詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(99)

2010-02-02 12:00:00 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇のどこが好きか。なぜ好きか。自分で感じていることなのに、それを書くのがむずかしい。
 「詩」という作品。そのなかほど。

薔薇の夏
ゼーニアの花をもつて来た人
杏色の土
手をのばし指ざして聞いた人も
「あれですか
 君のところは」
水銀のような上流のまがりめ
マーシマロの花の黄金の破裂がある。

 「指ざして」の「ざ」の「音」が好き。濁音の豊かさに、ぐいっと引き込まれる。私は音読をするわけではないが、「指ざして」という文字を見た瞬間に、声帯が反応する。「さ」ではなく「ざ」。濁音のとき、音が「肉体」の外へ出ていくだけではなく、「肉体」の内部へも帰ってくる。そして、「肉体」の内部でゆったり力が広がる。その感じが、なんとなく、私には気持ちがいい。「ゆび・さして」では、「さ」の音ともに力がどこかへ消えていってしまう。
 そして、そのあと。

「あれですか
 君のところは」

 この、何も言っていない(?)2行がたまらなく好き。大好き。
 「あれ」とか「それ」とか……。同じ時間を過ごした人間だけが共有する何か、「あれ」「それ」だけでわかる何か。その口語の響き。
 そして、その口語とともに、ことばのなかへ侵入してくる「現実」。その不透明な手触り。

 不透明。

 不透明と書いて、私は、ふいに気がつく。
 西脇のことばには、いつも不透明がついてまわっている。
 透明なものが、たがいに透明であることを利用して(?)、一体になってしまう、透明な何かになってしまうというのとは逆のことが西脇の詩では起きる。
 不透明なものがぶつかりあい、けっして「一体」にはならない。たがいに自己主張する。そして、その自己主張の響きあいが楽しいのである。

 私は西脇の濁音が好き--と何度か書いたが、その濁音も、清音と比較すると不透明な音ということかもしれない。清音は透明な音。濁音は不透明な音。そして、その不透明さに、私は一種の豊かさを感じる。
 濁音だけがもちうる「温かさ」「深み」というようなものを、感じてしまう。

 濁音--と書いたついでに。この「詩」の最後の2行。

さるすべりに蟻がのぼる日
路ばたで休んでいる人間

 この2行に出てくる濁音の響きも、私にはとても気持ちがいい。「さるすべり」「のぼる」のなかで繰り返される「る」と「ば行」。それが次の行で「路ばた」の「ろ・ば(た)」に変化する。「だ行」(で、という音)、「ら行」(ろ、る)、そして繰り返される「ん」の「無音」。
 なぜ、この2行に快感を感じるのか私にはわからないが、快感なのだ。「音楽」なのだ、私には。
 声には出さない。黙読しかしない。それでも「音楽」なのだ。




アムバルワリア―旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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荒井隆明『廊下譜』

2010-02-02 00:00:00 | 詩集
荒井隆明『廊下譜』(あざみ書房、2010年01月31日発行)

 荒井隆明『廊下譜』には「まえがき」がついている。どうやって「構成」されているか、前もって説明している。とてもうるさい。詩は書いた瞬間から作者のものではなく、読者のものである。というより、ことばそのもののものである。ことばが勝手に動いていっていい。ことばから、わざわざ自由を奪い取って(ことばに枠にはめて)、それで「これが詩です。こういう詩です」と言われても、興ざめするだけである。
 「秒室」という詩があるが、見渡したところ、「時間」が、あるいは「時計」がというべきか--がテーマのようである。「テーマ」というものが、すぐに浮かびあがってくるところが、この詩集の窮屈さでもある。

