」あるいは「郷愁」とは違ったものがある。

ノジ
を思い出した
今は地上にない幻の村だが
傾りに石積みの棚田が累々と拓かれ
里人の糧はみなここから得た

夜通し日通し
向かいの山を裂いて滾つ龍神の滝
轟々と揺れ震う家々
それは不断の子守歌として荒魂を養い
頬骨高く眼窩落ちた特異な面貌をも形造った

 なぜ、思い出の土地を書いているのに「望郷」や「哀愁」ではないのか。文体が、奇妙に強くて、その強靱さが「望郷」「哀愁」を拒絶している。そこに不思議な魅力がある。「里人の糧はみなここから得た」という1行に何かが省略されているわけではないが、何かしら、余分なものを削ぎ落とした美しい響きがある。
 「頬骨高く眼窩落ちた特異な面貌をも形造った」は「頬(が)骨高く眼窩(が)落ちた特異な面貌をも形造った」と、助詞「が」が省略されていると考えることができる。「里人の糧はみなここから得た」には、そういうことばの省略はないが、省略を感じてしまう。「里人の糧は」という「主語」のあり方に秘密があるのかもしれない。
 ふつうは、どう書くか。いや、私なら、どう書くか。

里人は糧のみな(すべて)をここから得た

 私は「主語」を「里人」にしてしまう。ところが、西岡は「主語」を「里人」にしない。そこに、私の感じた一種の「厳しさ」の理由がある。
 この詩において、「主語」は「私」を含む人間ではないのだ。「里人」はこの詩では「主語」にはならないのだ。
 この詩の「主語」は「土地」なのだ。「今は地上にない幻の村」の、その「土地」そのもの、「ノジ」と呼ばれる「土地」が「主語」である。「望郷」も「哀愁」も「人間」を「主語」とするときの、こころのありようだ。「土地」にはこころなどない。したがって、そこには「望郷」も「哀愁」も入り込む余地はない。そして、そのことが、この詩を美しいものにしている。

 別な言い方をしよう。

 この詩の「主語」は「人間」ではない。それは、

頬骨高く眼窩落ちた特異な面貌をも形造った

 という1行をよく読めばわかる。私は先に「頬骨(が)高く眼窩(が)落ちた特異な面貌をも形造った」と、助詞「が」が省略されていると書いたが、これは正確ではない。ほんとうは、

(土地が)頬骨(の)高く眼窩(の)落ちた特異な面貌をも形造った

 なのである。
 「が」ではなく「の」。
 その「の」は「里人の糧は」の「の」と同じである。
 そして、

里人の糧はみなここから得た

 は、次のように読むべきなのだ。きっと。

(土地が)里人の糧のみなを、ここで造った

 そう読むとき、2連目の「頬骨高く眼窩落ちた特異な面貌をも形造った」の「をも形造った」の「をも」、その「も」の意味がわかる。なにもか「も」、あらゆるものを、土地が造るのである。人間が造るのではない。土地が造る。この「世界」にあるものは、全て「土地」がつくったものなのだ。

 その「土地」を、西岡は「土地」ではなく、「空」から描く。「空」を描くことで、「土地」が産んだものを、「空」の彼方へほうりやる。「空」はそのとき「そら」ではなく「くう」になる。そしてその「くう」とは「色即是空、空即是色」「空」にもなる。
 西岡は、詩の最後で凧あげのことを書いているのだが、その凧は「色即是空、空即是色」の「即・是」という「色」と「空」を「結びつける」もののように感じられる。

ビーン ビーン
凧のカブラが空に鳴る
千切れた凧尾(ジャーラ)が三宝山の背に飛ぶ

--どこへ行ってしまったのだ
離れ凧よりもジャーラよりも行方さだめず
あの日わたしの周囲で凧糸を操った若い手の持ち主らは

物生り滋味とも濃い
ノジの耕土をすべて造林の底に沈め果て
先祖墓さえも掘り上げて背負い
異土にさまよい出て音信も絶えた
一目であの土地の出と知れる異相の誰彼は

 西岡は、何かしら強靱な「哲学」を生きている。



北地-わが養いの乳
西岡 寿美子
西岡寿美子

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レベッカ・ミラー監督「50歳の恋愛白書」(★★★★-★)

2010-02-13 21:16:33 | 映画

監督・原作・脚本 レベッカ・ミラー 出演 ロビン・ライト・ペン、キアヌ・リーヴス、ウィノナ・ライダー、ブレイク・ライヴリー、モニカ・ベルッチ

 ここには書かなかったけれど、主演者がとても豪華。主役クラスがちらっ、ちらっと顔を出す。そして演技も手抜きをしていない。とてもいい映画だ。
 でもねえ、タイトルがひどい。タイトルで、損をしているねえ、この映画。まあ、内容も、単純明解なストーリーがあるわけではないから、ヒットはしないだろうけれど。
 ★評価が★4個-1個=3個の理由は、そこ。とても残念。
 私は、こういう映画は大好きで、タイトルさえまともなら、べたぼめしてしまうだろうなあ……。

 さて。
 見どころは、なんといってもロビン・ライト・ペン。とても不思議な存在感がある。映画であることを忘れてしまう。映画のなかに、「人間は年をとるにつれて優しさを身につけ行くものだが、きみ(ロビン・ライト・ペン)には最初から優しさがある」ということばが出てくるが、その感じがぴったり。
 他人を拒絶するものがない。
 あ、そうなのだ。いま、書いてみて気がついたのだが、ロビン・ライト・ペンがこの映画で演じている「役」は、優しいというよりも、「他人を拒絶しない」というキャラクターなのだ。
 母を拒絶したではないか、という見方もあるかもしれないけれど、それは拒絶ではない。いっしょにいると拒絶してしまいそうだから、拒絶という反応が出る前に、ロビン・ライト・ペンが母の元を去ったのだ。離れていったのだ。
 不思議というか、なんというか……。
 このロビン・ライト・ペンが演じる女は、他人を拒絶しないが、そこには「私」(ロビン・ライト・ペン自身)という「他人」も拒絶しない、ということが含まれる。誰でも、自分のなかに、自分ではどうすることもできない「私」、「他人としての私」を持っている。そういう「私」を拒絶しながら人間は複雑な行動をとるのだが、ロビン・ライト・ペンは違う。受け入れながら、優しくつつむ。そうすることで「私(ロビン・ライト・ペン)」という人格を完成させる。
 象徴的なのが、夢遊病としての「私」を受けれいることである。もちろん、それは拒絶できないものであるからこそ、病気として出現してくるものなのだが、ロビン・ライト・ペンは病気そのものを受け入れる。しっかりと病気である「私」、意識の及ばない「他人としての私」をみつめ、その「側」に立つ。治療によって、「他人としての私」を消してしまうようなことはしない。
 「他人としての私」をロビン・ライト・ペンは消さない。(この難しい役を、ロビン・ライト・ペンは、とても「軽く」演じている。存在感がある、というのは、こういう役者のことだねえ。)
 「他人としての私」を消さずに生きる、抱き締めて生きる--それがわかるから、夫も、若い恋人も、それを消そうとはしない。「他人としての私」を抱え込んだままのロビン・ライト・ペンを愛する。キアヌ・リーヴスもロビン・ライト・ペンの夫役をやった男優も、とてもいい感じでロビン・ライト・ペンと向き合っている。そのなかで、ロビン・ライト・ペンがほんとうに美しく輝いている。
 いやあ、いいなあ。ほんとうに、いいなあ。
 女性って、こんなふうに愛されたいんだねえ。女の気持ちがとってもよくわかる。よくつたわってくる。
 ちょっと男の監督には撮れない映画だ。
 レベッカ・ミラーという監督は、私の記憶のなかには名前が残っていないが、うーん、つばつけときたい、というかなんというか。人に知られたくない。自分だけのためにとっておきたいようないい感性だ。だれかお薦めの監督いない? お薦めの映画ない? と聞かれたとき、「どうしてもっていうなら教えるけれど……」という感じのする監督である。そういう1本である。
 ★4個-1個=3個という評価なんだけれど、ね、もし、あなたが映画が好きというなら、あなたにだけ、★4個+1個=5個という評価を、こっそり教えたい。こっそりなんだから、宣伝しちゃ、だめだよ。(←念押し)

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城戸朱理「時間の解体へ」

2010-02-13 14:00:05 | 詩(雑誌・同人誌)
城戸朱理「時間の解体へ」(「現代詩手帖」2010年02月号)

 城戸朱理「時間の解体へ」は三井喬子『青天の向こうがわ』評である。

 一年は誰にとっても一年であるわけだが、五歳の子供にとっての一年が、人生の二十パーセントであるのに対して、五十歳の人間にとって、一年とは、人生の二パーセントでしかない。子供のころの一年が永遠を思わせるほど長いものであるのに、年をとるにつれて、一年が早く感じられるというのは、その意味では当たり前であり、私たちは、そのように、時間というものを年齢に応じて主観的に把握している。

 びっくりしてしまった。こんな算数って、あるの? だいたい、この計算、あっているの?
 私は城戸のように頭がよくないので、昔のことはほとんど記憶していないが、たとえば生まれてすぐのその日、その一日は、城戸の計算によれば、その日は私にとって人生の百%になるわけだけれど、長かったのかなあ。わからないなあ。一歳の1年でも、やっぱりわからない。ぜんぜん長いとは感じないなあ。
 ちょとものごころがついて、たとえば小学生のとき。私は、山の中の小学生だったので、いまの子供のように塾もなければ習い事もない。遊ぶといっても、家の手伝いをしないことには遊べないし、暇なのか忙しいのかわからなかったが、たしかに夏休みは終わらないんじゃないかと思うくらい長かった。宿題はしない主義(?)だったので、最後の1日だって長かった。けれど、たとえば10歳のときの1年が人生の10%とは感じられないし、夏休みが40日として、ええっと、何%? それから、その夏休みの1日は人生の何%? わからないけれど、それでも長い?
 いや、ちょっと考えて、たとえば50歳の1年は、何歳のときの何日分と同じ割合になる? わかる? わからないなあ。算数の計算式があれば計算はできるだろうけれど、そんなふうにして計算して出てきた「数字」って、正確なもの?
 だいたい、そんなふうに「計算」で出さざるを得ないものって、「主観的」?

