篠原憲二『沖の音』(水仁社、2009年07月07日発行)
ことばは何のためにあるか。篠原憲二なら「わかる」ためにあると言うに違いない。世界を、現実を、いま、ここで起きていること--自分自身のこころを「わかる」ためにある、と。そして、篠原にとって「わかる」ということは、「見える」ということである。
「礼」という詩。サラリーマンの、というか、勤め人のかなしみを見てしまう詩。その全行。
こんな路地裏の
小さな軒先にも
電話機は置かれてあって
話の次第では
にわかのオフィスになる
一つの仕事を終え 次へと
向かう途すがら
その人のオフィスはあった
かしこまった受け応えなのは
何か詫びごとでもあるのか
似たような記憶の浮きがてに
行き過ぎたとき
はい と切り上げる声が届き
いちばん 底だな
たぶん 深々とだろう
おじぎするのがみえた
路地裏の電話機。そこから連絡するとき、それは路地裏からの連絡ではなく、「オフィス」からの連絡とかわりがない。「ことば」のなかに「仕事」があるのだ。そういうことをしたことが篠原にもあった。「似たような記憶」が篠原と、たまたま見かけた男(たぶん)を重ね合わせる。そして、そのとき、篠原は男を見ていない。男ではなく、篠原自身の過去--記憶を見ている。
「はい」と少し高い声を出し、それから深々と頭を下げる。電話だから頭を下げようが下げまいが向こうに見えない--というのは嘘である。電話を通して、それは「見える」ものである。
同じように、その姿は、その声の持ち主のそばを「行き過ぎ」たあとでも「見える」。「いちばん 底だな」と、男の状況を理解し、そのあと、その姿を見ないけれども、「深々と」「おじぎする」その様子が「みえる」。
「たぶん」「だろう」は篠原が実際にはその男の姿を「見ていない」ことをあらわしている。想像していることをあらわしている。
そして、そのときの「見る」は「肉眼」で「見る」である。実際には振り返らない。振り返らないけれど「肉眼」は「見てしまう」。「肉眼」には「見えてしまう」。それが「わかる」ということ。
他人の「肉体」の動きが、それを見なくても「見える」こと--それが「わかる」である。
なぜ「わかる」のか。そういう体験があるからだ。篠原にも、電話で深々と頭を下げたことが何度もある。その「記憶」が他人を「わからせる」。「見える」とは「記憶」と「現実」が重なることである。「記憶」と「現実」を重ねるのは「肉眼」である。
この「わかる」を篠原は「たぶん 深々とだろう」と、「たぶん」と「だろう」と2度の「推測」のことばのなかでつつみこんでいる。ここに篠原の「思想」がある。「わかる」(見える)を「断定」してしまわず、遠慮がちに、一歩引いて、「相手を立てる」というところに、篠原のやさしさがある。「わかる」と言ってしまわないことで、他者をそっと生かす、育てるというやさしさがある。
「陸と川の間で」の最後は美しい。
沖で
鯔が
跳ね上がっては
落ちる
落ちるとき
小さな限界が見える
沖には
そこまで
行くことをしてしか分からない
音があるだろう
「見る」と「聞く」、「姿」と「音」がここでは交錯している。「小さな限界が見える」とは、「小さな音が聞こえる」ということでもある。もちろん、その音は岸にいては聞こえない。けれども、その音を「肉耳」が聞き取る。肉眼が眼で見えないものを見る眼をあらわすとすれば、耳にも聞こえない音を聞く肉耳があってもいいはずだ、と私は思う。鯔が跳ね上がり、水に落ちる。その姿を見るとき、「肉耳」は、そのとおいとおい「音」を聞き取る。
聞き取りながらも、それを「断定」しない。それはあくまで「たぶん」「だろう」の世界、想像の世界であると告げる。
鯔が立てる水音は、実際に鯔がいる「沖」までいってみないことには「わからない」。「肉耳」でいくら聞き取っても、それがほんとうかどうか「わからない」。
同じように、路地裏の電話で「はい」と高い声で受け答えした男の「真実の姿」は、やはり男にしかわからないものなのである。そのとき、ほんとうに彼が「底」だったのか。それは「わからない」。
そして、この「わからない」は、とても複雑である。
「記憶」と重ね合わせるとき、それが「わからない」はずはないのである。「肉眼」は、振り返ってみなくても彼が深々とおじぎするのが「みえる」。
けれども、「みえる」からこそ、あるいは「わかる」からこそ、それを「たぶん」「だろう」でつつみ、「見なかったこと」、つまり「想像」にすぎなかったことにしてしまう。さらには「わからない」にしてしまう。
そこには、祈りがあるのだ。
深々と頭を下げたにしろ、そこにとどまりつづけるのではなく、その「底」にいつづけるのではなく、そこから踏み出して生きていく人間の力への「祈り」がある。期待がある。希望がある。
篠原は「見たもの」(わかったもの)を、実は、否定されたいのだ。電話で頭を下げた男に、沖で跳ねる鯔に。篠原の「理解」(想像)を超えて、生きていってもらいたいのだ。そういう「祈り」こそ、篠原がことばに託しているものだろうと思う。
ひとは誰でも他人が「見える」(わかる)。わかるけれども、篠原は、その「わかる」のなかに、他人を閉じ込めない。「見える」(わかる)を超えて、生きていってほしいという「祈り」をこめて、他者をみつめる。
「桜前線」の最終連も美しい。
ぼくには--花が
悲鳴よりも長く かかって
届いて来るとわかった
「肉耳」は「花の悲鳴」を聞き取る。けれど「肉耳」が聞いたものよりも「長く かかって」ほんとうの花は開くのである。「肉耳」と「他者」とのあいだには「時差」がある。「肉耳」(肉体にしみついた想像力)は「他者」の動きよりも早い。「他者」は時間をかけて、ゆっくりゆっくり「肉耳」を追い越していく。そういう力、篠原の「肉耳」を追い越す力を「他者」はもっている。
篠原には、他者に対するまじめな「畏怖」がある。それが篠原のことばを、とても静かなものにしている。