何もない平原、と書いたが、それは正しくない。白く細い枝のようなものが一面に積もり、地平線の向こうまで続いているのだ。それは秒針だ。

 この文体が、荒井の「時間論」である。あるものを提示する。ここでは、まず「平原」を提示する。そして、それを反芻する。ここでは「正しくはない」という形で反芻する。反芻するとき、そこに「平原」と「平原ではない(正しくはない)」があらわれる。半数の間に「間(ま)」が生まれる。その「間(ま)」を別のもので埋める。「細い枝」。さらに、その「細い枝」を「秒針」と言い換えるかたちで反芻する。「間(ま)」が増幅する。
 これは、「時間」のあり方、「時間」を生きるときの「人間」のあり方に重なる。
 反芻とは、どこかへ向かって歩くことである。ここから出発し、ここではないどこかへ歩くこと。その歩行にともない、距離(間--ま)がひろがり、そこで「発見する」何か(そこで出会う何か)を定義し、反芻し、言い直し、さらに「間(ま)」を増やしていく。「間(ま)」は時計が刻む「秒」のように、増える。増えつづける。
 荒井は、その「時間」の秘密(?)を、自分で「秒針」と言ってしまっている。荒井(というか、荒井のために帯を書いたひと)は、荒井の詩を「方法詩」と呼んでいるが、「方法」は、即座に「答え」を出してしまう。そこが窮屈の原因である。
 「間(ま)」が増えつづける--と私は便宜上書いたが、「間(ま)」は増えない。増える前に、簡単に定義され、処理されてしまう。「方法」なのかで安定してしまう。
 だから、

一体どれだけ積もっているのか、見当もつかない。硫黄のような光を浴びて、腐乱した卵のような光沢を放ちながら、月に向かって毛羽立っている大地。足は秒針を踏み続けて無数の裂傷に模様され、血が滲んでいる。

 荒井は一生懸命書いているが、「血」が見えない。「腐乱した卵のような光沢」とか「裂傷に模様され」とか、「いま」「ここ」を突き破っていくようなことばの逸脱を獲得しながら、「時間が人間を傷つける」というような、流通言語の定義へと収斂していくことばの無残さだけが浮いてくる。

 ことばが収斂する--たぶん、そのことが、荒井の詩を「不自由」にしているのだ。何かに向かって歩く--そのとき、せっかく「反芻」による「時間」の増殖というものに出会いながら、その増殖を「目的地(?)」という結論に向けてひっぱりすぎる。「目的地」(結論)へ向けて、ことばを動かすという「方法」意識が強すぎるのである。
 「秒室」という詩は、「東の扉から入り、西の扉へ向って歩いていた。」ではじまり、「そしていつか、西の扉を出ていた。時間の果てに立っていた。」という具合にことばが動いていくのだが、西の扉をめざしていても、西の扉にたどりつけない、違うところへ、この詩で言えば「東と西の間」へ、どこまでもどこまでも迷い込んでしまうのがしてあるはずなのに、ぜんぜん迷えない。ことばが「結論」へ収斂する--そして、収斂させるために、荒井がことばを動かしているからである。

 短い詩でも同じである。

嘘や
沈黙や

を作っている
一本の白い薔薇

 荒井の詩をちょっと読むと、最後の「白い薔薇」は「月」の「比喩」であることがわかる。そして、この詩では「嘘や/沈黙や/夜」と「月(白い薔薇)」が向き合っていることがわかる。「月」を「白い薔薇」という「比喩」に収斂させるために「嘘」「沈黙」「夜」が選ばれていることが、すぐにわかる。
 「嘘」「沈黙」「夜」と「月」は完全に「予定調和」である。それは「月」を「白い薔薇」にかえたところで変わらない。いや、そういう「比喩」では「予定調和」が強くなるだけである。「比喩」さえが、「方法」によって導き出されたものにおとしめられてしまうのだ。
 こういうことを「無残」という。

嘘や

沈黙や

夜を作っている一本の白い薔薇

 この詩は、そういうふうに、三つの、無関係な「存在」の「音」になり、「音」になることで「和音」を作れたかもしれない。けれど、荒井は、それを「メロディー」のなかに窮屈に閉じ込めてしまった。「メロディー」は「予定調和」の美しさに収斂するが、その瞬間、「音」の楽しさが消えてしまう。
 こういうことを「無残」という。