時間というものを年齢に応じて主観的に把握している。

 城戸ははっきりそう書いているが、「主観」って何なのさ。
 頭の悪い私は、はっきり言って、怒りだしちゃいますねえ。ちゃんと「日本語」で説明してくれよ。頭いいんだから、日本語くらい話せるだろう、と石でもぶつけたくなっちゃいますねえ。
 うちで飼っている犬だって、こんなわけのわからないことは言わない。
 「五歳の子供にとっての一年が、人生の二十パーセントであるのに対して、五十歳の人間にとって、一年とは、人生の二パーセントでしかない。」という計算って、「主観」じゃなくて、「主観」とはまったく関係ない(主観を無視した)「客観的」計算じゃない? 1(年)÷5(年)=0.2  1(年)÷50(年)=0.02。この「数学」が「主観的数学」だったらたいへんだよ。「1÷5=0.2 というのが数学の世界だけれど、私にとっては、1÷5=0.5 なんだよ」、あるいは「1÷5=7」というのが「主観的(実感)」という具合になるんじゃないの? 「主観」と「客観」がごちゃごちゃになっていない?

 詩にしろ、小説にしろ、文学というものは、それぞれの「個人的外国語」であることは理解しているつもりだが、あまりにも「日本語」からかけ離れている。
 「主観」を定義することから説明しなおしてよ。

 あ、違う言い方で質問しなおそう。私の疑問を書いておこう。

 誕生直後の子供、あるいは一歳のときは「主観」も「客観」もない、だから時間を「主観的」に把握できない。だから、たとえば一歳のときの1年は、その人にとって人生の100 %であるという計算は、そもそも成り立たない。
 城戸の「算数」(いや、小学生で習う足し算、引き算、掛け算、割り算という簡単な「算数」なんかではない--と城戸は主張するかもしれないが……)が、かりに正しいとしても、城戸は「主観」「客観」という意識がいつから人間の精神を動かしているかを除外したところでおこなわれているから、5歳のときの1年が人生の20%であるという計算にはまやかしがある。いつから「人生」と「その一生」、「その時間」を「主観的」に把握できるか、という大前提ぬきにして、○歳のときの1年はそのひとの○%なんて言えるわけがない。

 こんな「だまくらかし」が私は大嫌いだ。

 だいたい城戸は「主観」というものをどういう意味でつかっているのだろう。
 「主観」って、「客観」とは違って、「単位」がないよなあ。「単位」がないから「主観」だというのだと思うけれど、そういう「単位」のないものを、単位のあるもの(1年だとか、50年とか、城戸は「年」を単位としてつかっている)で「割る」ということは可能なの? 1年÷5年=0.2  ね、ちゃんと、「客観」には「単位」があるでしょ? ある単位を同じ単位の数字で割るとパーセント(割合)がでる。同じ単位でわらないときは「割合(パーセント)」にはならない。単位があることが「客観」の証明。
 単位のない「主観」を割ってパーセントを出すというような、そんな「高等数学」が、いったいどこに存在する?

 「割れない」から「主観」、数学で証明できないから「主観」。それなのに、「主観」を数学で証明しようとする。
 なんのために?
 私は数学ができます、と自慢するために? それとも、数学を出せば、数学に弱い(?)詩人をごまかすことができる? あ、政治家が、一般市民が知らないカタカナ用語でなにか新しい嘘を言うときみたいだねえ。「カタカナ用語の意味を知っていて、批判してるの? まず、カタカナ用語から勉強したら?」政治家が嘘をつくときは、そこからはじめるね。同じように、城戸は「数学がわかるの? まず数学を理解してから批判したら?」と詩人(読者)をだまくらかそうとしているようだ。
 「主観」と「時間」の関係を「算数」でごまかしたあと、城戸は、結論として、こう書いている。

 この詩集は、時間と存在が消え失せる消尽点を詩的に突きつめることによって、逆に、主観ではありえぬ時間と、時間の外のにある存在というものを示そうとしているのだと言っていい。

 わけがわからない。「時間と存在が消え失せる」とき、「時間の外にある存在」って、何さ。時間が消え失せるなら、時間の内も外も消え失せる。存在が消え失せるなら、存在はどこにもない。「外にある」なら、それは「消え失せない」。「主観ではありえぬ時間」が「絶対時間」というものなら、それに「外」なんてありうるのか。いつでも、どこでも存在するのが「絶対時間」であるだろう。
 「主観時間」の「割り算」という「高等数学」を持ち出す前に、「主観」なんていう前に、感じたこと、実感を、実感のまま書いたらいいだろうに、と私は思う。ひとをだまくらかすために「論理」(高等数学)をつかう前に、「肉体」でことばを動かすべきだろう。


戦後詩を滅ぼすために
城戸 朱理
思潮社

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池井昌樹「本人」、小笠原鳥類「朝食」

2010-02-13 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「本人」、小笠原鳥類「朝食」(「歴程」565 、2010年01月31日発行)

 池井昌樹「本人」は誰のことを書いたものだろうか。こんなふうに思い出してもらえるのはうれしいことだ。

こまったおとこだったなああれは
きれいさっぱりはいにされ
こんなにちいさくなってしまって
ほんにんはでもいよいよげんき
くらいよみちをよみじへと
いとりいそいそわがやへと
どんなにたのしたったか だとか
どんなにさびしかったか だとか
あとかたもないあたまのうえに
まんてんのほしちりばめながら

 「黄泉路」と「我が家へ」が並列される。「楽しかった」と「寂しかった」も並列される。それは「並列」ではなく、ほんとうは「一体」なのだ。あるとき、「黄泉路」が「男」と一体になって立ち現れてくる。「家路」も、あるとき「男」と「一体」になって立ち現れてくる。「楽しさ」も「寂しさ」も同じである。ある何かが「楽しさ」や「寂しさ」ではない。それは常に「男」と「一体」であり、切り離すことはできない。
 そういうふうにして、ひとりの「男」を思い浮かべるとき、池井は「その男」として目の前に立ち現れてくる。「書かれている男」と「書いている男(池井)」が「一体」となる。「書かれている男」を取り除く(?)とき、池井は存在しなくなるし、池井を除外すれば「書かれている男」は消えてしまう。池井のことばのなかで、「その男」と池井が出会い、「ひとり」になる。
 「あとかたもない」ということばが出てくるが、「書かれている男」も「池井」も、同じように「あとかたもない」ものなのだ。存在はしない。存在するのは、だれかを思う気持ち、そして、その思う気持ちの動きのなかに、ひとは「あらわれる」ということだ。
 あるのは、あるとき、何かが「あらわれる」「たちあらわれる」ということだけなのだ。
 それは、星空のように、あるときがくれば(たとえば「夜」がくれば)、一斉に輝くように、一種の「摂理」なのだ。

 あ、でも。

 こんなふうに詩を完璧な美しさに高めてしまっていいのだろうか、と不安になる。池井の詩に、特にこの詩について、どんな不満があるというわけではないけれど、だからこそ、ちょっと困るなあという気持ちにもなる。
 あまりにも「自在」すぎて、池井のことばが「自由」をめざして動いているという感じがしないのだ。完成されすぎている。



 小笠原鳥類「朝食」のことばは、「主語」「述語」が結びついていない。学校教科書文法でいうと、不完全な「文体」である。

ここに模様(動物の形)が、くだものの
色彩に塗られた建物の、壁に。ここに

 この2行のことばのうち「主語」はどれで、「述語」はどれか。「動詞」は「塗られた」しかなく、その「塗られた」は「建物」を修飾している。「述語」にならない。そういう不完全な「文体」であるけれど、私は、なぜだか、