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誰も書かなかった西脇順三郎(98)

2010-02-01 12:00:36 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「比喩」とは何か。「いま」「ここ」にあるものを「いま」「ここ」にないもので語ることである。「いま」「ここ」から逸脱し、「いま」「ここ」ではない世界へ逸脱することである。そして、逸脱しながら、同時に「いま」「ここ」へ帰ってくる。それは「いま」「ここ」を混乱させることである。その混乱の中に、その乱れ、乱調の中に、喜びがある。それは視覚の喜びだったり、聴覚の喜びだったり、あるいは感覚ではなく「頭脳」の喜びだったりする。
 西脇の逸脱は単純ではない。視覚の喜び、聴覚の喜びと、簡単に分類できないことがある。そして、それが複雑であることが楽しい。
 「五月」。そのなかほど。

人間ではないものを
あこがれる人間の
青ざめた反射は
このすてられた庭で
石の幻燈のくらやみに
コランの裸女が
虎のようなしりをもちあげて
ねそべるのだ

 「人間ではないものを/あこがれる人間の/青ざめた反射は」の「青ざめた反射」ということばは、「人間の精神」の「比喩」かもしれない。とりあえず、そう仮定しておく。「青ざめた反射は」の「は」は「青ざめた反射(精神)」が「主語」であることを指し示している。
 では、「述語」は?
 それらしいことばが、すぐにはみつからない。
 「述語」が「ない」ということも考えられるけれど、私は「ねそべる」を「述語」だと感じている。
 人間の青ざめた反射(精神)は、このすてられた庭で、ねそべる--そう考えると、なんとなく「文章」になる。ひとつづきの「意味」(内容)が浮かび上がってくるような気がする。
 この場合、「石の幻燈のくらやみに」は「庭で」という場のありようを補足したものとなる。そして「コランの裸女が/虎のようなしりをもちあげて」という2行が、「ねそべる」を説明した「比喩」になる。
 「青ざめた反射」は、(庭のくらやみに)裸の女がしりをもちあげるように、ねそべっている。
 簡略化すると、そういう「比喩」を含んだ文章になり、その簡略化した「裸女」の「しり」に「虎のような」という「比喩」が重なっている。
 この7行のなかには、「比喩」が「入り子細工」のように組み合わさっているのである。「入り子構造」をとることで、「比喩」が逸脱していくのである。そして、その逸脱は、最初の「主語」さえかき消すところまで突き進む。

コランの裸女が
虎のようなしりをもちあげて
ねそべるのだ

 この3行を読んで、ほんとうの「主語」は「青ざめた反射」であったことを、すぐに思い出せるひとは少ないだろう。「青ざめた反射」という「主語」の「述語」はどれ? などという疑問というか、しつこい学校教科書文法は忘れてしまって、単純に裸女の虎のようなしりを思い浮かべるだろう。裸女がしりをもちあげて、欲情を誘うように、ねそべっている--そういう姿を思い浮かべてしまうだろう。
 ことばが、比喩をくぐりぬけることで暴走し、その暴走のスピードにつられて、「青ざめた反射」という「主語」(頭)がどこかへ吹き飛んでしまう。そういう快感がこの行の展開の中にある。