くだものの色彩にぬられた建物の壁に、模様(動物の形)が、ある

 と思ってしまう。「模様」(主語)が「ある」(述語)という「文章」として読んでしまう。不完全というか、主語-述語という形式を小笠原が破壊して書いているにもかかわらず、ことばがそんなふうに動いていくのを感じてしまう。
 なぜだろうか。
 「助詞」のつかい方が強靱なのだ。「ここに」の「に」が、再度「壁に」の「に」になって反復され、その「助詞」の力によって「ここ」と「壁」が同一のものとなる。小笠原は、いつもいつも完全な形で「助詞」をつかうわけではないが、必要なときはかならず正確につかう。そして、この「正確に」というのは、学校文法というか、文学の歴史というか、いわゆる誰もが知っている「正しさ」に基盤を置いている。
 完璧な嘘のこつは、全部を嘘で固めるのではなく、ひとつだけ「ほんとう」を含ませることだ--というようなことを何かで読んだ(聞いた)記憶があるが、小笠原は「助詞」を正確にすることで、いわぬる「学校教科書」の「文体」を破壊し、独自の文体をつくりあげる。完成させるのである。

 最初の2行が、もし「くだものの色彩にぬられた建物の壁に、模様(動物の形)が、ある」という単純な文章(ことばのありよう)に収斂してしまうなら、しかし、小笠原の詩はおもしろくない。たのしくない。
 私はとりあえず、冒頭の「ここに」を「壁に」という形で読み取り、「ある」という動詞を補う形でひとつの「文章」を浮かび上がらせてみたが、小笠原は最初の2行が簡単にそういう文章になってしまうことを知っているから、即座にそれを破壊するために、2行目の最後にもう一度「ここに」と置く。
 そのとき「ここ」は「壁」なのか。「壁」ではない。冒頭の「ここ」が「壁」であったら、その「ここ」は2行のことばによって「壁」に変質させられた「もの」である。何かである。その「なにか」がもう一度「ここ」というあいまいなものにひきもどされ、そこからことばが動きはじめるのだ。

ここに模様(動物の形)が、くだものの
色彩に塗られた建物の、壁に。ここに
写真で撮影されている、写真と
映画についての記事が多い(おお、
イルカなど、灰色の動物の、出現する
映画についての)カラフルな雑誌に

 「雑誌に」。それは「雑誌」に掲載された「写真」なのか。雑誌は、映画の記事を載せている。そこには動物の写真がある。--それは、冒頭の2行の「動物の形」を、ことばの「過去」から、いま、へと噴出させる。そのとき、「壁」は「壁」そのものではなくなる。「壁」ではあっても、それは「雑誌」に掲載された写真のなかの「壁」である。
 
 小笠原は、ことばの「過去」を噴出させるために「学校教科書」の「文体」を破壊しているのである。
 ことばは常に「過去」を「いま」に噴出させながら、「いま」「ここ」から別なところへと動いていく。「未来」へ、と簡単に言ってしまっていいかどうか、私にはわからないが……。
 このとき「過去」とは、明確な「もの」である。「もの」はそれ自体で「述語」をもたないけれど、その「述語」のかわりに、小笠原は、「助詞」をつかうというと変だけれど、助詞でことばにある方向性をだす。そこには、なんといえばいいのだろうか、自然と「日本語」の意識が動く。動いてしまう。その結果、どうしても「日本語」になってしまう。詩というのは、それぞれ独立した「外国語」なのだけれど、その独立した「外国語」が「日本語」で汚染されてしまう。
 ほんとうは、小笠原は、そういうものをこそ破壊したいのだろうけれど……。
 破壊したくて破壊でなきものが、「日本語」として小笠原に復讐をしかけてくる。その戦い--そう思いながら読むと、小笠原の詩はおもしろい。
 あるいは、逆に、小笠原のことばを、英語などの外国語にしてみたらどうなるか、それを考えると、「日本語」の復讐の度合いがわかっておもしろいかもしれない。
 次の数行、英語、フランス語(など助詞をもたない国語)に翻訳すると、どうなるかな?

「今月の、たべものの店」「野球
サッカーの、緑色のものの上で走る
元気な人たちが、さまざまな肉を
食事」写真と、短文と、料理のカラー写真が並び
ページを読んでいる(広げている、印刷




一輪
池井 昌樹
思潮社

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テレビ (新しい詩人)
小笠原 鳥類
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(107 )

2010-02-12 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 西脇の「音楽」は、どう説明していいか、実際のところわからない。たとえば「たおやめ」の書き出し。

都の憂鬱にめざめて
ひとり多摩の浅瀬を渡る。
梨の花は幾たびか散つた。

 「音」がとても気持ちよく響いてくる。リズムもとても気持ちがいい。私は「意味」を考えていない。音読するわけではないが、「音」が耳に響いてくる。
 1行目「都の憂鬱にめざめて」はゆったりと動く。それが、2、3行目で憂鬱とはまるで関係がないように、快活に音が動く。たぶん「た行」の音の繰り返しが気持ちがいいのだ。2行目「ひとり」の「と」からはじまり、わ「た」る、いく「た」び、「ち」「つ」「た」と動く。
 奇妙な言い方になるが、もし西脇が「散った」と促音でことばを表記していたら、この「音楽」は違ってくる。これは、奇妙な言い方であるとわかっているが、私には、その奇妙さのなかに、西脇の音楽の秘密があるかもしれないと思う。
 私は西脇の詩を音読はしない。あくまで「黙読」。「黙読」というのは「黙」して「読む」ということだが、そのとき声は出さないが「耳」は働いているし、声には出さないが発声器官は動いている。そしてそれは「目」(眼)をとおして動いている。「黙読」ではなく、「目読」あるいは「目読」ということばをつかいたくなる。
 そして、「目読」のとき、「散つた」の音は、「目」と「耳」と「発声器官」で微妙にずれる。目はは「つ」と読む。けれど、耳と発声器官は「っ」。そのずれが、意識のどこかをめざめさせる。何かが敏感になる。
 その敏感になったなにかのなかに「か」という「音」と文字が鮮烈に輝く。あかるい「か」の音。「た」と「か」の響きあい。
 もし、この3行目が「梨の花は幾たびも散つた」であったなら。「か」ではなく「も」ということばを西脇がつかっていたとしたら……。
 たぶん、この詩の音楽は違っていた。「意味」的にみて、「か」と「も」がどれほど違うかよくわからないが、音の問題で言えば、全体に「か」の方がはつらつと響く。音にスピードが出る。
 そして、さらに。
 「た」と響きあう「か」の音に影響されてのことだと思うのだが、「梨の花」が、私の「目」のなかで「梨花」になってしまい、「りか」という音が遠くから聞こえてくるのだ。「なしのはな」にも「い」の音はあるけれど「りか」の方が「い」の音が強烈である。そして、その強烈な「い」が「いくたびかちつた」のなかで形をかえながら動く。「いくたび」の「い」は異質だが「たび」の「い」、「ちつた」の「い」の音は「りか」の「り」に含まれる「い」と、ぴったり重なる。

 あ、こんなことは、きっとどう書いてみても、なんの説得力も持たないだろうと思う。思うけれど、あるいは、思うからこそ、書いておきたいとも思う。誰もこんなことを西脇の詩について言わないかもしれない。言わないかもしれないけれど、私が西脇の詩が好きなのは、こういう、なんともしれない、説明のしようのない部分なのだ。

梨の花は幾たびか散つた

 かっこいいなあ。この音をまねしたいなあ。この行がほしいなあ、と思い、読み返してしまうのだ。
 詩のつづき。

わが思いのはてるまで
静かに流れよ洲(す)から洲へ
明日は
わが男を娶(めと)る日だ。
心はおののくのだ。

 し「ず」かにながれよ「す」から「す」へ/あ「す」は--この「す」の繰り返しも美しい。そのあとの「「日だ」「のだ」の「だ」の繰り返しもおもしろい。不思議に、ことばが加速していく。
 けれど、この「のだ」が、もし2行目にまぎれこんで、

ひとり多摩の浅瀬を渡る「のだ」

 と書かれていたとしたら……。今度は、音楽が崩れてしまう。音は繰り返せばいいというものではない。音が「音楽」になるためには、なにか別な要素も必要なのだ。
 詩はつづく。音の響きあいはまだまだつづく。

唇をこんなに梨色(なしいろ)に塗り
髪はカピトリノのヴィーナスのように
深い淵のように渦巻かせ
頬を杏(あんず)のうす色にぬつたものの
わが恋のこのはてしない色には
劣るのだ。
明日は
わが男を娶る日だ。
この土手のくさむらに
赤い百合が開くのだ。
わが思いを寄せた数々の人々よ
見知らぬ釣人(つりびと)よ
さようなら
  (谷内注・「ものの」のあとの方の「の」は原文は踊り文字。いままで引用して
  きたものも、踊り文字は採用していない。私のパソコンでは表記できないので。)

 「のだ」「日だ」の繰り返しのほかに、こん「な」「な」しいろ、なし「いろ」カピト「リノ」、塗「り」カピト「リ」ノ、「か」み「カ」ピトリノ。「ふ」かい「ふ」ち、「ふ」かい「う」ず。う「ず」あん「ず」。「うず」「うす」いろ、「こい」の「この」。
 そして。
 「な」「し」「いろ」--はて「し」「な」(い)「いろ」
 私はめまいを覚えてしまう。モーツァルトの繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し、あきることのない繰り返しに出会ったときのように、「気分」というものが(そんなふうに呼んでいいのかどうかわからないが)、ぶっとんでしまう。酔っぱらってしまう。
 なんだかわからないが、「明日は/わが男を娶るのだ」、と女になっていいふらしたい気分になってしまう。



詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房

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支倉隆子「冬の猿/アラバール」、荒川純子「贖罪」「湖水婚」

2010-02-12 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
支倉隆子「冬の猿/アラバール」、荒川純子「贖罪」「湖水婚」(「歴程」565 、2010年01月31日発行)

 支倉隆子「冬の猿/アラバール」はジャン・ギャバン主演の「冬の猿」という映画を思い出す詩である。思い出すといっても、「その映画は見たことがない」。この矛盾のなかで、ことばはどんなふうに動くか。動いていける。
 どこで、どんなふうに手にいれたかわからない「知識」がことばとなって動いていく。

鳩を飼う殺し屋、街角、場末、アラバール。「奇妙に柔らかい巣」。奇妙に柔らかい巣をもった殺し屋。奇妙に柔らかい巣をもった鳩を飼う殺し屋。鳩を飼う殺し屋が奇妙に柔らかい巣を持ち……、

 ここでは何も言っていない。その何も言っていないところがおもしろい。支倉をとらえているのは、単なることばである。「意味」をもっていないことばである。「意味」という言い方が不自然なら、帰属する「現実」をもたないことばである。それが何かを正しくあらわしているか、判断する材料を支倉はもっていない。「冬の猿」を見ていないのだから。
 それでも、ことばは動く。
 なんのために? どこへ向けて?
 何もわからない。わからなくても、動いていこうとしている。それを支倉は、ただ動きにまかせて追っている。
 そして、その途中には、「非鉄金属減量地金問屋。㈱吉澤五郎商店」というような、ことばの乱入もある。それは「冬の猿」とは無関係なようでいて、あ、ほんとうは、この突然の「もの」そのもののことばの乱入を支倉は書きたかったのではないだろうか、と想像させる。
 「冬の猿」など、映画オタクにまかせておけばいい。どうでもいいのだ。その映画など。ただ唐突に「冬の猿」ということばを思いついた支倉は、そのことばを書きたいと思い、そのこ書きたい気持ちを「冬の猿」ということばとともに動かしていて、いろいろなことばと出会う。
 映画の街、映画のバー(アラバール、とはア・ラ・バール、酒場にて、くらいの意味だろうか)とは遠く離れた支倉の街が、重ならないまま、重なり(奇妙な言い方だけれど、ずれそのものとして重なり)、手触りのあることばが噴出してくる。
 映画の聞きかじった「ストーリー」から「鳩」だの「殺し屋」だの「柔らかい巣」だのということばが噴出してくるように、支倉の街の中から、「非鉄金属減量地金問屋。㈱吉澤五郎商店」あるいは、「丸穴㈱富田穴かがり工業所」というようなものか噴出してくる。それは、「いま」「ここ」にある「過去」である。
 あ、ことばは動くとき、どうしても、「いま」「ここ」へ「過去」を噴出させるものなのだ。そして、「過去」だけが「未来」へ動いていくのだ、ということがわかる。
 その構造は、支倉が「冬の猿」ということばを急に思い出したのと同じ構造である。入れ子細工のように、ことばが動き回る。ぶつかり、音を立てる。その音を楽しみながら、支倉はことばを動かしている。
 ここに「無意味」の美しさがある。



 荒川純子「贖罪」「湖水婚」は「無意味」の対局にある。荒川のことばは「意味」を伝えたくてもがいている。

壁の向こう側はよくみえても
私は出られない
でも私は抜け出せない
                        (「贖罪」)

 「私は出られない/でも私は抜け出せない」は変じゃない? 「出られない」なら「抜け出せない」のはあたりまえ。「でも」で結びつけると矛盾するよ。
 ああ、そうではないのだ。
 この「でも」にこそ荒川の苦しみである。
 この3行は、ほんとうは「壁の向こう側はよくみえる/(でも)私は出られない/壁の向こう側はよくみえる/でも私は抜け出せない」と4行なのだろう。4行書いている時間があれば、荒川はもっと正確に「意味」を伝えられる。しかし、荒川は、そんなふうにしてことばを「ていねい」に誤解のないように動かしているほどの余裕はないのだ。
 支倉は「無意味」を噴出させることで、ことばの楽しさを味わわせてくれたが、荒川にとっては「無意味」は耐えられないかもしれない。

私は今、せかされている
                        (「贖罪」)

 何に?
 ことばに、である。ことばにならないことばに、せかされているのだ。

 「湖水婚」というのは、そうしてせかされる形で噴出してきた、荒川の悲しみであるだろう。「湖水婚」ということばは、辞書にはのっていない。せかされて、荒川の「肉体」が生み出したことばである。支倉は「過去」をことばとてし噴出させたが、荒川は「過去」をそのまま噴出させたくない。「肉体」のなかで「過去」という精子と荒川自身の卵子を結合させ、新しい「いのち」として生み出すのだ。

私はボートと婚姻した
女はオールを持ってはいけない
唇を縫われてただ座っていればいい

(略)

私には決定権はない
首にはみえない番号がふられ
順番に居場所を決められる
それが私には湖だった
ボートとの足かせが私の生き方と示され
誰もが憧れていた
服も髪も身につけるものは全て決められ
ずっと心待ちにしていた

こんな悲痛な事だなんて
湖水に手を浸しあおむけになる
どれだけこうしていればいいのだろう
ボートにゆられて
私は湖の中心でじっと動かないでいる

 あ、荒川は、ことばがことば自身の力で生まれてくるのを待っているようでもある。荒川の「肉体」をくぐりぬけることで、「流通言語」とは違った形になって、荒川の胎内を突き破って出てくるのを待っている。「湖水婚」ということばは、そのはじまりを告げている。
 荒川は、いま、新しいことばを妊娠している。




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支倉 隆子
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デパガの位置
荒川 純子
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誰も書かなかった西脇順三郎(106 )

2010-02-11 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇の詩には並列が多い。そのため、ことばの動いていく先が前へ前へというより、横へ広がる感じがする。それは「進む」というよりも、「いま」「ここ」にとどまりつづける動きのように思える。
 「プロサミヨン」という短い詩がある。「プロサミヨン」というのはなんのことだろう。私にはわからないが、そのなかには「行く人」が出てきて、「流れ去る」ということばもあるのだが、私には、その運動は、「いま」「ここ」からどこかへ動いていく運動には見えない。

川原を行く人よ
思う旅をして
君が行く路の草むらの中で
薫しい果(み)をうめ。
この多摩の女のせせらぎに
鳴くよしきりに
このぼけの花が咲く垣根に
やるせない宿命があるのだ
宝石がくもる。
あたたかい砂が
胸にこぼれる
流れ行く春の日も
流れ行く女も
寂光の菫に濡れて
流れ去る命の
ただひと時

 西脇に、何か書きたい「意味」があるかどうか、よくわからない。私は「意味」を考えない。時間--「流れ行く」ものの無常さ、ということばが思い浮かばないわけではないが、その流れ去るもの、過ぎ行くものという思いとは逆に、並列することで「いま」「ここ」を押し広げるものの方に、私の意識は傾いてしまう。
 「せせらぎに」「よしきりに」「垣根に」。「に」でつながれたものたち。つながれるたびに、視線が垂直にではなく、水平に動く。そのことばが「やるせない宿命があるのだ」という1行に集約していくというよりも、行の展開とは逆に、「やるせない宿命があるのだ」という1行が、先行する3行の中へ分散していく感じがする。
 もし、感動(?)、あるいは「意味」を強調するというか、西脇が「発見」したものを明確に印象づけたいなら、ひとつの「もの」だけを描き、たとえば「せせらぎ」だけを描いて、せせらぎと宿命ということばの運動をバネにさらに進んで行けばいいのだろうけれど、西脇は、そういうことをしない。集中ではなく、分散させる。これでは、ことばの運動として弱くはないか……。

 だが、というべきか、そして、というべきか。

 そして、いま書いたことと矛盾したことを書いてしまうのだが……。「やるせない宿命があるのだ」という1行は、分散することで、不思議な「一体感」をもたらす。「せせらぎに/やるせない宿命があるのだ」「よしきりに/やるせない宿命があるのだ」「垣根に/やるせない宿命があるのだ」というふうに分散しながら、「せせらぎ」も「よしきり」も「垣根」もひとつになる。それは「宿命」というものがあらわれてくるとき、それぞれ対等なのである--という意味で「ひとつ」になる。
 宿命があらわれる、すがたをあらわすとき、「せせらぎ」も「よしきり」も「垣根」も同じである。西脇が正確に書いているように、複数のもの(せせらぎ、よしきり、垣根)にひとつのもの「宿命」が姿をあらわす。「せせらぎ」の宿命、「よしきり」の宿命、「垣根」の宿命--それは複数ではなく「ひとつ」である。