 そして。

 この比喩の暴走、ことばの暴走がもたらす喜びは、裸女のしり、虎のようなしり、という男にとって(女にとって、もかもしれないが)、きわめて「視覚的」な喜びである。スケベな視力をめざめさせる喜びである。
 こういうことがあるから、西脇のことばは絵画的(視覚的)と言われるのかもしれない。
 それはそのとおりなのだが、私の「肉体」野中手は、別なものも揺さぶられている。「コランの裸女が」という行の「コラン」である。「コラン」が何を指し示しているのか、無知な私には皆目見当がつかないが、それが「すてられた庭」「石の幻燈」「くらやみ」というような、一種、日本的(東洋的?)な風景からははるかに逸脱したものであると感じる。異国のものであると感じる。「コラン」というカタカナの表記と「音」によって。
 「コラン」という表記と「音」があって、この7行は、なんだか急にぶっ飛んでしまう。急に飛躍してしまう。
 つづく「裸女」を西脇は何と読ませたいのかわからないが、私は「らじょ」と読む。「らじょ」ということばが日常的かどうか、私にはよくわからない。私なら「裸の女」と書いてしまうだろう。そう書いてしまうだろうけれど、「裸女」という文字にふれると、自然に「らじょ」と読んでしまう。そこには「コラン」の「ラ」の音が影響しているのだ。
 だから。(ちょっと、強引な「だから」なのだが。)
 だから、「裸女」は「らじょ」と読んでいるのではなく、ほんとうは「ラジョ」と読んで、そのあと、「裸女」という文字に引き戻されて「らじょ」と読み、そして「裸の女」と頭のなかで理解しているのだと思う。
 そして(またまた、そしてなのだが)、「ラジョ」が「裸の女」にもどったとき、「虎」「しり」が、「異国」のものではなく、また身近なものになる。「日常(というには、ちょっと変だけれど)」の「比喩」になる。

 「コラン」「裸女」--このふたつのことば、表記と音によって、私は(私の「肉体」は)、不思議な度をするのだ。そこには「ラ」「ら」という音がとても強く響いている。全体としては、「視覚的」な「比喩」なのだが、私はそれを「視覚的」と感じるよりも、ほんとうは「聴覚的」と感じてしまう。「音楽」があって、はじめて、この7行のことばの暴走、詩が生まれると感じる。
 私にとって、西脇は、いつでも「音楽」なのだ。




西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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篠原憲二『沖の音』

2010-02-01 00:00:00 | 詩集
篠原憲二『沖の音』(水仁社、2009年07月07日発行)

 ことばは何のためにあるか。篠原憲二なら「わかる」ためにあると言うに違いない。世界を、現実を、いま、ここで起きていること--自分自身のこころを「わかる」ためにある、と。そして、篠原にとって「わかる」ということは、「見える」ということである。
 「礼」という詩。サラリーマンの、というか、勤め人のかなしみを見てしまう詩。その全行。

こんな路地裏の
小さな軒先にも
電話機は置かれてあって
話の次第では
にわかのオフィスになる

一つの仕事を終え 次へと
向かう途すがら
その人のオフィスはあった

かしこまった受け応えなのは
何か詫びごとでもあるのか
似たような記憶の浮きがてに

行き過ぎたとき
はい と切り上げる声が届き

 いちばん 底だな

たぶん 深々とだろう
おじぎするのがみえた

 路地裏の電話機。そこから連絡するとき、それは路地裏からの連絡ではなく、「オフィス」からの連絡とかわりがない。「ことば」のなかに「仕事」があるのだ。そういうことをしたことが篠原にもあった。「似たような記憶」が篠原と、たまたま見かけた男(たぶん)を重ね合わせる。そして、そのとき、篠原は男を見ていない。男ではなく、篠原自身の過去--記憶を見ている。
 「はい」と少し高い声を出し、それから深々と頭を下げる。電話だから頭を下げようが下げまいが向こうに見えない--というのは嘘である。電話を通して、それは「見える」ものである。
 同じように、その姿は、その声の持ち主のそばを「行き過ぎ」たあとでも「見える」。「いちばん 底だな」と、男の状況を理解し、そのあと、その姿を見ないけれども、「深々と」「おじぎする」その様子が「みえる」。
 「たぶん」「だろう」は篠原が実際にはその男の姿を「見ていない」ことをあらわしている。想像していることをあらわしている。
 そして、そのときの「見る」は「肉眼」で「見る」である。実際には振り返らない。振り返らないけれど「肉眼」は「見てしまう」。「肉眼」には「見えてしまう」。それが「わかる」ということ。
 他人の「肉体」の動きが、それを見なくても「見える」こと--それが「わかる」である。
 なぜ「わかる」のか。そういう体験があるからだ。篠原にも、電話で深々と頭を下げたことが何度もある。その「記憶」が他人を「わからせる」。「見える」とは「記憶」と「現実」が重なることである。「記憶」と「現実」を重ねるのは「肉眼」である。