 「複数」と「ひとつ」がくっついてしまう。これは矛盾である。矛盾だから、私は、そこに惹かれてしまう。その行を何度も読み返してしまう。読み返して、その矛盾がとけるわけではない。とけない。そのままである。そして、そのことが、私にはうれしいのだ。うまくいえないが。

 さらに、この「矛盾」の構造の中に「この」ということばが繰り返されているのも、何か「矛盾」を強調するようで楽しい。一般名詞としての「せせらぎ」や「垣根」ではない。「この」という限定されたもの、明確に区別された「もの」、その「複数」こそが「ひとつ」になりうるのだ。
 それを西脇は「音楽」にしてしまっている。
 「この」と繰り返される「音」、その「音」は「ひとつ」である。それぞれ指し示すもの(対象)は違うけれど、「音」は「ひとつ」。
 「意味」より先に「音」が西脇の思想、「音楽」を実現してしまうのだ。

 後半の「流れ」も同じ。そこに書かれている「流れ」はそれぞれ別の存在である。別の運動である。けれど、それは「流れる」という「ひとつ」の運動の中に集まりながら、過去へ引き返すようにして、それぞれの中へ分散していく。
 「複数」と「ひとつ」の融合--それが「音」のなかで起きる。




西脇順三郎のモダニズム―「ギリシア的抒情詩」全篇を読む
沢 正宏
双文社出版

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たかぎたかよし『回遊と伏流』

2010-02-11 00:00:00 | 詩集
たかぎたかよし『回遊と伏流』(霧工房、2010年01月14日発行)

 推敲ということばが随所に出てくる。たかぎたかよしは推敲のひとである、といっていいかもしれない。

 いったい詩はどこにとどけられるのだろうか。
 蟹のよ
 土を落とすと どこまでも限りなく吸い込まれて
 雨は誘われ しみゆき 止まず (詩「しおりの径」より)
 土に開いた黒い穴。そこに「雨は誘われ」て止まない。そう書いて落ち着いた。推敲時、「その下に死が横たわっている」と書いたりしたが、筆を置けなかった。詩行は、その行先を内に抱いているのだろう。

 たかぎを「推敲」へと動かしているのは「行先」ということばである。なんのために「推敲」するか--そう問われたとき、たかぎは、ことばを、「いま」「ここ」に定着させるのではなく、ことばがこれから向かう先、その行き先へ自然に(? 自由に、自らの力で)動いて行けるようにするため、というかもしれない。
 「その下に死が横たわっている」と書いてしまえば、ことばは、そこで止まってしまう。ことばで完全に世界を「定着」させるのは、それはそれでいいのかもしれないけれど、高木はそれを望んでいない。自分の書いたことばで「世界」が完結するのではなく、そのことばがどこかへ動いて行って、そこに、いま、ここにはない世界が完成する--そいういうことを願っている。
 「詩行は、その行先を内に抱いているのだろう。」は、そういうことを言おうとして書かれたことばであるように思える。

 このことばでおもしろいのは「行先」と「内」ということばの対立(?)である。「行先」とは「いま」「ここ」ではないところである。しかし、その「行先」をことばは「内」にもっている。「いま」「ここ」から離れた場所が「行先」なのではなく、「いま」「ここ」の「内」こそが「行先」である。
 これは矛盾である。そして、矛盾であるから、それは「思想」であり、「肉体」である。
 「行先」(自分より、外)と「内」は本来切り離されたものであるが、その切り離されているはずのものが実は「表裏一体」のもの、ひとつのものである。そういう「表裏一体」「ひとつ」のものとしての「ことば」にかえるために、たかぎは「推敲」する。

 そして、推敲すればするほど、ことばは「表裏一体」(複数であるのに「ひとつ」)という世界へ近づいていく。そして、そのことばが「表裏一体」に近づけば近づくほど、あたりまえのことかもしれないが、「内」(内部)に矛盾したもの、「流通言語」ではいいあらわせないものが蓄積してくる。そして、どうなるか。
 たかぎは、次のように書いている。

 「机」という名は、多くの言語で見かけは異っても、その本質に繋がる像を内在している。真の「意味」とも言えるこの像は、言語の姿でしか見出せないが、それ故に、叙述の場でなら、文体の隅々を決定しようと働きかけてくる。推敲とはそんな内圧を持つ行為なのだ。「机」の辞書的な意味の根が私という存在を伸びはじめる。

 最後の、

「机」の辞書的な意味の根が私という存在を伸びはじめる。

 が、「表裏一体」(ひとつ)ということに繋がる。ことばをとおして「私(たかぎ)」と「机」が表裏一体になる。私はもとより机ではないし、机は私ではない。けれど、そこにあるものを「机」と呼ぶとき、「私」は何なのか。
 机を私と切り離して、あくまで机というとらえ方もできるが、机を机と呼ぶとき、私自身が机となって存在するということも可能なのだ。私の中にある机という名の意味を私がよしとするからこそ、そのとき机は私とともに存在する。もし、私のなかの机という名に対して私が異議をもつとき、それは机ではなくなる。
 たかぎが書こうとしているのは、「表裏一体」(ひとつ)には、常に「私」が含まれるということである。私自身が対象と「表裏一体」(ひとつ)になるために、「推敲」がある、ということである。
 その「ひとつ」になる過程(運動?)のあり方を、なんと呼べばいいのだろう。たかぎは、細見和之翻訳のベンヤミンを引いている。

ベンヤミンの考えている人間の言語の使命は、およそこの世の事柄と出来事を「神」にたいして報告し証言する、そういうコンテクストに置かれているように思われる

 「神」。ベンヤミンなら「神」と向き合うことが推敲なのだ。推敲は、ベンヤミンにあっては、ひとつの絶対的な宗教なのである。たかぎとベンヤミンの関係は、私にはよくわからないが(ベンヤミンを私は読んでいないので、さっぱりわからないのだが)、たかぎにとって推敲は、絶対的宗教のようなものである。「世界の一体感」というか「世界」を自己と一体のもの(表裏一体、という意味であって、独裁という意味ではない)という境地に到達するための、強い祈りのようなものである。
 --私は無宗教なので「神」ということばを無造作につかっているかもしれないが、そんなことを感じた。

 たかぎのことばには、ことばの絶対性への強い希求があると感じた。




四時-夜をつたう
たかぎ たかよし
編集工房ノア

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誰も書かなかった西脇順三郎(105 )

2010-02-10 16:54:33 | 誰も書かなかった西脇順三郎


 西脇のことばは、いったい幾種類あるのだろう。いろいろな響きが楽しめるが、いなかの、ひなびた(?)感じの音も私にはとても魅力的に感じられる。そして、それを強調するような、遠い音の存在--その落差が楽しい。
 「留守」

十一月の末
都を去つて下総の庵(いおり)に来てみた
庵主様は留守だつた。
平安朝の黒い木像に
野辺の草木を飾るその草も
枯れていた
もはや生垣のむくげの花も散つて
田圃に降りる鷺もいない。
竹藪に榧(かや)の実がしきりに落ちる
アテネの女神に似た髪を結う
ノビラのおつかさんの
「なかさおはいりなせ--」という
言葉も未だ今日はきかない。

 「なかさおはいりなせ--」。なんでもないことばのようだが、この口語のふいの乱入が、すべてのことばを活気づかせる。2行目の「庵主様」というひなびた音と通い合うのだが、そういう口語、日本語のひなびた響きと「アテネ」という外国語が並列に置かれる。そこに西脇独特の「音楽」がある。
 西脇のことばは、一方で先へ先へと進む「意識の流れ」のようなものが主流だが、他方でその流れには常に平行して流れる伏流のようなものがある。それが、ふっとあらわれ、合流する。そのとき、その両方の流れが輝く。
 「アテネ」と「なかさおはいりなせ」では、ほんらい、その「基底」となる「文脈」が違うと思うが、つまり、ふつう、田舎の風景を描くとき、アテネというようなものは遠ざけられ、田舎の風景の文脈の中からことばが選ばれるのが基本的なことばの運動だと思うが、西脇にはこの「文脈」の意識がない。
 いや、それを、外してしまうことが西脇のことばの運動の基本なのだろう。
 違う文脈、ありえない文脈の出会い。そこで、「音」が活性化する。「アテネの女神」という「音」がなかったら、「なかさおはいりなせ」という音は、それまでの「音」に紛れ込んでしまう。「意味」になってしまう。
 「都」から離れた田舎、その風景。そこには草木だけではなく、「おつかさん」という人間さえもが風景になる。そういう固まった(固定化した)風景のなかでは、その「おつかさん」が「なかさおはいりなせ」といっても、それは風景にすぎない。
 それでは、詩にはならない。

 音がめざめる。そこから、ふたたび下総の風景へことばはかえっていくけれど、そのとき、ことばはもう「意味」ではない。純粋に「音楽」である。

秋霊はさまよつて
天はつき果てたようだ
ただ蒼白の眼(まなこ)に曇つてみえるのは
うす桃色の山あざみだ
何処の国の夕陽か
その色は不思議な力をもつている。
思わず手折る女つぽい考えは
咲いては散り、散つは咲く
このつきない花の色に
ひとり残されて
庵主の帰りを待つのだ。

 「思わず手折る女つぽい考えは」という1行の「意味」をどうとらえていいのか、私は考えないのだが、その行に繰り返される「お」の音の美しさ、そしてその音の繰り返しが次の「咲いては散り、散つは咲く」ということばの繰り返しにかわるときの「音」の不思議な動き--音は音に誘われて音を真似する(?)というのか、自然と「文体」をつくってしまう不思議さに、なぜか酔ってしまう。
 「このつきない花の色に」の「この」もとても気持ちがいい。「このつきない花の色」は「山あざみ」の色かもしれないが、「うす桃色」だけではなく、そういう具体的な「色」ではなく、「女つぽい」を含んだ「この」という感じが自然につたわってくる。うーん、それとも「ひとり残されて」が「女つぽい」のか「庵主の帰りを待つ」が「女つぽい」のかわからないけれど、「この」という音を中心にして、全体がひとつの「音楽」になる。そういう感じがする。



西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「フィレンツェの十二月」

2010-02-10 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「フィレンツェの十二月」(「ロシア文化通信GUN 群」35、2009年12月31日発行)

 「改行」の意識--詩人に、「改行」の意識はどれくらい働いているだろうか。「改行」のとき、何を意識するだろうか。1行の独立か、次の行への飛躍か。翻訳の場合、それはどんなふうに反映されるのだろうか。日本語と外国語とでは、ことばの順序が違う。そこでは「改行」の意識は、当然違ってくるはずだ。だが、私は外国語がわからない。もし、対訳の形で原文が掲載されていても、たとえば、たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「フィレンツェの十二月」において、ロシア語の原文と日本語の訳のあいだに、どんな「改行」意識の違いがあるかわからない。
 わからないから、私は、たなかあきみつ訳ヨシフ・ブロツキイ「フィレンツェの十二月」を「日本語」として読む。たなかあきみつのことばとして読む。

ドアは空気を吸いこみ蒸気を吐きだす。だが
おまえは当地には帰還しないだろう、そこでは二人ずつに分かれて
住民は水かさの減ったアルノ河をぶらつく。
新種の四足獣をほうふつさせながら。ドアは
ばたんばたんし、アスファルト道路にはけものらがお出まし。
じつに森っぽいなにかがこの年の圏内には
ある。これは美しい都市、
そこで一定年齢になるとおまえは人からさりげなく
視線をそらし襟をたてる。

 1行1行の独立と、次の行への飛躍の距離(切断と接続の関係)は、たぶん切り離せない問題だろう。どちらに重点を置いて、そのことを語るかだけの違いかもしれないが、このたなかのことばを読んでいると、あるいは正確に「改行」システムを読んでいると、1行1行の独立した美しさが印象に残る。

ドアは空気を吸いこみ蒸気を吐きだす。だが

 という1行は、ふたつの要素から成り立っている。ドアの描写と、「だが」という接続し。その接続詞は、当然、2行目と接続する。

ドアは空気を吸いこみ蒸気を吐きだす。だが
おまえは当地には帰還しないだろう、そこでは二人ずつに分かれて

 と、2行にしてみると、その「2行」では意味がわからない。「ドアは空気を吸いこみ蒸気を吐きだす。だが」という1行だけのときは、ドアの姿が見えたが、2行目に接続して読むと、何が描かれていたのかさえわからなくなる。
 そして、1行目について、私は最初「ドアの描写」と書いたが、それはほんとうにドアの描写だったのかさえ、あやしくなる。たしかに「ドアは」という日本語は「ドア」を主語にしている。けれど、私には、そのドアよりも、「空気を吸いこみ蒸気を吐きだす」ということばのなかにある「空気→蒸気」という変化が気になる。「空気」と「蒸気」こそ、詩人が書きたいものなのではないのか、という気がしてくる。
 1行は1行として独立するだけではなく、その1行の中でも、ことばがひとつずつ独立し、拮抗し、動いている。--それが詩のスタイルだという印象が強くなる。
 この印象は2行目でも深まる。

おまえは当地には帰還しないだろう、そこでは二人ずつに分かれて

 この読点「、」で接続するふたつの文章は、どんな「意味」でつながっているのか、どんな「意味」を共有しているのか、これだけではさっぱりわからない。「おまえは当地には帰還しないだろう」という文章と、「そこでは二人ずつに分かれて」が拮抗している。それだけではなく、「意味」になるかことを拒絶している。読点「、」一個を媒介にすることで……。

 この作品では「意味」が生まれる前のことばが描かれている。そう言いなおすことができる。
 ここには、「意味」になるまえの、「もの」が「もの」として、ただことばになっている。「意味」に帰還せず、「もの」に帰還していくことば。それは「もの」から常に新しく出発するということかもしれない。何にも「意味づけ」されていない純粋な「もの」。そこから出発しなおすことは、とうぜん、いままでの「意味」を破壊し、ことばを宙ぶらりんにする仕事である。
 たなかはブツツキイの仕事を、そういうものだと解釈して、日本語を動かしているように思える。

 1行は1行として、何にも帰属しない。どこへも「帰還」しない。その印象が強くなるから、その1行のなかのことばもまた、どこへも帰属しないもの、帰還しないものとしてあらわれてくる。いや、1行の中にある「もの」は、それぞれ1行の中にある他のものに帰還したくない、帰属したくないと主張しているように見える。そして、その印象が1行をより独立したものとして浮かび上がらせるというべきなのか。
 3行目も同じである。

住民は水かさの減ったアルノ河をぶらつく。

 これは、学校教科書の文法(あるいは分析)どおりに考えれば、主語は「住民」であり、「述語」は「ぶらつく」。アルノ河は「場所」をあらわし、「水かさの減った」は「アルノ河」を修飾することばである。けれど、それはほんとうに、そんなふうに見える? つまり、住民が「主語」として、ほんとうに見える?
 あ、私には、そんなふうにしては見えない。まず目に浮かぶのは見たこともないアルノ河である。見たことがないにもかかわらず、それに固有名詞があるというだけで、「住民」よりもくっきり見えてくる。さらに「水かさの減った」という状態と河の関係、その姿が見えてくる。何も知らないのに--知っているのは「水かさが減る」と河がどうなるかとうことだけなのに……。おそらく「水かさの減った」ということばが、1行を活性化させて、「主語」に「下克上」をもたらすのだ。学校教科書の分析では「住民」が主語になるが、1行のなかの印象では「アルノ河」が「主語」をのっとってしまうのだ。

 「主語」がわからなくなる、ということは、また「述語」がわからなくなる、ということでもある。それでも、なぜか、そこに書かれていることにひきつけられる。
 これは、どういうことだろう。

 ことば、というか、文には「主語」があり、「述語」があり、その緊密な関係によって「意味」が形成されるのだけれど、その学校教科書の「文法」をつきやぶっていくものが、ことばそのもの、ことばとものとのあいだにはあるのかもしれない。そして、詩は、「意味」の関係を断ち切り、ことばを「意味」にそくばくされない状態へ帰還させるものなのかもしれない。
 1行1行が独立するだけではなく、その1行の中でも、それぞれのことばが独立し、拮抗し、「意味」を破壊し、「もの」に帰還していく--そして、帰還した場所から、新たに出発する「もの」としての「ことば」。それが詩かもしれない。
 ことばが「もの」にかわる、それが詩なのだ。「もの」としての手触りのあることばが詩なのだ。そこには「意味」はない。

視線をそらし襟をたてる。

 「視線」がみえる。「そらす」という動きがみえる。「襟」がみえる。「たてる」ときの人間の動きがみえる。そして、そういうものがつくりだす、まだことばになっていないものが、「ことば」になろうとしているのを感じる。

 そして、ここに書かれていることばの運動は、唐突な言い方になるが、「書きことば」だから成立しているように私には感じられる。
 この詩を、たとえば朗読で聞いたとしたら(話しことば、声として聞いたら)、私は、1行1行のなかに、ことばが拮抗している。たがいのことばが「意味」を剥奪し合って「もの」になっているとは感じなかっただろう。
 そういう意味では、「改行」システム--改行という詩の書き方のシステムが、詩のことばを特徴づける最初の一歩かもしれない。ごつごつ(?)とした改行によって、1行のなかのことばが覚醒する。「意味」であることを拒絶して、おのれじしんの「ことば」になろうとする。詩は、おのれじしんになったことばが勝手に動いていく運動なのだ、きっと。--と、点の根拠もないことなのだけれど、そんなことを考えた。感じた。



 と書いたあとで、こんなことを書くのも変なんだけれど。……どうも、面倒くさいことを書いてしまったね。
 簡単に、1行1行が独立していて、その1行のなかで、ひとつひとつのことばが独立している。その「ぶつぶつ感」が詩である。改行システムは、その「ぶつぶつ感」を引き立てるように働くとき、詩がいっそう魅力的になる。そう書けばよかったのかもしれない。たかなの訳は、たなかの意図かブロツキイのことばがそうなっていかるなのかわからないが、ことばのぶつぶつ感がとても刺激的な改行システムのなかで動いている。
 整理しなおすと、そういうことなのかなあ。







ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂

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ジョン・スタージェス監督「大脱走」(★★★)

2010-02-09 17:10:35 | 午前十時の映画祭
監督 ジョン・スタージェス 出演 スティーヴ・マックイーン、ジェームズ・ガーナー、リチャード・アッテンボロー、ジェームズ・ドナルド、チャールズ・ブロンソン

 東宝の「午前10時の映画祭」。福岡は「大脱走」で始まり、最後は「ブリット」。かなり観客が入っていた。映画ファンとしては、ともかくうれしい。

 私は「大脱走」はスクリーンでは見ていない。スクリーンで見るのは初めてだが、あ、なつかしい、と感じてしまった。緑の平原、その道をナチスの車が列をなして走ってくる。あ、これって、初めて映画をとったナントカカントカ(私は歴史は苦手、カタカナの名前も苦手)の映像に似ている。工場からぞろぞろ出てくる労働者。駅からあふれる人。動き始めた列車――ようするに、背景は止まっていて人や物が動く。動いているものを見せるのが映画。止まっているものなら写真で十分だからねえ。うーん、いいなあ、この始まり、映画だ、映画が始まるぞ、という感じ。
 追いかけるように、緑の補色、赤で出演者の名前。文字には補色だけでは弱い(?)と思ったのか、影まで付けている。あ、これが昔のスタイルなんだなあ。現実そのものではなく、現実を強調したもの、それが映画。
 そう思うとこの映画はわかりやすい。実話。実話だけれど、それにあれこれアクセントをつけて、印象を強くした。観客に強い印象を残すように、再構成した――それが映画。

 で、本篇。
 やはり、静と動の組み合わせ。対比。並列することで、相手の色彩を強調する。対比と強調がアンサンブルの基本だね。スティーヴ・マックイーンの一匹狼、リチャード・アッテンボローの組織(集団意識)の対比とかね。
 トンネル掘りの道具の調達、偽造書類のための調達――など、いろいろ困難な問題があるはずなんだけれど、困難さではなく、知恵を強調して、脱走する捕虜を理想化する。脱走させまいと監視する方の努力(?)には触れない。そのため、緊迫感に欠けるね。今の映画の視点から見ると。
 ちょっとびっくりしたのは、脱走後見つかってしまったリチャード・アッテンボローたちをナチスが銃殺するシーン。捕虜を捕虜として扱うという国際的な条約を無視して殺害する。それがナチスだ、という告発がここにある。事実なんだろうけれど、その強調の仕方が、さらりとしている。(「カティンの森」と比べると、違いがわかる。)
 レジスタンスの描き方とか、さらりとしていて効果的なシーンもあるけれど、そのシーンを撮るのに「さらり」の効果を監督が考えたかどうか、ちょっとわからない。(それが残念。)

 昔読んだ本を読み返すと印象が違うように、昔見た映画を見直すと、やはり印象が違う。どんな違った印象が生まれるか――それを知る楽しみが、あと49本つづく。全部見るかどうかはわからないが。




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岩佐なを「飛行」、川上明日夫「空の遠慮」

2010-02-09 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「飛行」、川上明日夫「空の遠慮」(「孔雀船」75、2010年01月15日発行)

 ことばを書くのではなく、ことばが「自由」に動いていく。そんなふうに感想が動いていけばどんなにいいだろうと思う。私は、これこれの「結論」が書きたいと思って書きはじめるわけでないが、どうしてもそこに「結論」めいたものが出てきてしまう。それはそれでいいのだろうけれど、そういう「結論」ではなく、ただことばが「自由」に動くというような状態にならないだろうか、と最近思うようになってきた。「結論」を壊して、ただ動く--そのときのことばの楽しさ。そういうものが書けないだろうか……。
 そんなことを思いながらこうしてことばを動かしている私には、岩佐なを「飛行」は、うらやましいかぎりの作品である。岩佐が何を狙って書いたか、まあ、そんなことは無視しての感想だけれど。
 「飛行」というのは、ビルの建築現場から飛び降り自殺する男を描写している。こんなことを書くと善良な読者からはひんしゅくを買いそうだが、なかほどのあたりがとてもおもしろい。

そのあと男はどうするか
サ、
サ、サカサマ。「マ」
マ、マチビト。「ト」
ト、トチュウゲシャ。(人生の)
途中芸者、チガウ。(ノルカソルカ)
町人、チガウ。(キタラズ)
坂様、チガウ。(ヨモツヒラ坂)

 最初の「サ、」は「さあ、どうする、さあ、さあ、さあ、さあ」の「さ」のようなものだろう。で、どうするか、と言われたってねえ。男は飛び降り自殺をするんでしょ? どうするも何もないよなあ。でも、ことばは何か言わなければならない。(ほんとう? ほんとうに何か言わないといけない?)で、「サ」につられて「サカサマ」。「サカサマ」に落ちるってこと? でも、そんなことはちょっと口に出しては言えないよね。言ってしまったけれど。うーん。あ、そうだ。「サ」、「サ、ねえ……。サカサマ、あ、でもこれは、しり取りだからね」「マ、マチビト」「ト、トチュウゲシャ」
 「途中下車、人生の? 自殺は、人生の途中下車?」
 あ、いやだね。「意味」は、どうしても「いやなもの」を呼び寄せてしまうね。
 途中下車ではなく、途中芸者。同じように、「町人」「坂様」。
 それは、もちろん「間違っている」(チガウ)のだけれど、この瞬間のことばの動きがいいなあ。とてもいいなあ。「町人」来らず。「待ち人、来らず」などと、ことばが勝手に動いていくところがいいなあ。
 ことばには、こんなふうに、「意味」にぶつかるたびに、「意味」にしばられることを嫌って、そこから逸脱していく力がある。「意味」へ向けて動いていくことばと同様に、「意味」から逸脱していく力がある。それが、自然に動いている。
 この部分は、とても好きだなあ。

 もちろん、この数行に対して、私は「別な意味」もつけくわえることができる。たとえば、もし自殺するひとのことばに、いま岩佐が書いているような運動をする力があれば、自殺するひとは「意味」の犠牲にならずに、生きていける。
 「意味」を破壊することば、ナンセンスの異議はそこにある、なんてね。

 あるいは、ことばの「自由」とは結局のところ、「引用」の自在さによる。ことばはすでに書かれてしまっている。語られてしまっている。書かれていないことば、語られていないことばなどない。「いま」「ここ」の「文脈」をどれだけ逸脱する形でことばを引用できるか--「自由」は、その能力のことである。
 「マチビト」から「町人」へ。そして、「町人」をチガウと否定したあと、「町人来らず」。「ちょうにん」じゃなくて「町人(まちびと)」来らず、「待ち人来らず」。「おみくじ」が引用される。日本語の地層の深いところから、ことばをひろいあげ、それによって「いま」を「注解する」。引用とは「注解する」ことだね--と書くと、またまた岡井隆にいってしまいそうなので、これ以上は書かない。
 --などと、書くこともできる。

 あるいはさらに、ここには「話しことば」と「書きことば」の不思議な出会いがある。「町人」は普通は「まちびと」とは読まない。「ちょうにん」である。けれど、その書きことば(書かれた文字)は「まちびと」は読んではいけないというわけでもないだろう。そういうふうに「読む」ことができる。書きことばは、口語(話しことば)よりも、自在に暴走することができる。それは「読み」を裏切って、新しい「読み」を生み出し、違ったものになっていく。そういう力がある。(あ、麻生元首相の「みぞゆう」は、これとは別問題ですよ。)
 書きことばは、暴走するのだ。
 --と感想を書き換えることもできる。
 岩佐のこの作品は「書かれている」(書きことばである)からこそ、こういうふうに暴走することができる。ひとと向き合って、口語として、あ、ビルの建築現場から自殺しようとするひとがいる、サ、サカサマ、マ、マチビト、ト、トチュウゲシャ、じゃなくて、途中芸者、まちびと来らず、坂様……と言ったとしたら(まあ、いっている意味が「口語」ではわからないかもしれないけれど)、どうしたって「不謹慎」という反応が返ってくるだろう。
 「口語」は、岩佐が、この作品で書いているような暴走はできないのである。

 で、それがどうした? と言われれば、どうもしない。ただ、私は、岩佐のこの作品について何か書こうとしたら、ついつい、そういうことを書いてしまった、というだけのことである。
 「結論」とは無縁な、こういうことばの運動を誘ってくれる作品が、私は、最近とても好きである。



 川上明日夫「空の遠慮」は、

すこし 草深い空の露にぬれながら 眼にみえないもの

 という1行で始まる。--と書くと、きっと、いやそうではない、という反論がどこからか(あらゆるところから?)返ってきそうである。
 川上の作品は行分け詩ではない。「散文詩」のような作品であり、「すこし 草深い空の露にぬれながら 眼にみえないもの」は1行ではない。そのことばは、改行なしに、次の行につづいているのである、と川上自身も反論するかもしれない。
 しかし、私は、その行を、連続したものではなく、1行、1行として読みたいのだ。