 この「わかる」を篠原は「たぶん 深々とだろう」と、「たぶん」と「だろう」と2度の「推測」のことばのなかでつつみこんでいる。ここに篠原の「思想」がある。「わかる」(見える)を「断定」してしまわず、遠慮がちに、一歩引いて、「相手を立てる」というところに、篠原のやさしさがある。「わかる」と言ってしまわないことで、他者をそっと生かす、育てるというやさしさがある。

 「陸と川の間で」の最後は美しい。

沖で
鯔が
跳ね上がっては
落ちる
落ちるとき
小さな限界が見える

沖には
そこまで
行くことをしてしか分からない
音があるだろう

 「見る」と「聞く」、「姿」と「音」がここでは交錯している。「小さな限界が見える」とは、「小さな音が聞こえる」ということでもある。もちろん、その音は岸にいては聞こえない。けれども、その音を「肉耳」が聞き取る。肉眼が眼で見えないものを見る眼をあらわすとすれば、耳にも聞こえない音を聞く肉耳があってもいいはずだ、と私は思う。鯔が跳ね上がり、水に落ちる。その姿を見るとき、「肉耳」は、そのとおいとおい「音」を聞き取る。
 聞き取りながらも、それを「断定」しない。それはあくまで「たぶん」「だろう」の世界、想像の世界であると告げる。
 鯔が立てる水音は、実際に鯔がいる「沖」までいってみないことには「わからない」。「肉耳」でいくら聞き取っても、それがほんとうかどうか「わからない」。

 同じように、路地裏の電話で「はい」と高い声で受け答えした男の「真実の姿」は、やはり男にしかわからないものなのである。そのとき、ほんとうに彼が「底」だったのか。それは「わからない」。
 そして、この「わからない」は、とても複雑である。
 「記憶」と重ね合わせるとき、それが「わからない」はずはないのである。「肉眼」は、振り返ってみなくても彼が深々とおじぎするのが「みえる」。
 けれども、「みえる」からこそ、あるいは「わかる」からこそ、それを「たぶん」「だろう」でつつみ、「見なかったこと」、つまり「想像」にすぎなかったことにしてしまう。さらには「わからない」にしてしまう。
 そこには、祈りがあるのだ。
 深々と頭を下げたにしろ、そこにとどまりつづけるのではなく、その「底」にいつづけるのではなく、そこから踏み出して生きていく人間の力への「祈り」がある。期待がある。希望がある。
 篠原は「見たもの」(わかったもの)を、実は、否定されたいのだ。電話で頭を下げた男に、沖で跳ねる鯔に。篠原の「理解」(想像)を超えて、生きていってもらいたいのだ。そういう「祈り」こそ、篠原がことばに託しているものだろうと思う。

 ひとは誰でも他人が「見える」(わかる)。わかるけれども、篠原は、その「わかる」のなかに、他人を閉じ込めない。「見える」(わかる)を超えて、生きていってほしいという「祈り」をこめて、他者をみつめる。
 「桜前線」の最終連も美しい。

ぼくには--花が
悲鳴よりも長く かかって
届いて来るとわかった

 「肉耳」は「花の悲鳴」を聞き取る。けれど「肉耳」が聞いたものよりも「長く かかって」ほんとうの花は開くのである。「肉耳」と「他者」とのあいだには「時差」がある。「肉耳」(肉体にしみついた想像力)は「他者」の動きよりも早い。「他者」は時間をかけて、ゆっくりゆっくり「肉耳」を追い越していく。そういう力、篠原の「肉耳」を追い越す力を「他者」はもっている。

 篠原には、他者に対するまじめな「畏怖」がある。それが篠原のことばを、とても静かなものにしている。

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