すこし 草深い空の露にぬれながら 眼にみえないもの
たちの隣りでは もう ひっそり 遠慮しながら飛んで
いました 羽根に朝のうつり香が濃い 春のひかりの一

 「すこし 草深い空の露にぬれながら 眼にみえないもの」はともかく、2行目の「たちの隣りでは もう ひっそり 遠慮しながら飛んで」を独立した1行とすると、「意味」が成り立たない--きっと多くのひとはそう考えると思う。
 だけれど(?)、といえばいいのかどうかわからないけれど、私は「意味」が成り立たないからこそ、そこに不思議な「美」を感じるのである。
 「たちの」は、それでは何なのか、という疑問が起きるかもしれないが、その「たちの」を「眼にみえないものたちの」ととらえなおしたところで、それ何? 何かわからない。わからないなら、わざわざ「たちの」ではわからないと反論(?)する「意味」がないではないか。だいたい、「すこし 草深い空の露にぬれながら 眼にみえないもの/たちの隣りでは もう ひっそり 遠慮しながら飛んで/いました」が改行がなくて、「すこし 草深い空の露にぬれながら 眼にみえないものたちの隣りでは もう ひっそり 遠慮しながら飛んでいました」と仮定してみても、この文章(?)の「意味」はわからない。「主語」が何かわからない。眼にみえないもの、そのとなりで「飛んでいました」って、何が? 眼にみえないものが何かもわからなければ、その隣で飛んでいるものも何かわからない。「主語」がない。
 そうであるなら、そこに「意味」を探るよりも、この改行がつくりだす、一瞬、はっと前の行にもどり、もう一度動きはじめることばの運動そのものを楽しんだらいいのではないか、と私は思うのだ。

すこし 草深い空の露にぬれながら 眼にみえないもの
たちの隣りでは もう ひっそり 遠慮しながら飛んで
いました 羽根に朝のうつり香が濃い 春のひかりの一
服です あけやらぬ人生の 空の野原では さっきから

 「春のひかりの一」が改行をへて、そのあと「一服」にもどるときの、不思議な感じ。話しことばにはない、独特のリズム、「意味」の破壊が、そこにはある。そして、それが楽しいのだ。
 川上のこの作品のことばも、書かれることによって、暴走しているのだ。
 だから、ほら。

空の野原では

 どう読みます? 「そらののはらでは」「くうののはらでは」、それとも「からののはらでは」? 話しことばで聞けばつまずく部分だけれど、「書きことば」を読むかぎり、そこではつまずかない。どう読んでいいかわからないまま、かってに、意識が飛んでしまう。暴走どころではなく、ぶっ飛んで、どこかへ行ってしまう。
 あ、いいなあ。楽しいなあ、このスピード。
 --というようなことを思いながら、私は詩を読んでいる。





鏡ノ場
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「インビクタス/負けざる者たち」「抱擁のかけら」(補足)

2010-02-08 13:12:47 | 映画

 いい映画というのは、書いても書いても書き切れない。私は目の調子が悪いので1回に書ける量(文字数、というか時間)が限られているので、書きたいこともついつい省略してしまう。
 前の「日記」では書き漏らした美しいシーン。どうしても書いておきたい美しいシーンがある。

 「インビクタス/負けざる者たち」ではマット・デイモンがマンデラ大統領が投獄されていた独房を訪問するシーン。ラグビーの仲間、そしてガールフレンドたちと島を訪問する。ラグビー仲間たちは、最初は早朝練習か、いやだなあ、くらいの気持ちでいるが、船着き場でガールフレンドと合流するとクルージング気分で晴れやかになる。しかし、ついた先がマンデラの独房のある島とわかると、ふーん、という感じに変わる。ソンナナカデ、マット・デイモンだけが、マンデラの姿を思い浮かべる。独房の広さを両手を広げ、独房からみえる石切り場(?)をながめる。無意味な労働をしているマンデラをみる。
 このときの、マット・デイモンと他の若者の対比がすばらしい。無関心と関心がすばやくすれ違う。
 マット・デイモン以外の若者は、こんなものを見て何がおもしろいのか、というような顔で通りすぎる。お寺なんか知ったもんか、というような中学生が法隆寺を修学旅行で見て回る感じ。連れられてきたから、ただ見て回っているだけ。これ、いったい、どんな価値があるの? そんな感じで歩いている。
 マット・デイモンは誰にも彼の感動(というか、こころが感じた震えのようなもの)を語らない。誰にも感動を強要しない。よく見ろよ、とも言わない。そんなことを言っている余裕がないほど感動したのか。いや、自分の感動を語っても、それはまだ彼らには届かない、わからなければわからないでいい、ただ、わからなくても、ここを訪問する(訪問した)ということを、きっといつか思い出す。そう知っているからだ。
 イーストウッドの映画は、どの映画でも非常に抑制がきいているが、それは、たぶん、いま描いていることの「感動」を強要しないという姿勢にある。わからなくていい。いつか、ふっと思い出せればそれでいい。それにだれかが気がつくまで、ただ映画を撮るだけ--というような感じがする。仲間をマンデラの独房へ案内したマット・デイモンのような姿勢だ。

 「抱擁のかけら」では、ルイス・オマールとペネロペ・クルスが逃避行した海岸がすばらしい。崖の上からみつめた黒い砂浜と白い波の対比。そして、その秘密の隠れ家のようながけ下で抱擁するふたりを崖の上から撮ったシーン。
 他のシーンでは(都会、マドリードでは)、赤が随所に出てくる。 ペネロペ・クルスはもちろんだが、ルイス・オマールも赤いシャツを着る。赤は、彼らの(スペイン人の)肉体を流れる血の色。その濃密な色。--それとは対照的な、黒い砂浜と白い波。いったん黒と白にかえり、もういちど赤へよみがえるための場所なのかもしれない。
 ルイス・オマールとペネロペ・クルスのセックスシーンも非常に美しい。はじめてセックスをするロミオとジュリエットのように、若さに満ちあふれている。肌を突き破っていのちがこぼれてくる。これは、ペネロペ・クルスとパトロンとのセックスシーンと比較するとより鮮明になる。ペネロペ・クルスとパトロンのセックスは一夜で6回という激しいものだが(パトロンの主張)、ふたりは肌をさらさない。シーツにくるまったまま、いわば目隠ししてセックスしている。セックスは他人にみせるためのものではないから、他人から見えない(観客に見えない)ということは重要ではない--というのは、嘘。他人にみせないものだからこそ、あからさまにさらけだし、むさぼりあう。他人がいくら見てても、けっして見えないのがセックスのときの二人の充実なのだ。だから、それは明るいひかりのなかで、何も隠さずにやってこそ意味がある。
 ルイス・オマールとペネロペ・クルスのセックスシーンの美しさは、私の記憶でいうかぎりは、「帰郷」のジェーン・フォンダとジョン・ボイドのセックスシーン以来のものだ。「帰郷」ではジェーン・フォンダがとてつもなく美しいのだが、「抱擁のかけら」ではペネロペ・クルスだけではなく、ルイス・オマールも輝いている。まるで、まるで……演技ではなく、ほんとうにセックスしちゃったよ、どきどき、わくわく、と「青年」になってしまっている。おかしくて、楽しい。

 キスシーンやセックスシーンが美しい映画は、私は大好きだ。


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誰も書かなかった西脇順三郎(104 )

2010-02-08 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 乱調による破壊の音楽。それとは別に、加速する旋律の音楽というものもある。たとえば「野の会話」の3の部分。

ルソーの絵をみると
陰板の写真をみるようだ
光線の裏(うら)を発見した。
すべて樹も犬も
煙突も人間も
虎も花も皆
人形の家だ
新しい生物学を発見した。
また人間や動物の表情の中に
新しい表情を発見し
樹にも煙突にも初めて
表情を与えた。
ルソーは画家としてよりも
絵画によつて表現する新しい生物学者
として新しいサカイアの町人の詩人として
彼のパレットに菫の束を飾るのだ。
ここに家具屋の仕事がある。

 「発見した」ということばが次々にいろいろなものを集めてくる。「陰板の写真」「光線の裏」と「樹も犬も/煙突も人間も/虎も花も」というのは、私には違った「音楽」に聞こえる。「旋律」が違って聞こえる。「人形の家だ」は「不協和音」のようにさえ聞こえる。けれど、それが「新しい生物学」ということばへ飛躍するとき、それは、私には「陰板の写真」や「光線の裏」を調をかえて繰り返された旋律のように感じられる。そして、同時に、テンポが、音楽の速度がかわったような感じがする。音楽のテンポが加速したような感じがする。
 それは「生物学」から「表情」へと加速し、「絵画によつて表現する新しい生物学者」と繰り返されながら、さらに加速していく。スピードにのって「絵画による生物学者」から「(絵画による)詩人」に飛躍する。さらに「家具屋」に。
 ここには、乱調はない。

西脇順三郎と小千谷―折口信夫への序章
太田 昌孝
風媒社

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